1970年代のオイルショック以降、セメントの価格下落が進行して大手各社の業績が悪化。1980年代には過剰生産を抑えるために業界内で設備廃棄などが進行したが、それでも設備余剰の解消には至らなかった。
大手メーカーでも1社あたりのシェアは20%前後であり、同様の規模の企業が群雄割拠して値下げをすることによって、価格競争に拍車がかかる市場構造も問題となった。これは、セメント原料である石灰石の採掘が日本全国で可能であり、結果として各産地にセメント企業が工場を設置したことが理由であった。
このため、セメント価格の安定化をめざし、1990年代には大手セメント会社による業界再編が本格化した。
セメント業界大手であった秩父セメント(栗原隆・当時社長)と小野田セメント(今村一輔・当時社長)は、1992年から合併に関する協議を開始。翌1993年11月に合併を公表して、1994年10月に秩父小野田を設立した。合併比率は、秩父セメント「1」に対して、小野田セメント「2.1」に決定され、小野田セメントに有利な合併となった。
秩父小野田の発足により、日本国内におけるセメントの販売シェアが24%となり、それまで業界トップだった日本セメントを抜いて国内1位となった。
1997年10月2日に秩父小野田と日本セメントは合併計画を対外的に公表。翌1998年10月に秩父小野田と日本セメントが合併して「太平洋セメント」を発足した。日本セメントとは競合関係であったが、供給過剰によるセメント市況の下落に耐えられず合併を決定した。
合併後のシェアは約40%(旧秩父小野田のシェア22.6%・旧日本セメントのシェア16.7%。ヤノレポート(1015))となり、売上高約1兆円の国内トップのセメントメーカーが誕生した。
太平洋セメントの発足により、国内セメント業界における企業合併・再編は一巡。1990年代を通じて「日本セメント・秩父セメント・小野田セメント」の大手3社が統合する形となった。
これまで両社はライバルとして国内でシェアを争ってきた。今回の合併話をまとめた秩父小野田の今村一輔会長(旧小野田セメント)と木村・日本セメント社長は、20年前には同じ時期に東京支店長を務め、「この野郎、と腹を立てたことは1度や2度ではなかった」(今村会長)というほどの間柄。その両者が手を結ぶまでに、日本のセメント業界は追いつめられている。