1894年〜 マッチの廃材から始まり、アート紙の工場になるまで
神戸のマッチ廃材を紙にするために建てた工場
神崎製紙の工場は、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏[1]が1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ開いた真島製紙所[2]に始まる。真島襄一郎氏は1875年に大阪中之島で蓬莱社の製紙部門を任され、日本最初の洋式抄紙機で操業を始めた[3]人物で、その後は富士製紙の入山瀬工場長を務めていた[4]。神崎へ工場を建てる動機は、1893年末に神戸の友人から受けた「マッチ紙を安くしたいが、マッチの廃材からパルプを製造して、紙を抄くことはできないのか[5]」という相談にある。当時の神戸はマッチ製造の本場で、毎日出る廃材を焼き捨てていた[6]。マッチの廃材は普通のチップより蒸煮しやすく大規模な設備を必要としないため、真島襄一郎氏は富士製紙の職を辞して自分の工場を建てた。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
- [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
- [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
- [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
- [5]1893年末に神戸の友人からマッチ廃材のパルプ化について相談を受けた
- [6]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
工場は日清戦争のさなかに建てられ、稼働まで1年半[7]を要した。真島襄一郎氏は機械設備を国産機にする方針を立てて大阪の岡本鉄工所などに注文した[8]が、直径4尺の大型ドライヤーをつくれるところがなく、大阪砲兵工廠に頼んだ[9]。その工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができず、しかも日清戦争が始まると民間の仕事を断ってきた。そこで空地に放置されていた鋳物のなかから使えそうなものを拾い出し、空孔にセメントを埋めて4〜5本を間に合わせた。据え付けられた設備は72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基[10]だった。1895年10月に資本金10万円の合資会社となり[11]、土佐から竹簀編みの職人を雇って丸網抄紙機に竹簀を取り付け、簀目入りの模造紙を抄いた。社史はこれを「わが国の機械漉和紙生産の先駆工場[12]」と記している。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [7]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
- [8]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
- [9]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
- [10]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
- [11]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった
- [12]社史は簀目入り模造紙を抄いた同工場をわが国の機械漉和紙生産の先駆工場と評した
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [1]真島襄一郎は日本の洋紙業確立に尽くした先覚者の一人であった
- [2]1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ真島製紙所が設立された
- [3]真島襄一郎は蓬莱社の製紙経営を委ねられ大阪中之島に工場を建て1875年2月に操業を開始した
- [4]真島襄一郎は富士製紙入山瀬(富士第一)工場の初代工場長を務めた
- [5]1893年末に神戸の友人からマッチ廃材のパルプ化について相談を受けた
- [6]当時の神戸はマッチ製造の本場で毎日出る廃材を無駄に焼き捨てていた
- [7]日清戦争勃発直前の設立で機械類の調達が進まず工場稼働まで1年半を要した
- [8]機械設備を国産機とする方針で大阪の岡本鉄工所などに注文製作させた
- [9]直径4尺の大型ドライヤーを製造できる工場がなく大阪砲兵工廠に依頼した
- [10]設備の主なものは72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基であった
- [11]1895年10月に資本金10万円の合資会社となった
- [12]社史は簀目入り模造紙を抄いた同工場をわが国の機械漉和紙生産の先駆工場と評した
工場は持ち主を三度替えた
1898年6月、事業拡張のため大阪の富豪である野田吉兵衛氏の出資を得て大阪製紙となり[13]、64インチ丸網抄紙機2台を増設して中国向けの模造紙を輸出した[14]。日露戦争に伴う紙類の需要増で好景気を迎えたが、戦後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増して輸出が途絶えた[15]。内地向けに振り替えるためアメリカのクローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し、旧式の丸網抄紙機2台を解体して杉浦製作所のワイヤー・パートを取り付け75インチの長網抄紙機に模様替えした。社史はこれを「わが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパート[16]」と書いている。それでも不況は深刻で、1909年6月に資本金46万円を20万円へ減資[17]しても経営不振を打開できず、1910年6月に大阪製紙は解散した。工場は債権者の野田吉兵衛氏が取得して野田製紙所と改称された。 [18]
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [13]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
- [14]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
- [15]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
- [16]旧式丸網を改造した75インチ長網はわが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパートとされた
- [17]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
- [18]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された
