{"title":"神崎製紙の歴史概略","sections":[{"start_year":1894,"end_year":1948,"main_title":"マッチの廃材から始まり、アート紙の工場になるまで","subsections":[{"title":"神戸のマッチ廃材を紙にするために建てた工場","text":"神崎製紙の工場は、洋紙業の先覚者である真島襄一郎氏が1894年4月に兵庫県川辺郡小田村常光寺へ開いた真島製紙所に始まる。真島襄一郎氏は1875年に大阪中之島で蓬莱社の製紙部門を任され、日本最初の洋式抄紙機で操業を始めた人物で、その後は富士製紙の入山瀬工場長を務めていた。神崎へ工場を建てる動機は、1893年末に神戸の友人から受けた「マッチ紙を安くしたいが、マッチの廃材からパルプを製造して、紙を抄くことはできないのか」という相談にある。当時の神戸はマッチ製造の本場で、毎日出る廃材を焼き捨てていた。マッチの廃材は普通のチップより蒸煮しやすく大規模な設備を必要としないため、真島襄一郎氏は富士製紙の職を辞して自分の工場を建てた。\n\n工場は日清戦争のさなかに建てられ、稼働まで1年半を要した。真島襄一郎氏は機械設備を国産機にする方針を立てて大阪の岡本鉄工所などに注文したが、直径4尺の大型ドライヤーをつくれるところがなく、大阪砲兵工廠に頼んだ。その工廠でも鋳直すたびに鬆ばかりできて使えるものができず、しかも日清戦争が始まると民間の仕事を断ってきた。そこで空地に放置されていた鋳物のなかから使えそうなものを拾い出し、空孔にセメントを埋めて4〜5本を間に合わせた。据え付けられた設備は72インチ丸網抄紙機2台と円型木釜1基だった。1895年10月に資本金10万円の合資会社となり、土佐から竹簀編みの職人を雇って丸網抄紙機に竹簀を取り付け、簀目入りの模造紙を抄いた。社史はこれを「わが国の機械漉和紙生産の先駆工場」と記している。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙前史」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"工場は持ち主を三度替えた","text":"1898年6月、事業拡張のため大阪の富豪である野田吉兵衛氏の出資を得て大阪製紙となり、64インチ丸網抄紙機2台を増設して中国向けの模造紙を輸出した。日露戦争に伴う紙類の需要増で好景気を迎えたが、戦後の1906年ごろから中国向けの滞貨が激増して輸出が途絶えた。内地向けに振り替えるためアメリカのクローソン社製88インチ長網抄紙機1台を増設し、旧式の丸網抄紙機2台を解体して杉浦製作所のワイヤー・パートを取り付け75インチの長網抄紙機に模様替えした。社史はこれを「わが国で製作された最初の国産長網ワイヤーパート」と書いている。それでも不況は深刻で、1909年6月に資本金46万円を20万円へ減資しても経営不振を打開できず、1910年6月に大阪製紙は解散した。工場は債権者の野田吉兵衛氏が取得して野田製紙所と改称された。\n\n1915年11月、野田製紙所は当時わが国最大の製紙会社であった富士製紙に買収され、富士製紙神崎工場となった。創業者の真島襄一郎氏は1913年12月に大阪の緒方病院で亡くなっており、自ら建てた工場が大手の傘下に入るのを見てはいない。買収した富士製紙は第一次世界大戦の好況に乗って社業を伸ばし、1919年6月には樺太工業社長の大川平三郎氏を社長に迎えた。神崎工場に高級印刷紙のアート紙加工設備を新設する決定が下りたのは1922年4月で、社史は「当時、日本加工製紙と密接な関係のあった大川平三郎氏の意向によるもの」と伝えている。同年6月に米国のジョンワルドロン社から幅65インチと53インチのブラッシュ式塗工機2台を輸入し、8月に初めてアート紙を生産した。この一手が神崎工場の性格を決めた。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙前史」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"王子製紙の唯一のアート紙工場となり、そして焼けた","text":"1929年5月、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が紙類の抄造制限協定を結び、王子製紙と樺太工業はクラフト紙やコーテッド紙を抄かないと取り決めた。これで富士製紙の神崎工場は3社唯一のアート紙工場として認められた。1933年5月には3社が合併し、王子製紙を存続会社として資本金1億4,998万円、所属工場34、全国紙パルプ生産高の90%以上を占める会社が生まれた。合併比率は王子製紙100に対し富士製紙140、樺太工業245である。神崎工場は王子製紙神崎工場となった。