ディスコ の歴史

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沿革

1937〜2025年 1937年に関家三男氏が広島県呉市で興した工業用砥石の第一製砥所が起源。1975年に半導体用ダイシングソーを自社開発し、砥石・装置・使い方を一社で抱える体制を築いた。ダイシングソーとグラインダで世界の7割を占める半導体製造装置メーカーで、売上高営業利益率は42%に達する。

沿革

1937年に関家三男氏が広島県呉市で興した工業用砥石の第一製砥所が起源。

1975年に半導体用ダイシングソーを自社開発し、砥石・装置・使い方を一社で抱える体制を築いた。ダイシングソーとグラインダで世界の7割を占める半導体製造装置メーカーで、売上高営業利益率は42%に達する。

1937年〜創業期関家三男の第一製砥所創業と薄物レジノイド砥石の独自開発

  1. 関家三男が広島県呉で第一製砥所を個人創業
  2. 第一製砥所に組織変更
  3. 積算電力計磁石向け切断砥石を開発
  4. 万年筆ペン先向け0.14mmレジノイド砥石を独自開発
  5. 有限会社第一製砥所を株式会社に改組
ディスコ売上高1967年1月期3億円

1968年〜成長期ダイシングソーの開発とディスコへの商号変更

  1. 注射針と万年筆で収益を上げる砥石屋が、まだ市場のない半導体用の薄さへ開発を向けた選択
  2. 半導体製造向け切断砥石の開発を開始
  3. DISCO ABRASIVE SYSTEMSを設立
  4. 精密切断装置を開発・販売開始
  5. 半導体用ダイシングソーを開発・販売開始
  6. 商号をディスコに変更
  7. シンガポール駐在員事務所を開設
  8. スイスにDISCO SEIER AGを共同出資で設立
ディスコ売上高1979年1月期38億円

1980年〜成熟期ダイシングソー世界シェア60%と欧州拠点の整備

  1. ダイシングソー世界シェア約60%を確立
  2. 独にDISCO DEUTSCHLAND GmbHを設立
  3. 関家憲一氏が第2代社長に就任
  4. 産業用ダイヤモンド工具事業に参入
  5. 日本証券業協会の店頭売買銘柄として株式公開
  6. DISCO HI-TEC EUROPE GmbHを100%子会社化、欧州本社をスイスから独に移転
ディスコ売上高1991年3月期120億円

1992年〜低迷期半導体拡散炉事業からの撤退と賃金カットによる立て直し

  1. 半導体拡散炉事業から撤退、50億円の損失を確定
  2. 賃金カット・残業規制・早期退職制度を導入
  3. 「Disco Values」を制定
  4. 東京証券取引所市場第一部に上場
ディスコ売上高1999年3月期335億円

2001年〜安定成長期非同族の溝呂木斉社長とレーザソー・グラインダの製品拡充

  1. 非同族の溝呂木斉氏が社長に就任
  2. 精密切断装置としてレーザソーを開発・販売
  3. 全自動グラインダ/ポリッシャ装置を開発・販売
  4. 2010年までにシリコンサイクルの谷でも黒字を確保できる体質にすると表明
  5. 販売拠点としてDISCO HI-TEC TAIWANを設立
  6. 関家一馬氏(同族としては第3代)が社長に就任
  7. ダイシングソー世界シェア約70%まで拡大
ディスコ売上高2010年3月期617億円

2011年〜安定成長期個人Will会計の導入と羽田・広島への研究開発・生産投資

  1. 個人Will会計を導入
  2. 社内の仕事をオークション形式で落札する制度を開始
  3. DISCO HI-TEC Singapore One-Stop Solution Centerを建設
  4. 長野事業所を開設
  5. 羽田R&Dセンターを開設
  6. 羽田R&Dセンター新棟の建替を決定
  7. 研究開発用不動産を約500億円で取得
  8. 広島事業所に新工場の建築を決定
ディスコ売上高2026年3月期4,369億円
長期業績の推移 1966〜2026年

