サントリーがマーケティングに注力してきた背景は、ウイスキー以前にまで遡る。創業期の主力商品であったポートワインの時代から、同社は単なる酒類販売ではなく、「西洋の酒文化を日本に紹介する装置」として事業を設計してきた。酒類は本質的に味や製法での差別化が難しく、品質や価格だけでは持続的な優位を築きにくい領域である。だからこそ、飲用シーンや価値観そのものを伝えることが、事業拡大の前提とされた。
この思想は、その後のウイスキー事業に明確に引き継がれた。ウイスキーは当時の日本市場では馴染みが薄く、製品特性を説明するだけでは需要は生まれなかった。サントリーは広告や文化活動を通じて、洋酒を飲むライフスタイルそのものを提示し、消費の文脈を市場側に作り出した。マーケティングは販促ではなく、市場形成の手段であり、差別化が困難な事業領域における主要な競争手段であった。
一方で、この戦略は広告依存を強めるという二面性も内包していた。酒類・飲料は技術革新による非連続な優位を生みにくく、ブランドへの投資を止めれば競争力は急速に低下する。広告投資や文化支援は即座に売上へ反映されず、固定費化しやすいが、サントリーはこれを「削減可能なコスト」ではなく、「削減すれば事業基盤が崩れる防御的なコスト」として扱ったと推定される。
結果として、サントリーのマーケティングは単なる販売促進ではなく、事業を成立させ続けるための基盤となった。製品で勝ちにくい前提を受け入れ、その弱点を文化と文脈で補う構造を選んだのである。この割り切りこそが、時代や商品が変わっても同社が百年以上にわたりマーケティングに注力し続けてきた理由であり、同時に広告宣伝費が変動費ではなく、実質的に固定費として収益構造に組み込まれていることを意味する。
明治30年代後半、日本の洋酒市場は輸入品が中心であり、価格や供給は海外に依存していた。一方、都市部では洋食文化や西洋嗜好が広がり、ぶどう酒を含む洋酒の需要が徐々に生まれていた。大阪は商業都市として流通機能が集積しており、新しい酒類を試す土壌が存在していた。
当時21歳だった鳥井信治郎は、16歳から薬種問屋である小西儀助商店に丁稚奉公し、洋酒や染料を含む商品の取り扱いを経験していた。輸入品を扱う商流と価格感覚を体得する一方で、日本人の嗜好に合う酒類が限られている現実も認識していた。洋酒市場は未成熟だったが、参入障壁は必ずしも高くなかった。
1899年、鳥井信治郎は大阪市西区で「鳥井商店」を個人創業し、ぶどう酒の販売を開始した。大規模な製造投資ではなく、まずは販売を起点とする参入だった。輸入酒の流通経験を活かし、品質と価格のバランスを見極めながら、日本人向けの商品供給を試みた。
この判断は、初期投下資本を抑えつつ市場反応を確認する形でのリスクテイクだった。販売を通じて顧客の嗜好や価格受容度を把握し、将来の製造や商品開発につなげる余地を残した点に特徴があった。鳥井商店の創業は、洋酒を輸入品として扱う立場から、国産洋酒事業へ移行するための実験的な一歩だった。
明治後期の日本における洋酒市場は、輸入品が中心であり、味覚や価格の両面で一般消費者との距離があった。ワインは酸味が強く、食文化との親和性も限定的で、日常的な飲料としては定着していなかった。一方で都市部では洋食文化が浸透し、洋酒そのものへの関心は徐々に広がっていた。
当時、鳥井商店を率いていた鳥井信治郎は、販売の現場を通じて、日本人の味覚が甘味に強く反応することを把握していた。単に欧州の酒を輸入・販売するだけでは市場は広がらず、味そのものを調整した商品が必要だと認識していた。洋酒市場は成長余地を残していたが、そのままでは拡大しない段階にあった。
1907年4月、鳥井商店は「赤玉ポートワイン」を発売した。スペインから輸入したポートワインをベースに、日本人の嗜好に合わせて甘味を加えた商品だった。これは製法面での工夫にとどまらず、洋酒を日常的に飲ませるための味覚設計だった。