この合併に際して富士製紙と樺太工業の経理内容を調べ上げ、合併比率決定の基礎をつくったのが、藤原銀次郎氏の特命を受けた加藤藤太郎氏だった。加藤藤太郎氏は15年後に神崎製紙の初代社長となる。\n\n王子製紙神崎工場のアート紙は伸びた。1937年の神崎工場は全生産高こそ1933年比で2割弱の伸びにとどまったが、アート紙だけは2倍半に伸びて戦前の最高記録をつくり、アート紙全国総生産量の46.3%を占めた。日本加工製紙十条工場の38.2%、三菱製紙の高砂・中川両工場の15%を引き離す水準である。ところが戦時体制に入るとアート紙は不要不急品として生産を中止させられ、1945年6月の空襲で神崎工場は大半が焼失した。焼け残ったのは塗工部門とボイラー室、用水設備だけだった。工場の敷地には背丈ほどの雑草が生い茂り、構内を巡視していた社員が2匹のキツネを見つけたと社史は書いている。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙前史」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"追放された元副社長が引き受けた","text":"王子製紙は1946年1月に制限会社、同年12月に持株会社、1948年2月に過度経済力集中排除法の指定会社となった。GHQ経済科学局の反トラスト・カルテル課長ウェルシュ氏は1947年7月に9分割を口頭で指示し、王子製紙は同年9月に7分割案を提出する。この7分割案のなかで神崎工場は清算工場とされ、その土地は都島・淀川・熊野の各工場からなる大阪地区の新会社に所属させるという扱いだった。その後の折衝を通じて、神崎工場が王子製紙との関係を断ち切って完全に独立するのであれば分離独立を認める、という回答をGHQから得た。王子製紙自体は1949年8月に苫小牧製紙・十条製紙・本州製紙の3社に分割される。\n\n引き受け手を用意したのは、追放で隠棲していた元王子製紙社長の藤原銀次郎氏だった。1948年の年明け早々、藤原銀次郎氏は同じくA号追放に該当して王子製紙を去っていた元副社長の加藤藤太郎氏を自宅に呼び、「これからはアート紙がいるが、いまの状態からすれば、王子の手で神崎工場を復旧できるとは思えない。王子でできないなら、君がひとつ復旧を引受けてみてはどうか」と勧めた。当時の加藤藤太郎氏は追放該当者で退職慰労金もなく、東京の自宅は戦災で家財のすべてを焼いていた。加藤藤太郎氏はこれを受け、「会社は小さくていい。そこに働く人びとが、日本一しあわせである、そんな会社にしてみせる」と心に誓ったという。この言葉はのちに労働協約の前文となり、社是となり、工場正門前の記念碑に刻まれる。\n\n加藤藤太郎氏は新会社に必要な人材を王子製紙に求めた。社長の中島慶次氏を説いて、40歳代と30歳代の社員を1人ずつ譲り受けている。総務部副部長兼秘書課長から参事に転じて戦災工場の管理に当たっていた広瀬藤四郎氏と、苫小牧工場の厚生課長だった遠藤福雄氏である。両氏はのちに神崎製紙の社長と副社長になった。1948年9月18日、東京都中央区銀座の大日本図書内に置かれた創立事務所で創立総会が開かれ、代表取締役会長に大野竜太氏、代表取締役社長に加藤藤太郎氏が選任された。加藤藤太郎氏は追放該当者だったため発起人には名を連ねていない。9月20日に資本金1,000万円で設立登記が完了した。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙前史」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」1「会社の創立」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 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1951年(9)(23) 新規上場会社紹介「神崎製紙株式會社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"最終製品から先につくった","text":"神崎製紙は工場再開の第一目標を、原料でも原紙でもなく最終製品のアート紙に置いた。集排法による王子製紙の分割で生まれる各社との競合を避け、加工紙の特殊分野で発展をはかるという加藤社長の意向による。付加価値の高いアート紙を早くつくり出せば資金づくりが容易になり、工場建設を軌道に乗せるうえで有利だという判断でもあった。順序はアート紙を生産し、それで得た資金で抄紙部門を建設し、さらにパルプ部門を建設する、と決められた。焼け残った事務所の1階を建設本部、2階を宿舎とし、広瀬藤四郎専務以下が泊まり込んで突貫工事に取り組んだ。塗工機の稼働目標は1948年10月20日と定められ、当日の午前11時すぎ、全従業員が見守るなかで最初のアート紙が巻き取られた。