業績

ディスコ:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1979年1月期〜2026年3月期

第1章 1937年〜 関家三男の第一製砥所創業と薄物レジノイド砥石の独自開発

1937年〜呉の海軍工廠のそばで開いた第一製砥所と、開業3年目の東京移転

1937年5月、関家三男氏は広島県呉市で工業用砥石の製造と販売を目的に、個人営業の第一製砥所を創業した。関家三男氏は東亜同文書院を出て満洲国国務院の官吏となったものの、軍部の専横と一方通行の役所仕事を嫌って辞職し、郷里へ戻った。呉には海軍工廠があって大砲の製造に研削用の砥石を使ったが、国内の製砥技術は未熟で、良質な砥石はドイツからの輸入に依存した。関家三男氏自身は技術者ではなく、名乗り出た職人を雇い入れて研削用の工業用砥石づくりから事業を始めた。最初の製品は自動車部品や工作機械の製作に使う研削砥石だった。輸入品に依存する需要が郷里にあったことが、官吏出身の関家三男氏を砥石業へ向かわせたのだろう。

  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
    • [1]1937年5月、工業用砥石の製造販売を目的に第一製砥所(個人営業)を創業
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [2]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
    • [3]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
    • [5]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [4]創業者は技術者ではなく、名乗り出た職人を採用して研削用の工業用砥石づくりを始めた

1940年3月、関家三男氏は個人営業の第一製砥所を有限会社に改め、法人として設立した。関家三男氏は開業3年目に本社を東京へ移した。技術者でない自分こそ技術の情報を早くつかむ場所に身を置くべきだと判断したことが、東京を選んだ理由だった。東京で情報を探るうち、薄い砥石を作るメーカーが身売りを望んでいるという話が関家三男氏に届いた。関家三男氏は、これからの砥石は薄く、精度の高い研削ができるものが求められると見ており、その場で取得を決めた。この取得によって、第一製砥所は呉工場と東京工場の2拠点で生産する体制を得た。販路より技術の情報を優先した移転が、薄物の砥石へ進む起点となった。

  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
    • [6]1940年3月、組織を有限会社第一製砥所に変更(設立)
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [7]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [8]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [9]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [10]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [11]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った

戦時の第一製砥所は、旧海軍の砲身の内面を磨く砥石を主な製品とした。当時の砥石は、粘土や長石などを約1,800度で焼き固めるビトリファイド砥石が主流だった。1942年から1943年ごろ、砥粒を樹脂で結合して約180度で成形するレジノイド砥石が業界に現れ、それまでより薄い砥石を作れるようになった。東京工場で薄い砥石の製法を得た関家三男氏は、研削だけでなく物を切る用途に関心を移した。関家三男氏はベークライトを原料とするレジノイドの切断砥石を製造し、戦前としては珍しい取り組みとなった。軍需の研削砥石で収益を上げながら、民需に転じられる薄物の製法を先に手にしたことが、敗戦後の転換を支えた。

