イオン創業

1758年(宝暦8年)・三重県四日市市

1758年(宝暦8年)、岡田惣左衛門氏が四日市で太物・小間物の小売を始めた。

創業 1758年(宝暦8年)
創業地 三重県四日市市 久六町
創業者 岡田惣左衛門
背景
四日市は東海道の宿場町であり、伊勢湾に面した港町でもあった。街道と港をつなぐ道が交わる一角は「辻」と呼ばれ、代官所も置かれた街の中心だった。当時の呉服店は裕福な客だけを相手にし、値段は客ごとの交渉で決めるのが通例である。岡田家が始めたのは、その外側の商いだった。扱うのは綿や麻の生地と和雑貨、店は構えず、商品をかついで客のもとへ運ぶ行商である。
動機
創業者の岡田惣左衛門氏は、伊勢国員弁郡治田郷(現北勢町)で銅山の開発に当たっていた。宝暦8年(1758年)、その銅山が資源の枯渇を迎えたのを機に四日市へ移る。住まいを置いた久六町で篠原屋という屋号を名乗り、天秤棒を肩に周辺の村落を回った。四日市での商いは、鉱山開発からの転身として始まっている。
成長
明治元年、5代目岡田惣右衛門氏は天秤棒を大八車に替え、近在の家を借りて商品を並べる出張販売へ移る。明治20年に街の中心の辻へ進出し、屋号を岡田屋に改めた。明治25年には「店規則」を成文化し、店員を1等から10等に格付けして純益の2割を分けた。明治30年からは値札をつける正札販売。大正9年の暴落では在庫を半値で売り、安く仕入れ直して「暴落大売出し」を決行した。
含意
店を持たない商いは、店の場所を動かすこと自体を家業の技法にしていった。住まいのあった久六町から街の中心の辻へ、辻から戦後の新しい繁華街・新道へ。家訓「大黒柱に車をつけよ」は、良い立地を選ぶ知恵であり、老舗が一等地に固執する弱さへの戒めでもあった。戦中戦後の店を率いた7代目岡田卓也氏の姉・千鶴子氏の移転案が、二年ものあいだ通らなかった事実がそれを裏返しに示す。

背景:宿場と港が交わる四日市の商環境

陸海両路の拠点だった四日市と、街の中心「辻」

四日市は東海道43番目の宿で、桑名の次に置かれた[1]。桑名の一つ前が宮宿(熱田)であり、宮と桑名の間は海路であった[2]。木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川が陸路を阻んでいた[3]ためである。この海路は「七里の渡し」と称される[4]が、宮宿から四日市宿へバイパスする海路もあり、こちらは「十里の渡し」と呼ばれていた[5]。要するに四日市は陸海両路の拠点であった[6]

これを反映して、東海道沿いの宿場町、伊勢湾に面した港町、そして宿場町と港をつなぐ浜往還沿いに市街地が発展した[7]。東海道と浜往還の交差点を「辻」といった[8]。ここが街の中心であり、幕府の代官所である陣屋も近くにあった[9]。のちに岡田家が店を構えることになるのも、この辻である[10]

港の側が大きく伸びるのは、創業よりのちのことである[11]。四日市港は明治期を通じて伊勢湾最大の港であり、名古屋港を上回る取扱量があった[12]。明治17年(1884年)に近代港が完成[13]し、明治22年(1889年)には特別輸出港に指定されている[14]。近代港の完成は宝暦の創業から126年後、岡田屋が久六町から辻へ店を移す3年前[15]にあたる。

辻が街の中心であった期間は長い。大正15年(1926年)の土地賃貸価格調査事業報告書によれば、四日市の最高地価地点は「北町・南町の辻」であった[16]。大正末期に至っても辻は街の中心であり続けた[17]ことになる。岡田屋が明治20年に移った南町一番屋敷も、明治30年に移った北町一番屋敷も[18]、その最高地価地点にあたる場所である。事実、岡田屋は明治30年の移転からのち、昭和24年に新道へ移るまで半世紀余りにわたって辻にとどまった[19]

太物・小間物を商う、店を持たない行商

宝暦8年(1758年)、岡田惣左衛門氏が四日市へ移り[25]、太物・小間物などの小売業を始めた[20]。ただし小売業といっても店舗を構えていたわけではなく、天秤棒の両端にもっこをつるし、そこに商品をいれてかついで歩く行商[21]である。今風にいえば無店舗販売であった[22]。屋号は篠原屋といった[23]。創業の地は、西町に直交する久六町である[24]