会社創立からわずか1カ月である。\n\n最初の塗工機はブラッシュ・コーターで、塗料をハケで塗ってさらにハケで均一にならし、懸垂乾燥させて仕上げるもので、最高速度は毎分50メートルにすぎなかった。塗料の粘度や流動性を測る機器がなく、手ですくった塗料の流れ落ちる具合で良否を決めた。製品の表面強度は指でもんで落ちるコート層の多少ではかり、紙の白さや光沢も標準紙と見比べて決めるなど、経験と勘に頼らざるをえなかった。原料の不足も深刻で、アート紙の粘着剤であるカゼインは入手できず、当初は太平洋戦争末期に王子製紙神崎工場で研究されていたニカワ・アイシングラスを使った。それでも1948年11月に2号塗工機、1950年3月に3号塗工機が稼働し、生産は伸びた。1949年11月にはアート紙の全国生産総量の50%を占めるに至った。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」・3「アート原紙の自給」・4「パルプからアート紙まで」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」・2「アート紙の全盛時代」・4「創業の精神の具現化」・5「生産技術の向上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介「神崎製紙株式會社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"原木から製品までを三年で揃えた","text":"アート原紙は王子製紙の小倉工場と伏木工場から供給を受けていたが、当時は紙の絶対量が不足しており、上質紙はそのままで引っ張りだこだったから確保は難しかった。出荷通知を受けても到着期限は当てにならず、社員は尼崎駅で待たずに岡山や米原の国鉄貨物操車場まで出向き、アート原紙を積んだ貨車を見つけて一番早い貨物列車につけてもらうよう頼み込んだ。そこで神崎製紙は抄紙部門の建設に踏み切る。1949年9月20日に2号抄紙機（72インチ丸網）、同年11月11日に1号抄紙機（85インチ長網）を復旧させ、1950年3月25日には創業以来初めての購入機械による3号抄紙機を運転した。これでアート原紙を自給できる体制が整った。\n\n残るはパルプだった。パルプ専業会社は国策パルプ・東北パルプ・山陽パルプ・日本パルプ・興国人絹パルプの5社にすぎず、いずれもパルプ部門から製紙部門へ進出して一貫体制を築く方向に動き出していたから、神崎製紙が求めるパルプを供給する余力は早晩なくなると見られた。1950年にGHQがSP設備の新設を許可すると、神崎製紙もこれに乗り出した。難関は敷地で、王子製紙から譲渡された約7万平方メートルでは貯木場を含むパルプ部門を建設できない。隣接する東洋紡績神崎工場の敷地を譲ってもらう折衝を行ない、第一銀行の早川文造氏や通産省紙業課長の佐橋滋氏の尽力で8万9,100平方メートルの買入れが実現した。1950年5月に月産1,000トンの木釜2基からなるSP設備に着工し、1951年1月26日に第1回の蒸解を行なった。\n\n1951年4月にSP工場が全面完成し、神崎製紙は原木からパルプをつくり、そのパルプで紙を抄き、さらに加工してアート紙をつくる一貫工場を手にした。社史はこれを日本で唯一の完全一貫工場と記している。同年5月18日の完成記念式典に集まった全従業員は413名だった。無一文から出発して2年8カ月である。証券取引所への上場もこの時期に重なる。資本金が1億円となった直後の1951年5月に東京証券市場の店頭取引銘柄となり、同年7月25日に東京証券取引所へ上場、1952年6月には大阪証券取引所にも上場した。上場当日の株価は138円をつけている。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」・3「アート原紙の自給」・4「パルプからアート紙まで」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」・2「アート紙の全盛時代」・4「創業の精神の具現化」・5「生産技術の向上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 1951年(9)(23) 新規上場会社紹介「神崎製紙株式會社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"「金藤」と社員持株制度","text":"朝鮮戦争の特需で紙業界は潤い、神崎製紙の1951年上期の売上高は11億1,906万円と初めて10億円台に乗せ、税込利益は3億7,064万円、売上利益率33%、配当は4割8分に達した。資本金も3年続けて増え、1950年10月に3,000万円、1951年5月に1億円、1952年6月に2億5,000万円となった。