1960

食品とタクシーに参入

歴史的意義
渡米視察で見えた「トランプ産業の天井」が引き起こした迷走

1956年の渡米視察で山内溥が直面したのは、全米最大手でさえ事業規模が限定的という現実だった。国内シェア80%を握っても成長の上限が見えている以上、本業以外に活路を求めた判断は合理的だった。しかしタクシーも食品も既存事業との技術的連続性を欠き、競争優位を構築できなかった。高度成長期に日本企業が躍進する中、任天堂は10年以上の低迷に沈んだ。この失敗が「娯楽の外には出ない」という1966年以降の方針転換を不可避にした。

背景

トランプの市場規模を悲観

1950年代後半、任天堂はトランプ事業の量産化と国内市場での高いシェアによって一定の収益基盤を確立していた。しかし、娯楽用カードという製品特性から、国内外を含めた市場規模そのものは限定的であり、事業規模の拡大には構造的な上限が存在していた。

1956年、山内溥は渡米視察を行い、全米最大手のトランプメーカーの工場を訪問した。そこで確認した生産規模と事業規模は、トランプ産業全体の天井を強く意識させるものであった。この経験を通じて、任天堂をトランプ専業の会社として成長させ続けることへの懸念が、経営者自身の問題意識として明確になっていった。

決断

娯楽以外の事業にも多角化

1960年、任天堂はトランプ事業以外の収益源を模索し、非娯楽分野を含む多角化に踏み出した。まず子会社としてダイヤ交通株式会社を設立し、タクシー事業への参入を決定した。これは既存事業と技術的な連続性を持たない分野であり、安定的な収益基盤の確立を狙った判断であった。

続いて1964年には近江絹糸との合弁により加工食品事業に参入し、キャラクターを活用した食品の製造・販売を開始した。任天堂は1960年代前半を通じて、トランプに依存しない事業構造への転換を目指し、複数の新規事業を並行して展開していった。

結果

多角化は定着せず長期低迷へ

しかし、これらの新規事業はいずれも競争優位性を確立できず、主力事業として育成されるには至らなかった。1965年以降の景気後退局面では、本業であるトランプの需要が低迷し、流通在庫の増加によって工場稼働率は大きく低下した。営業利益は一定水準を維持していたものの、収益構造の不安定さが顕在化した。

結果として、トランプ事業の収益によって新規事業を育成する構想は成立せず、1969年にはタクシー事業を名鉄グループに譲渡し、加工食品事業からも撤退した。1960年代後半の任天堂は、本業停滞と多角化失敗が重なり、長期的な業績低迷局面に入ることとなった。

山内溥 任天堂・当時社長
1987年ごろの当事者の証言
昭和40年代(注:1965年〜1975年)は日本の高度成長時代で、様々な企業が大変成長して躍進を遂げた時代です。私どもの任天堂は元々京都でトランプやカルタを作っていた家内工業でしたが、トランプやカルタが売れなくなりましたので、次第に他のことをしなくてはならない必要に迫られて転身を図ったのです。その40年代を振り返ってみますと、いろいろな企業が大躍進を遂げられたのに、任天堂は一向にパッとせず、トンネルの中から抜けられず長い低迷の期間でした。
経営統合に関連する時系列
  1. ダイヤ交通株式会社を設立
  2. 三旺食品株式会社を合弁設立
  3. 任天堂株式会社に商号変更
  4. タクシー事業を名鉄グループに譲渡
  5. 加工食品事業から撤退