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1928年〜1967年 特許ビジネスからエンジニアリング企業へ
製油所を持たない石油会社としての出発
1928年10月、実吉雅郎らが東京市麹町区に「日本揮発油株式会社」を設立した[1][2][3][4]。会社は米国ユニバーサル・オイル・プロダクツ社からダブス式熱分解プロセスの特許権を買いとり、石油精製業を営むことを目的に創立された[6]。当初は海外から重油を輸入して国内でガソリンに精製し輸出する計画だったが、大津に予定していた製油所の建設は昭和恐慌のまっただなかで資金が集まらず、断念に追い込まれた。しかしこの失敗が、結果的に日揮のビジネスモデルを決めた。諸般の事情で計画を変更し、得た特許権の使用許可、すなわちプロセス・ライセンシングを主業務とすることになったのである[7]。設立翌月に締結したユニバーサル・オイル・プロダクツ社との技術提携で得た石油精製特許の使用権を、日本石油など国内石油会社に販売するという「知恵を売る商売」への転換だった[5]。自ら製油所を持たず国内石油産業の収益に参加するこの独特のモデルが、創業期の財務を支えた。
1933年にはダブス・プロセスの第一号基を満鉄に納入し、特許の使用許可で得た技術を実際のプラントとして納める実績を重ね始めた[8]。1934年、ユー・オー・ピー社の技術支援を得て海軍燃料廠(四日市)に固定床接触分解装置を建設した[9]。これが日揮のプラント設計料ビジネスの出発点である。1940年に海軍との間で特別契約を締結し、日米開戦後は軍用燃料基地の基本設計を多数受注して陣容を拡大した。1943年には設計料収入が特許使用権収入を逆転し、会社の性格そのものが変わり始める[10]。特許を売る会社からプラントを設計し建設する会社への転換は、戦時という外部需要と、ユー・オー・ピー提携で蓄えてきた技術の蓄積が重なって起きた不可逆の変化だった。組織内に図面を引ける技術者群が厚みを増し、独自に設計を仕上げる能力も育った。
UOP再提携と国内製油所建設の波
1938年の日米関係悪化により、ユー・オー・ピー社との技術提携は一方的に解消された[11]。技術の源泉を失った状態は14年間続き、1952年になってようやく石油精製と石油化学に関する契約を再締結できた[12][13]。この再提携は戦後日本の石油精製需要の拡大と重なり、同年に設置された横浜工務部を拠点として、国内製油所の建設案件を次々と受注する基盤になった。1956年には出光興産向け製油所プロジェクトを獲得し、国内エンジニアリング会社として業界内の地位を固めた。つまり技術ライセンスと設計実務の2つを取り戻したことで、日揮は再び成長軌道に戻った。
1958年には旭硝子との共同出資で触媒化成工業を設立し、触媒・機能材事業という第二の柱を持った[14]。この事業は後にプラント受注が落ち込んだ時期、グループ全体の利益を下支えする重要な役割を担う。1962年には東京証券取引所第二部に上場し、7年後の1969年には第一部指定替えを達成した[15][16]。1975年には愛知県半田市に衣浦研究所を設置し、年間30億円を超える研究開発費を継続投入して技術基盤を強化した[17][18]。国内製油所建設の需要が一巡するなか、1968年にはアルジェリア、ブルネイ、シンガポールで200億円台の海外案件を相次いで受注し、成長の軸足を国内から海外へ移し始めた[19]。この海外シフトが1970年代の本格転換につながる。
ガソリン会社からの脱却と日揮への改名
1976年、創業以来の社名を「日本揮発油」から「日揮」へと変更した[20]。同年にはすでにアルジェリアのガスプラント「モジュールⅠ・Ⅱ」を受注総額1,450億円で獲得しており、社名にある「揮発油」すなわちガソリンという言葉は実態とかけ離れていた[21]。つまり改名は事業実態の追認であると同時に、海外発注者に対して「総合エンジニアリング企業」としてのブランドを示す意図を持った経営判断でもあった。専任のアルジェリア事業本部を新設し、数十名の海外プロジェクト経験者を投入する体制を組んだことは、当時の日本企業としては異例の規模であり、海外案件の遂行体制を組織の側から固める決定でもあった[22]。