紙の統制が全廃されて自由競争の時代を迎えると、各社は戦前の登録商標を復活させたり新銘柄を設けたりして製品の持ち味を打ち出すようになる。神崎製紙は全従業員から商品名を募り、アート紙の「金藤」「銀藤」などの銘柄を設定して1952年9月から新商標で販売を開始した。「金藤」はこのあと40年にわたって同社を代表する銘柄になる。\n\n増資のたびに実施された第三者割当ては、社員への株式割当てを意味していた。加藤社長は株主総会で「戦後の無一文の会社がここまでになりましたのは、従業員の努力に負うところが大きいと存じます」と訴えて特別議決を得た。1951年5月の第2回増資では増資株数140万株のうち株主への割当てが90万株、共済会である興和会へ15万株、従業員へ16万株が割り当てられた。買占め防止の安定株主対策として社員持株制度を採る会社とは、発想が根本から違っていた。1956年6月時点で発行済株式数1,000万株のうち興和会が94万株で9.4%を保有して筆頭株主となり、社員の持株334万株33.4%と合わせて42.8%を社員と興和会が所有した。\n\n労働条件でも同じ考え方が貫かれた。1954年8月に12時間2交替制から8時間3交替制へ移行するにあたり、労働時間短縮による賃金の減少分は基準内賃金の引上げで補い、実質的な収入減にしないことを労使で決めた。同年10月29日には加藤藤太郎社長と組合長の藤井浩氏との間で新労働協約が結ばれ、その前文に「われわれの念願する幸福は、この事業の繁栄に源を発し事業の繁栄は又われわれの幸福に帰せられるべきものである」と創業の理想が成文化された。同時に就業規則を王子製紙準拠から自前のものに改め、55歳定年制の条項を削って定年制のない会社となった。退職金規定も支給額と支給年齢で当時の水準を上回るものに改めている。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「神崎製紙の誕生」2「アート紙の生産」・3「アート原紙の自給」・4「パルプからアート紙まで」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「統制から競争の時代へ」1「銘柄品「金藤」の誕生」・2「アート紙の全盛時代」・4「創業の精神の具現化」・5「生産技術の向上」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"証券 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新規上場会社紹介「神崎製紙株式會社」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（東洋経済新報社、1955年）「神崎製紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1956,"end_year":1979,"main_title":"チャンピオン社との提携と、社運をかけた富岡工場","subsections":[{"title":"針葉樹が高騰し、広葉樹に移った","text":"神崎製紙のパルプ原料は当初もっぱら赤松など針葉樹だったが、針葉樹の宝庫だった樺太を失ったうえ各社の生産拡大が重なって手当てが難しくなった。赤松材の価格は1950年ごろの1立方メートル1,450円が1952年秋に2,700円、1953年には3,900円へと上がった。広葉樹は薪炭用に使われる程度の未利用資源で、繊維長が短く紙力を下げる難点はあったが、価格が安く確保も容易だった。神崎製紙は満永道夫氏らの研究をもとに、SCP法なら3段晒しで高白色度まで漂白でき、赤松SPに劣らない紙力を持つことを確かめ、1954年夏にSCP設備の新設を決めた。1955年3月16日にパンディヤ社の連続蒸解装置を備えたSCP設備が稼働し、広葉樹パルプを上質紙やアート原紙に30%配合した。晒しパルプとしてのSCPを高級印刷紙に使ったのは日本では神崎製紙が最初である。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」・2「チャンピオン社との技術提携」・3「アート紙の技術革新」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」・2「コーティング技術の高度化」・3「KSコピーの開発」・4「特殊包装紙への進出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"自前の技術を捨てて、相手の方式に切り替えた","text":"「ミラーコート」を生産していた神崎製紙が、あえて米チャンピオン社の技術を導入したのは、コストと独占の二つの理由による。チャンピオン・プロセスは顔料とカゼインを主成分とするキャスト塗料を使い、離型剤でドラム面に薄い油膜をつくって高能率に生産する方法で、日本特許第202,421号を持ち、合成樹脂配合量の多い神崎方式より生産コストが安かった。