1758年 篠原屋(後の岡田屋)を創業
江戸中期の伊勢街道で1758年に岡田惣左衛門が篠原屋から暖簾分けで開いた呉服商を、戦死した兄に代わり継いだ7代目岡田卓也が、1958年に総合小売へ業態転換。1969年2月に岡田屋・フタギ・シロの3社共同で(旧)ジャスコを設立、地域連邦経営で全国展開した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- イオンの起源は1758年(宝暦8年)に岡田惣左衛門が三重県四日市で篠原屋から暖簾分けを受けて開いた呉服太物商に遡る。伊勢街道と東海道の結節点で江戸中期から代々の岡田家当主が呉服店として継承し、明治期に「岡田屋」を屋号として確立、1926年9月21日に資本金25万円で株式会社岡田屋呉服店として法人化した。江戸創業から168年で家業を近代企業へ転じた段階である。
- 戦後の1958年、長兄の戦死を経て早稲田大学を卒業した三男の岡田卓也が7代目当主として家業を継ぎ、1959年11月に商号を「株式会社岡田屋」へ改めて呉服店の看板を外し、四日市店が百貨店法適用で総合小売としての営業を開始した。江戸期から201年続いた呉服商の家業が、戦後型の総合小売へと業態転換した節目である。家訓「大黒柱に車をつけよ」を支柱に、駅前から郊外へと変わる人の流れを商売の軸に据え直した。
- 1969年2月、岡田屋は兵庫姫路のフタギ、大阪のシロと共同出資で仕入会社「(旧)ジャスコ株式会社」を設立、ダイエー・西友・イトーヨーカ堂が加速させる全国チェーン化に対し共同仕入で規模のメリットを取る地域連合モデルを採った。1970年3月に4社合併で本格的なジャスコ株式会社が発足し、本店を大阪市に移転、資本金6億8,844万円となった。1974年9月に東京・大阪・名古屋の三証券取引所市場第二部に同時上場、1989年9月にグループ名称を「イオン」へ統一して、江戸創業の家業が複合小売プラットフォームへの第一歩を踏み出した。
1758年篠原屋創業以来の家訓「大黒柱に車をつけよ」を経営の軸とし、戦後7代目岡田卓也が呉服店から総合小売へ業態転換、1969年に地域家業の共同仕入連合という独自モデルでジャスコを設立、1970年代以降は「連邦経営」を旗印に地元社長を残したまま地域スーパーを次々取り込む手法を確立した。
1926年に資本金25万円で岡田屋呉服店として法人化、1970年3月の4社合併で資本金6億8,844万円となり、1974年9月に東京・大阪・名古屋の三証券取引所市場第二部に同時上場、1976年8月に第一部指定、1976年12月のルクセンブルク上場や1978年12月のデュッセルドルフ・フランクフルト上場など欧州資本市場での資金調達基盤も早期に整備した。
江戸中期から呉服太物・小間物商を本業とし、明治・大正期も呉服店として営業、1959年11月に総合小売へ業態転換して百貨店法適用、1970年のジャスコ発足後は食品・衣料・住関連を扱う総合スーパー(GMS)として全国チェーン化、後のデベロッパー事業・PB事業の素地を1979年のアイク(現・イオントップバリュ)設立で築いた。
江戸期は伊勢街道を行き交う旅人と四日市の町人が主力顧客、戦前は地方都市の商店街利用客、戦後は自動車普及で郊外型ファミリー世帯に主要顧客が移行、1970年代以降は地域スーパーを合併で取り込むことで全国の生活密着型顧客基盤を構築した。
1758年の岡田惣左衛門時代は家族と奉公人による家業規模、1926年の株式会社化時点でも数十名規模の地場呉服店、1970年3月の4社合併で全国チェーン規模の数千名となり、1974年の三市場上場時には1万人規模、1980年代の地域スーパー合併連鎖で数万人規模に到達した。
創業地は三重県四日市の伊勢街道沿いで、江戸期から戦後まで四日市本店を拠点とした地場呉服店だったが、1970年3月の4社合併で本店を大阪市に移転、1983年6月に東京都千代田区へ、1994年5月に千葉県幕張に本社屋を完成させ、2001年5月に千葉市美浜区へ本店を正式移転、創業211年で本拠が四日市→大阪→東京→千葉へと移っていった。
