八幡製鐵と富士製鐵が合併・新日本製鐵を発足
1960年代の鉄鋼大手6社による過当競争と再編機運
1960年代の鉄鋼業界では八幡製鐵・富士製鐵・日本鋼管・川崎製鉄・住友金属工業・神戸製鋼の大手6社が高炉を複数備える製鉄所の新設競争を展開しており、各社が生産能力を拡大した結果として過当競争の懸念が高まっていた。1966年7月に富士製鐵の永野重雄社長は「東西二大製鉄論」を提唱し、国内の鉄鋼メーカーを東西2グループに集約する構想を通じて、業界再編に対する世間の反応を探る布石を打った。なお、富士製鐵と八幡製鉄は戦時中まで「日本製鐵」として一体経営されており、戦後にGHQの指令により会社分割された経緯があった。
1968年4月16日、毎日新聞が1面トップで「八幡・富士鉄合併へ」「両社長が基本的に合意」と報道し、鉄鋼業界の売上高トップ2社による合併構想が公の場に表面化した。公式発表に先立つスクープ報道の形をとったが、この報道を受けて富士製鐵の永野重雄社長と八幡製鉄の稲山嘉寛社長は合併に向けた本格的な調整を開始した。同月21日には両社が公正取引委員会に合併趣意書を提出し、両社を合算した鉄鋼のシェアが35%であることをもって寡占には該当しないとの見解を示した。
経済学者90名の反対と公取委の差し止めを経た合併認可
1968年6月15日、内田忠夫氏ら近代経済学者90名が「大型合併についての意見書」を公正取引委員会に提出した。署名者のうち86名が合併に対して懸念を表明する内容であり、独禁法が目指す競争維持政策の観点から合併に異議を唱えた。さらに1969年5月には公正取引委員会が東京高裁に対して合併差し止めの緊急停止命令を申し立て、鉄鋼全般のシェアは30%台であるものの鉄道用レールなど一部品目で寡占が形成されるとの判断から、合併手続きは暗礁に乗り上げた。
1968年8月、自民党経済調査会は「現行独禁法体制の中間報告書」を公表し、現行の独禁法が終戦直後の占領期に策定されたものであり、資本自由化の進行や巨大な世界企業の出現といった新事態に適合しないとして法改正を示唆した。同報告書は公正取引委員会の法運用を「閉鎖的」と批判し、富士製鐵と八幡製鉄の合併を支持する与党としての姿勢を鮮明にした。こうした政治的圧力を経て、1969年10月に公正取引委員会は「同意審決書」を提示して合併を認可するに至った。
粗鋼生産量で世界首位となる新日本製鐵の発足と経営体制
1970年3月31日、富士製鐵と八幡製鉄の合併が成立し、新日本製鐵株式会社が発足した。粗鋼生産量で世界首位となる鉄鋼メーカーが誕生し、従業員数は8万2000名に達した。国内においては銑鉄生産量でシェア44%、粗鋼でシェア35%を占め、国内鉄鋼業における圧倒的な首位企業となった。経営体制は、会長に永野重雄氏(旧富士製鐵社長)、社長に稲山嘉寛氏(旧八幡製鐵社長)が就任し、副社長6名・専務取締役6名・常務取締役14名・取締役12名で構成された。
一連の合併審議の過程で、公正取引委員会の山田精一委員長は1969年11月に辞任した。山田氏は辞任の理由について一切語ることなく1991年に逝去しており、合併審査が公取委の組織運営に与えた影響の大きさを物語っている。また、近代経済学者90名が署名した反対意見書が提出されたにもかかわらず合併が実現に至ったことにより、戦後の産業政策において経済学者が持っていた政治的影響力が相対的に低下したことを示す転換点として、本合併は位置づけられることとなった。
| 時期 | 売上高 | 粗鋼シェア |
|---|---|---|
| 八幡製鐵 | 3,708 | 18.8 |
| 富士製鐵 | 3,107 | 17.2 |
| 日本鋼管 | 2,798 | 11 |
| 川崎製鉄 | 2,092 | 10.8 |
| 住友金属工業 | 2,204 | 10.6 |
| 神戸製鋼所 | 1,972 | 5.5 |
| 事業所名 | 所属 | 従業員数 | 投下資本 | 備考 | 稼働年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 八幡製鐵所 | 旧八幡製鐵 | 22,699名 | 1,573億円 | 高炉あり | 1901年 |
| 名古屋製鉄所 | 旧八幡製鐵 | 8,518名 | 1,819億円 | 高炉あり | 1961年 |
| 光製鉄所 | 旧八幡製鐵 | 3,092名 | 213億円 | 1955年 | |
| 堺製鉄所 | 旧八幡製鐵 | 3,431名 | 896億円 | 高炉あり | 1961年 |
| 君津製鉄所 | 旧八幡製鐵 | 3,819名 | 1,644億円 | 高炉あり | 1965年 |
| 室蘭製鉄所 | 旧富士製鐵 | 7,843名 | 484億円 | 高炉あり | 1909年 |