  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [12]旧社名第一製砥所は旧海軍の砲身内を磨く砥石をもっぱら作っていた
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [13]従来は約1,800度焼成のビトリファイド砥石。1942-43年頃に樹脂結合で約180度成形のレジノイド砥石が業界に投入され、薄い砥石が可能になった
    • [14]従来は約1,800度焼成のビトリファイド砥石。1942-43年頃に樹脂結合で約180度成形のレジノイド砥石が業界に投入され、薄い砥石が可能になった
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [15]薄い砥石の製造技術を得た関家三男は切断に関心を向け、ベークライト原料のレジノイド切断砥石を製造した(戦前には珍しい)
    • [16]薄い砥石の製造技術を得た関家三男は切断に関心を向け、ベークライト原料のレジノイド切断砥石を製造した(戦前には珍しい)
参考文献[1]-[16]
  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
    • [1]1937年5月、工業用砥石の製造販売を目的に第一製砥所(個人営業)を創業
    • [6]1940年3月、組織を有限会社第一製砥所に変更(設立)
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [2]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
    • [3]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
    • [5]関家三男は東亜同文書院卒・満洲国国務院の元官吏で、辞職して帰国。呉の海軍工廠は大砲製造に研削砥石を要し、良質品はドイツから輸入。創業時の製品は自動車部品・工作機械向けの研削砥石
    • [7]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [8]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [9]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [10]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [11]開業3年目、技術情報に敏感である必要から本社を東京へ移し、薄い砥石のメーカーの身売り話に応じて取得、呉工場に加え東京工場を持った
    • [15]薄い砥石の製造技術を得た関家三男は切断に関心を向け、ベークライト原料のレジノイド切断砥石を製造した(戦前には珍しい)
    • [16]薄い砥石の製造技術を得た関家三男は切断に関心を向け、ベークライト原料のレジノイド切断砥石を製造した(戦前には珍しい)
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [4]創業者は技術者ではなく、名乗り出た職人を採用して研削用の工業用砥石づくりを始めた
    • [13]従来は約1,800度焼成のビトリファイド砥石。1942-43年頃に樹脂結合で約180度成形のレジノイド砥石が業界に投入され、薄い砥石が可能になった
    • [14]従来は約1,800度焼成のビトリファイド砥石。1942-43年頃に樹脂結合で約180度成形のレジノイド砥石が業界に投入され、薄い砥石が可能になった
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [12]旧社名第一製砥所は旧海軍の砲身内を磨く砥石をもっぱら作っていた

1945年〜東芝の積算電力計の磁石を切る砥石と、0.14ミリの万年筆ペン先用砥石

戦後の第一製砥所は、旧海軍の砲身を磨く研削砥石から、物を切り離す極薄の砥石へ製品の軸を移した。薄く丈夫な円盤形の砥石をモーターで高速に回せば、金属などの材料を切断できる。1本の線に沿って研削を続ければ材料はへこみ、最後には2つに分かれるという考え方だった。もっとも当初の切断砥石は厚さ5ミリから7ミリほどあり、用途は主に石材の加工だった。関家三男氏は創業の頃から、研削に限られていた砥石の働きを、物を切り離す切断の用途にも生かすことを企業の目標に掲げていた。研削の同業者がひしめく市場を避け、切断という手薄な用途を選んだことが、関家三男氏の戦後の方針だったと考えられる。

  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [17]軍艦の砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。一線を集中して研ぎ磨けば削れて切断される
    • [19]軍艦の砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。一線を集中して研ぎ磨けば削れて切断される
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [18]薄くて丈夫な砥石をモーターで高速回転させれば物を切れる
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [20]初期の切断砥石は5〜7ミリの厚さで、主に石材の加工用
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [21]関家三男は創業時から削るだけの砥石の機能を切断にも活用するという企業テーマを掲げた

1953年ごろ、住宅建設の増加に伴い、各戸に取り付ける積算電力計の需要が膨らんだ。電力計の内部にはC字型の磁石があり、これを精密に切り分ける砥石が必要になった。磁石を1.2ミリの間隔で切る作業は手作業では効率が悪く、円盤形の砥石を高速で回して切る方法が求められた。電力計メーカーの東芝は、この加工用の砥石を第一製砥所に発注した。第一製砥所はレジノイドで厚さ1.5ミリの切断砥石を開発し、国内の積算電力計の磁石をほぼ一手に切った。この磁石用の切断砥石のシェアは100%に達した。この取引で、第一製砥所は弱電業界と初めて接点を持った。石材用より格段に薄い砥石を量産できたことが、東芝からの受注を支えた。

  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [22]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
    • [24]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
    • [27]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [23]積算電力計内部のC字型磁石の切断・研磨用砥石を東芝から受注した
    • [25]積算電力計内部のC字型磁石の切断・研磨用砥石を東芝から受注した
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [26]終戦後の住宅復興期、積算電力計の磁石を切る1.5ミリ厚のレジノイド砥石を開発し全国の磁石を切った。弱電業界との初めての接点
    • [28]終戦後の住宅復興期、積算電力計の磁石を切る1.5ミリ厚のレジノイド砥石を開発し全国の磁石を切った。弱電業界との初めての接点