太物は綿や麻の生地、小間物は和雑貨を指す[26]。当時の呉服店の多くは高所得階層のみを顧客とし、一般の大衆にはほとんど縁のないような商売をしていた[27]。篠原屋が扱ったのはその外側の品であり、しかも店を構えず、客のいる場所まで品物をかついでいく商いである[28]。岡田屋という店が元来、大衆を第一の顧客としてきた[29]という性格は、この出発点に由来する。

商いの側の慣行も今とは違う。当時の小売業は商品に価格を表示せず、売価は売手と買手がその場でかけひきをしながら決めるというのが通例であった[30]。帳簿は「大福帳」の時代である[31]。店のしきたりや店員の身分についての慣習もどの店でも一応は定められていたが、そのほとんどは不文律であった[32]。のちに岡田屋が入れる見競勘定・店規則・正札販売[33]は、いずれもこの不文律と裁量を、成文と値札に置き換える試みにあたる。

こうした行商は惣左衛門氏から初代惣右衛門氏、惣助氏、惣八氏と4代にわたって明治時代まで続けられた[34]。それなりの蓄積はあったようであるが、とりたてて特筆することもない商いの毎日[35]であった。嘉永3年(1850年)、惣八氏に1人の男の子が生まれる。幼名を由松といい[36]、元服して岡田家として由緒のある惣右衛門を名乗った[37]。岡田屋の基礎は、事実上この人物が築いたものといえる[38]。創業から129年、店を持たない商いが店を持つまでには[39]、なお1代を要したことになる。

決断:天秤棒ひとつの行商としての創業

銅山の枯渇と、四日市への転身

創業者の岡田惣左衛門氏は、もともと伊勢国員弁郡治田郷(現北勢町)で銅山の開発に当たっていた[40]人物である。宝暦8年(1758年)、その銅山が資源の枯渇を迎えたのを機に、惣左衛門氏は四日市市へ移住した[41]。そして久六町に篠原屋の屋号で店を構える[42]とともに、天秤棒を肩に周辺の村落へ入って小間物を行商して歩いている[43]。四日市での商いは、鉱山開発からの転身として始まった[44]ことになる。この年は、薩摩藩による木曽三川の治水工事が終わり、普請奉行をつとめた平田靱負氏が工事費超過の責任を感じて悲劇的な生涯を閉じてから3年後[45]にあたる。

『のれん百年』はこの行商をオカダヤ勃興期の姿と記し[46]、それから明治に至る百年の間、商売は順調に伸びていた[47]が、オカダヤの基礎が固まってきたのはその後の百年間である[48]としている。黎明期の明治を迎えたとき、5代目惣右衛門氏は弱冠19歳であった[49]。このころから扱い商品は呉服を専門とするようになる[50]。久六町で天秤棒をかついだ百年余りは、店の基礎が固まる前の期間だったことになる。

大八車への持ち替えと、明治20年の「辻」進出

明治元年、惣右衛門氏は天秤棒を大八車に変え[51]、一軒一軒を訪問する行商から、近在の広い家を借りて商品を陳列して売るという出張販売[52]に切りかえた。一戸ずつ訪問するやり方から、一カ所に客を集めて商いをする方法への転換[53]である。この頃には名古屋や松阪へも仕入れに出掛けており[54]、取扱い商品は質・量・種類ともに広がっていた[55]。明治15年には川島村(現四日市市)に三重紡(東洋紡の前身)が設立されたのをはじめ、四日市では製油・製紙などの企業化が進む[56]。篠原屋も明治19年には呉服商を営むかたわら、しま織り工場の経営を始めて多角経営を図っている[57]

明治20年(1887年)、5代惣右衛門氏[59]はそれまで住んでいた久六町から[60]、四日市最大の繁華街で通称「辻」とよばれた南町一番屋敷へ店舗を移し、屋号を篠原屋から岡田屋に改めた[58]。店は堅町通に面した[61]間口4間の賃借店舗であった[62]。『のれん百年』は、この移転を機に掛け売りをやめて現金売りに改めたと記している[63]。ここに店の大黒柱が立ち、岡田屋の店名が登場する。一等地に店をもち、店名を自らの苗字からとったことは彼の意欲を物語る[64]。事実、この店舗があった10年の間に、当初2人にすぎなかった店員は16人にまで増えている[65]

惣右衛門氏のモットーは、四日市へ野菜の振売りにやって来た近郷の人達が、その帰りにでも気楽に入れる店でありたい[66]ということであった。呉服店の多くが高所得階層のみを顧客としていた当時にあって、これは一つの新しい方向であり、英断というべきものである[67]。岡田屋という店は元来、大衆を第一の顧客としてきた[68]のであり、「良い品を安く売る店」というキャッチフレーズはこの経営理念の具体化[69]といえる。

