主原料を小麦から芋へ移し、カルビーポテト設立で原料調達を内製化した垂直統合

全国流通を掴んだ小麦菓子の量産メーカーは、なぜ原料調達網ごと芋の装置産業へ踏み込んだか

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時期 1980年10月
意思決定者 松尾孝 社長
論点 主原料の転換と原料調達網の自社構築
概要
1973年から1980年にかけて、カルビーは主原料を小麦からじゃがいもへ移し、1980年に子会社カルビーポテトを設立して原料調達を自社に取り込んだ。契約農家・自社工場・自社物流を束ねる垂直統合によって、生鮮の国産じゃがいもを量産に足る品質と数量で確保する体制を築いた業態転換であった。
背景
「かっぱえびせん」で全国流通を掴んだ量産メーカーが、次の主力を小麦菓子から芋のスナックへ移そうとしていた。じゃがいもは輸入小麦と異なりほぼ全量を国内産で賄う必要があり、収穫期に品質と量が振れる生鮮農産物を安定して扱う仕組みが欠かせなかった。
内容
1973年に本社を東京へ移して社名から「製菓」を外し、芋への主軸移行を示した。1975年にポテトチップスを発売し、1980年10月には北海道帯広市にカルビーポテトを設立して、種苗開発と契約農家との栽培契約で原料を自社の管理下に置いた。生鮮の芋を短時間で処理する工場を全国に配置し、物流も内製化した。
含意
原料・生産・物流を自社で束ねる垂直統合は、ポテトチップス市場での寡占と、フルグラ・じゃがりこへの多角化を支えた。一方で事業の基盤を国産の生鮮じゃがいもに置いたことは、作柄に業績が左右される構造的な弱さも残した。
筆者の見解

原料を自社で握るという選択のいま

この転換の中心にあるのは、量産の主力を輸入穀物から国産の生鮮農産物へ移すという、原料の入り口そのものの組み替えであった。市場で必要量を買い付ける調達では、収穫期ごとに振れるじゃがいもを安定して扱いにくい。種苗の開発から契約農家との取引までを自社の管理下に収めた垂直統合は、生鮮原料を量産に載せるための現実的な選択であったとみることができる。原料・生産・物流を一本に束ねた構造が、ポテトチップス市場での寡占と、シリアルやじゃがりこといった新カテゴリの連打を下支えしたとみられる。

もっとも、原料を自社で握る強みは、その原料に事業を縛る弱さと表裏の関係にある。じゃがいもがほぼ全量を国産で賄われる以上、作柄の振れがそのまま生産と業績に及ぶ余地は残り続けた。国内市場が成熟し、海外での生産や現地調達をどう組むかが問われるなかで、契約農家と国内工場群を束ねる原料モデルをどこまで保ち、どこから外へ広げるか。1980年に帯広で始まった原料内製化の選択は、装置産業としてのカルビーの強みと制約を、今日までひとつながりに規定しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

全国流通を掴んだ小麦菓子の量産メーカー

カルビー製菓は、1964年1月に発売した「かっぱえびせん」で、広島の地場メーカーが持たなかった全国流通の足場を掴んでいた。エビを練り込んだ新カテゴリのスナック菓子は問屋網に乗って定番となり、地方の中堅菓子業者から全国ブランドを擁する量産メーカーへと位置を変えた。全国出荷の必要量を支えるため、1968年4月に宇都宮工場(栃木県宇都宮市)、1969年11月に千歳工場(北海道千歳市)を相次いで稼働させ、需要地に近い場所での量産体制を整えていた[1][2]

この量産メーカーが次の主力に選んだのは、小麦の菓子ではなく、じゃがいもを原料とするスナックであった。1975年に発売したポテトチップスは、その移行を象徴する商品にあたる。ただし小麦とじゃがいもでは、原料調達の前提が根本から異なっていた。小麦は多くを輸入に頼り通年の調達がきくのに対し、じゃがいもはほぼ全量を国内産で賄う必要があり、収穫期と保管・調達計画が事業そのものの制約になる。主力商品を芋へ移すことは、原料の入り口を輸入穀物から国産の生鮮農産物へ組み替えることを意味していた[3]

