古河電工の創業経緯
鉱山王・古河市兵衛が、1884年買収の足尾銅山の電気銅加工先として、1896年6月に雨宮敬次郎ら横浜の実業家と資本金30万円の横浜電線製造を花咲町に設立。第一次大戦下の銅線需要拡大を受け、1920年4月に古河鉱業の電線部門と統合、古河電気工業を独立させた。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 古河市兵衛は1832年に京都で盛岡藩士の家に生まれ、小野組の番頭として生糸貿易と鉱山経営の実務を担った。1874年の小野組破綻で独立を余儀なくされ、第一国立銀行頭取の渋沢栄一の個人保証で旧小野組所有の草倉銅山経営を1875年に引き継ぎ、1881年に院内銀山・阿仁銅山の払い下げを受け、1884年に栃木県の足尾銅山を5万円で買収して鉱山事業の主軸を据えた。
- 足尾銅山は1885年の鷹の巣坑、1886年の横間歩大直利と相次ぐ大鉱脈発見で日本最大の銅山へ成長し、最盛期の1890年代後半には年産銅5,000トン超で国内産銅の40%以上を占める量産体制を築いた。電力・通信インフラ整備で銅線需要が急増する局面を受け、1896年6月、市兵衛は雨宮敬次郎ら横浜の実業家と共同で資本金30万円の横浜電線製造株式会社を神奈川県横浜市花咲町に設立し、銅加工部門に進出した。
- 一方で1890年から渡良瀬川下流の農民が足尾銅山の鉱毒被害を県庁に請願し、1891年12月に衆議院議員の田中正造が質問書を提出、1900年2月の川俣事件で社会問題化した。古河側は1893年の大煙突・1894年の脱硫塔・1897年からの第二次予防工事と対応を重ね、1907年には政府が下流の谷中村を渡良瀬遊水地として強制廃村する事態に至り、鉱毒対応費用は以後数十年の経営課題となった。
- 1903年に市兵衛が71歳で没し、養子の古河虎之助が古河家を継承して古河鉱業の経営を主導した。1905年に古河鉱業合名会社が横浜電線製造の経営権を取得、第一次世界大戦期の銅線需要拡大を受けて、1920年4月に古河鉱業から日光電気精銅所と電線製造部門を分離独立、横浜電線製造と統合して資本金2,000万円の古河電気工業株式会社が発足、戦後1949年5月の東京証券取引所上場で公開企業として再出発した。
古河市兵衛は鉱山業を起点に銅の採掘・製錬・加工を一体運営する垂直統合戦略を採り、1896年に銅加工部門として横浜電線製造を設立した。1903年没後は養子の古河虎之助が事業を継承し、1920年4月に古河鉱業から電線部門を分離独立させて古河電気工業を発足、鉱業と加工業を並列する古河財閥の二本柱構造を整えた。
1875年の古河鉱山発足は渋沢栄一の個人保証で旧小野組所有の草倉銅山経営を引き継ぐ形を採り、1884年の足尾銅山買収は5万円の自己資金で実行された。1896年6月の横浜電線製造は資本金30万円で発足、1920年4月の古河電気工業設立時には資本金2,000万円を計上、1949年5月の東京証券取引所上場で公開企業の資金調達基盤を整えた。
創業期の主力は足尾銅山の電気銅で、1890年代後半には年産5,000トン超に達して国内産銅の40%以上を占めた。1896年からは横浜電線製造で銅線・電線の量産を開始、1920年の古河電気工業独立後は電気銅生産から電線製造までを一貫して手がけ、戦前期に電力ケーブル・通信ケーブル・電装品へと製品レンジを広げた。
創業期の電気銅は国内外の電線メーカー・伸銅業者が主要顧客となった。1896年以降の電線部門は東京電燈ほか電灯事業者、逓信省管轄の電信・電話網、軍需用電線需要を取り込み、第一次世界大戦期の銅線価格高騰で収益基盤を強化した。戦後は電力会社・通信事業者・重電メーカーを軸に顧客基盤を再編した。
1884年の足尾銅山買収時の鉱山労働者は数百名規模で、最盛期の1890年代後半には足尾の坑夫・製錬工が1万人を超えた。1896年6月の横浜電線製造発足時は数十名の体制から出発し、1920年4月の古河電気工業独立時には電線製造と精銅所を合わせて数千名規模、戦後1949年の上場期には1万人前後の総合非鉄メーカーに拡大した。
1884年の足尾銅山に米国製削岩機・ベッセマー転炉・電気精錬法を相次いで導入、1893年に大煙突、1894年に脱硫塔を設置した。1896年に横浜花咲町の電線製造所と本所横川の古河鉱業電線製造所を開設、1920年に日光電気精銅所を古河電工に組み入れ、1921年に九州事業所、1938年に大阪事業所を新設して戦前期の拠点配置の骨格を築いた。
