海外進出
1951 年11月

本社工場を新設。北米輸出を本格化

歴史的意義
資本金の10倍を投じた下丸子工場が高級カメラの量産輸出体制を確立

キヤノンは英マセソン社からの借入金を全額設備投資に充て、資本金の10倍に相当する2億円で下丸子工場を新設した。債務超過リスクを負った巨額投資であったが、高級カメラへの特化と量産効果により売上高利益率10%超を維持し、3年で投資を回収した。品質への自信が持てるまで輸出を急がなかった御手洗の方針が、Made in Japanの不信用を実績で覆した。

背景

進駐軍の口コミで評判を獲得するも「Made in Japan」の不信用が北米輸出の壁に

1945年の終戦後、キヤノンは軍需から民需への転換にあたり、工場を一時閉鎖して従業員を解雇した上で優秀な人材のみを再雇用するという手法をとった。これにより労働組合の過激化を抑止し、戦後の労使関係を良好に保った。御手洗毅社長は中級品ではなく高級品を優先する方針を決め、「技術力の強さを武器にする以外に日本の復興はない」として高級カメラに注力した。

終戦に伴い日本に駐留した進駐軍(GHQ)の将兵がキヤノンのカメラやニコンのレンズを手にし、その品質の良さが口コミで広まった。進駐軍は家族に近況を伝えるために写真を撮る需要があり、日本製カメラの評判は欧米に伝播した。1948年の貿易再開とともにカメラの輸出が始まり、海外バイヤーが日本の業界関係者と接触するようになった。

1950年に御手洗社長は2ヶ月間の欧米視察を実施し、カメラ輸出のポテンシャルを探った。しかし欧米では「Made in Japan」が粗悪品の代名詞となっていた。現地バイヤーからは「立派なニューモデルとして認めるが、Made in Japanは絶対信用できない」と告げられ、品質は評価されても日本製であること自体が信用の壁となった。

決断

英ジャーデンマセソン社と提携し、借入金で資本金の10倍の設備投資を断行

1951年11月にキヤノンは英国の貿易会社ジャーデンマセソン社と5ヶ年の輸出販売契約を締結した。キヤノンはカメラ生産量の最低70%をマセソン社経由で米国の3大カメラ問屋(レングラム社、ホーンスタイン社、クレーグムービー社)に輸出する契約であった。米国の問屋はキヤノンが「Made in Japan」であることを問題視して直接取引を拒んだため、マセソン社を仲介する販路を構築する形となった。

キヤノンがマセソン社と提携した最大の理由は、販路の確保に加えて50万ドル(1.8億円)の借入を契約に組み込めたことにあった。目黒と板橋の2拠点に分散していた生産体制は非効率であり、量産体制の確立には新工場の建設が不可欠であった。キヤノンはマセソン社からの借入金をもとに、旧富士航空計器の工場跡地(東京都大田区下丸子)を1億円で取得し、工作機械などの設備投資に1億円を投じて、合計2億円を本社工場の新設に充てた。

当時のキヤノンの半期売上高は1.9億円、利益は1200万円(1950年6月時点)であり、2億円の投資は利益ベースで約10年分に相当した。総資産1.6億円(資本金2000万円)に対して2億円の投資は「資本金の10倍」「総資産を超過」する規模であり、投資に失敗すれば債務超過に陥るリスクを負った。1952年に倍額増資で1億円を資本調達したが、増資後の自己資本比率は32%と製造業としては低い水準であった。

結果

高級カメラの北米輸出により3年で投資を回収し、グローバルブランドを確立

下丸子の本社工場に生産を集約したキヤノンは、海外製の高性能工作機械を導入してカメラの量産体制を確立した。高級カメラに特化したことで売上高利益率は10%超を維持し、1954年時点で年間1.8億円の純利益を計上した。2億円の巨額投資はわずか3年で回収される形となった。1951年度から1955年度までの5ヶ年における純利益の累計額は7.94億円に達した。

1950年代を通じてキヤノンは高級カメラの北米輸出により業容を拡大し、1955年にはニューヨーク支店を開設して現地での販売体制を構築した。「Made in Japan」の不信用という壁は、量産体制の確立により品質を安定させ、継続的な納品実績を積み上げることで克服された。