見競勘定・店規則・正札販売

惣右衛門氏は明治20年、「見競(みくらべ)勘定」と称する決算方式を導入[70]している。収入の部と支出の部を対照的に書きこむもの[71]で、考え方としては今日の貸借対照表と同じであり、収支が一目でわかる[72]ようになっていた。「大福帳」の時代にあって、一地方都市の小売業者がこうした決算をしていた[73]ことは注目してよい。

明治25年には、「店規則」と名づけた成文の就業規則・給与規定をこしらえている[74]。当時も店のしきたりや店員の身分についての慣習はどの店でも一応定められていたが、そのほとんどは不文律であった[75]。店規則は店員を1等から10等まで格付けし、それぞれに月ごとの売上責任額を割り当てる[76]一方、その額を越えた部分については相応の賞与を付与し[77]、また決算日には純益の2割を等級・売上額・出勤状況などによって店員に分配する[78]ことを定めていた。現代でいえば歩合給とボーナスにあたる。店規則は22条に及び、あわせて「使用人心得」を定めて職制・月給・服装などを決めている[79]

明治30年(1897年)、店が手狭になったとして、同じ辻界隈の北町一番屋敷へ移転した[80]。辻から西町通に入った場所である[81]。この移転の時に、岡田屋は正札販売をはじめている[82]。惣右衛門氏は、かけひきでは商売に時間がかかり、第一、同じ商品でも顧客によって値段がちがうのは不公平であり、長い目で見れば店の信用にもかかわる[83]として正札販売に踏み切った。その頃の通念からすれば、大きなイノベーションであった[84]

結果:成長による事業基盤の確立

大正9年の「暴落大売出し」

大正9年春、第一次大戦後の戦後景気の反動として株式市場と商品市場は大暴落[85]を演じ、全国の機屋・問屋・小売業は大きな打撃を蒙って倒産が続出した[86]。岡田屋も例外ではない。冬のうちに仕入れた春物は蔵いっぱいになっており[87]、市内の公園で陳列会を開いたばかりの時に在庫品の価値が暴落[88]してしまった。

この時、惣右衛門氏はすでに養子の惣一郎氏に家督を譲って隠居し、しかも病床にあった[89]。彼は枕元へ惣一郎氏をはじめ店の主だった者をよび[90]、まず「店の手持商品はすべてタダになったと思え」[91]と言った。そして「こういう時にはこういう時の商売がある。タダ同然になってしまった在庫品はみんな半値で売ってしまえ[92]。そして皆で手分けして問屋、産地をまわり、暴落している商品を買いたたき、それを大安売りしろ。お客も得をし、ウチも儲かる。これが本当の商売だ。今からすぐに売掛金を回収し、それを資金にして買いまくれ[93]」と続けている。

一同は直ちに手分けして大口の集金に回った。当時、常得意からの売掛金の回収は盆暮の年2回が慣習であった[94]が、事情が事情であり、また長年のつき合いでもあることから、ほとんどの顧客が気持よく支払に応じた[95]。その金を持って一せいに仕入れにとび、京都や名古屋など従来から取引のある問屋の処分品を集める一方、関東や越後などの産地まで出掛けて直接機屋から安く買った[96]。店では事前に同業者にもれることを用心して大阪でチラシを刷り[97]、5月1日を期してそのチラシを市内から近郷近在までまき、近くの芝居小屋を借り切って「暴落大売出し」を決行[98]している。

売出しは大変な人出と売上げを記録し、余勢をかって桑名にまで進出した[99]。桑名は七里の渡しで知られた海上交通の要路であり、城下町として古い歴史をもつ都市で、呉服店の規模や商品構成では四日市を凌駕していた[100]。その桑名でもまだ暗いうちから客が押しかけ、夕方にはほとんど商品がなくなった[101]。岡田屋はさらに鈴鹿や亀山へと進出し、延べ3カ月にわたる暴落大売出しは大成功に終わる[102]。安く買える店という評判は市内だけでなく近在の人々にまで植えつけられ[103]、岡田屋ののれんとなって残った。公式の沿革は、この売出しを家訓「下げにもうけよ、上げでもうけるな」に従ったものとしている[104]