古河電工 創業地の主な拠点全国 の地理(古河鉱山(草倉銅山) → 古河電気工業九州事業所)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1875〜1884年 なぜ古河市兵衛は鉱山業を出発点としたのか? | 京都の豪商小野組の番頭として生糸貿易と鉱山経営の実務を担っていた古河市兵衛が、1874年の小野組破綻で独立を余儀なくされ、第一国立銀行頭取の渋沢栄一の保証で旧小野組所有の草倉銅山経営を引き継いだことを足場に、銅山経営者として再出発した。 古河市兵衛は1832年に京都の盛岡藩士の家に生まれ、若くして京都の豪商小野組に番頭として勤め、生糸貿易・鉱山経営の実務を担った。明治維新後の1872年には小野組の鉱山部門責任者として新潟県の草倉銅山を経営し、銅山経営の知見を蓄えた。 1874年11月、小野組は政府への担保不足で破綻し、市兵衛は43歳で独立を余儀なくされた。第一国立銀行頭取の渋沢栄一が個人保証に立ち、旧小野組所有の草倉銅山の経営権を市兵衛に引き継ぐ形で1875年に古河鉱山が発足、市兵衛は鉱山業者として再出発した。1877年には草倉銅山の本格操業に踏み切り、1881年に院内銀山(秋田県)と阿仁銅山の払い下げを受けて経営規模を拡張、1884年には栃木県の足尾銅山を5万円で買収して鉱山事業の主軸を据えた。 |
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| 1884〜1890年代 なぜ足尾銅山が古河の基幹資産になったのか? | 1884年に5万円で買収した足尾銅山が、1885年に新坑「鷹の巣坑」、1886年に「横間歩大直利」と相次ぐ大鉱脈の発見で日本最大の銅山に成長し、最盛期には国内産銅の40%超を占める量産体制を実現したため、古河家の事業基盤が鉱山収益で確立した。 足尾銅山は江戸期に幕府直轄の銅山として栄えたが、明治初年には産銅量が落ちて休山状態に近く、市兵衛は1884年に旧オランダ商人ジョン・パブストから5万円で買収した。買収直後の1885年に新坑「鷹の巣坑」が、1886年には「横間歩大直利」と呼ばれる大鉱脈が相次いで発見され、足尾は日本最大の銅山へ転じている。 最盛期の1890年代後半には足尾の年産銅は5,000トンを超え、国内産銅の40%以上を占める量産体制が築かれた。市兵衛は採鉱・選鉱・製錬の各工程に当時の最新技術を導入し、米国製の削岩機・ベッセマー転炉・電気精錬法を相次いで採用した。鉱山収益で財閥本体の資本蓄積が進む一方、産出された電気銅の販売先確保が次の経営課題となり、銅の加工部門への進出が経営の俎上に上っていった。 |
| 1896年6月 なぜ1896年に横浜電線製造の設立に動いたのか? | 足尾銅山の電気銅産出が量産期に入り、国内の電力・通信インフラ整備で銅線需要が急増する局面で、銅の加工先を社内に持つ垂直統合が経営課題となり、市兵衛が雨宮敬次郎ら横浜の実業家と共同で資本金30万円・横浜花咲町に電線製造専業会社を設立して銅加工部門に進出した。 1880年代後半から1890年代にかけて、日本では電灯事業の本格化と電信・電話網の整備で銅線需要が急増した。1887年の東京電燈による白熱電灯供給開始、1890年の東京〜横浜間電話開通など、電力・通信インフラの整備が銅加工市場を立ち上げる時期にあたる。 古河家は足尾銅山の電気銅を国内外の電線メーカーに販売していたが、銅の加工先を社内に取り込む垂直統合の必要が経営課題となった。1896年6月、市兵衛は雨宮敬次郎ら横浜の実業家と共同で資本金30万円の横浜電線製造株式会社を神奈川県横浜市花咲町に設立し、銅線・電線の量産に踏み切った。同年9月には東京府本所区横川に古河鉱業会社直営の電線製造所も開設しており、横浜と東京の二拠点で銅加工事業を立ち上げる構図となった。横浜電線製造は後年に古河系に取り込まれ、現在の古河電気工業の創業起点として有価証券報告書沿革に記録されている。 |