| 釜石製鉄所 | 旧富士製鐵 | 4,761名 | 180億円 | 高炉あり | 1857年 |
| 広畑製鉄所 | 旧富士製鐵 | 10,588名 | 576億円 | 高炉あり | 1939年 |
| 大分製鉄所 | 旧富士製鐵 | 計画中 | 1971年(予) |
1966年7月に東西2大製鉄論を唱えてみたが、実は八幡との合併を頭においてのことだった。八幡・富士合併という代わりに、二大製鉄という言葉を使ってみたのだ。鉄鋼の設備調整は年中行事のように揉める。そして、片端から高炉を建てて市況は下がる。なんとかしなくてはならないという気持ちから発言した。世間がどんな反応を示すかみてみたかったのだ。(略) (注:戦時中の)日鉄当時、同じカマのメシを食った連中が大勢いる間でないと合併はできない。私か、稲山くんのどちらかが欠ければ、この合併はできなかっただろう。
館竜一郎、小宮隆太郎、内田忠夫、建元正弘氏ら現役で活躍中の近代経済学者90人が八幡・富士など最近の大型合併に反対する意見書を発表。合併の当事者ばかりでなく、政府、財界、公正取引委員会など各方面に波紋を呼んでいる。 意見書は合併に反対という言葉こそ使っていないが、その内容やアンケートの結果はきびしい批判で貫かれている。そして最も強調しているのが「企業間の競争は戦後の日本経済発展の原動力の役割を果たしてきたが、もし仮に独禁法を変更あるいは有名無実化して競争を制限したり、私的独占を認めるならば、日本経済の原動力がついには衰退し、今後の健全で民主的な発展は重大な障害に直面する」と警告、日本経済の将来に危機感を強めている。(略) 政府、財界あるいは政府諮問機関から出てくる意見は全て合併支持一色というわけだが、これでは大型合併が日本経済の将来に及ぼす重要性と、公取委の公正な判断を誤らす恐れが強いため「やむに止まれず行動を起こした」と、世話人たちは意見書発表に至った動機を語っている。
(1)企業の自由公正な競争理念を基礎として、日本経済の民主化と発展にこれまで貢献した役割は勿論評価すべきではあるが、 (2)他面、社会経済の実態および国際的環境が著しく変化した今日、資本自由化の進行、巨大な世界企業の出現、広汎な技術と産業力の総合を必要とするいわゆるシステム産業育成の必要性など、新事態に対応して、現行法の体制には多くの不備を生じていることは看過し得ないものがある。 (3)したがって、現行独禁法の体制をこのまま維持するときは、新しい時代の要請に適応しようとするわが国産業構造の新編成と今後の経済発展に障害となることが憂慮される。(略) 法の運用が公正取引委員会の閉鎖的判断に委ねられる場合が多いことは、重要な産業経済の指導指針が時として公正取引委員会の硬直的見解に左右されることとなり、国政上も問題があるのでこの建前は是正されなければならない
戦後の経済問題で、八幡・富士合併ほど天下の耳目を集めた事件は少ない。昭和43年4月、稲山・八幡、永野・富士鉄社長が合併への意思表示を行なってから、合併の可否、あるいは独禁法の運用をめぐって世論は沸騰し、学者の論戦は火花を散らした。 財界は、この合併を通じて独禁法に挑戦し、産業再編成、大型合併、寡占経済移行の突破口にしようとすれば、政府は国際化時代における本格的な世界企業の誕生を歓迎する閣議申し合わせを行うなど、慰霊の支援態勢を取った。 一方、近代経済学者グループは、この合併実現が、独禁法の目指す競争維持政策にとどめを指し、日本経済の健全な成長力を損なうとして反対運動に立ち上がれば、公取委労組もまた独禁法番人の使命感から、独禁法の厳正運用を公正取引委員会に申し入れるといった、これまた異例の動きを見せた。マンモスの威力に恐れをなす中小企業の懸念や、巨大産業による管理価格の発生を恐れる消費者の声が、これらの間に交錯した。
- 富士製鐵の永野社長が「東西二大製鉄論」を提唱
- 毎日新聞が富士・八幡製鐵の合併構想をスクープ報道
- 近代経済学者が独禁法に抵触すると意見表明
- 公取委が「合併差し止め」を命令
- 自民党が公取委を批判・現行独禁法体制の中間報告書を提出
- 公取委が「同意審決書」を提出・合併認可へ
- 公取委の山田委員長が引責辞任
- 八幡製鐵と富士製鐵が合併・新日本製鐵を発足
八幡製鐵と富士製鐵の合併は、戦後の独禁法体制下における最大規模の合併審査事例となり、近代経済学者・公正取引委員会・与党自民党の三者が対立する構図を生んだ。合併が認可された背景には、自民党経済調査会による独禁法改正の示唆という政治的介入が存在した。本合併は国内鉄鋼再編の起点であると同時に、産業政策の意思決定における経済学者の発言力が後退した転機ともなり、その後の日本における独禁法運用の方向性を規定する前例を形成した。