当主の死と、女性三代の岡田屋

大正9年12月、惣右衛門氏は世を去り、養子の惣一郎氏が惣右衛門を襲名した[105]。惣一郎氏は惣右衛門氏の妹夫婦の長男で、惣右衛門氏に子供がなかったことから養子になった[106]人物である。早稲田大学在学中には家業をきらい、アメリカ留学を本気で考えた[107]、当時としては非常に進歩的な青年であった。留学は周囲の説得によって思いとどまり、やがて養父の死によってあとを継いだ[108]が、いずれは他の方面で自分を生かしたいという望みを捨て切れず、父の残した事業を早くある程度のところまで完成させた上で然るべき人にゆだねたいという気持を常に持ち続けていた[109]

一区切りをつけたいという気持と進歩的な性格とが一緒になって導入されたのが、大正15年の株式会社組織と複式簿記の採用による事務の改善[110]であった。これを機会に店名も株式会社岡田屋呉服店と改め[111]、資本金は25万円である[112]。惣一郎氏はさらに百貨店へと発展させる計画を具体化しつつあった[113]が、昭和2年、43歳で急逝した[114]。新しいものを積極的に吸収し導入するという岡田屋の伝統は惣一郎氏にも生きていたが、業なかばにして世を去ったことになる。

『オカダヤ社史』は当時をこう記している。「思いがけない運命が岡田家に訪れた。家督をつぐ卓也は2度目の誕生日がすんだばかりである[115]。長女の嘉鶴子もまだ14歳で、高等女学校の2年生であった[116]。悲しみの涙がかわく間もなくすべての責任は未亡人田鶴の肩にかかったのであった[117]。田鶴の心は動揺した。一たびは会社を解散して店も廃業しようとさえ考えてみたが、思い止って続けてゆくことにした[118]。唯一つの希望は幼い卓也の将来にかかっていた[119]」。

惣一郎氏の葬式や法事が一段落した直後、田鶴氏は「追悼大売出し」と銘うって黒枠の売出し広告をうった[120]。火事などで商品がいたんだ時に出火のお詫びと称して売出しをする例は類がないわけではないが、当主の死をネタに黒枠の広告で売出しをかけたというのは前代未聞である[121]。逆境を逆手にとるこの商法は[122]、暴落大売出しを決行した惣右衛門氏の代から岡田屋の伝統として受けつがれたものであった。惣一郎氏の死後の岡田屋は、不況・戦中・戦後の困難な時代を田鶴氏、嘉鶴子氏、千鶴子氏という女性3人のバトンタッチによって切り抜けてゆく[123]

田鶴氏は不況下での取引銀行の休業などの心労がたたって昭和10年に世を去り[124]、その後をついだ嘉鶴子氏も4年後の昭和14年に急死した[125]。卓也氏はまだ15歳、県立富田中学校の2年生である[126]。店の代表取締役に就任する立場にあったのは、嘉鶴子氏の二つ違いの妹である千鶴子氏であった[127]。千鶴子氏は後年、「一族で成年に達したのは自分1人であり、2週間以内に新しい代表取締役を決めて登記しなければならない[128]。親族会議で有無をいわせずです」と述懐している。『オカダヤ社史』によれば、千鶴子氏は家業につくすために、自ら婚期を遅らせる決心をした[129]

空襲、商品券の現金化、そして新道への移転

昭和20年6月、四日市は大空襲によって市街の大半が焼土と化し[130]、岡田屋も商品はおろか店舗も灰燼に帰した[131]。千鶴子氏は空襲の際に持ち出した行李から紙をさがし出し[132]、「商品券を御持参の方には現金とお引換え致します」と書いて、市内各所の焼け残った電柱に貼って歩いた[133]。せっかく買ってもらった商品券も空襲で商品と交換することができなくなったので現金でお返しする[134]、というのがその主旨である。

空襲はいわば不可抗力の災難であり、商品が焼けてしまったのは店の責任ではなく、客も責めはしないとしてそのまま放置してしまうのが一般[135]であろう。かつて惣右衛門氏が暴落の危機に直面した時、今こそ客に奉仕し、一方で店が儲けるチャンスであるとして暴落大売出しを決行したのと同じ思考方法[136]である。事実、この広告はこんな時に岡田屋はそこまで客のことを考えているのかと、苦しい時代であるだけに余計に消費者へ強い印象を与え[137]、復興後の商売に大きく貢献するところとなった[138]

終戦によって岡田卓也氏は大学へ復学するが、学校へは時々出るだけでほとんど四日市で姉とともに店の復興に精を出し[139]、昭和21年3月にはなんとか資材を工面してバラックだてながら40坪ばかりの店をつくった[140]。同年6月、卓也氏は7代目当主として株式会社岡田屋呉服店の代表取締役社長に就任している[141]。昭和22年9月に衣料品の配給制度が改革され、消費者が小売店を一店選んでその店に登録して配給を受ける仕組みになる[142]と、あらかじめ改革を予想して研究していた姉弟は店員と手分けして市内から近郷近在、さらに他の都市まで一軒ずつ勧誘して歩き、岡田屋の登録数は県下で第一位になった[143]

