靴のマルトミ:17期ぶりの減益と180店舗の閉鎖
1994年〜1850店の1割を閉じ、後手に回った整理を認める
1993年2月期まで、マルトミは16期続けて増収増益を記録していた。ところが1994年2月期は長引く不況で個人消費が低迷し、そこに消費者の低価格志向が重なって既存店の売上高が著しく減った。売上高こそ前期比10%増の1703億円を確保したが、営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度まで減少している。1993年8月の中間期には年間で前期並みの収益を見込み、売上高も1804億円を予想していたから、半年で100億円ほど下振れした計算になる。当期純利益は前期の28億円から9億円へ減った。
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [1]1993年2月期までの16期、連続して増収増益を記録した
- [2]長引く不況による個人消費の低迷と消費者の低価格志向が重なり既存店売上高が著しく減少した
- [3]1994年2月期は売上高が前期比10%増の1700億円、営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度だった
- [4]中間期時点の年間売上高予想1804億円に対し半年で約100億円下振れした
- 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
- [5]当期純利益は1993年2月期の28億円から1994年2月期の9億円へ減った
富永光行社長は数字を見て腹を決め、不採算店舗を全部閉鎖することにした。洗い出すと180店ほどあり、1995年2月期までの約1年間で順次閉じる方針を1994年2月に発表している。営業中の店舗は1994年1月20日時点で1850あり、閉鎖するのはその10%にあたる。ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やる、という判断だった。富永光行社長は1994年2月21日から始まる新しい事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らないことも決めた。業績を元どおりに回復させた時点で、応援してくれた株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めけじめをつける——富永光行社長が自らに課した条件である。
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [6]数字を見て不採算店舗を全部閉鎖すると決めた
- [7]不採算店を洗い出すと180店あり、1995年2月期までの約1年間で順次閉鎖する方針を1994年2月に発表した
- [8]1994年1月20日時点の営業店舗は1850店で、閉鎖するのはその10%にあたる
- [9]ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やると判断した
- [10]1994年2月21日からの新事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らないと決めた
- [11]業績回復の時点で株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めけじめをつけると述べた
不採算店の処理が遅れたのは、業績の伸びに合わせて新店を相次いで開いてきたからだった。出店数はこの3年間で874店に達しており、赤字の店が多少あっても経営に響かなかったという。勢いに乗って厄介な問題を棚上げしてきたことは本人も認めるところで、出店と同時に店の入れ替えを進めていれば業績がここまで急に落ち込むことはなかったとみていた。閉める店の多くは直営店で、今後はそれを50店前後まで減らし、ほかの店はすべてオーナーシステムに切り替える考えだった。年に300店近かった出店も50店程度に抑えた。余った約180人の社員にはオーナーになる道を勧め、それを望まない者には退職を求めることにした。
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [12]不採算店に手をつけなかったのは業績の伸びが著しく新店を次々に造ってきたためだと説明した
- [13]直前の3年だけで874店を新規出店し、不採算店があっても構わず進めてきた
- [14]行け行けドンドンになって嫌なことを後回しにしていたと責任を認めた
- [15]新規出店と並行してスクラップ・アンド・ビルドを進めていれば急な業績低下に悩むことはなかったと述べた
- [16]閉鎖対象のほとんどは直営店で、直営を50店程度に抑え残りをオーナーシステム店にする方針を示した
- [17]年300店近く出していた新規出店を50店ほどへ縮小した
- [18]余剰となる約180人にはオーナーになってもらい、それが嫌なら辞めてもらうとした
参考文献[1]-[18]
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [1]1993年2月期までの16期、連続して増収増益を記録した
- [2]長引く不況による個人消費の低迷と消費者の低価格志向が重なり既存店売上高が著しく減少した
- [3]1994年2月期は売上高が前期比10%増の1700億円、営業利益は前期比5割減の30億円弱、経常利益は6割減の24億円程度だった
- [4]中間期時点の年間売上高予想1804億円に対し半年で約100億円下振れした
- [6]数字を見て不採算店舗を全部閉鎖すると決めた
- [7]不採算店を洗い出すと180店あり、1995年2月期までの約1年間で順次閉鎖する方針を1994年2月に発表した
- [8]1994年1月20日時点の営業店舗は1850店で、閉鎖するのはその10%にあたる
- [9]ぐずぐずしているのが大嫌いなので一度に全部やると判断した
- [10]1994年2月21日からの新事業年度の1年間、役員報酬と賞与を一切受け取らないと決めた
- [11]業績回復の時点で株主に迷惑をかけた責任として出処進退を含めけじめをつけると述べた
- [12]不採算店に手をつけなかったのは業績の伸びが著しく新店を次々に造ってきたためだと説明した
- [13]直前の3年だけで874店を新規出店し、不採算店があっても構わず進めてきた
- [14]行け行けドンドンになって嫌なことを後回しにしていたと責任を認めた
- [15]新規出店と並行してスクラップ・アンド・ビルドを進めていれば急な業績低下に悩むことはなかったと述べた
- [16]閉鎖対象のほとんどは直営店で、直営を50店程度に抑え残りをオーナーシステム店にする方針を示した
- [17]年300店近く出していた新規出店を50店ほどへ縮小した
- [18]余剰となる約180人にはオーナーになってもらい、それが嫌なら辞めてもらうとした