同時に、新聞広告を中心とした積極的な広告投資を行った点が特徴だった。製品投入と広告を同時に行い、需要が弱い局面でも広告出稿を継続した。広告は単なる告知ではなく、洋酒を飲む行為そのものを生活の中に位置づける役割を担っていた。商品開発と販売促進を分離せず、投下資本を集中させる判断だった。
赤玉ポートワインは、甘口のぶどう酒として支持を獲得し、鳥井商店の主力商品へと成長した。売上拡大に伴い、樽詰工場の新設や生産体制の拡張が進められ、1910年代以降の設備投資につながった。広告を継続したことでブランド認知が蓄積され、価格訴求に依存しない販売が可能になった。
また、女性ポスターを用いた広告は賛否を呼びながらも注目を集め、結果として話題性を生んだ。赤玉ポートワインで確立された「味の調整」と「広告投資」の組み合わせは、その後の事業展開に繰り返し用いられることになる。赤玉は単なるヒット商品ではなく、事業成長の型を示した製品だった。
わたしは若い頃から洋酒をつくってきた。いくら良い品をつくっても、ただつくるばかりでは売れない。そこで新聞に広告することを始めたが、これは大いに効果があった。消費が減退したからといっては広告し、製品ができたからといっては広告した。まああれだけ広告してきたものだとおもおう。洋酒がここまで飲まれるようになった裏には、広告というものの果たした役割の大きさを見逃すことができない
当時の洋酒市場は未成熟で、需要は自然発生しなかった。赤玉の広告は、商品説明にとどまらず、洋酒を飲む行為そのものを生活に組み込む役割を果たした。広告によって市場を広げるという経験は、サントリーが後年まで広告を重視する企業であり続ける起点になった。
大阪府東区住吉町にて「寿屋(現・サントリー)」を設立し、個人事業から株式会社に転換。資本金は200万円
大正期の寿屋は、赤玉ポートワインの販売拡大によって売上成長を実現していた。赤玉は広告投下と流通網の整備を通じて全国市場へ浸透し、同社の収益を支える主力商品となっていた。一方で、赤玉は合成酒に分類され、原料や製法の点で海外の本格酒とは異なる商品であった。洋酒市場が拡大する中で、輸入酒との比較は避けられず、商品ラインの拡張は中長期の課題として認識されていた。
当時の日本におけるウイスキー消費は、輸入品に依存しており、価格も高止まりしていた。寿屋の創業者である鳥井信治郎は、洋酒販売に長く関与してきた実業家であり、酒類流通と消費動向を現場で把握していた人物である。赤玉によって得られた投下資本を、次の成長分野へ振り向ける余地が生じたことで、事業ポートフォリオの再構成が検討される局面に入っていた。
1923年10月、寿屋は国産ウイスキーの製造に新規参入する決断を下した。この判断に対して、創業者以外の全役員は反対の立場を取っていた。ウイスキーは蒸留後すぐに販売できる商品ではなく、数年単位の貯蔵期間を要するため、短期的な売上成長やROIを見通すことが困難だったためである。加えて、製造技術や品質評価も完成まで確認できず、事業リスクは高かった。
それでも鳥井は、赤玉事業から得た資金を原資として、ウイスキー事業へ集中投資する判断を行った。輸入依存の市場に対し、国産化による価格調整余地と供給安定を見込んだ点が特徴である。1924年には京都府山崎に蒸留所を建設し、設備の一部は内製、一部はスコットランドから輸入した。蒸留後は長期貯蔵を前提とし、参入後数年間は売上高が発生しない事業計画が採用された。
ウイスキー事業は参入後およそ5年間、売上高が発生しない状態が続いた。貯蔵中の原酒は半製品として保有され、在庫回転は極めて低い水準にとどまった。この間、寿屋の損益は赤玉事業に依存する構成となり、ウイスキー事業は投下資本の回収が進まない状況にあった。それでも事業撤退は行われず、製造と貯蔵は継続された。
