ミシン・タイプライターから情報通信機器への業態転換
1989年実施なぜ老舗ミシン企業ブラザーは祖業を脇に置き、失敗を糧に情報通信機器メーカーへ変身したのか
- 概要
- 1989年に第8代社長へ就いた安井義博氏のもと、ブラザー工業がミシン・タイプライターから情報通信機器(プリンター・複合機)へ主力を移した業態転換。失敗を罰しない文化と社長直轄の新事業育成で、情報機器への選択と集中を進めた経営判断。
- 背景
- 1980年代半ばに事務機器が売上でミシンを上回ったが、日米貿易摩擦と円高で輸出タイプライターの採算が悪化。祖業のミシンも先細りが避けられず、主力製品そのものの作り替えを迫られていた。
- 内容
- 「21世紀委員会」で世代別にあるべき姿を議論し、30代の「創造的破壊」に近い情報機器への選択と集中を採用。タケル・カラーコピーの失敗を経てファクスへ、さらにレーザー・インクジェット複合機へ展開し、1999年には半世紀続いた製販分離を解消した。
- 含意
- 祖業を脇へ置く転換を、派手な買収ではなく失敗を許す文化と社長直轄の育成で進めた点に特徴がある。2003年に19期ぶりの最高益を更新。敗北をタネとして次へ回す循環が、老舗の主力を入れ替える原動力になった。
「失敗を罰しない」という選択
この決断の核心は、財務危機への対応ではなく、祖業を捨てるに等しい業態転換を、買収や事業売却という劇的な手段ではなく、失敗を罰しない姿勢と社長直轄の新事業育成という地道な仕組みで進めた点にある。ソフト自販機「タケル」の失敗が通信カラオケを、モバイルプリンターの失敗が家庭用複合機を生んだように、ブラザーは敗北をタネとして次の商品へ回す循環をつくった。新規事業は既存部門にとって「人食い虫、カネ食い虫」であり、放っておけば育たない。だからこそ社長が囲い、人と資金をつけて育てるという安井社長の流儀が、老舗の主力を入れ替える原動力になったとみることができる。
もっとも、転換はひと息に成ったわけではない。事務機器がミシンを抜いてから情報通信機器が確たる主力になるまでには十数年を要し、製販分離の解消で背負った負債や、立ち上げに苦しんだファクス・複合機の試行錯誤が伴った。それでも、好調な祖業に安住せず、現場の失敗や悔しさをすくい取るトップが旗を振り続けたことが、変身を可能にした。規模や派手な一手よりも、失敗を許容して次へつなぐ組織の体温をどう保つか——ブラザーの業態転換は、その問いに地道な答えを与えた事例として読むことができる。
Yutaka Sugiura, 2026年6月
背景
円高で行き詰まった老舗ミシン企業
ブラザー工業は、1908年に名古屋でミシンの修理・部品製造から出発し、家庭用ミシンの国産化を達成して、かつて東洋一とも呼ばれたミシン工場に育った老舗である。1961年に欧文タイプライターへ進出して事務機器の道を開き、ミシンで培った精密加工とメカトロニクスの技術を次々と異分野へ転用していった。1980年代半ばには事務機器が売上でミシンを上回り(1984年度の単体で事務機器が約45%、ミシンが約28%)、創業以来の祖業と主力が入れ替わる節目を迎えた[1]。
しかし、タイプライター輸出をめぐる日米貿易摩擦への対応として、1985年に英国、翌86年に米国へ製造拠点の設置を迫られ、続く1980年代後半の円高が輸出タイプライターの採算を直撃する。祖業のミシンも家庭用需要の頭打ちで先細りが避けられない。後年、安井社長は「80年代後半は円高に苦しみ、輸出用タイプライターに代わる国内の新規事業を模索していた」と振り返っている。ミシンもタイプライターも頼れないなか、ブラザーは主力製品そのものを作り替える必要に迫られていた[2]。
決断
安井義博社長と「21世紀委員会」が選んだ選択と集中
主力の作り替えを主導したのが、1989年2月に第8代社長へ就いた安井義博氏である。創業者・安井兼吉氏の孫にあたる安井社長は、就任すると「21世紀委員会」を立ち上げた。50代・40代・30代それぞれ7人の年代別チームに、ブラザーのあるべき姿を論じさせる試みである。答えは世代で分かれ、50代は改善、40代は改革、そして30代は家電からの撤退を含む「創造的破壊」を唱えた。安井社長が選んだのは若い世代に近い路線、すなわち情報機器への選択と集中であった。当時の役員にはタイプライターに精通した人材はいても、これから伸ばすべきエレクトロニクスを見通せる者は乏しく、変革は年長の経営陣を説き伏せながら進める作業でもあった[3]。
情報機器への転換は、失敗の積み重ねの上に築かれた。円高でタイプライターに代わる国内の新規事業を探った安井社長は、ソフトの自動販売機「タケル」、カラーコピー機、ファクスの三つを走らせる。タケルとカラーコピー機は失敗に終わり、残ったのはファクスだけであった。そのファクスも後発ゆえに自社ブランドでは売れず、電電公社(現NTT)へのOEM供給から始めるほかなかった。ブラザーはこうした失敗を罰せず、担当者と直に語り合って次の商品へ生かす姿勢を保ち、新規事業は社長が人と資金を抱え込んで育てた。ミシンのメカ技術はタイプライターやドットプリンターへ、さらに1987年の自社製レーザープリンター、1995年の小型レーザー複合機、1997年のカラーインクジェット複合機へと枝分かれし[5]、情報通信機器という新しい幹を太らせていった[4]。
結果
製販分離の解消と19期ぶりの最高益
安井社長が企業変革の転換点に挙げるのは、1999年4月のブラザー販売の完全子会社化である。1941年の分離以来およそ半世紀続いた製販分離に終止符を打ち、製造側が販売現場を握り直す決断であった。ただし株価が50円を割り込むまで沈んでいた販売会社からは、有利子負債およそ635億円を引き継ぐ代償を伴った。重荷を背負っての再生に市場は不安を寄せ、外国人持ち株比率は一時2%台まで落ち込む。しかし全社に広がった危機感は「負の遺産を早く処理しよう」「会社を変えなければならない」という意識の共有へと裏返り、かえって変革を後押しした。2000年には中期戦略のもとでカンパニー制・執行役員制・社外取締役を導入し、ガバナンスの刷新もあわせて進めた[6]。
転換の成果は数字に表れた。情報通信機器を主力に据えたブラザーは、2003年3月期に連結売上高4,086億円、連結純利益222億円を計上し、前期の11億円から純利益を急伸させて19期ぶりに最高益を更新した。2000年に200円を割り込んでいた株価も、2002年11月には939円まで回復している。米国のSOHO向けインクジェットプリンター・複合機が伸び、海外では「ミシン屋がつくった製品」という見方を脱して、日本発の小型精密機器メーカーとしての評価を得ていった。祖業のミシンを抱えたまま主力を情報通信機器へ移し替えた業態転換は、四半世紀をかけて結実したことになる[7]。
- 日経ビジネス 2003年4月7日号「編集長インタビュー・安井義博」失敗は必ず成功に変わる
- ブラザー工業 有価証券報告書【沿革】
- ブラザー工業 有価証券報告書(連結財務)