加えて主力のアート紙は3社独占が崩れるのが時間の問題と見られており、成長商品と目されたキャスト・コーテッド紙で「ミラーコート」を独占商品として維持することが必要だった。1957年5月に管理部副部長の蓮見勝氏と研究所副所長の藤井浩氏が渡米して仮調印し、正式契約は同年9月27日付けで結ばれた。対価はイニシャル25万ドル、ロイヤリティは販売量1トンにつき25ドル、期間は10年である。\n\n藤井浩氏は交渉の経緯を「調べたところチャンピオン社の特許をコピーしたものではなく、品質的にはむしろすぐれてさえいた」と語っている。自前の技術で相手と対等に近いところまで来ていたことが、かえって交渉を進めやすくした。契約は1958年3月27日付けで外資法にもとづく政府の承認を得て効力を発した。神崎製紙が外国の紙パルプメーカーと結んだ最初の技術提携である。1959年1月にチャンピオン社から重量32トン・直径3メートル70・面長2メートル50のキャスト・コーター・ドラムが神戸港に到着し、阪急今津線のガード下との差がわずか80センチという難所を4時間半かけて工場まで運んだ。1959年6月に新キャスト・コーターが本運転に入り、月産250トンの「ミラーコートK」の生産を始めた。同年8月には国産のキャスト・コーターもチャンピオン方式に改造され、神崎製紙のキャスト設備はすべて導入方式に切り替わった。\n\n提携で得た独占実施権は、のちに法廷で争われることになる。1959年夏ごろから日本加工製紙がキャスト・コーテッド紙を「クリスタル・コート」の商品名で市販し、国内外で「ミラーコート」と競合した。特許権者のスイス・チャンピオン社は1963年9月に製造販売禁止と損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴し、神崎製紙も1967年1月に専用実施権の侵害行為差止めを求めて訴えた。同年6月の東京地裁の決定で日本加工製紙王子工場のキャスト・コーター全機と在庫全製品が封印され、生産販売は事実上停止した。同年11月22日、日本加工製紙が示談金を支払い以後は本特許権と専用実施権を尊重するという内容で和解が成立し、4年2カ月にわたった裁判が終わった。賠償請求額は一部請求で約4億円に達し、社史は紙パルプ業界で未曽有の大事件だったと記している。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」・2「チャンピオン社との技術提携」・3「アート紙の技術革新」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」・2「コーティング技術の高度化」・3「KSコピーの開発」・4「特殊包装紙への進出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"総資産の2倍を超える工場を建てた","text":"神崎製紙は1956年春、徳島県に新工場を建てる決断を下した。神崎工場は用地と工業用水の面から大拡張が望めず、1社1工場の小規模生産では規模の利益を追う各社に対抗できないという判断である。だが必要な資金は用地買収費を含めて概算100億円だった。当時の資本金は1956年6月に倍額増資したばかりの5億円、半期売上高は23億円、総資産は41億円余にすぎない。総資産の2倍を超える投資であり、社史はこれを大きなカケと書いている。決定の経緯について蓮見勝常務は「新工場を建設する技術的な裏づけは十分であったし、そこにこの社員の団結が加われば、多少の困難はあっても必ずやり抜けるであろう。そういう加藤社長の社員に対する絶大な信頼が、この社運をかけた大事業に踏み切ることになった最大の理由だった」と語っている。\n\n用地の選定は難航した。1956年10月に遠藤福雄常務らが徳島県に赴き、那賀川の先端に位置して取水が至便な富岡町の辰巳新田を候補に決め、同年11月25日に徳島県知事あて照会状を出した。県と富岡町は誘致を決議して1957年1月23日に正式回答を寄せたが、辰巳新田は国有の干拓地で、農林省は「農地として国が造成したばかりの土地を工場に転用させることはできない」として転用を認めなかった。行き詰まりが解けたのは1958年8月9日で、県と市が辰巳新田の代替として豊益・眉毛の2地区を提案してきた。同月21日に調査した結果、富岡港の対岸にあたる豊益は浚渫が容易で船舶が接岸しやすく、台風の影響も辰巳より受けにくいなど、むしろ優れた条件を備えていた。\n\n1958年9月1日、加藤藤太郎社長の名で徳島県と阿南市に工場設置奨励条例による工場指定申請書を提出した。申請した用地は陸面98,575坪・海面23,003坪で、1日10万トンの工業用水と完成後11,000キロワットの電力の確保を県市に求めている。