大阪紡績会社を設立
渋沢栄一氏による大阪紡績会社の設立
明治時代初頭において、国内の繊維業(紡績)は官営事業が主体であった。明治政府は「2000錐」の生産規模による紡績の事業化を立案したが、世界的に見れば小規模であり生産性に劣る問題に直面していた。これに対して、財界の有力者であった渋沢栄一氏は紡績業の民営化と生産規模の拡大が有効であるという仮説を持つに至った。
1882年5月3日に渋沢栄一氏が中心となって「大阪紡績会社」を設立。出資者は華族が中心となり、会社設立時点の株主のうち38%が華族(前田家・毛利家・徳川家・伊達家)で占められた。このため、大阪紡績会社は渋沢栄一氏が立案した事業計画を、華族(元藩主)の資本によって実現する会社となった。
工場立地の選定作業を経て、1883年7月に大阪紡績は「三軒家本社工場」を大阪市内(大正区三軒家東2丁目・現在の三軒家公園)に新設。積極的な設備投資により「紡績機械1.5万錐」を据付け、民間紡績会社として大量生産の体制を整えた。
紡績会社として急拡大・職工1万名規模に発展
稼働開始の初年度(明治16年)における職工は293名の体制をとり、稼働4年目に当たる明治19年には職工1073名となり1000名を突破した。明治42年には同10,950名の体制となり1万名を突破し、大規模な紡績会社として規模を拡大した。
このため、明治時代を通じて大阪紡績は近代的な紡績会社として注目を集めた。
三重紡績会社を設立
三重紡績所の経営難
三重県四日市市室山町の資産家であった伊藤伝七氏は、明治3年頃に洋式紡績に着眼。事業化するために明治時代初頭に三重紡績所を設立し、紡績会社の経営を開始した。ところが投資が過剰であったことや、品質不良、水資源の不足(水力を利用)に直面し、三重紡績所は設立直後から業績が低迷した。
経営再建のために三重紡績会社を設立
そこで、経営再建のために、明治16年に伊藤伝七氏は渋沢栄一氏と接触。渋沢栄一氏は1万錐の大規模工場の新設を提案したため、三重紡績所は大阪紡績会社を参考にして、三重県四日市に大規模な紡績工場の新設を決定。工場新設を受けて、明治17年に新会社として三重紡績会社を設立した。
渋沢栄一氏による三重紡績会社への経営関与
三重紡績会社は旧三重紡績所の経営再建のために設立された会社であり、渋沢栄一氏による大阪紡績会社を模範としたことから、大阪紡績と近しい存在となった。特に、渋沢栄一氏は三重紡績の相談役を歴任しており、1914年の三重紡績会社と大阪紡績会社の合併(東洋紡績会社の発足)の布石となっている。
東洋紡績株式会社を設立
紡績会社の過当競争
大正時代までに日本国内に紡績会社が乱立した結果、価格競争が激化。国内では大規模な紡績会社による企業買収が活発化し、業界再編が進行した。
大阪紡績と三重紡績が合併・東洋紡績を発足
1914年6月に大阪紡績株式会社と三重紡績株式会社が合併し、東洋紡績株式会社を発足した。東洋紡績の設立時点において、関西圏(大阪・三重)を中心に16か所の工場を稼働し、日本国内における紡績業で相応の規模を持つメーカーとなった。
両社ともに関西圏を中心に地方の紡績会社を合併することで規模を拡大したが、さらなる規模の拡大を目指して大阪紡績と三重紡績の合併に至った。合併に尽力した人物は渋沢栄一氏であり、大阪紡績と三重紡績の相談役を兼務していたことも合併に寄与した。
紡績設備で国内トップ
1914年12月末時点において、東洋紡績は紡績設備(据付錐数)において44万錐(国内1位)、綿糸生産量において2.8万梱(国内1位)を達成。東洋紡は国内トップの紡績会社となった。
企業名 | 紡績設備 | 綿糸出来高 | 紡績工場数 |
東洋紡績 | 44.1万錐 | 2.8万梱 | 15工場 |
鐘淵紡績 | 42.9万錐 | 2.3万梱 | 16工場 |
富士瓦斯紡績 | 23.8万錐 | 0.7万梱 | 4工場 |
尼崎紡績 | 21.8万錐 | 0.6万梱 | 4工場 |
大阪合同紡績 | 18.0万錐 | 1.1万梱 | 6工場 |
摂津紡績 | 15.7万錐 | 1.2万梱 | 6工場 |
岸和田紡績 | 13.5万錐 | 0.8万梱 | 4工場 |
日本紡績 | 11.9万錐 | 0.1万梱 | 2工場 |
