JTオカムラ設立——たばこ工場を机工場へ転用した異業種合弁
工場を新設するか、遊休工場を借りるか——需要急増下の生産能力をどう手当てしたか
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- 概要
- 1988年9月、岡村製作所が日本たばこ産業(JT)・関西岡村製作所との共同出資で株式会社JTオカムラを設立し、遊休化していた日本たばこの高梁工場(岡山県高梁市)を従業員ごとスチール机の工場へ転換した経営判断。資本金4億9000万円で、出資比率は岡村グループ49%・日本たばこ51%。工場を新設せず既存工場を転用することで、需要急増下の生産能力を短期間かつ安上がりに手当てした。
- 背景
- 1986年ごろからオフィス家具の需要は毎年前年比2割以上のペースで増え、岡村製作所は生産能力の増強を迫られていた。1977年の横浜戸塚工場稼働以降は新工場を建てておらず、1985年の富士工場増設でも間に合わなかった。一方、民営化後の日本たばこは工場再編で高梁工場が遊休化し、転換の受け皿を探していた。
- 内容
- 3年前まで年120億円の紙巻きたばこを生産していた高梁工場を、従業員も含めて丸ごと机工場に変えた。初期投資は出資分の2億4000万円が中心で、交渉開始から生産開始まで1年足らず。設立を主導したのは当時常務の吉原尚文氏で、後にこれを「第2の創業」と位置づけた。
- 含意
- 1990年10月には予定より5年早くスタート時の損失を一掃し、日本たばこの工場転換事業で最初に黒字化した成功例となった。この成功を踏まえ1991年には新日本製鐵とも同種の合弁を組んだ一方、一定の生産量を保証する合弁は、需要が細れば生産調整をしにくいという弱さも抱えた。
借りる工場という選択
この判断の面白さは、生産能力の増強という重い課題を、自前の工場建設ではなく他社の遊休設備の転用で解いた点にある。需要が毎年2割で伸びるさなかに、工場を一から建てていては波に乗り遅れる。岡村製作所は、民営化で余った日本たばこの工場と、そこで鍛えられた従業員を丸ごと引き受けることで、時間と資金の両方を節約した。たばこ工場が机工場に変わるという意外な組み合わせは、異業種どうしが互いの不足を埋め合う合弁の一つの理想形を示したとみることができる。
ただし、他社と組んで速さを買う取引には、対価がついてまわる。生産量の保証は、好況では安定を、不況では硬直をもたらす。岡村製作所はその後もタイや新日鉄との合弁を相次いで設けており、成長期の生産手当てとしては理にかなっていた。市場が反転したときに、合弁の相手と従業員をどう扱うか——即戦力を借りる経営がほんとうに試されるのは、需要が伸びているときではなく、細ったときであるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
追いつかない生産能力
1980年代後半のオフィス家具市場は、旺盛なオフィス投資に支えられて急速に膨らんでいた。1986年ごろから需要は毎年前年比2割以上のペースで増え、岡村製作所・コクヨ・イトーキの上位3社が10数%ずつのシェアを分け合って競っていた。ところが岡村製作所は、1977年に横浜戸塚工場を稼働させて以降、新しい工場を建てていなかった。1985年に富士工場を増設したものの、伸び続ける需要には到底追いつかず、生産能力の増強が急務となっていた[1]。
手当ての機会は、思わぬ相手からもたらされた。民営化を経た日本たばこ産業は、工場の再編で高梁工場(岡山県高梁市)が遊休化しつつあった。1987年、日本たばこの本社から、高梁工場のリストラの一環としてOA机を生産したいので指導してほしい、との要請が岡村製作所に寄せられた。当初、日本たばこは合弁にする発想を持たず自社だけで軌道に乗せようとしていたが、進めるうちに自社だけでは事業化がスムーズに運ばないことがわかり、岡村との合弁案が浮上した[2]。
決断
工場を建てずに、たばこ工場を机工場へ
1988年9月、岡村製作所は日本たばこ産業・関西岡村製作所との共同出資で株式会社JTオカムラを設立した。資本金は4億9000万円、出資比率は岡村グループが49%、日本たばこが51%である。3年前まで年120億円の紙巻きたばこを生産していた高梁工場を、従業員も含めて丸ごとスチール机の工場へ転換した。1988年10月に机の生産を始めた当初は1ラインだったが、1990年10月にラインを拡充して机の生産へ全面的に切り替えた。作られた机はすべて岡村製作所に納入された[3]。
既存の工場を丸ごと使う方式は、経費でも立ち上げの速さでも自社建設に勝った。工場を新たに建てればこの金額では済まず時間もかかるところを、岡村側の初期投資は出資分の2億4000万円が中心にとどまり、交渉開始から生産開始まで1年足らずで済んだ。しかも、たばこという品質管理の厳しい製品を作ってきた従業員は覚えが早く、一流企業で鍛えられた即戦力をそのまま引き継げた。設立を積極的に主導したのは、後に社長へ就く当時常務の吉原尚文氏で、現地に足を運んで交渉にあたり、この事業を「第2の創業」と位置づけていた[4]。
結果
即戦力を得た成功と、合弁ゆえの重さ
転換は早々に実を結んだ。JTオカムラは1990年10月、予定より5年も早くスタート時の損失を一掃し、1991年3月期の売り上げは35億円に達した。日本たばこが余剰工場の転換促進として進める生産技術多角化事業のなかで、黒字化を最初に達成した成功例となった。従業員194人のうち160人はたばこ工場時代からの日本たばこ出向者だったが、岡村での研修で不安を取り除いた結果、定着してJTオカムラができてから辞めた人は5〜6人にとどまった。この成功を踏まえ、岡村製作所は1991年10月、新日本製鐵・関西岡村とも同種の合弁エヌエスオカムラを設立した[5]。
もっとも、合弁という形には構造的な弱さもひそんでいた。1991年に入るとオフィスの着工床面積が前年比で減少へ転じ、市場は追い風から逆風へ変わりつつあった。合弁会社は一定の生産量の保証を前提とするため、需要が細っても生産を減らしにくい。岡村の幹部も「一定の生産量の保証が前提になっており、生産を減らすことは難しい」と打ち明けていた。市場が伸びるあいだは強い味方でも、製品がだぶつけば岡村本体と合弁会社の従業員の利害が対立しかねない——即戦力の代償として、身軽さを一部手放す取引でもあった[6]。
- 日経ビジネス 1991年9月2日号「岡村製作所 たばこ工場が机工場に 即戦力得る異業種合弁」
- 岡村製作所 会社年鑑(単体業績)