米国のビスケット製造メーカー3社が合併することでNational Biscuit Company.(以下、ナビスコと表記)が設立された。合併した企業は、American Biscuit Company.、NewYork Biscuit Company.、United States Baking Company.の3社であった。合併後の本社はシカゴ市に設置され、CEOとしてAdolphus Green氏が就任した。
合併の狙いはビスケット販売におけるマーケティングの効率化であった。当時の米国のビスケット業界は中小メーカーが地域ごとに群雄割拠する構造であったが、ナビスコはビスケットの販売方法を変革した。従来の業界では「樽売り」が一般的であったが、ナビスコは「紙放送によるパッケージ」により販売。加えて卸売業者ではなく小売業者向けへの直接的な販路を重視。この結果、ナビスコの市場認知度が高まり、ビスケットの米国内のシェアを伸ばしていった。
これらの経緯から、ナビスコは「マーケティングに長けた企業」として、ビスケット業界において頭角を現した。
クリーム入りビスケット「オレオ」を発売。ロングセラーに育つ
カナダに現地法人を設立して海外進出を本格化。数年後にカナダにて製造拠点を新設
欧州に進出
バター入りクラッカー「リッツ」を発売。ロングセラーに育つ
NBCからナビスコに商号変更を実施。同名のラジオ局(National Broad Casting)と区別するため、ナビスコに変更
海外展開を本格化するために、国際事業部を設置。1968年までに欧州を中心に全世界で11の拠点を設置した。生産面でもナビスコの全工場78工場のうち、海外工場は37工場に及び、現地生産の体制を整えた
イタリア進出のため、現地のビスケットメーカーを買収
西ドイツ市場に本格進出するために、現地の大手製パン・製菓メーカーであるハリー・ツルエラー社(1891年創業)を買収
1968年にナビスコは、日用品メーカーである「コルゲート社」との経営統合を発表。コルゲート社は海外販売に強い一方(全世界54か国に拠点)、ナビスコ社は売上高の海外比率が20%にとどまり、グローバル展開に課題を抱えていた。そこで、海外事業に強いコルゲート社と経営統合し、ナビスコとしてはビスケットなどの自社製品をコルゲートの販路を通じて販売することを目論んだ。
ナビスコは日本進出を図るために、日本国内の外資規制にのっとり合弁方式による進出を決定。パートナーとして日本国内の大手製パンメーカー「山崎製パン」と、総合商社「日綿実業(現・双日)」を選定して、ヤマザキ・ナビスコを共同設立した。
出資比率はナビスコ45%・山崎製パン45%・日綿10%で決着した。当初はナビスコが50%を保有する計画だったが、日本の農林省が外資企業であるナビスコの参入を警戒し、政治的な理由から出資比率が45%に引き下げられた。
日用品メーカー(トイレタリー・医薬品)のJ. B. Williams社を買収。しかし、採算が取れず1982年に同社を売却
家具およびペットフードメーカーのAurora Product社を買収。しかし、採算が取れず1977年に同社を売却
1980年前後の第二次オイルショックにより燃料費が高騰。食品業界では大型合併による規模の拡大がトレンドとなり、1979年には米デルモンテがRJRに買収されるなど再編が活発化した。
原材料費の高騰を受けて、ナビスコは大手食品メーカーであるブランズ社との合併を決定。ナビスコ・ブランズに社名を変更し、売上規模を拡大した。
米国の大手タバコメーカーであるRJレイノルズが、ナビスコを49億ドルで買収することを決定。RJレイノルズは巨額買収を通じて食品部門(デルモンテ・1979年買収)を拡充しており、グローバル展開により規模を拡大することを目指していた。
1986年に持ち株会社の称号を「RJRナビスコ」に変更し、傘下の子会社として「ナビスコ」を抱える組織形態をとった。RJRナビスコには食品事業として、ナビスコのほかにも、RJRが1979年に買収したデルモンテを抱えており、総合加工食品メーカーとなった。
1980年代を通じてRJRナビスコは企業買収により規模は拡大したものの、利益が伸び悩んだため株価が低迷していた。巨額買収を繰り返したものの統合効果が乏しく、見かけの売上高だけが拡大した状況にあった。
RJRナビスコのタバコ事業と食品事業のうち、食品事業の収益性が低く、安定的に収益を稼ぐタバコ事業と対照的な状況にあった。このため、食品事業の売却を含めた改善が急務となった。
1980年代を通じて投資ファンドのKKRは、米国内の大手企業のLBO(Leveraged Buyout)に参画し、経営再建することとで巨額の利益を確保していた。当時は、機関投資家による年金基金の運用が本格化しつつあり、LBOのようなリスクの高い金融商品に対しても抵抗感が薄れつつあった。