福島紡績 | 10.3万錐 | 0.9万梱 | 6工場 |
日清紡績 | 6.7万錐 | 0.1万梱 | 2工場 |
倉敷紡績 | 5.9万錐 | 0.3万梱 | 2工場 |
レーヨンの生産開始
大阪合同紡績を合併
レーヨンの増産投資
東京証券取引所に株式上場
アクリル繊維に参入
ポリエステル繊維ではなくアクリル繊維を選択
1956年頃に東洋紡は合成繊維に進出するために、東洋紡・住友化学・ACCの3社により「アクリル繊維に関する技術援助契約」を締結。米ACC社から技術導入を実施し、1956年に東洋紡と住友化学の合弁会社として日本エクスラン工業を設立した。
1958年4月に日本エスクラン工業は、岡山県内に西大寺工場を新設。アクリル繊維の生産を開始した。
ポリエステル繊維で東洋紡が競争劣位へ
1954年に英国のICI社から東洋紡に対して、ポリエステル繊維に関する技術提携の打診があった。だが、東洋紡としてはアクリル繊維に注力する方針を示し、ポリエステル繊維の技術導入を見送った。ポリエステル繊維では、原料であるテレフタル酸の製造設備に相応の投資が必要であり、当時は繊維製品に適した繊維である確証もなかったため、東洋紡としてはポリエステル繊維への参入を見送った。
この結果、東洋紡は合繊繊維(ポリエステル繊維)の領域において、ICIと提携して技術導入の選択をとった「帝人・東レ」に対して出遅れる形となった。
谷口豊三郎氏が社長就任
プロピレンフィルムの生産開始
アセテートの染色問題・合成繊維として普及せず
東洋紡が注力していた合成繊維(アセテート)は、当初は羊毛の代替品として期待されたが、実際には染色性に難があり、ナイロンやポリエステルといった合成繊維のように普及には至らなかった。
フィルム・樹脂に技術を転用
そこで、東洋紡はアセテートの繊維開発で培った技術を転用し、プロピレンフィルム(PPフィルム・二軸延伸PPフィルム)を開発。繊維製品ではなく、樹脂製品として展開することで、収益化を目指した。
ポリエステルの生産開始
呉羽紡績と合併
東洋紡と呉羽紡が合併
1965年8月に東洋紡績(谷口豊三郎・社長)と呉羽紡績(伊藤恭一・社長)は合併を発表。東洋紡を存続会社として「呉羽紡績の株式10株に対して東洋紡績の株式8株」の割当を決定した。東洋紡の従業員数は約1.9万名、呉羽紡の従業員数は約1.4万名であり、合併後は従業員3.3万名の繊維メーカーとなった。
呉羽紡績から合併要請・ナイロン設備に特色
合併における交渉に際しては、呉羽紡の伊藤社長が、東洋紡の谷口社長に対して、合併の提案を申し出たのが契機であったという。呉羽紡績は1929年に伊藤忠の創業家によって設立された繊維メーカーであり、北陸地方を中心に繊維工場(呉羽・入膳・大町・豊科・井波・坂祝・庄川の各工場)を稼働していたが、1960年代を通じた繊維事業の競争激化を受けてシェア上位企業との合併を模索した。
このため、東洋紡および呉羽紡による合併の狙いは、繊維業における過当競争の回避にあった。また、東洋紡としては参入に出遅れた合成繊維「ナイロン」について、合併によって呉羽紡績の設備を取得できるメリットがあった。すでに、1960年に呉羽紡績はナイロンへの参入を果たしており、東洋紡と比べて先発していた。
合併により東洋紡績の営業開始
合併発表の翌年、1966年4月26日に東洋紡と呉羽紡の合併が完了。合併後の称号は「東洋紡績」とし、東洋紡が優位な状態で事業を遂行した。
私自身も、日本の紡績が一体このままの状態でいけるのか非常に疑問を持っている。イギリスの大変革によってマンチェスター(注:繊維工業の地)はすでになくなってしまった。われわれは大阪を東洋のマンチェスターなどといっていたが、イギリスのマンチェスターは化合線を主体にした新しい繊維産業としてデビューしている。しかもICIとコートルズという2大資本を中心にして、全部が一つの塊になり系列化されている。
化成品事業部を発足
化学繊維事業の行き詰まり
1960年代を通じて化学繊維(スフ・レーヨン)の需要が低迷。合成繊維(ポリエステル・ナイロン)が普及したことで、天然資源(木材パルプなど)を原料とする化学繊維は、石油原料の合成繊維に対して競争劣位な状況に陥った。
