松本三郎氏は戦前の濱口内閣が「国産奨励」の政策を掲げたことを受けて、カメラの将来性に着目。小西六写真工業と共同でカメラの開発を決め、旭光学はカメラ向けレンズの研磨を担当した。この経緯から、旭光学は戦後にカメラメーカーとして発展する上で、技術的難易度の高いレンズの知見が溜まっていることが大きな強みに育った。
創業者の梶原熊雄氏や経営幹部が同時に病気がちになったことを受けて、旭光学に職工として勤務していた親戚の松本三郎氏(当時27歳)が経営を担うようになった。当時の社員数は10名程度の町工場であったが、それまで従事していたレンズ職工の仕事だけではなく、都内のメガネ問屋をめぐる営業活動にも従事し、工場の存続に奔走した。
ところが、夜間学校に通い出して三年経った頃、叔父が病気で倒れ、また幹部である職長や支配人までもが相次いで病気になってしまった。いやおうなしに、工場経営という重荷が私の方にかかってしまったのである。27歳の頃だったと思う。
研磨作業は他の職工さんにまかせ、私は注文をとりに歩いた。営業などということは生まれて初めて経験することであったし、しかも話し下手。毎日が苦痛の連続だったが、注文を取れなかったら工場は閉鎖しなければならなくなる、と必死の思いで耐え抜き、本郷から本所、銀座、芝へと都内のメガネ屋さんを自転車に乗って御用聞きに歩いた。今思い返しても、あの時の必死な気持ち、ファイトは懐かしい。1職工として働いた方がどれだけ楽かわからない、と当時は思ったものだが、しかし私は、あえて苦労、困難を避けることをしなかった。
TTL(焦点露出計測)を世界で初めて開発。一眼レフの国内シェア25%を確保
経営多角化のためにライフサイエンス領域(内視鏡)に新規参入。先発のオリンパスと競合しつつも、2000年代にはペンタックスのイメージング事業(カメラ製造販売)の不振をカバーする高収益事業に育った。
輸出カメラが中心だったペンタックスは、経営の多角化を図るために新規事業に参入。1983年に人工歯根「アパセラム」を開発し、医療分野への参入として注目を集めたが、同事業はペンタックスを成長させる原動力にはならなかった
主流の35mmフィルムではなく、120フィルムの規格(35mmよりも大きく解像度が高い)に対応した中判一眼レフを開発
円高ドル安の進行を受けて海外生産移管を開始。円高が進行に対して移管が遅れ、カメラ事業の採算が悪化
1993年にペンタックスは93億円の最終赤字に転落。赤字の内訳は、ハネウェルに対するオートフォーカスカメラの特許訴訟の敗訴や、財テクの失敗も含まれるが、主な要因はカメラ生産における生産調整による工場稼働率の低下であった。
デジタルカメラの台頭に乗り遅れたことを受けて中期経営計画を策定。内視鏡は業績好調なものの、カメラの不振をカバーできず
経営不振を打開するためにHOYAとの経営統合を計画。HOYAはペンタックスの内視鏡事業の取り込みが狙い。一方、ペンタックス社内で反対論が噴出し、最終的にはTOBで決着へ