焼野原だった四日市の市街が急速な立直りをみせはじめると、岡田屋の店舗のある戦前の一等地・辻は復興が遅れ、多くの店が近鉄の諏訪駅に近く新しい繁華街となりつつあった新道へと移転しはじめた[144]。千鶴子氏は昭和22年頃からいちはやくこうした事態を予測している[145]。彼女は戦前から岡田屋へ月に一回ほど講演に来ていた神戸大学の平井泰太郎氏[146]から、中国では政府が変わるたびに繁華街が移転する、それまで通用していた貨幣に信用がなくなるために物々交換の市が自然発生し、それが繁華街へと成長してゆくという話[147]を聞いていた。新道には市役所があり、配給切符をもらうために市内の人も疎開先から来る人も集まって、その人通りに目をつけた戸板一枚の露店が集中し、自然発生的な市が出来つつあった[148]。千鶴子氏はこの人の流れを2週間ほど毎日ながめて、これからの商売は新道でなければと考えている[149]

しかしその頃の新道は多くの人にはまだ海のものとも山のものともわからず、なまじ老舗であることが店の人々をこれまでの一等地に固執させ、移転はなかなか実現をみなかった[150]。二年後になってようやくこれまでの場所に見切りをつけ、県下第一の繁華街になりつつある新道への移転が決まったが、今度は移転しようにもすでにそれだけの大きな土地がない[151]。そこでいろいろと手を打ち、ある会社の土地の地上権とこれまでの場所の土地・建物とを交換することで移転が具体化した[152]。昭和24年12月[153]、「新道への移転費用をつくるための大売出し」[154]という、何でも大売出しに結びつけてしまう大見切りを最後に、岡田屋は惣右衛門氏以来の土地に別れを告げている。

大黒柱に車をつけよ

新道移転は大成功であった。昭和24年に六、〇〇〇万円にすぎなかった年商は、25年に1億二、〇〇〇万円へ倍増[155]し、26年1億六、〇〇〇万円、27年1億八、〇〇〇万円、28年に2億円、30年に3億円をそれぞれ突破し、31年4億六、〇〇〇万円、32年には6億円にあと一歩と迫った[156]。この頃には店舗は3回の拡張を経て320坪程になっており[157]、当時一店で6億円を売る店は全国でも数える程である[158]。移転後10年たらずで売場面積は五倍、売上は十倍になった[159]

岡田屋の家訓に「大黒柱に車をつけよ」という言葉がある[160]。家を支えているのが大黒柱であり、それに車をつけるということは、いつでも家ごと動けるようにしておけということである[161]。立地条件の良いところ、将来の発展が見込める場所があったら、ためらわずそこへ店舗を持ってゆけという意味であった[162]。祖父の惣右衛門氏はこの家訓にしたがって久六町から辻へ移転し、姉の千鶴子氏は辻から新道へと進出している[163]。家訓は、3代にわたって実際に店の場所を動かす形で実践された。

新道に人通りの中心ができたのは、すぐ近くに近鉄の諏訪駅があったからである[164]。当時の四日市には近鉄の四日市駅と諏訪駅、それに国鉄四日市駅があった[165]が、近鉄・国鉄の四日市駅はいずれも町の中心をかなりはずれていたため、四日市へやって来る人のほとんどは諏訪駅で下車しており、これが実質的な四日市駅であった[166]。ところが昭和32年、近鉄は諏訪駅と四日市駅とを統合し、まったく新しい場所に四日市駅をつくることを決定する[167]。諏訪駅は早晩廃止され、駅前が移動することが明らかになった[168]

昭和33年、岡田卓也氏は新設された近鉄四日市駅前へ大黒柱の車をひっぱろうとしていた[169]。ただし彼がひっぱった大黒柱は、新道の店の大黒柱ではない[170]。彼が考えたのは家ごと旧い大黒柱をひっぱるのではなく、新しい大黒柱を引いてきて新しい家を建てることであった[171]。つまり新道から駅前へ移転するのではなく、新道の店はそのままにしておいて駅前へ新規出店することであり、多店舗化構想を進めること[172]である。同年、駅前オカダヤが開店した。このとき店名は岡田屋からカタカナ表記に変わっている[173]

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