御手洗社長が掲げた「確信の持てる快心の作が出るまでは自重する」という方針は、品質に自信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で一気に量産・輸出に踏み切るという戦略であった。資本金の10倍という巨額投資のリスクを背負いながらも、高級品への特化と量産効果の追求を両立させたことで、キヤノンは「高級カメラのグローバルメーカー」としての地位を確立した。

御手洗毅 キヤノン取締役社長
1950年ごろの当事者の証言
私の狭い範囲の見聞を通じて見にしみて感じたことは、日本商品がいかに不信用ようであり、日本商人の道徳観がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた。あちらではサンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク等のカメラ関係メーカーおよび問屋連中と親しく会談したが、アメリカ業者の日本品への結論は「安かろう、悪かろう」であった。 キヤノンカメラでは、アメリカにはあくまで快心の作を出すという意識のもとに、従来、対米輸出は積極的にやらなかった。バイヤーから度々話もあったが応じなかった。しかし、進駐軍の人たちがCPOを通じて内地で1万台くらいは買ったと思う。信用は一度失ったが最後、もうダメだから、絶対確信のもてる快心の作が出るまでは、自重してきたが、最近キヤノンの製品がライカ以上である確信を得たので、ここに初めてアメリカに呼びかけることとなり、ニューモデルを持ってあちらの業者の信を問うたわけである。
御手洗毅 キヤノン取締役社長
1969年ごろの当事者の証言
当時は戦後でもあり、社会が最も必要としていたものは、ナベ、カマ、スキ、クワの類であったため、これを作ろうじゃないかという声もあったのだが、会社の再スタートにあたり私は日本企業を伸ばすには今後輸出以外にない、特に頭脳で勝負する意外に道はない。そのためには外国から材料を取り寄せて加工するのでは妙味がない。国内で材料を得られ、独自の製品として輸出できるものではなくてはならない。これに叶うものは高級カメラである。ということで会社の方針を決めたのである。 ところが何を始めるにしても先立つものは金である。金を借りるにつけ、銀行(注:富士銀行と推察される)へ行って仕事の内容について説明すると、当時の情勢からして、皆が皆、仕事の内容に賛成しかねる情勢であった。しかし日本企業の今後の行くべき道を刻々と説明し、やっと金融をつけてもらうのに成功したのである。
経済情報3 2
1952年ごろの当事者の証言
キヤノンの歴史を見て第一に感ずることは、戦後の急速な進展ぶりである。研究時代から終戦までの10年間は、いわば技術を錬磨し、将来のチャンスを掴んで伸ばすべき底力を養った時代である。終戦直前、大和光学を吸収し、増資を行なっているが、輸出市場無くしてこの産業は伸びない。それは軍需産業としての進展態勢をとったものであるが、終戦で再出発を要請された。 それが進駐軍将兵の愛用で進展のチャンスを掴み、貿易の再開で、南米、北米、欧州、東南アジアと世界至るところでライカを向こうに回し飛躍しているのも、十余年にわたる技術の錬磨時代を持ったればこそである。
経済情報3 2
1952年ごろの当事者の証言
今までの生産力増加は目黒、板橋両工場の補強によって行なってきたが、それが限界点に達し、新鋭工場を他に求めなければならぬところに来たため、2億円の巨費を投じて富士計器社屋を買収改造し、ここに生産を集中するという抜本的対策に出たのである。 こうした設備の拡張が多大の資金を要したことは言うまでもない。終戦後の再出発当時の資本金は300万円であったが、その後3回の増資により5000万円に膨張し、一方負債も昨年9月末現在の長期借入金は8900万円にのぼり、支払手形および短期借入金は1.28億円に達しており、資本構成比率は2倍の外部資本を示している。こうした急激な膨張は当然に資本構成を不均衡にし、金融に弾力性を失わしめる結果となる。その是正を目的として、今次の倍額増資が行われるわけだ。
経営統合に関連する時系列
  1. 進駐軍の間でキヤノンカメラが評判に
  2. 貿易再開に伴いカメラ輸出を開始
  3. キヤノンカメラS型を発売
  4. 御手洗毅社長が2ヶ月の欧米視察
  5. 東京都大田区下丸子に本社工場を新設
  6. 英ジャーデンマセソン社と販売契約
  7. ニューヨーク支店を開設