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1840年〜1946年 洋風建築第1号から鉄道専業・戦時工場建築へ

売上高と利益率の推移
売上高(億円)

洋風建築第1号から鉄道専業への転身

1840年、創業者の鹿島岩吉氏が江戸に「大岩」の屋号で大工として独立し、棟梁として町家や商家の建築を請け負った。諸大名の江戸屋敷を建築していた鹿島は、幕末の横浜港の開港とともに同地に進出し、1860年に英国商社ジャーディン・マセソン商会の通称「英一番館」を施工した[1]。これは日本における洋風建築の最初期の事例であり、この1棟が鹿島の技術的存在感を固め、先端技術を積極的に取り込む後年の企業文化の出発点となった[2]。明治に入ると品川御殿山の毛利邸洋館、新橋の蓬莱社、神戸の製紙工場、岡山県庁舎など、2代目の鹿島岩蔵氏は「鹿島方」の名のもとに洋風建築の実績を全国に広げ、文明開化を代表する建造物の請負業者として名前が広まった[3]

1880年、岩蔵氏はその「鹿島方」を解散し、鹿島組を新設して鉄道専門の工事業者に転身した[4]。洋風建築で積んだ実績を捨て、文明開化の先導産業である鉄道に特化することで全国展開の基盤を組む狙いがあり、当時としては一種の賭けでもあった。最初の仕事は官営鉄道の柳ヶ瀬トンネルで、以後、日本鉄道会社の東北本線や官設の信越線など全国各地の官設・私設鉄道を施工し、日清戦争をきっかけに朝鮮・満州・台湾での鉄道建設にも進出して海外での実績も積み上げた[5]。明治・大正期の工事種類別請負高は鉄道67%、水力発電14%と、この2分野で80%以上を占めた[6]。「鉄道の鹿島」と呼ばれる事業構造は、1880年の決断が長期にわたって企業の基本性格を規定したことを示している。

鉄道請負の具体は、明治13年の北陸本線中ノ郷〜柳ヶ瀬間で運搬具にレールとトロッコを採用する画期的工法に始まり、明治15年に日本鉄道第一区線(東京〜前橋)、明治17年に山手線板橋〜赤羽、明治18年に信越線の犀川・千曲川の二大橋梁、明治19年には東海道線沼津〜浜松間と、官設・私設を問わず受注を重ねた[7]。水力発電も明治42年の宇治川電気水力工事を皮切りに、大正期にかけて23カ所の発電所と延長約35キロの水路トンネルを施工した[8]。大正9年着工の宇治川電気第二期工事中の大峯ダムは高さ30メートルで、日本水力界で初のコンクリート高堰堤となった[9]。鉄道67%・水力発電14%という請負高の数字は、こうした全国の路線と発電所を1件ずつ積み上げた実績の集計だった。

日本地図 明治・大正期 鹿島組の主要鉄道・水力発電工事 鉄道5路線(1880年代)と水力発電(明治末〜大正期に全国23カ所) 工事 信越線 犀川・千曲川橋梁明治18年(1885) 日本鉄道第一区線 東京〜前橋明治15年(1882) 山手線 板橋〜赤羽明治17年(1884) 東海道線 沼津〜浜松明治19年(1886) 北陸本線 中ノ郷〜柳ヶ瀬明治13年(1880)レール・トロッコ採用 宇治川電気水力 / 大峯ダム明治42年(1909)/ 大正9年(1920)日本初コンクリート高堰堤

丹那トンネル ── 16年間の難工事が築いた技術の信用

3代目組長の鹿島精一氏は1929年に京橋に新社屋を建設し、翌1930年に資本金300万円で株式会社に改組して近代企業としての体制を整えた[10][11]。長期の重量級工事を請け負うための資金調達力強化を狙った判断であった。当時の最大の工事が、1918年に着工した丹那トンネルである[12]。東海道本線の熱海〜函南間を貫く全長約7.8キロのこのトンネルは、1925年5月に西口2,160m地点で湧水量毎秒3.3立方メートルの大量出水に襲われ、1930年6月には大断層の境目で崩壊する難工事となった[13]。鹿島組は水抜トンネル・グラウト・シールド工法など当時の最新工法を投入し、金融恐慌から世界恐慌下の1934年に完成させた[14]。開通で東海道線の輸送力は3倍以上に増加し、この完工が鹿島の土木技術力を全国に知らしめて以後の土木工事の受注基盤となった[15]。困難な工事を最後までやり遂げる企業文化は、16年を通じて形成された。