並行して日揮は放射性廃棄物処理という新分野にも参入し、1984年には茨城県大洗町に原子力技術開発センターを設置した[23]。篠田治男社長は当時「国内で日揮だけ、米国のベクテルもやったことがない分野」(日経ビジネス1982年8月23日号)と語り、他社に先んじて未開拓の技術領域へ進んだ[24]。すなわち石油精製以外の技術領域を複数持つことで、顧客へのプロジェクト提案の幅と厚みが広がった。1977年3月期には海外売上比率が74%に達しており、国内企業から海外プラント企業への転換は1970年代後半までに完了した[25]。社名変更はその総仕上げにあたる。
1968年〜2000年 海外受注と調達構造の抜本的な構造転換
赤字五十億円でも海外をやめなかった理由
1968年頃から日揮は海外プロジェクトの積極受注に方針を転じた[26]。その理由は国内製油所建設の特需が一巡し、会社としての成長余地が事実上海外にしか残されていなかったからである。しかし転換の初期、同社は手痛い代償を払った。1972年頃、約250億円で受注したアルジェリア製油所建設が、現地の洪水、現地賃金の高騰、そして一括請負型ランプサム契約の制約が重なって約50億円の赤字を計上し、減配と賞与カットに追い込まれた[27]。篠田治男社長は「焼けた火箸を握ってもいいが、焼けた柱には抱き付くな」(日経ビジネス1982年8月23日号)と語り、案件規模に対するリスク見極めを経営哲学に据えた。
それでも日揮は海外受注をやめなかった。むしろ1976年には同じアルジェリアのガスプラント「モジュールⅠ・Ⅱ」を1,450億円で受注し、1981年にはクウェート製油所近代化工事(10億ドル規模)を特命で受注、1982年にはオーストラリア天然ガス液化工場(約5,000億円規模)を米ケロッグ・豪レイモンドとのコンソーシアムの一角として獲得した[28][29]。50億円の赤字を出した同じ国で4年後に1,450億円を受注した判断の背景には、アルジェリアでの失敗を通じて現地の施工条件や契約の落とし穴を学んだ実地経験の蓄積があった。つまり1972年の赤字はリスクを吸収する授業料として、1976年以降の受注戦略に織り込まれた。
海外調達五十パーセント、円高を逆手に取った構造転換
1985年のプラザ合意後、ドル建て受注を主軸とする日揮は急激な円高に直撃され、1986年3月期から4期連続の営業赤字に転落した[30]。その原因は、資材調達が国内に偏重しており、円高環境では海外プロジェクトの建設費が膨張する構造にあった。社内にはいつしか、赤字受注もやむを得ない、赤字案件は赤字のまま完工して当然だ――という諦めの空気まで広がっていた(日経ビジネス1993年7月19日号)。こうしたなか1988年6月、国際事業本部長出身の渡辺英二が社長に就任し、赤字肯定体質の改革に着手した[31]。すなわち組織の意識変革から始めねばならないほど、当時の事態は深刻だった。
渡辺が示したのは、海外調達比率を従来の10〜20%から50%へ引き上げる方針だった[32]。当時の業界では異例の決定である。現地サプライヤーの破産や品質問題が頻発するなか、法的対応・技術者派遣・調達先データベースの構築の3つに並行で着手した。1989年度には海外調達額が340億円へ拡大し、同年度の受注高は前年比2.8倍の6,010億円に達した[33][34]。1991年には5期ぶりに営業黒字へ転換した[35]。その結果、この構造転換こそが1990年代以降、競合他社との収益格差を生み出す原動力となった。渡辺改革の本質は価格競争力の源泉を国内調達網から切り離し、現地調達網に置き換えたことにある。
「海外調達のうまさ」が開いた競合との差
海外調達体制を整えた効果は、数字に表れた。1993年3月期には売上高が初めて4,000億円台(経常利益174億円)に到達した[36]。1993年3月期は千代田化工建設や東洋エンジニアリングが経常利益を減少させるなかでの結果であり、業界関係者のあいだでは、日揮の強さは海外調達の巧みさにあり、そのノウハウは大手商社をもしのぐ水準にある、との評価が広がった(日経ビジネス1993年7月19日号)。1990年にはオランダに欧州統括子会社を設立してドルチェ・エンジニアリングを買収、さらにシンガポール法人の設立や英ケロッグへの資本参加と、調達・施工の現地化を加速した。国内本社は発注の司令塔に、現地拠点は実行の中核にという分業が整った。
1996年6月には重久吉弘が新社長に就任し、翌1997年には横浜みなとみらい地区へ本社機能を移転してプロジェクト遂行機能を一か所に集約した[37][38]。しかし1998年、アジア通貨危機で受注が急減し、日揮は2期連続の最終赤字に再び転落した[39]。海外調達によるコスト競争力は維持されたが、受注先がアジアと中東の両地域に集中する構造が、地域経済の変動に対する業績の振れ幅を拡大させていた。つまり海外調達で「作るコスト」は下がっても、「どこから受注するか」というリスク分散は、調達戦略とは別次元の課題として経営陣の前に残った。この課題は2000年代の受注地域拡大まで持ち越される。