1956年、第一製砥所は万年筆メーカーの依頼を受け、ペン先に溝を切る砥石を開発した。当時の万年筆メーカーは水性の研削剤でペン先を割っており、ペン先のインクがぼたつくなどの欠陥が多く、外国製品に劣位に置かれた。依頼元はパイロット万年筆で、第一製砥所は厚さ0.14ミリ、すなわち140ミクロンの極薄の砥石を作り上げてこの課題を解いた。複数のメーカーから共同開発や開発費援助の申し出があったものの、第一製砥所は断って単独で仕上げた。その結果、第一製砥所は万年筆のペン先の溝切りをほぼ一手に引き受けた。援助を断ったことで、第一製砥所は薄物の製法を他社と分け合わずに自社の技術として保有した。

  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [29]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
    • [32]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
    • [33]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [30]万年筆メーカーは水性研削剤でペン先を割り欠陥が多く外国製品に押されていた。0.14ミリのペン先用円盤形砥石で解決
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [31]パイロット万年筆からペン先割り用砥石の要請を受け、厚さ0.14ミリ(140ミクロン)の極薄砥石を作った
参考文献[17]-[33]
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [17]軍艦の砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。一線を集中して研ぎ磨けば削れて切断される
    • [19]軍艦の砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。一線を集中して研ぎ磨けば削れて切断される
    • [22]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
    • [24]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
    • [27]1953年頃の住宅建設ブームで弱電メーカーから積算電力計の磁石について相談。1.2ミリ間隔で切る必要があり、切断砥石はシェア100%
    • [30]万年筆メーカーは水性研削剤でペン先を割り欠陥が多く外国製品に押されていた。0.14ミリのペン先用円盤形砥石で解決
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [18]薄くて丈夫な砥石をモーターで高速回転させれば物を切れる
    • [23]積算電力計内部のC字型磁石の切断・研磨用砥石を東芝から受注した
    • [25]積算電力計内部のC字型磁石の切断・研磨用砥石を東芝から受注した
    • [31]パイロット万年筆からペン先割り用砥石の要請を受け、厚さ0.14ミリ(140ミクロン)の極薄砥石を作った
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [20]初期の切断砥石は5〜7ミリの厚さで、主に石材の加工用
    • [26]終戦後の住宅復興期、積算電力計の磁石を切る1.5ミリ厚のレジノイド砥石を開発し全国の磁石を切った。弱電業界との初めての接点
    • [28]終戦後の住宅復興期、積算電力計の磁石を切る1.5ミリ厚のレジノイド砥石を開発し全国の磁石を切った。弱電業界との初めての接点
    • [29]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
    • [32]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
    • [33]1956年、万年筆メーカーの依頼でペン先の溝を切る砥石を開発。共同開発・開発費援助の話を断り独自開発し、ペン先を一手に切った
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [21]関家三男は創業時から削るだけの砥石の機能を切断にも活用するという企業テーマを掲げた

1958年〜株式会社に改めた第一製砥所と、真珠核で得たシェア100%

1958年11月、関家三男氏は有限会社第一製砥所を株式会社第一製砥所に改組した。この頃までに、第一製砥所は砲身を磨く砥石の会社から、極薄の切断砥石の会社へと性格を変えた。切断砥石の用途は、万年筆のペン先割りのほか、極細で中空のステンレス管を切って注射針に仕立てる加工にも及んだ。研削による切断は学問として体系が整っておらず、手探りで作った技術がそのまま最先端になったと関家三男氏は振り返った。後に社長となる関家憲一氏は1995年、磁石用からペン先用までは1.5ミリの技術の延長で作れた一方、100ミクロンを下回る薄さは難しいと当時は考えたと語った。株式会社への改組は、磁石とペン先で広がった取引先に合わせた体制の整備だったと推察される。