1929年に白札サントリーウイスキーが発売され、続いて普及価格帯の商品が投入されたことで、国内ウイスキー市場は徐々に形成された。初期製品の評価は分かれたものの、国産ウイスキーという選択肢が定着した点は事実である。この新規参入は、短期利益を犠牲にして長期回収を選択した事例であり、寿屋の事業運営におけるリスクテイクの水準を示す結果となった。
スコットランド以外の地でウイスキーをつくるなどという企ては、およそ荒唐無稽のことに属していた。他の仕事と違って、ウイスキーは造りはじめてから永い年月ねかし続けなければならない。
品質の良し悪し、出来不出来は、この永年の貯蔵を待ってはじめて分明する。製造方法が良いのか悪いのかさえ、短時日には判断できない。それに永年貯蔵に要する資金、金利、数え上げれば難しいことばかりだ。
父の一声が鶴の一声であった寿屋でも、さすがにこの時ばかりは全役員が反対だったという。それらを押し切ってやるには、余程の度胸と執念が必要だったろう。
ウイスキー事業への参入は、創業家が経営権を保持していたからこそ可能だった判断である。参入後5年以上売上が発生しない事業に対し、短期的なROIを求める外部株主の意向は存在しなかった。鳥井信治郎は、赤玉事業で得た投下資本を回収まで長期間を要する醸造事業へ振り向け、損益悪化を許容した。創業家経営は、時間軸を長く取った資本配分を実行できる条件を備えていた。
1930年、サントリーは神奈川県鶴見で倒産したビール醸造所を買収し、「オラガビール」のブランドでビール製造に参入した。当時のビール市場では、キリンビールなど先発企業が関東圏で高いシェアを確保しており、新規参入に対する事業障壁は高かった。一方、ウイスキー事業が長期の貯蔵期間を必要とする中、売上成長を補完する事業として、比較的回転の早いビールに機会を見いだした。
しかし、流通網やブランド認知では先行企業との差が大きく、価格や販路で優位を築くには至らなかった。加えて、既存瓶の再利用を巡る商標権訴訟で敗訴し、販売活動は制約を受けた。競争環境と法的リスクが同時に顕在化し、事業ポートフォリオ上の負担が拡大していた。
1934年、サントリーはビール事業からの撤退を決定し、鶴見の醸造所を売却した。この判断は、減益が続く事業への投下資本を止め、他事業へ振り向ける選択と集中だった。戦前のビール参入は結果として失敗に終わったが、市場構造や流通の特性、先発企業の競争優位を実体験として把握する機会となった。
戦後、同社は再びビール事業に挑戦する。その際には、自社ブランドでの設備投資、販路構築、広告投資を同時に進め、戦前とは異なる条件で参入を行った。戦前の撤退判断と経験の蓄積が、戦後の再チャレンジにおけるリスクテイクの内容を変えていった。
戦時下においてウイスキーは販売統制の対象となり、サントリーは製品販売を中止していた。終戦後も統制は継続していたが、1950年に酒類の販売統制が解除され、市場での販売が再び可能となった。占領期を経て、日本の都市部ではバー文化が定着し、洋酒を嗜好品として消費する環境が形成されつつあった。
また、サントリーは戦時中に蒸溜・貯蔵を継続しており、熟成が進んだウイスキー在庫を一定量保有していた。これは販売再開時点において即時に市場供給が可能であることを意味し、同社にとって供給面での制約を小さくした。
1950年、サントリーはウイスキーの販売を再開し、特級・一級・二級という価格帯別の商品展開を行った。同時に新聞広告を中心とした広告宣伝を実施し、戦前からのブランド接点を再構築した。販売再開は単一商品の投入ではなく、価格帯別に需要を取り込む設計だった。
1950年代を通じて、高価格帯では「オールド」、普及価格帯では「トリス」を軸に売上を拡大した。その結果、ウイスキーの出荷量は祖業である赤玉ポートワインを上回り、事業ポートフォリオは合成酒中心からウイスキー中心へと移行していった。
