実用自動車製造を設立・自動車に参入
自動車の将来性を見込み久保田権四郎が出資して参入
自動車の普及を予見した久保田権四郎氏は、1919年に出資して実用自動車製造(社長:久保田権四郎氏)を設立した。1920年からクボタの船出町工場で三輪車「ゴルハム式三輪車」の製造を開始し、販売面では東京地区をヤナセ、大阪地区をクボタ本社が担当する体制をとった。会社設立にあたっては外国人技師を雇い入れ、月産50台を生産目標に掲げた。
ところが三輪車はカーブで横転しやすいといった品質不良が続出し、販売は拡大しなかった。外国人技師もすぐに退職し、自動車を構成する部品の品質が安定しなかったため、月産50台の目標に遠く及ばない状態が続いた。鋳鉄管では独力で生産技術を確立した久保田であったが、自動車は多数の部品メーカーとの連携が不可欠であり、部品品質の管理が大きな壁となった。
1923年には四輪車「リラー号」を発売して再起を図ったが、同年9月の関東大震災を契機に米国のGMやフォードが日本市場に本格進出し、品質の高い輸入自動車が支持を集めた。品質面で課題を抱えるクボタの自動車は四輪車でも行き詰まり、国内における自動車普及の恩恵を受けることができなかった。
赤字が続く自動車事業の打開策としてダット自動車と合併
1926年に、東京地区で自動車製造を手がけていたが同じく経営難に陥っていたダット自動車商会と合併し、ダット自動車製造を設立した。新会社の社長には久保田権四郎氏が就任したが、合併後も経営は好転せず、赤字が続く自動車事業の処遇が問題となった。
クボタとしては、実用自動車製造の創立以来の累積赤字を引き継いでおり、外国車との販売競争のなかで早急な事業好転は見込めないと判断した。この時期にクボタは農耕用の小型エンジン「クボタ発動機」の製造を開始しており、本来の鋳物・機械事業に経営資源を集中する方針を固めた。
1931年、新興財閥であった日産財閥が自動車産業への参入を企図し、経営難に陥っていたダット自動車製造の買収を決定した。クボタは日産系の戸畑鋳物に所有株式の一切を譲渡し、自動車製造事業からの撤退を決めた。
日産自動車の源流の一つとして歴史に刻まれた撤退
クボタが手放したダット自動車製造は、日産財閥のもとで再建された。戸畑鋳物の傘下に入ったのち、数回の商号変更および合併を経て、日産自動車として経営されることになる。クボタが断念した自動車事業は、買い手となった日産の手によって日本を代表する自動車メーカーの一つへと発展した。
クボタにとって自動車事業は約12年にわたる赤字事業であり、三輪車から四輪車への転換、ダット自動車との合併と、段階的に打開策を講じたものの、品質とコストの両面で外国車に対抗できなかった。鋳鉄管では独力で技術を確立した久保田であったが、部品の裾野が広い自動車においては、部品サプライチェーンの未成熟という産業構造上の制約を個社の努力で克服することは困難であった。
自動車事業から撤退したクボタは、本来の鋳鉄管と機械事業に資源を集中し、小型発動機を足がかりにのちの農機事業の基盤を築いていった。日産自動車の発足の系譜にクボタが存在する形で記録されており、参入と撤退の経緯は日本の自動車産業史の一節として記憶されている。
関東大震災という思いがけない天災があって、その後は米国の自動車が大量に輸入され、組み立て工場なども設けられるようになると、技術や経験の点からも到底太刀打ちはできず、漸次その経営の規模を縮小するのである。丁度その頃の久保田は、農耕用の小型エンジンを「クボタ発動機」として製造を始めた頃であったので、経営難にあえぐ実用自動車製造でも、その関係部品の下請けや、海軍の舟艇用エンジン制作などの仕事で、細々と命脈をつなぐ窮状であった。(略) 久保田の側では、実用自動車創立以来の赤字を引き継ぎ、熾烈な外国車との販売競争にも打ち勝つ早急な事業の好転は期待できないと判断した。そこで、この際、本来の業務に専念することとなり、同年8月末日に、所有株式の一切を戸畑鋳物に譲渡して、自動車製造事業から手をひたのである。「ダット自動車製造」はその後、戸畑鋳物の傘下に入り、昭和8年には石川島自動車製作所と合併して「自動車工業株式会社」となり、その後も曲折はあるが、現在の日産自動車株式会社の母体となったのである。 しかし、わが国自動車工業の史的展開を語る上では、実用自動車製造株式会社の社名は不滅であり、もしも久保田が手を引くことなく、さらにこの事業に執念を燃やしたと仮定するならば、満州事変以降の機運に乗じて、国産自動車工業の歴史を綴る数ページを変えたかもしれないと思われるのである。
- 実用自動車製造(株)を設立
- 三輪車「ゴルハム式三輪車」の販売開始・横転事故が相次ぎ販売中止へ
- 四輪車「リラー号」を発売
- 実用自動車製造とダッド自動車商会が合併(両社の経営難による集約)
- ダット自動車製造を戸畑鋳物に売却(のちに日産自動車として経営)
鋳鉄管では外国技術なしに7年かけて量産技術を確立した久保田権四郎が、自動車では約12年を費やしても品質問題を解決できなかった。鋳鉄管は自社内で完結する鋳造技術が競争力の源泉であったのに対し、自動車は多数の部品メーカーとの連携が不可欠であり、部品サプライチェーンが未成熟な当時の日本では個社の技術力だけでは対応できなかった。クボタが手放した事業が日産自動車の源流となった点は、撤退判断と買い手の選択が産業史を規定した事例といえる。