  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
    • [34]1958年11月、有限会社第一製砥所を株式会社第一製砥所に改組
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [35]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
    • [36]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
    • [37]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [38]ペン先までは1.5ミリの技術の延長で比較的簡単だったが、100ミクロン以下は難しいと考えていた

1960年ごろの真珠ブームの中で、養殖真珠に入れる小さな貝殻の真珠核を、第一製砥所の切断砥石で切る用途が生まれた。貝殻の核を使うと、それまでのプラスチック製の核よりも天然の真珠に近い真円の真珠ができた。関家三男氏は御木本パールなどの養殖業者に砥石を売り込み、真珠核の切断砥石で100%のシェアを得た。極薄の砥石があるなら他の分野でも使えるはずだと考える関家三男氏の習慣が、この用途の発見につながった。第一製砥所は砥石の中でも精密切断に分野を絞り、その経営姿勢が他社にまねのできない技術水準を生んだ。磁石、ペン先、真珠核と続いた受注は、いずれも他社の砥石では切れない素材を切る仕事だった。

  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [39]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [40]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [41]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [42]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [43]精密切断という狭い分野に特化する経営姿勢が、他社がまねできない高水準の技術を生んだ

関家三男氏は、初めから発想を変えた製品を狙ったのではなく、顧客の要望に応える努力を重ねるうちに新しい製品が生まれていたと振り返った。そう気付いてからは、柔らかい頭で考えることを全社のモットーに据えた。関家三男氏は子の関家臣二氏らにも、利用者の注文にはどんなものにも耳を傾け、他社で作れない物を作るよう教え込んだ。磁石の切断を通じて弱電メーカーとの取引が生まれ、電機の分野に顧客とのつながりができた。1937年の創業から約30年、第一製砥所は自社で機械を作らず、砥石単体を顧客の用途に合わせて仕立てる事業を続けた。顧客が持ち込む加工の課題を砥石の薄さで解く手法が、第一製砥所の開発の型として定着した。

  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [44]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [45]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [47]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [48]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [46]関家臣二副社長は実父の関家会長からユーザーの声にはどんな注文でも耳を傾け他ではできない物を作ろうと教え込まれていた
参考文献[34]-[48]
  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
    • [34]1958年11月、有限会社第一製砥所を株式会社第一製砥所に改組
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
    • [35]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
    • [36]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
    • [37]砲身を磨く砥石メーカーが極薄の切断砥石メーカーとなった。用途はペン先割り・極細中空ステンレス管を切る注射針加工。研削切断は学問的に未確立で手探りの技術が最先端になった
    • [39]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [40]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [41]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [42]昭和35年頃の真珠ブームで真珠核の貝殻を切断砥石で切る用途。プラスチック核より真円の真珠ができ、御木本パールなどに売り込み100%のシェア
    • [44]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [45]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [47]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
    • [48]顧客のニーズを満たす努力をするうちに発想の転換された製品を作っていたと気付き、柔軟な頭を全社のモットーにした。積算電力計の件で弱電メーカーとのつながりができた。切断機の製作は後年
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)
    • [38]ペン先までは1.5ミリの技術の延長で比較的簡単だったが、100ミクロン以下は難しいと考えていた
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
    • [43]精密切断という狭い分野に特化する経営姿勢が、他社がまねできない高水準の技術を生んだ
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
    • [46]関家臣二副社長は実父の関家会長からユーザーの声にはどんな注文でも耳を傾け他ではできない物を作ろうと教え込まれていた

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出典・参考 5件
出典・参考
  • ディスコ 有価証券報告書(2005年3月期)「沿革」
  • 日経ビジネス 1980年5月5日号
  • 石垣 26 1982年7月号「ガンバル中小企業――柔軟な頭脳で製品開発――(株)ディスコ」(関家三男)
  • Decide 3(10) 1986年1月号(秋場良宣)
  • 商工ジャーナル 1995年6月号(関家憲一)

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