このため、KKRはLBOの第一人者として注目されるとともに、ファンドの預かり金額を拡大。数兆円規模のLBOも実施できる状態となり、米国企業の業界再編に名乗りを上げるようになった。
1989年にRJRナビスコのCEOであるロス・ジョンソン氏は、社外取締役との夕食会においてLBOを提案。同社の株価が低迷していたことから、自社の株価が割安と判断し、経営陣によるLBOにより経営再建を図ることを目論んだ。
そして、10月20日の取締役会においてLBOの計画を正式に表明。社外取締役5名による特別委員会を発足し、1株当たり75ドル(当時の株価は60ドル前後)によるLBOを計画した。経営陣が提示したLBOによる再建プランでは、食品事業とタバコ事業のうち、低収益な食品事業を売却してタバコ事業に特化する計画が策定された。
LBOで実績を築きつつあったKKRは、RJRレイノルズによるLBOの提示価格が割安と判断して、独自に株式取得を表明。ナビスコ経営陣とKKRが対立する形となり、LBOの価格が高騰する形となった。KKRはLBO後の経営について、タバコ事業とともに食品事業を継続する意向を示していた。
最終的にKKRによる買収提案が通る形となり、ナビスコ経営陣によるLBOは失敗。KKRは250億円でRJRナビスコの株式を取得して同社は非上場化された。LBOの成立に伴って、旧RJRナビスコの経営陣は報酬金を得つつ退任する形で経営陣は総入れ替えとなった。
| 日時 | 事象 | 1株提示額 | LBO提示総額 |
| 1988/10/20 | ナビスコ経営陣がLBOを提案 | 75ドル/株 | 170億ドル |
| 1988/10/24 | KKRが買収提案 | 90ドル/株 | 204億ドル |
| 1988/11/03 | ナビスコ経営陣が提示額を引上げ | 92ドル/株 | 209億ドル |
| 1988/11/18 | KKRが提示額引上げ | - | 213億ドル |
| 1988/11/18 | FirstBoston等が買収提案 | - | 238億ドル |
| 1988/11/30 | KKRによる買収で決着 | 109ドル | 248億ドル |
1989年にRJRナビスコのCEOにルイスガースナー氏(のちのIBM・CEO)が就任。1994年までRJRナビスコの経営に従事した。
ルイスガースナーCEOは、LBOによって生じた借入金(高利回りのジャンク債)の返済を実施して、悪化した自己資本比率を改善する必要があった。そこで、デルモンテ事業の売却益の計上(1990年)や、7.5億ドルの社債発行による金利削減(1991年)、株式公開による資本調達(1991年)を実施して財務状況を改善。LBO直後に31%に低迷した自己資本比率を、1991年度末までに同54%まで回復させた。
この結果、1992年度にRJRナビスコは黒字を確保した。
KKRはRJRナビスコの負債を圧縮するために事業売却を実施。旧RJレイノルズが1979年に買収したデルモンテ(トマト加工品の製造販売)について事業売却を決定。デルモンテの株式を売却すると同時に、一部の商標権を日本のキッコーマンに売却した。
RJRナビスコはLBOによって調達した借入金(高利回りのジャング債)について、金利負担を低減するために社債の新規発行を決定。金利コストを削減した。
また、1991年にRJRナビスコは株式公開を実施し、上場企業として市場に復帰した。
1993年4月2日(金曜日)に競合のマールボロが20%の値下げを実施。業界内は騒然となり「マールボロの金曜日」として記憶された。これによりマールボロがシェアを拡大する一方、RJRのタバコ事業は苦境に陥った。1993年度にRJRナビスコのタバコ事業は、営業利益ベースで大幅な減益となった。
このため、1993年にRJRナビスコは経営再建を行うため、従業員10%のリストラを発表した。
RJRナビスコHDは不採算のタバコ事業について、米国事業以外からの撤退を決定。売却先は日本のタバコ企業JTで、RJRナビスコはタバコ事業を9477億円で売却した。
JTによるRJRナビスコのタバコ事業の巨額買収は日本でも注目を集めた。JTとしては縮小する日本市場ではなく、グローバルにタバコ事業を拡大するために買収を決めた。
大手タバコ会社のフィリップモリスがRJRナビスコの買収を決定。RJRナビスコは大手企業の傘下となり、独立した株式公開企業としての歴史に終止符を打った。
この結果、1985年に発足したRJRナビスコは、米国タバコ事業、米国以外のタバコ事業(JTに売却)、デルモンテ事業(キッコーマンなどに売却)、食品事業(フィリップモリスに売却)にそれぞれ分割される形となった。
このため、LBOによる経営再建は厳しい結果に終わった。この状況について、米国現地メディアは「RJRナビスコの悲しい物語(The Sad Story of RJR Nabisco)」(1999/3/11 tampabay)と評した。