2001年〜2019年 利益率十二パーセントから千億円規模の赤字へ、ランプサム契約のリスク構造
十年で売上倍増、営業利益率十二パーセントの時代
2000年代は資源価格の上昇で、中東・東南アジアのLNG・石油精製プラント案件が急増した。2003年3月期の連結売上高3,780億円は、2014年3月期には6,758億円へと拡大した[40]。2012年3月期には営業利益670億円、営業利益率12.0%という過去最高水準に達している[41]。1990年代に整備した海外調達体制がプロジェクト原価を抑え、案件数の急増と重なって高い利益率を記録した。ただしこの好業績は資源価格の上昇に支えられたものであり、価格が反転すればランプサム契約のリスクが再び顕在化する構造は変わっていなかった。つまり好業績の土台は外部環境であって、内部構造の強靭化ではなかった。
触媒・機能材分野では、2004年に旭硝子との合弁会社だった触媒化成工業の株式を完全取得して経営権を握り、2008年には日揮化学と合併させて新会社「日揮触媒化成」を発足させた[42][43]。機能材製造セグメントは半導体製造装置向け高機能材料といった成長分野を取り込み、FY18時点でセグメント利益74億円を記録した[44]。総合エンジニアリング事業の受注高が資源価格に左右されるなかで、触媒・機能材事業はグループ全体の利益を安定させる第二の柱となった。その結果、景気循環の影響を受けにくいこの事業が、持株会社移行後の安定収益源となった。受注変動の大きいエンジニアリング本業に対して、機能材は緩衝材の役割を果たした。
アルジェリア人質事件、海外展開のリスクの顕在化
2013年1月、アルジェリア南部イナメナスの天然ガス処理施設でイスラム過激派武装勢力によるテロ事件が発生し、日揮グループの従業員10名を含む多数が犠牲となった[45][46]。日揮にとってアルジェリアは1970年代の受注以来、数十年にわたって事業を重ねた地域だった。事件後、同社は海外プロジェクトの安全評価プロセスを再構築し、海外案件の受注判断に治安リスク評価を正式に組み込んだ。財務への直接影響は限定的にとどまったが、案件選別の基準そのものが事件を境に変わった。
2014年以降の原油・ガス価格の急落は、プラント案件の採算を直撃した。資源価格の下落時には発注延期や設計変更が頻発し、ランプサム型の一括請負契約では追加コストを受注者側が負担しなければならないという構造的な弱点がある。2017年3月期には売上高6,932億円に対して営業損益はマイナス215億円となり、総合エンジニアリングセグメント単独でマイナス294億円の損失を計上した[47][48]。つまり5年前に営業利益率12%を記録した会社が、赤字へ転落したのであり、ランプサム契約が抱える利益とリスクの振れ幅の大きさが、業界に示された。2012年の利益と2017年の損失は同じ契約形態から生まれた表裏である。
持株会社体制への移行と攻めと守りの分離
2017年3月期の赤字を重く受け止め、日揮は2019年10月に持株会社体制へ移行し、商号を「日揮ホールディングス」へ変更した[49]。海外エンジニアリング事業を日揮グローバルに、国内エンジニアリング事業を日揮にそれぞれ承継させ、グループ全体の経営機能と個別の事業機能を分離する体制を整えた[50]。その理由は、海外・国内・機能材の三事業でリスク特性が異なるためである。海外エンジニアリング案件の受注変動から国内事業や機能材事業を切り離し、事業会社ごとに損益とリスクを独立管理することで、グループ全体の意思決定を迅速化する狙いがあった。体質改善を組織構造の側面から後押しする布石でもあった。
持株会社移行と同年度にあたる2020年3月期の連結売上高は4,808億円、営業利益は202億円で着地した[51]。同時に同社は長期経営ビジョンとして、持続可能な航空燃料製造プラントといったサステナブル分野への参入を掲げ、従来のオイル・アンド・ガス一辺倒からの事業領域の拡大に着手した。しかし組織改革の効果がまだ業績に現れる前の2022年3月期、オーストラリアのイクシス液化天然ガス案件で575億円の特別損失を計上した[52]。持株会社体制で目指したリスク管理の実効性が、移行からわずかな期間で試された。つまり過去の受注が抱えていた潜在リスクが、新体制の発足とほぼ同時に表面化した。