買収・M&A
播磨造船所を合併・商号を石川播磨重工業株式会社に変更
背景
船舶大型化と造船設備の制約
1950年代を通じて中東産油国からの石油輸送が拡大し、大型タンカーの建造ニーズが急速に高まった。三菱重工・川崎重工・日立造船などの競合メーカーは大型ドックを新設して50,000GT級の大型船建造に対応したが、石川島重工業は主力の東京工場(第2工場)が隅田川河口に立地していたため、ドックの拡張が困難であり、22,000GT級が建造可能な最大規模にとどまっていた。 一方、播磨造船所は業界3位の造船メーカーであったが、売上高の大半を造船事業が占めており、1958年以降の造船不況の影響を強く受けていた。陸上部門(機械)の拡充が遅れていたため、造船需要の変動に対して経営の安定性を欠いていた。両社はそれぞれ異なる課題を抱えつつ、かねてよりタービン機関とディーゼル機関を相互供給する友好関係にあった。
決断
相互補完による合併と業界2位の確立
1960年7月に石川島重工業の土光敏夫社長と播磨造船所の六岡周三社長が合併の基本合意を締結。同年12月1日に石川島重工業を存続会社として合併を実施し、「石川島播磨重工業」を発足した。合併後の従業員数は約1.5万名(石川島重工業約9,000名+播磨造船所約6,000名)となり、造船業界では三菱重工に次ぐ第2位の建造量を確保した。 石川島にとっては播磨の大型ドックを獲得することで40,000GT級の大型船建造に対応でき、船舶大型化の競争に参入する基盤が整った。播磨にとっては売上高の70%を陸上部門が占める石川島との合併により事業の多角化が実現し、造船不況期における「陸上部門への人員移動」が可能となる経営安定化のメリットがあった。
土光敏夫 石川島重工業・社長
1986年ごろの当事者の証言 当時、石川島の造船設備は、三菱や日立が8万トン、5万トン級のものを有していたのに比べ、わずか3万トン級に限られていた。私は、昭和20年代の末ごろから、エネルギーはゆくゆく石炭から石油に転換し、タンカーの需要が高まると判断した。そこで、タンカーの建造に乗り出したが、これもゆくゆくは10万トン以上の大型船必須と見ていた。ところが、石川島は隅田川の河口にあり、立地条件からも大型タンカー建造の設備はもてない。いきおい、ほかに敵地を求めざるを得ない状態であった。 一方、播磨造船の場合は、造船メーカーとしては第3位にあったが、(注:昭和)33年以降、造船業は長期不況に陥り、33年から35年(注:1958年〜1960年)の2年間に、受注残高は2/3、売上高は1/2に激減するという有様であった。造船比率90%という播磨にとって、この不況は特にこたえ、別途陸上部門の進出を図っていた。 石川島の陸上部門の比率は、80%である。つまり、両社は、あい補う部分を模索中であったわけである。そこへ来て、石川島と播磨は、以前から石川島がタービン機関を、播磨がディーゼル機関を互いに供給し合うか友好関係にあった。 そんな関係で、ある日、六岡社長と会食、話のついでに偶然、お互いの悩みが出た。六岡社長の陸上部門進出の意思を知った私は、密かに、播磨の実態を半年がかりで調査させた。
石川島播磨重工業の合併は、両社が抱える課題の相互補完によって成立した。石川島は大型船建造に必要なドックを持たず、播磨は造船依存の事業構成から脱却できずにいた。石川島が播磨の大型ドックを、播磨が石川島の陸上部門を獲得するという構図は、設備と事業ポートフォリオの交換に等しい。土光敏夫社長が半年をかけて播磨の実態を調査した慎重さも、合併の成功を支えた要因であった。