創業者・江口新氏の退任とマッキンゼー出身・萩平和巳氏への承継
商号を変えても収益はSIerのままの会社を、創業者は誰に託して上流コンサルへ変えようとしたか
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- 概要
- 2012年3月、ベイカレント・コンサルティングの創業者・江口新氏が社長を退き、マッキンゼー・アンド・カンパニーでBTO日本共同代表を務めた萩平和巳氏(2011年5月入社)へ経営を引き継いだ経営判断である。オーナー創業の会社が外部のプロ経営者を迎えた承継で、2年後のMBOと2016年の上場への橋渡しとなった。
- 背景
- 2006年12月に商号をピーシーワークスからベイカレント・コンサルティングへ改め上流コンサルを志向したが、2012年2月期の売上高101億円に対し経常利益は4.8億円と、利益率は5%に満たなかった。規模は伸びても、稼ぎ方は人月で請けるSIerの構造から抜け出せていなかった。
- 内容
- 江口氏は2011年5月に萩平氏を迎え入れ、10か月後の2012年3月に社長の座を譲った。萩平氏は三菱商事を経てマッキンゼーでITと業務を扱うBTO部門の日本共同代表を務めた人物で、業種別の縦割りを持たず全コンサルタントを案件ごとに割り当てる同社の運営を引き継いだ。
- 含意
- 経営者の交代だけでは収益は立て直せず、2014年2月期は経常赤字に沈んだ。だが萩平体制はSunrise Capital主導のMBOと2016年9月の上場までを担い、創業者が資本と経営の両面から退く道筋を開いた。オーナー企業の承継を外部人材で始めた事例といえる。
創業者が退場の順番を資本より先に選んだ意味
この承継の特徴は、順番にある。オーナー企業の創業者が身を引くとき、多くは株式の売却が先に立ち、経営の引き継ぎは資本の移動に付いてくる。江口氏は逆に、株式を握ったまま経営だけを先に外部へ渡した。入社10か月の萩平氏への交代は、社内に後継を育てる時間を掛けるより、上流コンサルの経営を知る人物を外から迎えるほうが早いという判断とみることができる。2年後のMBOで資本の側が追いついたことを踏まえれば、2012年の交代は退場の第一歩として設計されていたと読める。
一方で、この4年半は外部経営者の限界も示している。萩平体制の業績は増収のまま減益から赤字へ沈み、収益構造の転換は在任中に完成しなかった。同社が高収益へ変わるのは、阿部体制が採用と単価の両輪を回した2017年2月期以降である。それでも、縦割りを持たない人員配置の運営が萩平期に保たれ、後のワンプール制へつながったことを見れば、この承継が果たした役割は業績の数字より、会社の型を壊さずに創業者の退場を進めた点にあったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
商号は変えたが、収益はSIerのままだった
ベイカレント・コンサルティングは、1998年3月に江口新氏が神奈川県藤沢市で設立した有限会社ピーシーワークスを源流とする。2000年6月に株式会社へ改組し、2002年3月に本社を東京都新宿区へ移して首都圏の大企業向け案件を広げ、2006年12月には商号を株式会社ベイカレント・コンサルティングへ改めた。システム構築の請負から、戦略や業務改善といった上流のコンサルティングで稼ぐ会社への転換を掲げた改称であった[1]。
だが、看板の掛け替えが収益構造の変化にすぐ結びついたわけではなかった。江口氏の在任最後の通期にあたる2012年2月期の成績は、売上高101億円に対して経常利益4.8億円、当期純利益3.7億円で、売上高経常利益率は5%に届かなかった。売上の規模は2007年1月時点の求人広告が掲げた「9期連続増収増益」の延長で伸びていたものの、利益率は外資系の上流ファームには遠く、人月で請けるSIer型の採算にとどまっていた[2][3]。
外部から迎えた後継含みの人材
上流コンサルの経営を知る人材は、社内では育っていなかった。2011年5月、同社は萩平和巳氏を迎え入れた。萩平氏は1996年に三菱商事へ入り、2000年10月にマッキンゼー・アンド・カンパニーへ移って、2006年6月からはITと業務の変革を扱うBTO(ビジネス・テクノロジー・オフィス)の日本共同代表を務めた。戦略ファームの内側でITコンサルティング部門を率いた経歴は、SIerから上流へ渡ろうとするこの会社が求める型に重なっていた[4]。
決断
入社10か月での社長交代
2012年3月、江口氏は社長を退き、入社から10か月の萩平氏が代表取締役社長に就いた。創業から14年、株式の大半を握るオーナー創業者が、血縁でも生え抜きでもない外部出身者へ経営を譲る交代であった。当時の同社は非上場で、この交代を伝える同時代の報道はほとんど残っていない。交代の輪郭は、後の上場審査に提出された書類の役員略歴が最も確かな記録である。江口氏は退任後も大株主として会社に残り、資本のうえでの創業者の存在は続いた[5]。
縦割りを持たない運営の継承
萩平氏が引き継いだのは、業種ごとに部門を切らない独特の運営であった。2013年2月に公開された人材会社のインタビューで萩平氏は、「私たちはニュートラルです。戦略策定からIT開発案件に繋げようとしたり、特定のプロジェクトを好むということはありません」と語り、顧客の業種ごとに縦割り・細分化された組織を持たず、プロジェクトごとに社内のコンサルタント全員を対象にメンバーを選ぶ仕組みを同社の特徴として挙げた。後年「ワンプール制」と呼ばれる人員配置の型が、この時期すでに運営の軸に置かれていたことがうかがえる[6]。
結果
交代だけでは利益は立て直せなかった
経営者を替えても、業績はすぐには好転しなかった。萩平体制の最初の通期にあたる2013年2月期は、売上高107億円と増収を保った一方で当期純利益は1億円へ急減し、従業員は846人から776人へ減った。続く2014年2月期は売上高112億円まで伸びたものの、経常損益は5,600万円の赤字へ転じた。増収と減益が並走するこの数字は、単価の安い案件を抱えたまま上流へ移ろうとする転換の途中にある採算を示している[7]。
打開の一手は、資本の側から打たれた。2014年4月に受け皿会社バイロン・ホールディングスが設立され、同年6月にSunrise Capital主導のMBOが成立して、旧会社は投資ファンドの傘下に入った。萩平氏は新会社でも代表取締役社長を続け、承継は経営者の交代から資本構成の組み替えへと段階を進めた。創業者の退任から2年後のことで、外部経営者への承継は、ファンドを交えた再出発の前段になっていた[8]。
萩平氏の在任は、2016年9月の東証マザーズ上場までを担った。上場直前の2016年8月、萩平氏は日本経済新聞のインタビューで「あらゆる業界から応えきれないほど案件をいただいている」とITコンサル需要の強さを語り、上場の狙いを会社の認知度と信用度を高めて競争力につなげることに置いた。だが上場を挟んだ業績は伸び悩み、同年12月に社長の座は野村総合研究所出身の阿部義之氏へ移った。外部から来た経営者の役割は、低収益のSIerをファンドと市場につなぐ4年半の橋渡しで区切りを迎えた[9][10]。