1950年代において、日本国内では「ウイスキー」は馴染みのない洋酒であったため、その普及を目的にPR誌「洋酒天国」を発刊。各地のバーに配布することでサントリーの知名度向上を図った。
戦後の酒類消費は大きく変化し、1950年代以降はビールの出荷量が急速に拡大した。都市化と所得増加により、外食や洋食が普及し、低アルコールで冷やして飲めるビールは日常的な酒類として定着した。各社は設備増強を進め、量産体制を前提とした価格競争が進行した。
1949年の企業分割によりサッポロビールとアサヒビールが誕生し、これに戦前からのキリンビールを加えた三社が市場を占有した。ビール事業は設備投資、販路確保、広告投下資本を要するため、新規参入は抑制され、他業種企業の挑戦は限定的であった。
1963年、サントリーはビール事業への新規参入を公表した。1930年代にオラガビールで撤退を経験しており、本件は再挑戦にあたった。意思決定を主導した佐治敬三は当時社長であり、ウイスキー事業を拡大させた経営者である。参入計画は競合各社の反応を想定し、技術者の海外派遣など準備が進められた。
最大の論点は販路であった。既存三社は特約店網を押さえており、後発企業が流通に入る余地は限られていた。その中でアサヒビールが一部特約店を開放し、販売経路が確保された。サントリーは東京都府中市に武蔵野工場を新設し、量産体制を整えた。
参入後、ビール市場では増産競争が続き、後発であるサントリーのシェアは1960年代を通じて3%前後で推移した。先行各社は設備投資を拡大し、価格と供給量の両面で競争が激化した。この結果、サントリーのビール事業は収益化に至らず、長期にわたり赤字が続いた。
それでも同社は事業撤退を選択せず、製品開発と広告投資を継続した。ビール事業の黒字化は2009年度であり、参入から約46年を要した。結果として、ビールは同社の事業ポートフォリオに組み込まれ、ウイスキー依存を分散する役割を担うに至ったが、収益貢献は限定的であった。
1960年代初頭、寿屋はウイスキーを中心とする洋酒事業で売上を伸ばしていた。国内市場では「サントリー」ブランドが浸透していた一方、企業名である「寿屋」は事業内容を即座に示すものではなく、流通や広告の現場で補足説明を要する場面が生じていた。
この問題は、輸出の拡大局面でより顕在化していた。海外市場では企業名がそのまま事業内容や製品特性を示す役割を担うが、「寿屋」は日本語話者以外には意味を持たず、洋酒メーカーであることが伝わりにくかった。輸出取引や海外向け広告において、社名と商品ブランドが分離している状態は、説明コストの増加や認知形成の遅れにつながっていた。
1963年、寿屋は社名を「サントリー株式会社」へ変更した。サントリーはウイスキーの商品ブランドとして国内外で使用されており、輸出製品のラベルや広告でも既に展開されていた名称だった。社名変更は新規事業への挑戦ではなく、既存の主力事業と対外的な企業表示を一致させる判断だった。
この変更により、海外市場において企業名そのものが洋酒メーカーであることを示す役割を果たすようになった。輸出取引や国際展示会、広告活動における説明負担が低下し、ブランド認知の形成速度が高まる効果が見込まれた。社名変更は、輸出拡大に伴うブランド認知の非効率を解消しつつ、イメージアップを図る施策であった。
1962年、サントリーは米国ロイヤルクラウン社と提携し、原液輸入と国内ボトリングによって清涼飲料事業に参入した。しかし1960年代を通じて、日本市場ではコカ・コーラが全国ボトラー網を構築し、出荷量を急拡大させた。結果として、ロイヤルクラウンブランドは市場で存在感を示せず、1972年時点の出荷量はコカ・コーラの約2.9億ケースに対し500万ケースにとどまった。
提携モデルは、ブランド主導権や製品開発の自由度が限定され、広告投下資本の効率も低下していた。清涼飲料市場はコーラ中心に拡大していたが、後発ブランドが同一土俵でシェアを獲得する難度は高く、提携継続による売上成長は見込みにくい状況にあった。
