第1章 年〜年

靴のマルトミ:丸富靴店の開業と郊外型店舗への転換

1950年〜「下を向いて歩け」から始めた1足1000円の靴

富永光行氏は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校の高等科を出た。尋常小学校を卒業してすぐ丁稚奉公に入ったため学歴を持たず、戦後に復員してサラリーマン生活を送っている。学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく供給量の不足していた靴に目をつけた。父からは日頃、下を向いて歩けと言われて育っている。人には腰を低くして接しろという意味だが、そうしていると大地と靴しか目に入らない。それなら靴屋をやろうと思い立ち、1950年11月1日に名古屋で丸富靴店を開店した。商売はヤミ市から始めている。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [1]富永光行は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校高等科を卒業した
    • [4]父の教えは「下を向いて歩け」だった
    • [5]下を向くと大地と靴しか見えないことから靴屋を志した
    • [6]1950年11月1日に名古屋で丸富靴店を開業した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [2]富永光行は尋常小学校を卒業後すぐ丁稚奉公に入り学歴を持たなかった
    • [3]学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく供給量が不足していた靴に目をつけた
    • [7]商売はヤミ市から始めた

サラリーマンがひと月に稼ぐおよそ3000円と、革靴1足の値段3000円ほどがほぼ同じだった時代である。そのころ靴はゲタに代わって履物の中心になって間もなく、店が客一人ひとりの足を測って仕立てる完全注文品だった。安くすれば売れると見た富永氏は、知り合いの靴屋で修理を3日間だけ習った。そのうえで靴工場を訪ね歩き、1足600円で作ってほしいと頼み込んだ。どの工場からもバカかと言われたが、その作り方をしているから高くなるのであって流れ作業にすれば下がると押し返した。600円で作らせた靴に1000円の値を付けると飛ぶように売れ、開業から2カ月で1日の売上高は5万円に達した。富永氏は家に帰るのが午前4時、翌朝8時には仕入れに走る日々で、3時間以上眠れたことはなかったとふり返っている。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [8]一人前のサラリーマンの月給が3000円ほどで、革靴も同程度の1足3000円だった
    • [10]知人の靴屋で3日間修理の修行をしたあと、靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [12]600円で製造させた靴を1000円で売り、開業2カ月で1日の売上高が5万円に達した
    • [13]帰宅は午前4時、翌朝8時には仕入れに向かい3時間以上眠れなかった
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [9]当時はゲタから靴へ主役が交代したばかりで、靴は客の足を測って作る完全な注文品だった
    • [11]工場から「お前はバカか」と言われたが、流れ作業にすれば下がると押し返した

600円で作らせた靴に1000円の値を付ける売り方は、注文品を既製品へ置き換えて原価を下げる仕組みだった。靴屋が客の足を一人ずつ測って仕立てていた工程は靴工場の流れ作業へ移り、富永光行氏自身は仕入れと販売だけを受け持っている。手元には現金がたまり、富永氏は今の貨幣価値に換算して3億円近くを妻と二人だけで稼いだとふり返っている。1950年に創業した一軒の個人商店は、この元手を得たのち企業へと発展した。名古屋一の靴屋になろうと富永氏が決めたのは、その現金を数えたあとである。借入ではなく1足ごとの粗利の積み上げが次の出店の原資になった点で、価格の設計はそのまま資本の設計でもあった。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [14]注文品ではなく既製品にすることでコストダウンした
    • [15]靴は靴屋が客の足を一人ずつ測って作る注文品で、富永光行は靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [16]今の貨幣価値に換算して3億円近くを妻と二人だけで稼いだ
    • [18]「名古屋一の靴屋になってやろう」と思い立ち靴店のチェーン化に乗り出した
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [17]1950年の創業以来、個人業から企業へと順調に発展した
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [1]富永光行は1927年に岐阜県で生まれ、1942年に浄心国民学校高等科を卒業した
    • [4]父の教えは「下を向いて歩け」だった
    • [5]下を向くと大地と靴しか見えないことから靴屋を志した
    • [6]1950年11月1日に名古屋で丸富靴店を開業した
    • [9]当時はゲタから靴へ主役が交代したばかりで、靴は客の足を測って作る完全な注文品だった
    • [11]工場から「お前はバカか」と言われたが、流れ作業にすれば下がると押し返した
    • [14]注文品ではなく既製品にすることでコストダウンした
    • [15]靴は靴屋が客の足を一人ずつ測って作る注文品で、富永光行は靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [16]今の貨幣価値に換算して3億円近くを妻と二人だけで稼いだ
    • [18]「名古屋一の靴屋になってやろう」と思い立ち靴店のチェーン化に乗り出した
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [2]富永光行は尋常小学校を卒業後すぐ丁稚奉公に入り学歴を持たなかった
    • [3]学歴偏重の企業社会に愛想をつかして脱サラし、配給制が解除されて間もなく供給量が不足していた靴に目をつけた
    • [7]商売はヤミ市から始めた
    • [8]一人前のサラリーマンの月給が3000円ほどで、革靴も同程度の1足3000円だった
    • [10]知人の靴屋で3日間修理の修行をしたあと、靴工場を回って1足600円での製造を依頼した
    • [12]600円で製造させた靴を1000円で売り、開業2カ月で1日の売上高が5万円に達した
    • [13]帰宅は午前4時、翌朝8時には仕入れに向かい3時間以上眠れなかった
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [17]1950年の創業以来、個人業から企業へと順調に発展した