イオン 創業地の主な拠点全国 の地理(篠原屋(後の岡田屋) → 幕張本社屋)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1758年 なぜ江戸中期の四日市で岡田家は呉服商を始めたのか? | 伊勢街道と東海道が交わる宿場町・四日市は伊勢参宮の往来と廻船の物資が集まる商業地で、岡田惣左衛門は篠原屋から暖簾分けを受けて小間物・呉服太物商を開いた。 四日市は伊勢神宮への参宮街道と東海道の結節点に位置し、江戸中期には伊勢湾の廻船問屋と街道筋の旅籠が集まる商業地として発展していた。岡田惣左衛門は1758年(宝暦8年)、地元の老舗呉服商・篠原屋から暖簾分けを受け、伊勢街道沿いに小間物と呉服太物を扱う店を構えた。屋号は当初「篠原屋」を名乗り、後に岡田家の姓を冠した「岡田屋」へと改められた。 江戸中期は呉服太物商が城下町・宿場町ごとに地域顧客を抱える時代で、岡田屋も四日市の町人と街道を行き交う旅人を主要顧客とした。家訓「大黒柱に車をつけよ」(日経新聞 岡田卓也私の履歴書 2004/03/06)は、人の流れが変われば店の場所も動かすという商売の鉄則として、創業期から代々の岡田家当主に受け継がれていく。 |
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| 1950年代 なぜ1958年に7代目岡田卓也が家業を継いだのか? | 兄の岡田卓二が出征先で戦死し、家業を継ぐ予定だった姉も嫁いだため、早稲田大学を卒業した三男の卓也が7代目当主として岡田屋呉服店を継承した。 岡田卓也は1925年(大正14年)に四日市で岡田家6代目岡田惣一郎の三男として生まれた。本来は長兄の卓二が家業を継ぐ立場であったが、太平洋戦争で南方戦線に出征し戦死、家を支える立場が回り回って末弟の卓也に集中した。早稲田大学商学部を卒業後、1958年に7代目として岡田屋呉服店の経営を継承した。 継承時の岡田屋は戦後の衣料品配給制から復興しつつあった呉服店で、1950年代後半は全国で米国型セルフサービス方式の総合小売店が台頭していた時期である。卓也は継承後ただちに業態転換を主導し、1959年11月に商号を「株式会社岡田屋」へ改めて呉服店の看板を外し、同月に四日市店が百貨店法の適用を受けて総合小売としての営業を開始した。江戸期から201年続いた呉服商の家業が、戦後型の総合小売へ看板を塗り替えた局面である。 |
| 1969年2月 なぜ1969年に岡田屋・フタギ・シロの3社が共同でジャスコを設立したのか? | ダイエー・西友・イトーヨーカ堂が全国展開を加速するなか、中堅地方スーパー単独では仕入規模で劣り生き残りが難しく、共同仕入会社を作って規模のメリットを取りに行く必要に迫られた。 1960年代後半の日本の小売業界では、ダイエー(中内功)と西友ストアー(堤清二)が「両横綱」(1968/02/19 経済記事)と並び称されるほど全国チェーン化を加速し、イトーヨーカ堂・ニチイも追走していた。三重の岡田屋、兵庫姫路のフタギ、大阪のシロはいずれも創業数十〜数百年の地場呉服系小売だが、大手の仕入規模に対抗する手段を持たなかった。 1969年2月、3社は共同出資で仕入会社「(旧)ジャスコ株式会社」を設立した。社名はJapan United Stores COmpanyの頭文字で、商品部門の合理化と本部機能の共有を狙う「ゆるやかな地域家業の連合」というモデルだった。ダイエー中内功は「グループ化といって売上を積み上げる方式では意味がない。吸収合併でないと実効はない」(日経ビジネス 1969/11)と批判したが、岡田はあえて緩い連合形式を選び、1年後の1970年3月の本格合併への布石を打った。 |