同年10月9日に原菊太郎知事・沢田紋阿南市長と加藤社長との間で契約書が結ばれ、同年11月17日には阿南市が最初の誘致工場であるとの理由で工場用地40ヘクタールを無償提供した。漁業補償は1961年2月に8,350万円で解決し、約70人に及んだ農地買収は1958年11月27日に妥結した。建設着手は1959年1月で、着工から数カ月後の同年8月には1号抄紙機の運転を開始している。1960年4月には広葉樹利用のクラフトパルプ設備が稼働し、KPから加工紙までの一貫工場が完成した。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」・2「チャンピオン社との技術提携」・3「アート紙の技術革新」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」・2「コーティング技術の高度化」・3「KSコピーの開発」・4「特殊包装紙への進出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 : 明治百年』（経済春秋社編、1968年）「神崎紙」の項","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"建て終わった年に、業界は不況に入った","text":"富岡工場の建設費は4号抄紙機を含めて100億円に達し、そのうち60億円を長期の銀行借入れ、残りを自己資金で調達する計画だった。しかし自己資金の調達は思うように進まず、不足分を銀行借入れに頼ったため、支払利息の激増と償却費の増大が重なった。神崎製紙は価格変動準備金などを取り崩して決算を行なうところまで追い込まれる。時期も悪かった。1962年4月に紙が、同年10月にパルプが輸入自由化され、1951年から1962年にかけて紙パルプ各社の供給能力はパルプが3.9倍、抄紙が4.9倍になり、アート紙にも国策パルプや日本パルプなど後発メーカーが進出して供給量は7.2倍に跳ね上がっていた。主力のアート紙の下落幅は大きく、富岡工場の収益寄与が期待された矢先に会社創立以来の最悪の事態を迎えた。\n\n打開策は二つの方向で進んだ。ひとつは神崎工場の体質改善である。最新設備の富岡工場でシェアを確保しながら、神崎工場のスクラップ・アンド・ビルドを進める体制ができていた。1964年9月15日には老朽化した2号板紙抄紙機に代わる7号板紙抄紙機が稼働し、「藤ポスト」「ミラーポスト」など神崎のアキレス腱とまでいわれた高級コーテッド板紙が需要家の要望に応えられる品質に達した。パルプ設備では1965年3月22日にカルシウムベースのSPから2段蒸解ソーダベースのSPへの転換を完了し、パルプ歩留りは42%から53%へ上がった。その後、公害対策の投資効果が薄いと判断され、富岡工場に新KPプラントを設置するかたちで、1969年5月に神崎工場のパルプ設備は姿を消した。\n\nもうひとつは印刷用加工紙の外に出ることだった。1962年11月に発売したノーカーボン感圧複写紙「KSコピー」は、事務の合理化と機械化の流れに乗って伝票類やテレタイプ用紙の需要をつかんだ。開発は1956年に京都大学の小田良平教授の指導で始まり、米NCR社のコアセルベーション法を避けて独自の製法を採る方針だったが、市場競争が激しくなったため1965年6月に方針を転換し、同年10月からコアセルベーション方式へ全面的に切り替えた。同じ1962年11月には気化性防錆紙「KS-VCI」の生産販売も始まっている。こちらは米ドーバート・ケミカル社の「ノックスラスト」を技術導入したもので、1968年末には先発の日本加工製紙のVPI紙と市場を二分するまでになった。社史はこれをアート紙以来の第3のピークと位置づけている。","references":[{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「技術革新下の躍進」1「広葉樹の利用」・2「チャンピオン社との技術提携」・3「アート紙の技術革新」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「社運をかけた富岡工場の建設」1「富岡工場建設の推進」・2「全広葉樹の一貫生産へ」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"神崎製紙の歩み（神崎製紙、1988年）沿革「試練のスクラップ・アンド・ビルド時代」1「神崎工場の体質改善」・2「コーティング技術の高度化」・3「KSコピーの開発」・4「特殊包装紙への進出」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"『企業の歴史 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