このため、東洋紡においても、スフ・レーヨンを生産していた化学繊維事業の採算が悪化。岩国工場におけるスフの生産量が低下し、化学繊維の原料(木材パルプ)を供給していた犬山工場も稼働率の低迷に直面した。特に犬山工場(パルプ生産)では、日産300tが採算ラインであるのに対して、実働日産45〜80tに低迷して業績不振に陥っていた。
化製品事業部を発足・フィルム生産を本格化
1968年に東洋紡は化学繊維に代わる新事業を拡大するために「化成品事業部」を発足。化学繊維原料(パルプ)を生産していた犬山工場について、樹脂製品であるフィルム製品の生産に転換し、非繊維事業としての拡大を志向した。
経営の多角化
ニクソンショックによる繊維事業の採算悪化
1971年のニクソンショックを契機とする円高ドル安の進行により、日本における人件費が高騰したため、1970年代を通じて国内生産に依存した繊維企業各社の業績が悪化。繊維メーカー各社は繊維に依存した経営から脱却するために、経営の多角化を志向した。
東洋紡における非繊維事業の積極展開
東洋紡においても、1970年代を通じて非繊維事業への注力を決定。すでに展開していた「化成品(フィルム・樹脂)」に加えて、ライフサイエンス(バイオ)、不動産(工場跡地の賃貸活用)、エンジニアリング、炭素繊維など、広い領域において、従来の繊維事業とは異なる収益を確保するために多角化を選択した。
宇野収氏が社長就任
敦賀バイオ工場を新設
人工腎臓用中空糸膜を量産開始
国内3工場の閉鎖
円高ドル安の進行で繊維生産の採算悪化
1980年代を通じて円高ドル安が進行。1985年のプラザ合意により円高が一層進行する形となり、労働集約的な国内における繊維企業の採算が悪化。繊維生産地として為替レートが優位な「中国・韓国・東南アジア」などの繊維企業が台頭したことにより、日本の繊維メーカーは国内生産で競争劣位な状況に陥った。
国内工場の閉鎖(浜松・鈴鹿・今治)
1984年から1986年にかけて、東洋紡は国内3工場の閉鎖を実施。1984年に浜松工場および鈴鹿工場、1986年に今治工場を閉鎖し、国内における繊維生産の縮小を実施した。ただし、3工場閉鎖後も国内における繊維生産は他の工場で継続している。
赤穂工場・忠岡工場を閉鎖
採算が悪化した綿紡績の生産能力を縮小するため、1994年3月に赤穂工場(兵庫県)および忠岡工場(大阪府)を閉鎖
伊勢工場・大町工場を閉鎖
採算が悪化した綿紡績の生産能力を縮小するため、1990年12月に伊勢工場(三重県)および大町工場(長野県)を閉鎖
羊毛事業で減産
採算が悪化した羊毛事業(毛紡績)について、国内における生産能力を40%することを縮小を決定。羊毛事業については、子会社として分離した。
小松島工場・渕崎工場・宮城工場を閉鎖
採算が悪化した繊維製品の生産能力を縮小するため、2000年6月に小松島工場(徳島県)および渕崎工場、宮城工場を閉鎖
御幸HDを買収(御幸毛織)
関連会社の御幸ホールディングスを買収
2009年に東洋紡は関連会社の御幸ホールディングス(東証一部上場・東洋紡が約41%出資)の買収を決定した。すでに1942年に東洋紡は御幸毛織に出資しており、半世紀超にわたって関係性を維持していた。
御幸毛織における業績不振
御幸毛織は紳士服の製造(国産)と販売を手がける異色のメーカーであった。1979年4月期には売上高に対する経常利益率で38%を達成するなど、紳士服への特化戦略が成功した事例として注目を集めていた。
ところが、1990年代以降は安価な輸入紳士服販売店(洋服の青山など)の台頭により、御幸毛織の収益性が悪化。2009年3月期に御幸HDは、本業である繊維事業が赤字に転落し、不動産事業の利益に頼る状況であった。
救済的買収・負ののれんを計上
東洋紡は関連会社である御幸HDを救済する目的で買収を決定。取得原価は66億円。株式交換による買収を実施し、東洋紡は「負ののれん金額」として41億円を計上し、5年間にわたる均等償却を実施した。
御幸ホールディングスの買収により、東洋紡は毛織物(紳士服向け)の事業とともに、御幸毛織の不動産事業を取得。名古屋市内の一等地において商業施設を展開しており、東洋紡の不動産事業における施設ポートフォリオが追加された。
商号を東洋紡株式会社に変更