決断

「製菓」を外した社名変更と芋への主軸移行

1973年6月、カルビー製菓は本社を広島市から東京都北区へ移した。全国へ商品を送る事業の実態が、創業の地である広島よりも首都圏に近いことを認めた移転であった。単一の広島本社から全国へ商品を送る形では、首都圏や北海道までの輸送と供給の遅れが事業拡大の制約になっており、本社機能を需要と流通の中心に近づける判断が働いていた[4]

同年12月には社名をカルビー製菓からカルビー株式会社へ改め、商号から「製菓」の二文字を外した。小麦菓子を焼き上げる製菓業という枠を超え、じゃがいもを原料とするスナックへ主軸を移す方針が、社名の変更に表れていた。もっとも、方針を掲げるだけでは、生鮮の国産じゃがいもを量産に足る品質と数量でそろえられるわけではない。輸入小麦のように市場から必要量を買い付ける調達では、収穫期ごとに品質と量が振れる農産物を安定して扱うのは難しく、原料の入り口そのものを自社で押さえる仕組みが芋の量産には欠かせない条件になっていた[5]

カルビーポテト設立による原料調達の内製化

1980年10月、カルビーは北海道帯広市にカルビーポテト株式会社を設立した。公式の沿革はこの会社を、原料である馬鈴しょ(じゃがいも)を管理するグループ会社として設立し、農家と栽培契約を結ぶものと記している。市場でその都度買い付けるのではなく、種苗の開発から農家との栽培契約までを自社の管理下に収めることで、生鮮原料の品質と数量を計画的に押さえる体制がここで組まれた。原料の入り口を自社の調達網へ移した点が、市場から穀物を買っていた小麦時代の調達構造との決定的な違いとなった[6][7]

調達会社を置く先に選ばれた帯広は、国産じゃがいもの主産地として知られる北海道の十勝地方にあたる。原料の生産現場に近い場所へ拠点を構え、契約農家との取引で品質と数量を直接に握る形は、原料の量と質を自社で決められる度合いを高めた。芋への転換は単なる商品ラインの入れ替えにとどまらず、原料調達網を自社で築くという装置産業への踏み込みを伴っていた[8]

結果

原料網の上に積み上げた寡占と多角化

原料調達を自社に取り込んだカルビーは、生鮮の芋を短時間で処理する工場を全国へ配置していった。1976年5月の宇都宮第2工場、同年11月の滋賀工場(現関西びわこ工場)、1983年7月の各務原工場(現岐阜かかみがはら工場)、1986年11月の広島西工場(現広島はつかいち工場)と、需要地と原料に近い拠点を積み重ねた。1990年4月にはスナックフード・サービス株式会社(現カルビーロジスティクス株式会社)を設立して物流も自社に取り込み、原料から生産、物流までの全工程を束ねる装置産業の形が整った[9][10]

この原料調達網と全国工場群の上で、カルビーは新カテゴリの商品を相次いで投入した。1989年7月には清原工場(栃木県宇都宮市)の稼働と同時にシリアルの全国発売を始め、1991年3月に「フルーツグラノーラ」(現フルグラ)、1995年10月に「じゃがりこ」を送り出した。ポテトチップスを軸とするスナック市場で寡占的な地位を築く一方、事業の基盤が国産の生鮮じゃがいもに置かれたことは、後年まで残る条件になった。2022年3月期には連結売上高が2,454億円へ落ち込み、原料の作柄に業績が左右される弱さが表面化したこともあった[11][12]

出典・参考
  • カルビー 有価証券報告書【沿革】
  • カルビー 公式サイト 沿革(https://www.calbee.co.jp/corporate/history/)
  • カルビー 有価証券報告書(2022年3月期・連結)