半導体露光装置(ステッパー)への参入と光学・半導体の二本柱確立
1984年実施カメラ用の精密光学を半導体へ持ち出す——名門はいかにして「半導体製造装置のニコン」を得たか
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- 概要
- 1980年、日本光学工業がカメラで培った光学ガラスと精密位置決めの技術を半導体露光装置(ステッパー)へ転用し、傍流の精機事業部から半導体製造装置に参入した経営判断。1984年に熊谷へ量産拠点を設け、半導体関連機器がカメラと並ぶ第二の柱に育った。
- 背景
- カメラ業界は整理淘汰と兼業化が進み、名門の日本光学は多角化の遅れで経営指標が同業最低に沈んでいた。半導体の集積度向上が、光学ガラスと精密機械という自社の蓄積に新しい用途を開いた。
- 内容
- 通産省の超LSI研究組合の委託を受けた精機事業部が縮小投影露光装置NSR-1010Gを開発。社内の消極論を福岡成忠が抑えて1980年に参入し、代理店を介さない直販とユーザー密着で、輸入品のGCAから国内トップシェアを奪った。
- 含意
- ステッパーは1984年に「半導体製造装置のニコン」と呼ばれる勢いで第二の柱となり、多角化の遅れを指摘された会社を多角化の成功例へ変えた。一方で国内顧客への密着という成功要因は、後年の顧客地図の変化に対する弱さを内側に抱えていた。
成功の方程式が抱えた影
この判断の核心は、危機に追われた撤退ではなく、成熟した本業の外へ、自社の最も深い技術をあえて持ち出した点にある。カメラ用の光学ガラスと精密な位置決めは、半導体の微細化が求める精度とそのまま重なった。傍流の受注部門が抱えていた技術を時代の需要へ差し出したとき、名門は「半導体製造装置のニコン」というもう一つの顔を得る。多角化の遅れを長く指摘された会社が、一転して多角化の成功例に数えられた転換だった。
もっとも、参入を支えた強みには影も差していた。国内の半導体メーカーの求めに一台ずつ応え、直販とユーザー密着でシェアを奪ったやり方は、顧客が日本に集まっている限りは最良の方程式だった。福岡社長が「ステッパー技術には10年の蓄積がある、そう簡単に追いつかれない」と余裕をみせた1984年、後年の逆転の遠因はすでに事業のかたちの内側にあった。第二の柱をどう立てるかという問いは、その柱が何に寄りかかって立っているのかという問いと、分かちがたく結びついている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
カメラ専業という名門の停滞
カメラ業界の歴史は、整理淘汰の歴史でもあった。1954年から1955年の2年間に約30社が倒産し、その後も中堅以下のメーカーが姿を消す。レンズの優位が疑われ始めたことも重なって、各社はカメラ偏重を避けるための兼業へ動いた。リコーの事務機、ミノルタの事務機進出、キヤノンの卓上電子計算機——カメラ専業からの脱皮が業界に共通する課題となっていた。名門の日本光学工業も、その流れの外にいられる立場ではなかった[1]。
高級一眼レフの名門でありながら、日本光学の経営指標は一眼レフ大手五社のなかで最低に沈んでいた。多角化の遅れが理由で、複写機のような周辺分野に何度も参入機会がありながら、大きな投資に踏み切る決断を欠いた。篠原彦夫副社長も、その機会を逃したことを自ら認めている。小秋元隆輝社長は「カメラ以外の製品を育てねば、会社の飛躍的な成長は望めない」と危機感を示し、力を注ぐべき分野に半導体産業を挙げた[2][3]。
超LSIが開いた精密光学の新用途
半導体の集積度は64キロビット、256キロビットへと駆け上がり、回路図を光学的に縮小してシリコン上へ焼き付けるステッパーの需要が広がっていた。日本光学は1975年に弥永恭二社長が多角化戦略を打ち出して精機事業部を設け、半導体製造用の高解像度レンズや測定機器へ乗り出していた。そこへ通産省が旗を振り、半導体メーカー五社で結んだ超LSI研究組合が、1976年秋に試作機の製作を委託する。光学ガラスと精密機械の長い蓄積が、そのまま半導体装置の要求と重なった[4][5]。
決断
傍流の技術が生んだ縮小投影露光装置
露光装置の開発を担ったのは、大学や研究機関向けの特注品を手がける精機事業部だった。実戦のリーダーだった吉田庄一郎は、超LSI研究組合からの委託を「単品注文生産を担当する部として、ごくあたり前のように引き受けた」と振り返る。試作機は1978年3月に完成して研究組合へ納まり、光学と精密機械の蓄積を土台に、立ち遅れていた電子技術の壁を越えていった。1980年、日本光学は縮小投影露光装置NSR-1010Gで半導体製造装置に参入し、NEC・東芝への納入を始める。年商100億円規模を見込む先端製品だった[6][7][8]。
消極論を抑えた参入と直販方式
参入は社内で歓迎ばかりではなかった。「まだカメラ分野ですることがあるのでは」「開発投資の割にリスクが大きいのではないか」という消極論が出る。これを抑えて市場へ踏み切ったのは、初代の精機事業部長だった福岡成忠の強引ともいえる決断だった。日本光学は代理店を通さず、装置を大井製作所に据えて半導体メーカーを招き、性能を説き、顧客ごとの要求に合わせて改造して直販した。輸入品のGCAが手薄にしたユーザー密着で、参入からわずかの間に国内トップシェアを握る[9][10]。
結果
「半導体製造装置のニコン」と呼ばれる第二の柱
ステッパーの売れ行きは絶好調で、半導体製造装置は今期売上の二割を超え、対照的にカメラは五割を切る見通しになった。全従業員6300人のうち1400人近くが動く社内の大異動が進み、カメラ事業部から精機事業部へ人が流れる。人員削減ではなく、多角化のための異動だった。日経ビジネスは「高級カメラのニコンから、半導体製造装置のニコンとでも呼ばれそうな勢い」と書き、純利益は最高を記録した[11][12]。
1984年、日本光学は埼玉県熊谷に量産のための新工場を設けた。半導体関連機器の売上高は567億円規模へ拡大し、カメラと並ぶ二本目の柱が立つ。福岡社長は「今では収益力ではカメラ部門をしのいでいる」と語り、この多角化を「もう10年前に始めたこと」として「“多”角化ではなく“太”角化」と言い換えた。傍流の受注部門から生まれた装置が、名門カメラメーカーの業態を組み替えた[13][14]。
- 日経ビジネス 1981年10月19日号「『神話』の輝き薄れた日本光学工業」
- 日経ビジネス 1984年12月24日号「日本光学工業の半導体製造装置 トップシェア獲得、不振のカメラに代わりエースの座へ」
- ダイヤモンド 1964年9月28日号「カメラ業界に低気圧発生!」(ダイヤモンド社)
- ニコン 有価証券報告書【沿革】