繊維事業の縮小とフィルム製品を中心とする非繊維事業の拡大を受けて、商号の変更を決定。従来の「東洋紡績」から「東洋紡」に照合を変更し、紡績にとらわれない事業展開を商号と一致させた。
保護フィルム「コスモシャインSRF」を開発
液晶テレビ向け保護フィルムを開発
2013年に東洋紡は偏光子保護用超複屈折フィルム「コスモシャインSRF」を開発。液晶テレビ向けの保護フィルムとして販売を開始した。
世界シェア60%を確保
コスモシャインSRFは、従来の保護フィルムの主流であったトリアセチルセルロール系のフィルムに比べて、品質が高い(反り防止)ことで、先発製品の代替に成功。2024年までに「液晶テレビ向け偏光子保護フィルム」において世界シェア60%(1位)を確保した。利益率は非開示だが、トップシェアゆえにフィルム事業における収益製品に育ったと推定される。
FY2015〜FY2019にかけて増益
2015年度以降、東洋紡はフィルムセグメントにおいて増益を達成。同セグメントにおいては包装用・工業用(液晶向け保護フィルム・MLCC向けフィルム)を展開しており、利益の内訳は非開示だが、コスモシャインの販売拡大により利益貢献したと推定される。
海外繊維事業を縮小
防弾ベスト向け繊維の訴訟和解
ザイロンの販売開始
1998年に東洋紡はつるが工場において、高付加価値な繊維製品として「ザイロン」の本格生産を開始した。高耐久・高耐熱の繊維として開発し、主に防弾ベスト向けの繊維として採用された。東洋紡としては、低収益が続く繊維事業において、高付加価値な製品の展開を志向した。
なお、ザイロンが採用された防弾ベストは米国に対しても輸出された。この結果、2002年から2018年にかけて、東洋紡はザイロンの品質劣化を巡る訴訟(防弾ベスト貫通事件が発端)に巻き込まれる形となった。
ザイロンの強度劣化問題
2002年12月に米国のカリフォルニア州において、東洋紡が販売した防弾ベスト向けの繊維製品「ザイロン」における銃弾の貫通事故が発生。防弾性能を満たしていない疑いが生じた。事態を問題視した米国の司法省は、2005年〜2007年にかけて東洋紡に対する訴訟を提起した。
原告(米司法省)はザイロンにおける品質問題を提起して「東洋紡はザイロンの繊維の強度について、一定の条件で早く劣化することを知りながら開示しなかった」ことを主張した。このため、東洋紡は米国においてザイロンを巡る訴訟対応に追われる形となった。訴訟は、2018年に和解するまで、約10年にわたって続いた。
和解金70億円で決着
2018年に東洋紡は訴訟の長期化を受けて和解を選択。原告の主張を否定しつつも、和解金70億円を原告に支払うことで訴訟を終結を選択した。
繊維事業を分割
フィルム製品で大幅減益
原料価格の高騰で減益
2010年代を通じて、東洋紡はフィルム事業(包装用・工業用)が、全社利益の大半を稼ぐ基幹事業であった。工業用フィルムでは、液晶向け・MLCC向けなどを展開し、特に、液晶偏光子保護フィルムは世界シェア60%を確保し、競争力のある製品に育っていた。
ところが、2023年3月期に東洋紡は利益面における主力事業である「フィルム」セグメントにおいて、前年度比で大幅な減益(198億円→16億円)を計上。業績悪化の要因は「包装用フィルム・工業用フィルム」について、原料価格(国産ナフサ価格など)の高騰に対して、最終製品に価格転嫁しきれなかった点にあった。
フィルム製品の価格改定(値上げ)
2022年10月に東洋紡は包装用フィルム製品について値上げを発表。だが、さらなる原料価格の高騰を受けて、翌2023年4月に東洋紡は再度値上げを決定。対象製品は「二軸延伸ポリプロピレンフィルム」「無延伸ポリプロピレンフィルム」「リニアローデンシティ・ポリエチレンフィルム」等であった。
値上げ後も低収益の傾向へ
各種フィルムの値上げを決定したものの、販売価格への転嫁が不十分(原料値上げに対して70%の転嫁効果)であり、2024年3月期においてもフィルムの収益が低迷。工業用フィルム(液晶偏光子保護フィルム)の販売が回復したものの、包装用フォルムの販売は低迷基調が続いた。
つるがフィルム工場で増産決定
液晶偏光子保護用屈折フィルム「コスモシャインSRF」(主に液晶テレビ向け)について30%の増産を決定。2026年度をめどに「つるがフィルム工場」において、量産設備の新設を決定した。