1915年11月、野田製紙所は当時わが国最大の製紙会社であった富士製紙に買収され、富士製紙神崎工場となった[19]。創業者の真島襄一郎氏は1913年12月に大阪の緒方病院で亡くなっており[20]、自ら建てた工場が大手の傘下に入るのを見てはいない。買収した富士製紙は第一次世界大戦の好況に乗って社業を伸ばし、1919年6月には樺太工業社長の大川平三郎氏を社長に迎えた[21]。神崎工場に高級印刷紙のアート紙加工設備を新設する決定が下りたのは1922年4月で、社史は「当時、日本加工製紙と密接な関係のあった大川平三郎氏の意向によるもの[22]」と伝えている。同年6月に米国のジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し、8月に初めてアート紙を生産した[23]。この一手が神崎工場の性格を決めた。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [19]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
- [20]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
- [21]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
- [22]神崎工場へのアート紙設備新設は日本加工製紙と密接な関係にあった大川平三郎の意向によるものとされる
- [23]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」1「真島製紙から富士製紙へ」
- [13]1898年6月に野田吉兵衛の出資を得て大阪製紙となった
- [14]64インチ丸網抄紙機2台を増設し中国向け模造紙を輸出した
- [15]日露戦争後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増し輸出が途絶えた
- [16]旧式丸網を改造した75インチ長網はわが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパートとされた
- [17]1909年6月に資本金46万円を20万円に減資した
- [18]1910年6月に大阪製紙は解散し工場は債権者の野田吉兵衛が取得して野田製紙所と改称された
- [19]1915年11月に野田製紙所は富士製紙に買収され富士製紙神崎工場となった
- [20]真島襄一郎は1913年12月に大阪の緒方病院で死去した
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」2「戦前のアート紙の生産」
- [21]富士製紙は1919年6月に樺太工業社長の大川平三郎を社長に迎えた
- [22]神崎工場へのアート紙設備新設は日本加工製紙と密接な関係にあった大川平三郎の意向によるものとされる
- [23]1922年6月に米ジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し同年8月に初めてアート紙を生産した
王子製紙の唯一のアート紙工場となり、そして焼けた
1929年5月、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結び[24]、王子製紙と樺太工業はクラフト紙やコーテッド紙を抄かないと取り決めた。これで富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認められた[25]。1933年5月には3社が合併し、王子製紙を存続会社として資本金1億4,998万円、所属工場34、全国紙パルプ生産高の90%以上[26]を占める会社が生まれた。合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140、樺太工業245[27]である。神崎工場は王子製紙神崎工場となった。この合併に際して富士製紙と樺太工業の経理内容を調べ上げ、合併比率決定の基礎をつくったのが、藤原銀次郎氏の特命を受けた加藤藤太郎氏[28]だった。加藤藤太郎氏は15年後に神崎製紙の初代社長となる。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
- [24]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
- [25]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
- [26]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
- [27]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
- [28]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
王子製紙神崎工場のアート紙は伸びた。1937年の神崎工場は全生産高こそ1933年比で2割弱の伸びにとどまったが、アート紙だけは2倍半に伸びて[29]戦前の最高記録をつくり、アート紙全国総生産量の46.3%[30]を占めた。日本加工製紙十条工場の38.2%、三菱製紙の高砂・中川両工場の15%[31]を引き離す水準である。ところが戦時体制に入るとアート紙は不要不急品として生産を中止させられ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半が焼失した。焼け残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけだった。工場の敷地には背丈ほどの雑草が生い茂り、構内を巡視していた社員が2匹のキツネを見つけた[33]と社史は書いている。 [32]
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
- [29]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
- [30]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
- [31]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [32]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
- [33]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙前史」3「大王子製紙の誕生」
- [24]1929年5月に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結んだ
- [25]協定により富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認知された
- [26]1933年5月の3社合併で資本金1億4,998万円・所属工場34・全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた
- [27]合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140・樺太工業245であった
- [28]加藤藤太郎は藤原銀次郎の特命で富士製紙と樺太工業の経理内容を調査し合併比率決定の基礎をつくった
- [29]1937年の神崎工場は全生産高が1933年比で2割弱の伸びにとどまる一方アート紙だけは2倍半に伸びた
- [30]1937年の神崎工場はアート紙全国総生産量の46.3%を占めた
- [31]同年の日本加工製紙十条工場は38.2%・三菱製紙の高砂と中川両工場は15%であった