1938年に鹿島守之助氏が社長に就任し、戦時下に成長が見込まれる産業界の工場建設を取り込むため建築部門を強化した[16]。鉄道専業から工場建築への転換は、時代の要請を読み取った守之助社長の経営判断によるものだった。軍・官の生産力増強要請に応えて国内外で工場建築を受注した結果、1937年から終戦までの主要工事の種類別内訳は工場建築44%、発電所30%となり、かつて67%を占めた鉄道は4%まで低下した[17]。「鉄道の鹿島」は戦時期を通じて総合建設会社へ業態を変え、戦後の高度成長期に多様なインフラ需要に応える事業基盤をすでに準備していた。67%から4%への鉄道比率低下は、鹿島の柔軟な事業転換力を示すとともに、戦時経済の下での建設業の姿を映し出す記録でもある。

1947年〜1989年 原子炉から受注高世界一・1兆円時代への飛躍

売上高と利益率の推移
売上高(億円)

原子炉を建て、受注高で世界一になった

戦後の混乱期を駐留軍工事や塩田工事でしのいだ鹿島組は、1947年12月に鹿島建設と改称した[18]。翌々年の1949年には建設業界初の技術研究所を設立し、研究開発への先行投資に踏み切った[19]。他社に先駆けて研究所を設けたことは、先端技術を要する工事を社内で内製化する戦略の表れであった。その結果、1957年に東海村の日本原研第1号原子炉を完成させ、以後、原子力発電本館の建設で業界一の実績を積み上げた[20]。朝鮮戦争を契機とした高度成長期には、新幹線・高速道路・臨海工業地帯の造成と、日本のインフラ需要のほぼすべてに関与した。日本初のアーチダムや名神高速道路山科工区など、技術的難度の高い工事を積極的に引き受けた結果、受注規模が拡大し、鹿島の技術主導型の企業像が根づいた。

1961年に東京・大阪証券取引所に上場し資金調達力を強化すると、1963年には年間受注高で世界1位を達成した[21]。高度経済成長のインフラ投資がピークに達した時期と鹿島の技術蓄積が重なった結果であり、1840年の創業から123年で日本の一大工棟梁は世界最大の建設受注企業へ成長した。上場で得た資金調達力は、以後の超高層ビル建設や原子力発電関連の案件への対応を可能にし、鹿島の技術蓄積を受注として収益に結びつける基盤となった。世界一という地位は、規模の誇示ではなく、技術的難度の高い工事を次々と引き受けた長年の企業姿勢の帰結であり、戦前の丹那トンネルから戦後の原子炉・高速道路に至る一連の挑戦の延長線上にある到達点だった。鹿島の経営史における最大の到達点の一つである。

霞が関ビルと業界初の受注高1兆円達成

1968年4月、鹿島は三井不動産の霞が関三井ビルを完成させた[22]。地下3階・地上36階・高さ147メートルは日本初の柔構造による本格的超高層ビルで、改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第1号でもあった[23]。耐震構造の世界的権威・武藤清東大名誉教授を副社長に迎え、施主・設計者・施工者三位一体の協同体制で予算と工期の制約を乗り越えた成果である[24]。この1棟が都市開発の幕開けとなり、以後の超高層ビル受注を呼び込み、1990年代半ば時点で超高層ビルの施工実績は業界最大とされた(日本会社史総覧 1995/11/1)[25]。1971年には定款を変更して開発事業を追加し、1977年着工の志木ニュータウンがデベロッパーとしての初の本格的事業となった[26]。請負型ビジネスの景気変動リスクを意識し、早い時期から開発事業に布石を打ったこの経営判断が、後年の収益構造多様化の骨格を先取りしていた。

建設業の枠を超えた事業展開は、1975年に鹿島守之助会長が没した後、1978年に女婿の石川六郎氏が社長に就任してから加速した。石川社長は低成長期に対応して経営体質を改善するため、TQC(総合的品質管理)の導入を基本課題に据え、製造業で実績のあった品質管理手法を建設業に持ち込んだ[27]。収益は1980年度から上向き、1981年度には業界初の受注高1兆円を達成し、業界内での鹿島の地位を固めた。1982年にはデミング賞実施賞を受賞し、受注規模と品質管理の両面で業界をリードする存在として広く認知された[28]。低成長期の経営課題に品質管理の手法で応えたこの取り組みが、1980年代後半のバブル経済下での受注拡大に直結する基盤となった。

