1937年に関家三男氏が広島県呉市で興した工業用砥石の第一製砥所が起源。
1975年に半導体用ダイシングソーを自社開発し、砥石・装置・使い方を一社で抱える体制を築いた。ダイシングソーとグラインダで世界の7割を占める半導体製造装置メーカーで、売上高営業利益率は42%に達する。
1937年5月、関家三男氏は広島県呉市で工業用砥石の製造と販売を目的に、個人営業の第一製砥所を創業した。関家三男氏は東亜同文書院を出て満洲国国務院の官吏となったものの、軍部の専横と一方通行の役所仕事を嫌って辞職し、郷里へ戻った。呉には海軍工廠があって大砲の製造に研削用の砥石を使ったが、国内の製砥技術は未熟で、良質な砥石はドイツからの輸入に依存した。関家三男氏自身は技術者ではなく、名乗り出た職人を雇い入れて研削用の工業用砥石づくりから事業を始めた。最初の製品は自動車部品や工作機械の製作に使う研削砥石だった。輸入品に依存する需要が郷里にあったことが、官吏出身の関家三男氏を砥石業へ向かわせたのだろう。
1940年3月、関家三男氏は個人営業の第一製砥所を有限会社に改め、法人として設立した。関家三男氏は開業3年目に本社を東京へ移した。技術者でない自分こそ技術の情報を早くつかむ場所に身を置くべきだと判断したことが、東京を選んだ理由だった。東京で情報を探るうち、薄い砥石を作るメーカーが身売りを望んでいるという話が関家三男氏に届いた。関家三男氏は、これからの砥石は薄く、精度の高い研削ができるものが求められると見ており、その場で取得を決めた。この取得によって、第一製砥所は呉工場と東京工場の2拠点で生産する体制を得た。販路より技術の情報を優先した移転が、薄物の砥石へ進む起点となった。
戦時の第一製砥所は、旧海軍の砲身の内面を磨く砥石を主な製品とした。当時の砥石は、粘土や長石などを約1,800度で焼き固めるビトリファイド砥石が主流だった。1942年から1943年ごろ、砥粒を樹脂で結合して約180度で成形するレジノイド砥石が業界に現れ、それまでより薄い砥石を作れるようになった。東京工場で薄い砥石の製法を得た関家三男氏は、研削だけでなく物を切る用途に関心を移した。関家三男氏はベークライトを原料とするレジノイドの切断砥石を製造し、戦前としては珍しい取り組みとなった。軍需の研削砥石で収益を上げながら、民需に転じられる薄物の製法を先に手にしたことが、敗戦後の転換を支えた。
戦後の第一製砥所は、旧海軍の砲身を磨く研削砥石から、物を切り離す極薄の砥石へ製品の軸を移した。薄く丈夫な円盤形の砥石をモーターで高速に回せば、金属などの材料を切断できる。1本の線に沿って研削を続ければ材料はへこみ、最後には2つに分かれるという考え方だった。もっとも当初の切断砥石は厚さ5ミリから7ミリほどあり、用途は主に石材の加工だった。関家三男氏は創業の頃から、研削に限られていた砥石の働きを、物を切り離す切断の用途にも生かすことを企業の目標に掲げていた。研削の同業者がひしめく市場を避け、切断という手薄な用途を選んだことが、関家三男氏の戦後の方針だったと考えられる。
1953年ごろ、住宅建設の増加に伴い、各戸に取り付ける積算電力計の需要が膨らんだ。電力計の内部にはC字型の磁石があり、これを精密に切り分ける砥石が必要になった。磁石を1.2ミリの間隔で切る作業は手作業では効率が悪く、円盤形の砥石を高速で回して切る方法が求められた。電力計メーカーの東芝は、この加工用の砥石を第一製砥所に発注した。第一製砥所はレジノイドで厚さ1.5ミリの切断砥石を開発し、国内の積算電力計の磁石をほぼ一手に切った。この磁石用の切断砥石のシェアは100%に達した。この取引で、第一製砥所は弱電業界と初めて接点を持った。石材用より格段に薄い砥石を量産できたことが、東芝からの受注を支えた。
1956年、第一製砥所は万年筆メーカーの依頼を受け、ペン先に溝を切る砥石を開発した。当時の万年筆メーカーは水性の研削剤でペン先を割っており、ペン先のインクがぼたつくなどの欠陥が多く、外国製品に劣位に置かれた。依頼元はパイロット万年筆で、第一製砥所は厚さ0.14ミリ、すなわち140ミクロンの極薄の砥石を作り上げてこの課題を解いた。複数のメーカーから共同開発や開発費援助の申し出があったものの、第一製砥所は断って単独で仕上げた。その結果、第一製砥所は万年筆のペン先の溝切りをほぼ一手に引き受けた。援助を断ったことで、第一製砥所は薄物の製法を他社と分け合わずに自社の技術として保有した。
1958年11月、関家三男氏は有限会社第一製砥所を株式会社第一製砥所に改組した。この頃までに、第一製砥所は砲身を磨く砥石の会社から、極薄の切断砥石の会社へと性格を変えた。切断砥石の用途は、万年筆のペン先割りのほか、極細で中空のステンレス管を切って注射針に仕立てる加工にも及んだ。研削による切断は学問として体系が整っておらず、手探りで作った技術がそのまま最先端になったと関家三男氏は振り返った。後に社長となる関家憲一氏は1995年、磁石用からペン先用までは1.5ミリの技術の延長で作れた一方、100ミクロンを下回る薄さは難しいと当時は考えたと語った。株式会社への改組は、磁石とペン先で広がった取引先に合わせた体制の整備だったと推察される。
1960年ごろの真珠ブームの中で、養殖真珠に入れる小さな貝殻の真珠核を、第一製砥所の切断砥石で切る用途が生まれた。貝殻の核を使うと、それまでのプラスチック製の核よりも天然の真珠に近い真円の真珠ができた。関家三男氏は御木本パールなどの養殖業者に砥石を売り込み、真珠核の切断砥石で100%のシェアを得た。極薄の砥石があるなら他の分野でも使えるはずだと考える関家三男氏の習慣が、この用途の発見につながった。第一製砥所は砥石の中でも精密切断に分野を絞り、その経営姿勢が他社にまねのできない技術水準を生んだ。磁石、ペン先、真珠核と続いた受注は、いずれも他社の砥石では切れない素材を切る仕事だった。
関家三男氏は、初めから発想を変えた製品を狙ったのではなく、顧客の要望に応える努力を重ねるうちに新しい製品が生まれていたと振り返った。そう気付いてからは、柔らかい頭で考えることを全社のモットーに据えた。関家三男氏は子の関家臣二氏らにも、利用者の注文にはどんなものにも耳を傾け、他社で作れない物を作るよう教え込んだ。磁石の切断を通じて弱電メーカーとの取引が生まれ、電機の分野に顧客とのつながりができた。1937年の創業から約30年、第一製砥所は自社で機械を作らず、砥石単体を顧客の用途に合わせて仕立てる事業を続けた。顧客が持ち込む加工の課題を砥石の薄さで解く手法が、第一製砥所の開発の型として定着した。
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事実根拠:出所(ディスコ)