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メンテナンスの有料化と継続収益モデルへの転換

1972年実施

なぜ三浦工業は「アフターサービスはタダ」の常識を破り、保守を収益事業に育てたのか

時期 1972
意思決定者 三浦保(社長)
論点 収益モデルと事業構造
概要
1972年、三浦工業の創業者・三浦保社長が、主力の小型貫流ボイラーEH型の投入に合わせ、それまで無料が常識だったメンテナンス(保守)を有料化し、保守を独立採算の収益事業に育てる方針に踏み切った経営判断。営業や代理店の猛反対を押し切り、製品とメンテナンスで継続的に稼ぐモデルを築いた。
背景
免許不要・省エネの小型貫流ボイラーは中小事業所へ広がったが、品質の保証と修理にメーカーが責任を負う必要があり、メンテナンス部門は人件費が重荷だった。当時の業界常識は「アフターサービスには金はもらえない」というものだった。
内容
1972年にメンテナンスの有料化(販売時に3年契約・販売価格の7〜10%)を打ち出し、1973年にメンテナンス本部を設置、1974年には出張所を一気に11カ所新設した。営業約25%・メンテナンス50%の粗利益率を重んじるノルマと成果配分の人事で「利益が出ない商売はしない」を徹底し、1988年には電話回線で24時間監視するオンラインメンテナンスへ発展させた。
含意
オイルショックの省エネ志向も追い風となり、全国に張りめぐらせたサービス網が収益源へと転じた。小型ボイラー市場で1981年に約3割、1991年には約5割のシェアを握るガリバーとなり、保守網は医療機器など脱ボイラー多角化の足場にもなった。
筆者の見解

「満足を売る」を収益に変えた逆張り

この判断の核心は、製品の安売り競争に陥らないために、形のない保守を継続的な収入へ作り替えた点にある。三浦保は後年、高性能・高効率の製品を作るだけでは価格競争になりかねないが、保守は顧客に安心や信頼を売る商売だと語っている。故障対応のためのユーザー回りから生まれた現場発の着想を、社内の猛反対を押し切って事業のしくみへ組み込んだ。「アフターサービスはタダ」が常識だった時代に、あえて保守を有料で売る逆張りを選び、軌道に乗るまでの4〜5年を耐えたことが、その後の高シェアと高収益を支えた。

全国に保守の拠点を早く築いたことは、技術の差がつきにくい小型ボイラーで、後発の大企業の参入を退ける障壁となった。川重冷熱工業の乾・営業本部副本部長が「各社の小型ボイラーを比較しても技術的な差はない」、シェアをとれない理由は「営業力の差」と語ったように、勝敗を分けたのは製品そのものより、売った後の関係をどう収益と信頼に変えるかという設計だった。規模や価格を競うのではなく、保守という継続的な接点を早くから収益の柱に据えた三浦工業の選択は、月々の利用料で稼ぐ今日の事業モデルにも通じる視点を、1970年代に示している。

Yutaka Sugiura, 2026年6月

背景

精米機メーカーから小型貫流ボイラーへ

三浦工業の母体は、1927年に愛媛県松山市で精麦・精米機の製造販売として生まれた個人経営の三浦製作所である。家業を継いだ三浦保は、終戦後に妻を含む5人で会社を立て直すと、石炭が燃料の主流だったボイラーについて「やがて石油の時代になる」と読み、自動制御の小型ボイラーを自ら開発して石油ボイラーへ進んだ。免許不要・省エネ・省スペースという小型貫流ボイラーの長所を掲げ、ボイラー技師の免許がいらない分野として、1事業所あたり従業員100人程度までの食品加工・繊維・クリーニング業者を主な売り先に開拓していった[1][2]

「タダが常識」だったメンテナンス

免許不要を売り物にするほど、品質の保証といざという時の修理にメーカーが責任を負わねばならず、三浦工業は社内にメンテナンス部門を抱える方式をとった。だが当時のボイラー業界では「アフターサービスには金はもらえない」という考えが常識で、保守に人を割いても人件費が負担となるばかりだった。社内でもメンテナンス部門は営業成績に直結せず、士気の低下が目立っていた。小型貫流ボイラーの特色を強調するほど保守が大切になるのに、その費用の問題とうまくかみ合わない状態が続いた[3]