鹿島守之助 鹿島建設会長
1968年ごろの当事者の証言
この工事の特色は、その規模が地下三階、地上三六階、高さ一四七メートル、延べ面積一五万三二二三平方メートル余、東洋では例の無い大きさで、しかもわが国初の柔構造による本格的超高層ビルであること、改正建築基準法による特定街区指定建物の着工第一号であることなど、そのいずれもがわが建築界未踏のものであった上に、貸ビルとしての採算から、予算と工期の条件がきびしいものであったため、工事の遂行はいわば未知への挑戦であった。 この戦いを完勝に導いたものは、設計以前の企画の段階からとられた、施主、設計者、施工者三位一体の協同体制である。建築のコストは設計で決まるので、予定のコストを維持するには、施工上の問題を十分に設計に反映しなければならないとの観点から、あえて当社が提案したこの方式は、わが国で従来見られなかったばかりか、本年一月コンクリート関係のセミナーで来朝したアメリカコンクリート学会会長ケスラー博士が、その特別講演で、紀元二〇〇〇年には一般に行なわれることになろうと述べたことでも知られるとおり、全くの新方式であった。 そのような新方式の提案が受け入れられるに至ったのは、当社がすでに超高層ビルの実現を期して、調査研究を重ね、電子計算組織を導入し、また耐震構造の世界的権威東大名誉教授武藤清博士を副社長として迎えるなど、着々態勢を整えていたことが認められたためであろうが、その根底には、三井不動産の当社に対する厚い信用があったことを見のがしてはならない。

1990年〜2014年 ゼネコン汚職と営業利益率1%の低収益構造

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ゼネコン汚職と150年続いた創業家経営の終幕

1980年代後半のバブル経済下で不動産開発事業にも進出し、1986年度の売上高は初めて1兆円台を突破した[29]。業績が続伸する中、1990年6月に鹿島昭一氏が社長を退き、鹿島家以外の出身者として初めて宮崎明氏が社長に就任した[30]。1991年2月には長期経営計画KE21を策定して「快適環境創造企業」を掲げ、4つの総事業本部体制に移行するとともに、会社の通称を「鹿島」に変更して新しい時代のイメージを示した[31]。1840年の創業以来150年間続いた創業家経営が終わり、プロフェッショナル経営への転換が始まり、組織運営の基準は血縁から能力主義へ移った。つまりこの交代は社長交代にとどまらず、創業家の求心力に頼らない組織的な経営体制への本質的な移行だった。

しかし1993年、茨城県庁舎移転新築工事等に絡んで副社長の清山信二氏が元茨城県知事に2,000万円を供与した贈賄事件が発覚し、逮捕・起訴された。建設省や地方自治体から指名停止処分を受け、同年にゼネコン4社が関与した一連の汚職事件として社会的影響は、建設業界全体が官民癒着体質の見直しを迫られた。鹿島は業務刷新委員会を新設して再発防止策に取り組み、1996年に梅田貞夫氏が社長に就任してゼネコン汚職後の経営再建に着手した[32]。プロフェッショナル経営への移行直後に発覚したこの事件は、150年続いた創業家経営からの円滑な移行を中断させ、業界の信頼回復と収益力の回復という二重の課題を新体制に突きつけた。

鹿島の業界首位の座は、1990年3月期に売上高・受注高ともに清水建設へ譲り渡されていた[33]。1963年以来27年続いた業界トップの地位が経営交代の直前に失われたことを受け、宮崎社長体制は首位奪還を目指して積極受注に踏み切った[34]。だが鹿島昭一前社長は同年9月の日経ビジネス編集長インタビューで、超高層・原子力で先行した技術差別化が真似のスピードに飲み込まれた構造を率直に証言している。バブル崩壊と1993年の贈賄事件発覚で公共事業の受注機会も制限され、1995年には海外不動産投資を拡大した子会社・東亜不動産の処理で518億円の特別損失を計上した[35]。1990年代を通じて売上高は低迷し、業界順位後退・コンプライアンス・子会社処理損が重なる10年となった。

鹿島昭一 鹿島建設副社長
1990年ごろの当事者の証言
問 エンジニアリングのことですが、以前は超高層の鹿島とか、原子力の…とか、キャッチフレーズがありましたが最近はないですね。 答 そうですね。当時かなりの開発投資をやってそう言われたのですが、もう今は段々細かくなっています。うちでいうと、耐震構造は優れた技術なのですが、もうあまり騒がれない。優れたアイデアもすぐ真似される。そのスピードが速くなっている。 建設会社はのんびりしていたけど、今は競争が激しい。電機メーカーはいい製品を出すと、同じものがすぐ出るでしょう。あれと同じ。だから、何の何というのはなくなってきているんです。