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [32]1945年6月の戦災で神崎工場は工場の大半を焼失し塗工部門とボイラー室・用水設備だけが類焼を免れた
- [33]復旧が止まった工場では背丈ほどの雑草が繁茂し構内巡視中の社員が2匹のキツネを見つけた
追放された元副社長が引き受けた
王子製紙は1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社、1948年2月に過度経済力集中排除法の指定会社[34]となった。GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長ウェルシュ氏は1947年7月に9分割を口頭で指示し[35]、王子製紙は同年9月に7分割案を提出する。この7分割案のなかで神崎工場は清算工場とされ、その土地は都島・淀川・熊野の各工場からなる大阪地区の新会社に所属させる[36]という扱いだった。その後の折衝を通じて、神崎工場が王子製紙との関係を断ち切って完全に独立するのであれば分離独立を認める[37]、という回答をGHQから得た。王子製紙自体は1949年8月に苫小牧製紙・十条製紙・本州製紙の3社に分割[38]される。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [34]王子製紙は1946年1月に制限会社・同年12月に持株会社・1948年2月に集排法の指定会社となった
- [35]GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長ウェルシュが1947年7月に王子製紙へ9分割を口頭で指示した
- [36]7分割案では神崎工場を清算工場とし土地を都島・淀川・熊野からなる大阪地区の新会社に所属させるとされた
- [37]王子製紙との関係を完全に断ち切るなら神崎工場の分離独立を認めるとのGHQ回答を得た
- [38]王子製紙は1949年8月に苫小牧製紙・十条製紙・本州製紙の3社へ分割された
引き受け手を用意したのは、追放で隠棲していた元王子製紙社長の藤原銀次郎氏だった。1948年の年明け早々、藤原銀次郎氏は同じくA号追放に該当して王子製紙を去っていた元副社長の加藤藤太郎氏を自宅に呼び[39]、「これからはアート紙がいるが、いまの状態からすれば、王子の手で神崎工場を復旧できるとは思えない。王子でできないなら、君がひとつ復旧を引受けてみてはどうか」と勧めた。当時の加藤藤太郎氏は追放該当者で退職慰労金もなく、東京の自宅は戦災で家財のすべてを焼いていた[41]。加藤藤太郎氏はこれを受け、「会社は小さくていい。そこに働く人びとが、日本一しあわせである、そんな会社にしてみせる」と心に誓ったという。この言葉はのちに労働協約の前文となり、社是となり、工場正門前の記念碑に刻まれる[43]。 [40][42]
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [39]追放で隠棲していた藤原銀次郎が1948年年明けに加藤藤太郎を自宅に呼び神崎工場の復旧を勧めた
- [40]藤原銀次郎は王子の手で神崎工場を復旧できるとは思えないとして加藤藤太郎に引き受けを勧めた
- [41]加藤藤太郎は追放該当者のため退職慰労金がなく東京の自宅は戦災で家財のいっさいを焼失していた
- [42]加藤藤太郎は会社は小さくてよいがそこで働く人びとを日本一しあわせにすると誓った
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「技術革新下の躍進」5「福利厚生の前進」
- [43]この創業の理想はのちに労働協約前文・社是・工場正門前の記念碑に刻まれた
加藤藤太郎氏は新会社に必要な人材を王子製紙に求めた。社長の中島慶次氏を説いて、40歳代と30歳代の社員を1人ずつ譲り受け[44]ている。総務部副部長兼秘書課長から参事に転じて戦災工場の管理に当たっていた広瀬藤四郎氏と、苫小牧工場の厚生課長だった遠藤福雄氏[45]である。両氏はのちに神崎製紙の社長と副社長になった。1948年9月18日、東京都中央区銀座の大日本図書内に置かれた創立事務所で創立総会が開かれ[46]、代表取締役会長に大野竜太氏、代表取締役社長に加藤藤太郎氏が選任された[47]。加藤藤太郎氏は追放該当者だったため発起人には名を連ねていない[48]。9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了[49]した。
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [44]加藤藤太郎は王子製紙社長の中島慶次を説いて40歳代と30歳代の社員を1人ずつ譲り受けた
- [45]譲り受けたのは総務部副部長兼秘書課長から参事に転じていた広瀬藤四郎と苫小牧工場厚生課長の遠藤福雄であった
- [46]1948年9月18日に東京都中央区銀座の大日本図書内の創立事務所で創立総会が開かれた
- [47]代表取締役会長に大野竜太・代表取締役社長に加藤藤太郎が選任された
- [48]加藤藤太郎は追放該当者であったため遠慮して発起人には名を連ねなかった
- [49]1948年9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了した
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」
- [34]王子製紙は1946年1月に制限会社・同年12月に持株会社・1948年2月に集排法の指定会社となった
- [35]GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長ウェルシュが1947年7月に王子製紙へ9分割を口頭で指示した
- [36]7分割案では神崎工場を清算工場とし土地を都島・淀川・熊野からなる大阪地区の新会社に所属させるとされた
- [37]王子製紙との関係を完全に断ち切るなら神崎工場の分離独立を認めるとのGHQ回答を得た
- [38]王子製紙は1949年8月に苫小牧製紙・十条製紙・本州製紙の3社へ分割された
- [39]追放で隠棲していた藤原銀次郎が1948年年明けに加藤藤太郎を自宅に呼び神崎工場の復旧を勧めた
- [40]藤原銀次郎は王子の手で神崎工場を復旧できるとは思えないとして加藤藤太郎に引き受けを勧めた
- [41]加藤藤太郎は追放該当者のため退職慰労金がなく東京の自宅は戦災で家財のいっさいを焼失していた
- [42]加藤藤太郎は会社は小さくてよいがそこで働く人びとを日本一しあわせにすると誓った
- [44]加藤藤太郎は王子製紙社長の中島慶次を説いて40歳代と30歳代の社員を1人ずつ譲り受けた
- [45]譲り受けたのは総務部副部長兼秘書課長から参事に転じていた広瀬藤四郎と苫小牧工場厚生課長の遠藤福雄であった
- [46]1948年9月18日に東京都中央区銀座の大日本図書内の創立事務所で創立総会が開かれた
- [47]代表取締役会長に大野竜太・代表取締役社長に加藤藤太郎が選任された
- [48]加藤藤太郎は追放該当者であったため遠慮して発起人には名を連ねなかった
- 神崎製紙の歩み(神崎製紙、1988年)沿革「技術革新下の躍進」5「福利厚生の前進」
- [43]この創業の理想はのちに労働協約前文・社是・工場正門前の記念碑に刻まれた
- [49]1948年9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了した