1957年〜4店舗の全員解雇から、都心を畳んで郊外へ出る

富永氏は名古屋一の靴屋になろうと決めて靴店のチェーン化に着手した。マルトミの出店は、1957年に開業直後の名古屋駅地下街へ出した第1号店から始まり、以後は商店街を中心に店を増やした。栄など大きな繁華街に大型店を出して大規模店は4店に達し、その4店がそろって大当たりして、マルトミは売上高で名古屋一の靴屋へ一気に駆け上がった。1965年、富永氏は怒りのあまり4店舗の従業員を全員解雇する。商売が順調に見える一方で資金繰りがしだいに窮屈になり、原因を探った結果、従業員の不正が明らかになっていたのである。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [19]名古屋一の靴屋になると決めて靴店のチェーン化に乗り出した
    • [21]栄など大繁華街にも大型店を出し、合計4店を構えた
    • [22]4店とも当たり、売上高で名古屋一の靴屋になった
    • [23]1965年に4店舗の従業員全員を解雇した
    • [24]商売は順風満帆なはずなのに資金繰りが苦しくなった
    • [25]調べてみると従業員が不正を働いていた
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [20]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、それを手始めに商店街への出店を続けた

解雇のあと富永氏は新しく店員を募り、自分と寝起きを共にさせて商売のやり方を徹底して教え込んだ。その店員たちを新しく造った店の店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やしている。店長教育が効いて売上も利益も伸びた。この経験が、のちに従業員を人手ではなく人材と見て、漢字に人財の字を当てる考え方につながった。小売業は製造業のように機械やロボットを入れて合理化できず、客に喜ばれる接客ができる人がそのまま会社の財産になる、というのが富永氏の持論である。同時に、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然だという考えも、ここで固まった。

  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [26]新たに募った店員と寝起きを共にし、商売のやり方を教え込んだ
    • [27]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
    • [28]徹底した店長教育で売上も利益も伸びた
    • [29]従業員を人材と捉え、当て字で「人財」と書いた
    • [30]小売業は製造業のような自動化ができず、接客できる人材が会社の財産だと考えた
    • [31]この経験から、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然だと考えるようになった

1973年2月、富永光行氏は株式会社靴のマルトミを設立し、個人商店として始めた店を一つの会社の下へ統合した。当時のショッピングセンターや大型店の出店はなお都心を目指しており、マルトミの店舗展開もその流れの中に置かれていた。1950年代から積み上げた店は名古屋駅の地下街と栄の繁華街を軸にしており、都心に人が集まることを前提にした立地である。ところが1970年代後半に入ると、街の中心部からの人口流出に伴って売上が低迷し始めた。同じ時期、専門店チェーンはクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際へ駐車場付きで出店し、シェアを拡大していた。郊外は地価が安く、低いコストで店を建てられ、客が車で動くため住宅地から離れていても集められた。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [32]1973年2月に株式会社靴のマルトミを設立した
    • [35]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [33]ショッピングセンターや大型店の進出は都心を目指しており、マルトミもその中で店舗展開していた
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [34]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、栄など大繁華街にも大型店を構えた
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [36]専門店チェーンはクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際へ駐車場付きで出店しシェアを伸ばした
    • [37]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられ、車で動く客は住宅地から離れていても集められた
参考文献[19]-[37]
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [19]名古屋一の靴屋になると決めて靴店のチェーン化に乗り出した
    • [21]栄など大繁華街にも大型店を出し、合計4店を構えた
    • [22]4店とも当たり、売上高で名古屋一の靴屋になった
    • [23]1965年に4店舗の従業員全員を解雇した
    • [24]商売は順風満帆なはずなのに資金繰りが苦しくなった
    • [25]調べてみると従業員が不正を働いていた
    • [26]新たに募った店員と寝起きを共にし、商売のやり方を教え込んだ
    • [27]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
    • [28]徹底した店長教育で売上も利益も伸びた
    • [29]従業員を人材と捉え、当て字で「人財」と書いた
    • [30]小売業は製造業のような自動化ができず、接客できる人材が会社の財産だと考えた
    • [31]この経験から、やる気のない社員を辞めさせるのは会社にとって当然だと考えるようになった
    • [34]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、栄など大繁華街にも大型店を構えた
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [20]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、それを手始めに商店街への出店を続けた
    • [32]1973年2月に株式会社靴のマルトミを設立した
    • [35]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [33]ショッピングセンターや大型店の進出は都心を目指しており、マルトミもその中で店舗展開していた
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
    • [36]専門店チェーンはクルマ社会の進展とともに郊外の幹線道路際へ駐車場付きで出店しシェアを伸ばした
    • [37]郊外は地価が安く低コストで店舗を建てられ、車で動く客は住宅地から離れていても集められた