決断

「保守を有料で売る」という賭け

1972年、三浦保社長は、貫流ボイラーの主力となるEH型の投入に合わせ、ユーザーから保守の費用を受け取る方針を打ち出した。販売時に3年契約を結び、取り扱い方法の指導、定期修理、その間の部品交換、契約終了時のオーバーホールを一組にして、30万円前後(販売価格の7〜10%程度)を受け取るしくみである。それまで保守をほぼタダとしてきた発想を180度転換するもので、当時の三浦工業は年商30〜40億円の規模、保守の有料化を主力商品に組み込むのは大きな賭けと受け止められた。価格が上がるうえに保守料まで取るという方針に、営業や代理店から猛反対が起きた[4][5]

反対を押し切った三浦社長は、1973年にメンテナンス本部を設け、翌1974年には営業と保守を担う出張所を一気に11カ所も開いた。ねらいは、増える人件費を有料化でまかない、同時にメンテナンス部門を独立採算とすることで、保守を担う社員のやる気を引き出すことにあった[6][7]

ノルマと人事で「利益の出る商売」を徹底

保守を収益事業として根づかせるため、三浦工業は粗利益率を重んじる人事を敷いた。営業担当者は約25%、メンテナンス担当者は50%の粗利益率の確保を目安とし、値引きで売上を作っても評価しない。白石省三社長は「利益が出ない商売は、なにもしないのと同じ」と言い切り、ボイラー事業を統括する吉成専務も、粗利益率が一桁にとどまる案件はほとんど断ると語った。査定を5段階に分けて賞与に2割以上の差をつけ、主任2年・係長/課長3年・部長4年という任期制で役職者も縛る、徹底した実力主義をとった[8][9]

保守は技術の進歩とともに姿を変えた。三浦工業は1988年にコンピューターを積んだボイラーを開発し、電話回線を使って24時間態勢で監視し、異常があればただちに連絡して修理する新しいサービスを始めた(有価証券報告書は、このオンラインメンテナンス業務の開始を1989年2月とする)。1991年の時点で全ユーザーの約2割にあたる2500件がこのサービスを利用し、全社員の3分の1強にあたる約500人を全国のメンテナンス要員として配置していた[10][11]

結果

オイルショックを追い風にガリバーへ

有料の保守と販売がかみ合って軌道に乗るには4〜5年を要したが、オイルショックがその追い風となった。燃料費の高騰で省エネ・省力への意識が高まり、点火から圧力が上がるまでが短く設置面積も小さい貫流ボイラーの効率が評価され、「メンテナンス費用を払ってもトータルコストは安い」という見方が広がった。1981年には、三浦工業は小型貫流ボイラー市場(約200億円)で30%のシェアを握り、保守の契約件数は8000件に達した。従業員600人余りの3分の1近くがメンテナンス要員で、利益のおよそ3分の1を保守事業が稼ぐ構造ができていた[12]

全国に張りめぐらせた保守網は、まもなく後発の大企業を退ける参入障壁となった。1991年の時点で三浦工業は小型ボイラー市場の約5割を占めるガリバーとなり、年約500億円・数十社がひしめく産業用ボイラー市場で、川崎重工業や石川島播磨重工業などの大企業を抑えてシェア1位に立った。ユーザーが増えるほど保守収入が積み上がり、まとまった量の生産で部品の内製化が進んでコストが下がる——その低コストがさらに価格競争力を強める循環が回り始めた。同業のライバルメーカーの渡辺社長は「メンテナンス網の展開で差をつけられているのが痛い[14]」と認めている[13]

育てた保守網は、ボイラー以外への多角化の足場にもなった。三浦工業は1977年に蒸気を使った自動滅菌器を開発し、全国の営業・サービス網に乗せて医療機器分野へ乗り出した。形のない保守をボイラー以外の機器にも広げる構想は、のちのメディカルや水処理といった事業の下地となった[15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号「小型ボイラーで20%成長の三浦工業」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1991年11月18日号「三浦工業。ノルマとメンテで稼ぐ小型ボイラーの巨人」(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号「有訓無訓・三浦保(三浦工業会長)先見性と早耳は違う」(日経BP社)
  • 三浦工業 有価証券報告書【沿革】