- 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
- [5]当期純利益は1993年2月期の28億円から1994年2月期の9億円へ減った
1996年〜忍耐を掲げたが、閉めても売上は止まらなかった
郊外型のロードサイド店はもう限界だという見方があったが、富永光行社長はこれに与しなかった。閉店の対象にロードサイド店が多いのは事実だとしつつ、その主因を、10年前には存在しなかった国道バイパスの開通によって車の流れが変化した点に求めていた。同社長の診断では、行き詰まったのではなく、ロードサイド店どうしが品質・価格・サービスの面でぶつかり合う競争段階に移ったのだという。当時の革靴はなお統制品目に置かれ、メーカーごとに年間何千足と割り当てられる状態で、輸入の自由化もまだだった。輸入が完全自由化されれば靴の値段は半値になるとの見通しを持ち、その局面に備えて今は我慢の時だと語った。業績悪化と店舗閉鎖を発表した後、富永社長は"忍"と"耐"の2文字を墨で色紙に大きくしたためて社長室へ掲げ、規模の拡大を追わずに会社の体質を強くする路線を打ち出した。
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [19]ロードサイド店が限界に近づいているという見方に同意しなかった
- [20]閉鎖対象にロードサイド店が多いのは国道のバイパスができて車の流れが変わったためだと見ていた
- [21]限界ではなくロードサイド店同士が品質・価格・サービスで競争する時代に入ったと診断した
- [22]当時の革靴は統制品目で、メーカーごとに年間何千足と割り当てられ輸入が自由化されていなかった
- [23]完全に自由化すれば靴の値段は半値になると見て、その到来に備えて辛抱の時だとした
- [24]色紙に「忍」「耐」の2文字を書いて社長室に飾り、成長を目指さず企業体質の強化に取り組むとした
閉店による固定費の削減を、売上の減少が上回った。売上高は1996年2月期の1717億円をピークに1997年2月期1702億円、1998年2月期1561億円と落ち、当期純利益は1995年2月期3億円、1996年2月期4億円、1997年2月期1億円と細ったのち、1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した。1999年3月、マルトミは今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画を発表する。初年度の実績は311店の閉鎖だったが、当期純損失は1999年2月期の29億円から2000年2月期の87億円へ拡大した。売上高も2000年2月期には1211億円まで減少している。2000年12月、マルトミは負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請した。
- 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
- [25]閉店による固定費の削減を売上の減少が上回った
- [26]売上高は1996年2月期1717億円をピークに1998年2月期1561億円へ落ち、当期純利益は1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した
- [29]当期純損失は1999年2月期29億円から2000年2月期87億円へ拡大した
- [30]売上高は2000年2月期に1211億円まで減少した
- 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)
- [27]1999年3月に今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画を発表した
- [28]経営改善計画の初年度実績は311店の閉鎖だった
- [31]2000年12月に負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請した
参考文献[19]-[31]
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- [19]ロードサイド店が限界に近づいているという見方に同意しなかった
- [20]閉鎖対象にロードサイド店が多いのは国道のバイパスができて車の流れが変わったためだと見ていた
- [21]限界ではなくロードサイド店同士が品質・価格・サービスで競争する時代に入ったと診断した
- [22]当時の革靴は統制品目で、メーカーごとに年間何千足と割り当てられ輸入が自由化されていなかった
- [23]完全に自由化すれば靴の値段は半値になると見て、その到来に備えて辛抱の時だとした
- [24]色紙に「忍」「耐」の2文字を書いて社長室に飾り、成長を目指さず企業体質の強化に取り組むとした
- 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
- [25]閉店による固定費の削減を売上の減少が上回った
- [26]売上高は1996年2月期1717億円をピークに1998年2月期1561億円へ落ち、当期純利益は1998年2月期に5億円の最終赤字へ転落した
- [29]当期純損失は1999年2月期29億円から2000年2月期87億円へ拡大した
- [30]売上高は2000年2月期に1211億円まで減少した
- 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)
- [27]1999年3月に今後3年で不採算店舗380店を閉鎖する経営改善計画を発表した
- [28]経営改善計画の初年度実績は311店の閉鎖だった
- [31]2000年12月に負債総額約761億円で民事再生法の適用を申請した
1994年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1994年02月期 | n/a | 1,703 | n/a | 9 | 0.6% | n/a |
| 1995年02月期 | n/a | 1,680 | ▲1.4% | 3 | 0.2% | n/a |
| 1996年02月期 | n/a | 1,717 | +2.2% | 4 | 0.3% | n/a |
| 1997年02月期 | n/a | 1,702 | ▲0.9% | 1 | 0.1% | n/a |
| 1998年02月期 | n/a | 1,561 | ▲8.3% | ▲5 | ▲0.3% | n/a |
| 1999年02月期 | n/a | 1,380 | ▲11.6% | ▲29 | ▲2.2% | n/a |
出所:会社四季報
出典・参考
4件
- 日経ビジネス 1994年3月14日号
- 会社四季報(靴のマルトミ 1994年2月期実績)
- 会社四季報(靴のマルトミ 1995年2月期〜2000年2月期実績)
- 株式会社帝国データバンク 倒産速報(2000年12月20日)