| 1890〜1903年 なぜ足尾鉱毒事件が古河家の経営課題となったのか? | 足尾銅山の製錬工程から排出される亜硫酸ガスと鉱毒水が、渡良瀬川下流の栃木・群馬の農地に被害を及ぼし、1890年から地元農民の請願が始まり、1891年に田中正造が衆議院で問題を提起、1900年の川俣事件で社会問題化したため、古河家は鉱毒予防工事と被害補償の対応を継続的に迫られた。 1890年8月、渡良瀬川の大洪水を契機に栃木・群馬両県の下流域農民が、足尾銅山の鉱毒による農作物被害を県庁に請願した。1891年12月、衆議院議員の田中正造が「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を衆議院に提出し、鉱毒被害の調査と防止策を政府に求めた事実が議事録に残る。 古河側は1893年に第一次予防工事として大煙突の設置、1894年に脱硫塔の設置を進め、1897年5月に政府の鉱毒予防命令を受けて第二次予防工事に着手した。1900年2月の川俣事件では下流農民の請願団と警官隊が衝突し、被害農民の運動が社会問題として広く報じられた。市兵衛は1903年に71歳で没するまで予防工事と補償の対応に追われ、1907年には政府が下流の谷中村を渡良瀬遊水地として強制廃村する事態に至っている。鉱毒対応の費用と社会的負担は古河家にとって以後数十年にわたる経営課題となった。 |
| 1920年4月 なぜ1920年に古河電気工業として独立法人化されたのか? | 第一次世界大戦下の電線需要拡大と電気銅価格の高騰を背景に、古河鉱業の電線製造部門と1905年に古河系に取り込んだ横浜電線製造を統合して独立法人化する経営判断が下り、1920年4月に古河鉱業から日光電気精銅所と電線製造部門を分離して資本金2,000万円の古河電気工業株式会社が発足、電気銅生産から電線製造までを一貫して手がける体制が整った。 1903年に古河市兵衛が71歳で没した後、養子の古河虎之助(1887年生)が古河家を継承し、古河鉱業の経営を主導した。1905年に古河鉱業合名会社が横浜電線製造の経営権を取得し、銅加工部門を実質的に古河系の事業として運営する体制が整った。第一次世界大戦(1914〜1918)期には軍需と電力需要で銅線価格が高騰し、古河の電線部門は急速な収益拡大を享受している。 1920年4月、古河虎之助の判断で古河鉱業から日光電気精銅所(電気銅生産拠点)と電線製造部門を分離独立させ、横浜電線製造と統合する形で資本金2,000万円の古河電気工業株式会社が発足した。これにより、足尾銅山の鉱業収益を担う古河鉱業と、電気銅から電線までの加工収益を担う古河電工が、古河財閥の中で並列する2本柱となる事業構造が確立した。1921年12月には九州電線製造を買収して九州事業所を設置、1938年11月には大阪伸銅所を新設、戦後1949年5月の東京証券取引所上場と1950年9月の古河電池分離独立を経て、戦後復興期の非鉄金属総合メーカーへの基盤が整えられた。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1891年12月、衆議院議員の田中正造が足尾銅山の鉱毒被害について政府に調査と防止策を求めた質問書の表題、鉱毒問題が国会で正式に取り上げられた起点として議事録に残る
「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」
1897年5月、政府が古河鉱業に対し足尾銅山の鉱毒予防工事を命じた行政命令、古河側はこれを受けて第二次予防工事に着手した
「鉱毒予防命令」
古河電工の有価証券報告書沿革に記録された創業1896年の銅加工部門進出が、後年の2001年OFS買収まで続く同社の事業拡張の起点として位置づけられる文脈
「国内の市場関係者からは「割安で買収できた」」
古河市兵衛の銅加工垂直統合戦略を起源とする古河電工が、創業から105年後にあたる2001年に銅線から光ファイバへの主力転換を打ち出した古河家5代目当主の発言
「当社が狙っている光関連部品事業は、とてつもない潜在力を秘めている。どんな国でも今さら銅線は使わず、全部光ファイバーで通信回線を作るようになる。」
参考文献
- 古河市兵衛翁伝 1926
- 古河鉱業社史
- 有価証券報告書
- 古河電気工業 50年史 1953
- 衆議院議事録 1891/12
- 古河電気工業 100年史 1991
- 農商務省告示 1897/5
- 日経ビジネス 2001/10/8