1972年2月、サントリーはロイヤルクラウン社との提携を解消し、100%出資子会社としてサントリーフーズを設立した。設立時資本金は2億円であり、提携時代の事業を引き継ぎつつ、実質的には再建型の新規事業として位置づけられた。経営を担った陣場侃爾は、サントリー関連事業部出身で清涼飲料事業を統括した人物であり、同事業をウイスキー、ビールに次ぐ第三の柱とする構想を示していた。
同社はコーラ市場での正面競争を避け、独自ブランドによるソーダや果汁飲料へ展開した。生産面では親会社が投下資本を負担し、栃木工場に約18億円を投じて洋酒と清涼飲料の併産体制を構築した。サントリーフーズは販売に集中し、地域別にルートセールスと問屋を使い分けた。
1974年に発売した「サントリーオレンジ50」は果汁50%を訴求し、当時主流であった低果汁飲料との差別化を図った。合成着色料への関心が高まる中で販売は伸長し、果汁飲料という新たなカテゴリー形成に寄与した。一方、1978年時点の出荷量シェアは約1%にとどまり、市場全体ではコカ・コーラやファンタが高いシェアを維持していた。
販売拡大を支えたのは人員投下を前提としたルートセールスである。1981年には社員の約7割が営業に従事し、全国11支店体制を構築した。その結果、1981年には単体売上高390億円に達したが、人件費と販促費が利益率を圧迫し、累積赤字は親会社が処理する形で事業は継続された。清涼飲料事業は、長期視点での事業ポートフォリオ拡張を目的としたリスクテイクの局面にあった。
昭和37年、ロイヤルクラウンコーラと資本提携して清涼飲料界に参入を図ったわけです。その後、1972年にロイヤルクラウンコーラ販売株式会社を解散し、従業員を全面的に譲り受け、サントリー100%出資のサントリーフーズを設立しました。(略)
1972年ごろの飲料市場は、なんといってもコーラ飲料全盛の時代であり、いまさらコカ・コーラさんやペプシさんと同じ土俵の上で勝負をしても、とても勝てる状況ではありませんでした。(略)
当社が飲料業界に参入できたのも、もともとサントリーは飲料を手掛けていましたし、永年ウイスキーの製造で蓄積したノウハウがあったからこそ進出できたわけです。(略)
食品分野への進出はそうやたすいものではありません。しかし、サントリーフーズ設立の目的は、ウイスキー、ビールに次ぐ第三の柱として食品部門を確立するためであり、まず飲料市場に参入を図ったわけですから、今後は清涼飲料だけでなく食品分野への進出も計画しております。(略)
新発売したサントリーオレンジ50は大ヒット商品となりまして、清涼飲料市場で確固たる地位を築くことができました。それまでの果汁飲料市場は、天然果汁と果汁入り清涼飲料が大きな市場であったわけですが、消費者の嗜好が大きく変化することを先取りして、このジャンルの新製品導入を図ったわけですが、まさにその読みが的中しました。
果汁飲料市場を構築したのは当社である、といっても過言ではないと思います。
特級ウイスキー「オールド」の好調により、ウイスキーの国内シェア(生産量ベースと推定)で70%を突破した。競合のニッカウイスキーがシェアを落とす形となり、サントリーの独走が続いた。
1977年度時点で、サントリーの全社利益の大半をウイスキー事業が稼いでおり、その大半が「オールド」の販売によるものであった。このため、オールドの利益がサントリーの多角事業の展開(清涼飲料・ビール)の原資となった。
「あまりにウイスキー依存体質、とくにオールド依存体質になっているのではないか」こういう不安が、首脳陣ばかりか、中堅社員の間からも漏れてくる。これは不安というより、むしろ強すぎる反省から来ていると言えるかもしれない。(略)
サントリーはわが国の特級ウイスキーの分野では90%近いシェアを持つが、実にその70%はオールドが占めている。サントリーの全体の売り上げで見てもオールドは44%に達し、利益の大半はオールドが稼ぎ出す。まさにサントリーはウイスキーでもち、ウイスキーはオールドで持つと言って良い。
