旭光学工業合資会社を設立
東京都内で創業
1919年に東京都豊島区(西巣鴨3-873)にて旭光学工業合資会社を設立。創業者は梶原熊雄氏であった。屋号の由来は、西巣鴨の丘の上に建築された工場に投影される「朝日」が美しかったことから、旭光学と命名したことによる。
創業時の事業内容は眼鏡レンズの研磨であり、販売先は東京都内の問屋であった。
レンズの研磨技術を蓄積
1923年には映画館の普及に合わせて、映写機用レンズの製造に参入。「AOCOレンズ」のブランドを展開し、国内シェアを確保して業容を拡大した。
1925年からはカメラ向けレンズの研磨にも従事。研磨技術を生かして事業の拡大を図った。
松本三郎氏が事業承継
創業者の梶原熊雄氏は体調不良により病気療養に専念することを決定。そこで、旭光学に職工として勤務していた親戚の松本三郎氏(当時27歳)が経営トップを担った。当時の旭光学の従業員数は約10名であった。
松本三郎氏は旭光学の業容拡大のため、積極的な営業を展開。新たな取引先を拡大するために、都内のメガネ問屋を巡る営業活動に従事し、旭光学の存続に奔走した。
ところが、夜間学校に通い出して三年経った頃、叔父が病気で倒れ、また幹部である職長や支配人までもが相次いで病気になってしまった。いやおうなしに、工場経営という重荷が私の方にかかってしまったのである。27歳の頃だったと思う。
研磨作業は他の職工さんにまかせ、私は注文をとりに歩いた。営業などということは生まれて初めて経験することであったし、しかも話し下手。毎日が苦痛の連続だったが、注文を取れなかったら工場は閉鎖しなければならなくなる、と必死の思いで耐え抜き、本郷から本所、銀座、芝へと都内のメガネ屋さんを自転車に乗って御用聞きに歩いた。今思い返しても、あの時の必死な気持ち、ファイトは懐かしい。1職工として働いた方がどれだけ楽かわからない、と当時は思ったものだが、しかし私は、あえて苦労、困難を避けることをしなかった。
旭光学工業株式会社を設立
戦時下の軍需品生産のための管理工場に指定されたことを受けて、合資会社から会社組織に変更。旭光学株式会社を設立した。
一眼レフカメラの研究を開始
終戦後は双眼鏡の製造に従事していたが、1949年にカメラへの参入を決定。競合が多い二眼レフではなく、一眼レフ(35mm)への参入を決断し、研究開発に着手した。
当時のカメラは二眼レフの前世時代で、国内に50社近い二眼レフメーカーがあって、すでに激しい販売競争を展開していたと記憶している。カメラの生産に乗り出そうと考えていたものの、今更二眼レフを作ったのでは、先発メーカーに伍していくのは容易ではない。どうせ努力するなら他社がまだ作っていないカメラをやろう、ということで開発に着手したのが35mmの一眼レフカメラである。(略)
当時、35mmの一眼レフカメラとしては東ドイツ製のエグザクタというカメラがあったが、このカメラは形が大きく、重量が重いだけでなく、シャッターを押すとミラーが上がってしまい何も見えなくなり、次にシャッタを押すためにはレバーを巻いてミラーを下げなければならない、という煩雑な機構のもので、そのためあまり人気を博していなかった。私はこうしたエグザクタの欠点を改良したカメラを作れば、ある程度の需要は喚起できるとの考えで、35mm一眼レフカメラの試作、研究に着手した。
東京都板橋区に本社工場を移転
一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅠ型」を開発
一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅠ型」を開発
1954年にペンタックスは国産初となる一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅠⅠ型」を開発。当時、日本国内では競合企業が存在せず、独創的な製品であった。
後継機種として「アサヒペンタックスS2」を開発
アサヒフレックスは一眼レフであったが、撮影時にカメラの上部から覗く必要があり、自然な形での撮影が難しいという問題を抱えていた。