1975年〜都心100店の6割が沈み、5年で郊外へ振り替える

1975年、マルトミの店舗数は100店に達した。徹底した店長教育で10年のあいだ店を増やし続けた到達点である。ところが同じ年、下降線をたどる店が100店の6割にのぼった。富永光行氏は、気がついたときには居住空間が郊外へ移っており、各地の都心商店街が寂れていく現象が見られたと当時をふり返っている。マルトミの店はショッピングセンターや大型店と同じく都心へ向けて置かれてきたため、人の流れが郊外へ抜けた分をそのまま失う位置にいた。街の中心部からの人口流出に伴う売上の低迷が、この時期にマルトミの直面した逆風だった。

  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [38]店舗数が100店に達した1975年が大きな転換期だった
    • [40]1975年には下降線をたどる店が100店舗の6割に達した
    • [41]気がついたら居住空間は郊外に移っており、各地の都心商店街が寂れていく現象が見られた
    • [42]ショッピングセンターや大型店の進出は都心を目指しており、マルトミもその中で店舗展開していた
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [39]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [43]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した

1975年から1980年までの5年間で、マルトミは売上不振に陥った60店を閉じ、郊外へ80店を新たに出した。都心の店を残したまま郊外へ足すのではなく、都心を閉鎖して郊外へ振り替える入れ替えである。閉じた対象には、名古屋駅の地下街や栄の大型店といった、会社を名古屋一の靴屋にした都心の店が含まれていた。1980年にすべての整理を終えた時点で、店舗数は120店になっていた。富永光行氏はこの5年間を、自身が本当に苦労した時期だとふり返っている。差し引きの純増は20店にとどまり、5年で入れ替えたのは店の数ではなく店の置かれた場所だった。

  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [44]1975年から5年間で60店舗を閉鎖し、郊外に80店舗を出店した
    • [46]都心店を残さず閉じて郊外へ振り替える立地転換だった
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [45]1975年から1980年の間に売上不振だった6割の店を閉店し、郊外への出店に主力を切り替えて80店舗を新たに出店した
    • [48]1980年にすべての整理を終えた時点で120店舗になっていた
    • [49]この5年間は本当に苦労した時期だったとふり返った
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [47]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、栄など大繁華街にも大型店を構えて売上高で名古屋一の靴屋になった

当時はショッピングセンターに入るにも多額の費用がかかり、容易ではなかった。加えて、住まいが郊外へ移ったのに伴い、日用の実用品は郊外で、感性に訴える買い回り品は都心で買うという二極化が進んでいた。マルトミが岐阜に"靴流通センター"の1号店を出したのは1979年である。富永光行氏はこの見立てに沿って、1号店を郊外型靴店の実験店と位置づけた。扱う品を実用品の類に限り、市価を1〜2割下回るディスカウントで売った。小型の売場に駐車場を備え、地名を店名に冠するという郊外店の型は、この店で固まった。郊外の居住者の多くが住宅ローンと育児・教育の支出に追われている以上、ロープライスの商品は受け入れられて当然だと富永氏は見ていた。実験店は成功し、以後3年をかけてノウハウが蓄えられた。実用品だけを1〜2割安く並べるこの店は、都心の商店街が担ってきた品ぞろえの一部を切り出して郊外へ移したものだった。