サントリーは非企業であったが、1976年3月期より決算を公開。佐治敬三社長が、競争の厳しい酒類業界においては「開かれた経営」を遂行する必要があると考えたためであった。
1980年代に日本国内では「焼酎」が社会現象を巻き起こすブームとなり、ウイスキーの需要が低迷。洋酒部門が主力であったサントリーは影響を受け、1985年12月期に22年ぶりの減益決算となった。
特に、サントリーのウイスキーの主力であった「オールド」の販売が低迷。全盛期には売上高2000億円を確保していたが、1985年頃には約半減(1000億円以下)に落ち込んだという(1986/5 Decide)。
焼酎ブームについて、サントリーの佐治敬三社長は「ダサい文化」にやられたとして、自らの失策を嘆いた。
世はまさに、焼酎時代。オールドは1割5分も落ちるなど、ウイスキーの売り上げがめっきり減って、さすがのサントリー王国も揺れている。街に宣伝広告削減のウワサもあるが、無駄な広告は止めようということで、額は減らしていないとか。ウイスキー離れの背景について佐治敬三社長は「東京のダサい文化にしてやられた」と面白い指摘をしている。(略)「東京はダサいとこだと思うんです。ダサい文化が焼酎を支えている。とこどがダサい文化には、ダサい文化としての非常なエネルギーがあるわけです。ぼくは東京の文化とエネルギーの源はダ埼玉にあるとさえ思っている。我々のウイスキーが、ダ埼玉のダサいところへアピールしえていなかった」
清涼飲料の販売拡大のために自販機販路への投資を積極化。1987年時点で6万台の自販機を、3年後までに10万台(+4万台)に増加させる計画を公表した。
サントリーによる自販機の設置は1995年までに全国22万台体制となり、清涼飲料の販路拡大を後押しした。
佐治社長がTBSの討論番組において遷都を議論する中で「仙台遷都などアホなこと」「東北は熊襲の産地」の旨を発言。東北を中心に視聴者の怒りを買い、サントリー製品の取り扱いを停止する飲食店も出た。このため、サントリーは謝罪文を掲載したうえで広告宣伝を一時的に自粛するなど、社長の失言によって業務上の損失を被った。(出所:1988/5とうほく財界)。
1989年4月、日本政府は酒税法を改正し、1963年以来となる制度変更を実施した。従来、ウイスキーは特級・1級・2級に区分され、品質に応じて税率が設定されていたが、消費構造の変化により制度の実効性が低下していた。1980年代後半には特級ウイスキーが消費量の過半を占め、級別区分は市場実態と乖離していた。
改正では級別制度が廃止され、結果として旧特級・1級は実質的な減税、旧2級は実質的な増税となった。税制簡素化は輸入ウイスキーにとって参入障壁を下げる効果を持ち、円高進行と相まってスコッチなどの輸入品が価格面で競争力を高める環境が整った。国内メーカーは価格戦略と商品構成の再検討を迫られた。
サントリーは酒税法改正を機に、旧2級ウイスキーの価格改定を実施した。「トリス」は670円から1,230円、「レッド」は900円から1,450円へと引き上げられ、主力であった大衆向け商品の価格競争力は低下した。一方で、経営陣は旧特級・1級に対する実質減税を機会と捉え、高価格帯ウイスキーへの集中投資を選択した。
当時社長であった佐治敬三は、高級ウイスキーは価格調整によって市場拡大が見込めると判断した。競争激化は想定しつつも、ブランド価値を維持したまま利益率を確保できると考え、輸入品との正面競争を避けずに臨む姿勢を示した。この判断は、数量拡大よりも単価とブランドを重視する事業ポートフォリオへの転換を意味していた。