| 1970年代 なぜ岡田卓也は「連邦経営」を旗印に掲げたのか? | 小売業は地域産業であり、地元の商店街や商調協と折り合いをつけて出店するには、地元出身の経営者を社長として残すことが現実的に最も話が通りやすかったため。 1970年3月の4社合併でジャスコ株式会社が発足した後も、岡田卓也は地域企業を吸収しても旧経営陣を社長としてそのまま残す方針を貫いた。後年「組織が大規模になれば硬直化するので、それをなくすために国家は地方分権をする、企業は事業部制をとるわけです。それに小売業は地域産業ですので、組織と業態を考え合わせて、地域主体の連邦制という考えをとったわけです」(日経ビジネス 1979/04/23)と理由を説明している。 実利面では「まず地方の小売業の人たちと協調しやすいことですね。大手の進出に地元の商店街が反対、商調協の問題になるわけですが、地元に社長がいてとなると話も通りやすくて出店も割合スムーズに行きます」(日経ビジネス 1979/04/23)と語った。ダイエーの吸収合併型に対し、岡田は連邦経営をジャスコの独自旗印として打ち出し、1972年京阪ジャスコ、1973年三和商事・福岡大丸、1976年扇屋・東北ジャスコと地域スーパーを次々と合流させる枠組みとした。 |
| 1989年9月 なぜ1989年にグループ名称を「イオン」に統一したのか? | 郊外大型ショッピングセンター時代を見据え、スーパーのジャスコ1社だけでなくデベロッパー・金融・サービス等の複数事業を束ねる新たな屋号が必要になり、ラテン語eon(永遠)から取られた。 1989年9月、会社はグループ名称を「イオングループ」と改めた。「イオン」はラテン語のeon(永遠)から採られ、ジャスコ以外の子会社も含めた広がりを表現する屋号として選ばれた。岡田卓也は同年4月の発言で「小売業は郊外大型ショッピングセンター時代に入る。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でもよかったが、今後はデベロッパー事業あり、サービス事業あり、とグループの核を複数にしていかなければ成長は望めない」(日経流通新聞 1989/04/13)と述べ、SC事業の本格立ち上げ方針を公言している。 ジャスコの社名が正式に外れるのは2001年8月の「イオン株式会社」への商号変更まで12年待つことになるが、1989年のグループ名称変更は1758年篠原屋から231年、1970年ジャスコ発足から19年を経た節目であり、戦後の総合スーパー時代から郊外SC時代への戦略軸の転換点でもある。江戸創業の呉服商を起源とする家業が、複合的な小売プラットフォーム企業へと姿を変える起点となった。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
篠原屋創業時から代々の岡田家当主に受け継がれた家訓。人の流れが変われば店の場所も動かすという商売の鉄則
「大黒柱に車をつけよ」
江戸期から続く岡田家のもう一つの家訓。1959年の総合小売転換、1969年のジャスコ設立、1989年のイオン改称の背景にある経営姿勢
「お客の変化に柔軟に対応すべし」
江戸期の街道立地から戦後の駅前商店街、車社会の郊外型へという商業立地の変遷を、家訓「大黒柱に車をつけよ」と重ねて整理した述懐
「戦前の地方の商店は街道や宿場町にあったが、戦後は人の流れが多くなった駅前に移り商店街を形成した。その駅前商店街も今では閑散としている。ここ十数年は本格的な車社会の到来で役所や住居が郊外に移った」
1969年2月設立の(旧)ジャスコによる3社共同仕入連合方式に対し、ダイエーが吸収合併型でなければ実効性がないと公式に批判した発言
「グループ化といって売上を積み上げる方式では意味がない。吸収合併でないと実効はない」
1970年3月のジャスコ発足以降、地域スーパーを合併しても旧経営陣を社長として残す「連邦経営」の根拠を岡田自らが説明した発言
「組織が大規模になれば硬直化するので、それをなくすために国家は地方分権をする、企業は事業部制をとるわけです。それに小売業は地域産業ですので、組織と業態を考え合わせて、地域主体の連邦制という考えをとったわけです」
1989年9月のイオングループ屋号統一に先立ち、デベロッパー事業など複数核体制への転換方針を公式に表明した発言
「小売業は郊外大型ショッピングセンター時代に入る。従来はスーパーのジャスコ1社がグループの核でもよかったが、今後はデベロッパー事業あり、サービス事業あり、とグループの核を複数にしていかなければ成長は望めない」
参考文献
- 有価証券報告書
- 日経新聞 岡田卓也私の履歴書 2004/03/06
- 日経ビジネス 1969/11
- 日経ビジネス 1979/04/23
- 日経流通新聞 1989/04/13