そこで、旭光学は被写体と同じ目線で撮影できるカメラの開発を急いだ。技術的には「五角形のペンタリズム」をカメラボディー組み込むことにより、この問題を解決。1957年に被写体と同じ目線で撮影ができるカメラとして「アサヒペンタックスS2」を発売した。
ペンタプリズムを内蔵して撮影者にとってわかりやすいカメラとしてシェアを確保。ペンタックスのブランドが国内に浸透するきっかけとなった。
何しろ、それまでどのメーカーも35mmの一眼レフを手がけていないため、研究開発は手本なしの、文字通り独創であった。双眼鏡でかなりの利益を得たとはいえ、それは会社の規模にしてはということであり、もう後には引けないという気持ちで、私をはじめ全社員一丸となって開発に当たったのである。(略)
一般の人が、老若男女、子供を問わず誰でも簡単に被写体を捉えて写せるカメラというのには、このウエストレベル(注:上から覗き込んで撮影する従来方式)は少々無理なものだった。私は35mm一眼レフをより普及させるには、この点の解決を図らなければならない、と考えた。
顔の前に構え、目の高さで被写体を捉えて写すカメラなら、誰でも簡単に操作できる。この高さをウエストレベルに対してアイレベルと呼ぶが、そのアイレベルのカメラの開発を考えたのである。目の高さでのぞくと言っても今日なら当たり前のカメラだが、当時は画期的なものだった。アサヒペンタックスS2がアイレベル第一号である。五角形のプリズム、ペンタリズムを組み込むことによって、アイレベルの問題を解決したのだ。
旭光学商事を設立(シアーズ向け輸出)
旭光学は国内向けに加えて、輸出に注力するため1955年に旭光学商事を設立。北米輸出では小売業大手のシアーズローバック向けに輸出契約を締結するなど、輸出比率の向上を目論んだ。
埼玉県小川町に工場を新設
一眼レフカメラ「アサヒペンタックスSP型」を開発
TTL(焦点露出計測)を世界で初めて開発。一眼レフの国内シェア25%を確保
益子工場を新設
一眼レフで国内シェア1位を確保
東証第2部に株式上場
香港での現地生産を開始
内視鏡の製造に新規参入
経営多角化のためにライフサイエンス領域(内視鏡)に新規参入。先発のオリンパスと競合しつつも、2000年代にはペンタックスのイメージング事業(カメラ製造販売)の不振をカバーする高収益事業に育った。
松本徹氏が社長就任
米国で医療機器販売会社を設立
人工歯根「アパセラム」を開発
輸出カメラが中心だったペンタックスは、経営の多角化を図るために新規事業に参入。1983年に人工歯根「アパセラム」を開発し、医療分野への参入として注目を集めたが、同事業はペンタックスを成長させる原動力にはならなかった
中判一眼レフ「ペンタックス645」を発売
主流の35mmフィルムではなく、120フィルムの規格(35mmよりも大きく解像度が高い)に対応した中判一眼レフを開発
東南アジアでの海外生産にシフト
円高ドル安の進行を受けて海外生産移管を開始。円高が進行に対して移管が遅れ、カメラ事業の採算が悪化
最終赤字に転落
1993年にペンタックスは93億円の最終赤字に転落。赤字の内訳は、ハネウェルに対するオートフォーカスカメラの特許訴訟の敗訴や、財テクの失敗も含まれるが、主な要因はカメラ生産における生産調整による工場稼働率の低下であった。
最終赤字に転落
中期経営刷新計画を策定
デジタルカメラの台頭に乗り遅れたことを受けて中期経営計画を策定。内視鏡は業績好調なものの、カメラの不振をカバーできず
小川事業所を閉鎖(レンズ生産)
米マイクロライン社を買収
米国の手術器具メーカーであるマイクロライン社を買収
システマス社をを買収
スペインの内視鏡等医療機器の販売会社システマス・インテグラレス社を買収
早期退職者を募集
HOYAがTOBによりペンタックスを買収
益子工場の閉鎖発表
HOYAがペンタックス部門をリコーに売却
カメラ主体のペンタックスはHOYAのTOB後も業績不振が続き、2011年にHOYAはペンタックスの売却を決定。売却先はリコー
ペンタックス旧本社工場を解体
HOYAおよびリコーの傘下で、ペンタックスの不良資産を清算。人員は削減し、固定資産は旧本社工場を含めて閉鎖および売却へ