  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [50]ショッピングセンターは当時でも相当のコストを要して出店が難しく、居住空間の郊外移動により実用品は郊外・感性の高い買い回り品は都心という二極化の傾向があった
    • [52]1979年に郊外型靴店の実験店として第1号店を開店した
    • [53]市価よりも1〜2割安いディスカウント方式で、実用品に類するものだけを提供した
    • [55]郊外の居住者の多くが住宅ローンや育児・教育の支出に追われており、それなりにロープライスのものが受け入れられたと述べた
    • [56]1979年から3年間実験を重ねてノウハウを蓄えた
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [51]1979年に岐阜へ「靴流通センター」1号店を出店した
    • [54]地名を冠した小型・駐車場付きという店舗の形を定めた
参考文献[38]-[56]
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
    • [38]店舗数が100店に達した1975年が大きな転換期だった
    • [40]1975年には下降線をたどる店が100店舗の6割に達した
    • [41]気がついたら居住空間は郊外に移っており、各地の都心商店街が寂れていく現象が見られた
    • [42]ショッピングセンターや大型店の進出は都心を目指しており、マルトミもその中で店舗展開していた
    • [45]1975年から1980年の間に売上不振だった6割の店を閉店し、郊外への出店に主力を切り替えて80店舗を新たに出店した
    • [48]1980年にすべての整理を終えた時点で120店舗になっていた
    • [49]この5年間は本当に苦労した時期だったとふり返った
    • [50]ショッピングセンターは当時でも相当のコストを要して出店が難しく、居住空間の郊外移動により実用品は郊外・感性の高い買い回り品は都心という二極化の傾向があった
    • [52]1979年に郊外型靴店の実験店として第1号店を開店した
    • [53]市価よりも1〜2割安いディスカウント方式で、実用品に類するものだけを提供した
    • [55]郊外の居住者の多くが住宅ローンや育児・教育の支出に追われており、それなりにロープライスのものが受け入れられたと述べた
    • [56]1979年から3年間実験を重ねてノウハウを蓄えた
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号
    • [39]教育した店員を店長に据え、1975年までの10年間で100店舗を増やした
    • [47]1957年に名古屋駅地下街へ出店し、栄など大繁華街にも大型店を構えて売上高で名古屋一の靴屋になった
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
    • [43]1970年代後半に街の中心部からの人口流出で売上が低迷した
    • [44]1975年から5年間で60店舗を閉鎖し、郊外に80店舗を出店した
    • [46]都心店を残さず閉じて郊外へ振り替える立地転換だった
    • [51]1979年に岐阜へ「靴流通センター」1号店を出店した
    • [54]地名を冠した小型・駐車場付きという店舗の形を定めた

筆者考察

靴のマルトミが最初に売ったのは安い靴ではなく、靴を注文品から日用品へ変える作り方だった。1950年の名古屋で革靴は客の足を一人ずつ測って仕立てる完全な注文品であり、一人前のサラリーマンの月給と同じ1足3000円した。富永光行氏が靴工場へ持ち込んだのは、その工程を流れ作業へ置き換えて1足600円で作らせるという提案である。どの工場からもバカかと言われたこの注文は、原価を5分の1に下げることで1000円という値段を成り立たせた。値札を1000円に置けるかどうかを決めていたのは、店頭の努力ではなく工場の作り方のほうだった。夫婦二人の店が現在の貨幣価値で3億円近い元手を作れたのは、値引きではなく原価の側を動かしたからである。

同じ会社が25年後に突き当たったのは、値段では動かせない問題だった。1975年に100店へ達した店舗網は、その6割が下降線に入っている。原因は商品にも価格にもなく、客の住む場所が都心から郊外へ移ったことにあった。店は動かせないので、富永氏は店のほうを捨てる側に回る。1975年からの5年で都心の60店を閉じ、郊外へ80店を出し、1980年に120店で整理を終えた。差し引き20店の純増に5年を費やしたこの入れ替えは、成長ではなく立地の付け替えであり、既製靴の価格破壊で積み上げた店舗網をいったん解体する作業でもあった。1979年に岐阜で開いた靴流通センターの1号店は、その解体の先に置いた次の型の実験である。

靴のマルトミの店舗数 1950年の創業から1980年の整理完了まで(店)

1 1950 創業 4 1965 全員解雇 100 1975 都心100店 120 1980 整理完了
  • 1950年は丸富靴店の開業時、1965年は従業員を全員解雇した4店舗、1975年と1980年はショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」による。

出典・参考

4件
出典・参考
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 金融・商業「流通-価格破壊で再編淘汰」(対象年1985-1993)
  • ショッピングセンター 1986年8月号「トップは語る 新時代を創る専門店(22)"立地革命"で急成長を遂げた『靴のマルトミ』」
  • 日経ビジネス 1989年6月5日号
  • 日経ビジネス 1994年3月14日号

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