営業利益率1% ── 受注「世界一」の実態

汚職事件の傷を抱えながらも受注高は業界トップ水準にあったが、収益力は伴わなかった。建設業就業者が1997年の685万人から2010年の498万人へ減少する一方で建設企業数は約47万社と過剰なまま残り、少ない案件を巡る価格競争が横行する「負のスパイラル」が常態化していた。鹿島の営業利益率はFY07で0.96%、FY08で1.01%と1%前後で低迷し、連結売上高1兆9,485億円に対して営業利益は197億円(FY08)にとどまった[36]。つまり受注高世界一の看板と収益構造の乖離を示す数字であり、技術蓄積が収益に結びつかないという構造問題が露呈した。2005年に中村満義氏が社長に就任し、リーマン・ショック前後の経営を担ったが、業界構造の問題は一社の努力で解消できるものではなかった。

2009年3月期にはリーマン・ショックの影響で特別損失が膨らみ、初の連結純損失(▲63億円)を計上した[37]。翌2010年3月期には売上高が1兆6,374億円とピークから16%減少し、販管費を吸収できず初の連結営業赤字(▲68億円)に転落した[38]。これは創業170年の歴史で初の事態だった。FY10〜14も営業利益は127〜295億円の低水準にとどまり、利益率1%前後の低収益構造は2014年まで約20年間続いた[39]。20年に及ぶ低収益期は、技術蓄積と受注規模をもつ鹿島にとって事業構造そのものの見直しを迫り、ゼネコン業界全体が抱える過当競争の構造問題を代表する事例ともなった。その長期停滞からの脱出には、2011年以降の震災復興需要と労働市場の構造変化という外的要因を待つ必要があった。

2015年〜2026年 開発事業1兆円と利益率1%脱出 ── 押味・天野・桐生の3社長体制

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売上高(億円)

押味至一氏の現場第一主義と中計5,000億円投資

2015年6月、押味至一氏が10代目社長に就任し、創業家を離れた組織運営の系譜が初めて形になった[40]。押味社長は「施工現場が当社にとって最重要部署であり主役」(KAJIMAダイジェスト 2015/7)と述べ、土木・建築の現場力を経営の中心に据える方針を示した。2011年の東日本大震災後の復興需要と労働市場のひっ迫で工事単価が上向き、20年続いた利益率1%前後の構造が解消に向かう局面が訪れた。連結営業利益はFY15で1,111億円、FY16で1,554億円へと急回復し、FY10〜14の127〜295億円の水準から一段引き上がった[41]。長期停滞からの脱出は、社内努力と市場環境の両輪で実現した。

2018年策定の中期経営計画では、3年間で総額5,000億円を開発事業に投じる方針を打ち出し、請負中心の事業構造を改める起点となった[42]。1971年に定款変更で開発事業を加えてから半世紀、鹿島はようやく開発を本格的な資本配分の対象に据えた。コロナ禍では2020年春に約6割の現場が10日以上閉所したが、感染対策のうえで再開し業績影響は軽微にとどまった。国内330億円・海外540億円の売却回収を積み上げて投資計画を達成し、請負の景気変動を開発の回収サイクルで均す体制が、ここで初めて実行段階に入った[43]

天野裕正氏・桐生雅文氏 ── 「未来につなぐ投資」から急逝・継承へ

2021年6月、天野裕正氏が11代目社長に就任した[44]。中期経営計画「未来につなぐ投資」(2021〜2023)では2023年度の連結当期純利益950億円以上を目標に据え、半導体工場・データセンター・医薬品関連の生産施設需要を主軸とした[45]。FY22のROEは11.4%まで上昇し、FY23の連結当期純利益は1,050億円、FY24は1,150億円・ROE10.2%と目標を上回って中計を完了した[46]。2024年8月には米国Rodgers Buildersを買収し、年間売上高約800億円をKUSAグループに取り込んで北米の建設バリューチェーンを強化した[47]。請負偏重から開発・海外を組み込んだ三輪の構造へ、軸足が動き始めた。

2024年策定の中期経営計画(2024〜2026)では2026年度の連結当期純利益1,300億円以上を目標とし、3年間で株主還元2,000億円・政策保有株式500億円超売却を財務戦略の骨子に据えた[48]。FY24の実績上振れを受けて株主還元枠は2,300億円に引き上げられた[49]。海外売上は1兆1,145億円規模に達し、開発事業資産は国内外合算で約1兆2,000億円に膨らんだ[50]。ところが2026年1月、天野社長が急逝した。押味社長の暫定再任を経て、同年6月に桐生雅文氏が13代目社長に就任し、「受け継いだ技術を次世代に伝承することは経営の軸の一つ」(時事ドットコム 2026/3)と述べた[51]。キャリアの8割超を現場で過ごした建築出身の経歴と、技術伝承を経営の柱に据える方針が示された[52]