酒税法改正後、国内ウイスキー市場は想定に反して縮小局面に入った。1990年代を通じて出荷量は減少し、2000年代半ばまでに全盛期の3分の1以下となった。サントリーでは旧2級商品の販売減少を、高価格帯の「オールド」「リザーブ」で補うことができず、輸入ウイスキーとの競争も激化した。
1991年12月期の決算では、経常利益は109億円と前年比で減益となり、役員賞与の削減が決定された。その後もウイスキー部門の売上成長は停滞し、事業の収益性は長期にわたり圧迫された。高価格帯への集中は明確な戦略であったが、市場全体の縮小という外部環境の変化により、短期的な成果には結びつかなかった。この局面は、価格政策と需要動向の乖離が事業リスクとして顕在化した事例であった。
高級ウイスキーは、他の種類より税の負担が軽くなり、市場全体は非常に大きくなる可能性があります。たから競争は激しくなるけど利益が少なくなるということはありません。我々としては4月からが飛躍の時だ、という具合に考えておるわけです。それにスコッチ側も、安売りは結局その商品のイメージを損なうことになる、長い目で見て決して得ではないという気になっとるんですな。
酒税法改正に際し、佐治敬三(サントリー・当時社長)は、高級ウイスキーの税負担軽減を市場拡大の起点と捉えた。しかし実際には、税率の変化は価格条件を整えただけで、消費量を押し上げる力にはならなかった。競争が激化しても利益は維持できるという見立ては、需要が拡大することを前提としていた点で楽観的だった。価格と市場規模を直結させた読みが、結果として外れた。
創業家から鳥井信一郎氏(当時52歳)がサントリーの社長に就任。
1960年代まで、日本のコーヒー飲料は瓶入りのコーヒー牛乳が中心であり、缶コーヒーは限定的な存在であった。市場を転換させたのが、UCC上島珈琲による缶コーヒーの開発であり、1970年の大阪万博を契機に認知が広がった。1970年代に入ると、自動販売機の普及とモータリゼーションの進展が重なり、缶コーヒーは外出時に手軽に飲める飲料として需要を拡大した。
供給面では、1973年にホット・アンド・コールド対応の自動販売機が投入され、季節を問わない販売が可能となった。一方で市場参入は相次ぎ、1980年前後には100社超が競合する状態となった。やがて自販機網を押さえた企業がシェアを集中させ、1990年前後にはコカ・コーラの「ジョージア」やダイドードリンコが市場を主導した。サントリーフーズは先行商品で成果を出せず、缶コーヒー分野では後発の立場に置かれていた。
1992年、サントリーは缶コーヒー事業の再起をかけ、新ブランド「BOSS」を投入した。開発を主導したのは、当時の飲料事業を統括していた経営陣であり、従来の汎用的な商品設計を改め、明確な利用シーンと飲用頻度に焦点を当てた。想定顧客は一日に複数本を消費する外勤営業やドライバーであり、ヘビーユーザーを獲得することで回転率を高める狙いであった。
販促面では、従来商品と比べて約5倍の広告投下資本を決定した。テレビCMを軸に、ロック歌手の矢沢永吉を起用し、働く男性像を前面に押し出した。パッケージには人物の顔を採用し、甘さや癒やしを強調してきた既存缶コーヒーとの差異を示した。ブランド構築を起点に、自販機チャネルでの視認性と選択率を高める戦略が取られた。
BOSSは発売直後から販売数量を伸ばし、1992年末までに約1,000万ケースを出荷した。同年度の生産量ベースでシェアは5%超に達し、サントリーは缶コーヒー市場で存在感を回復した。1990年代を通じてBOSSは継続的に売上を伸ばし、2000年代初頭にはジョージアに次ぐシェア2位に位置づけられた。
この成功により、サントリーの清涼飲料事業は収益源としての位置を強め、酒類依存からの分散が進んだ。一方で、高水準の広告費と自販機維持コストを前提とするモデルであり、利益率の管理が課題として残った。それでもBOSSは、明確な顧客設定と集中投資によって競争優位を確保した事例となり、飲料事業全体の成長戦略に組み込まれていった。
コーヒー焙煎業界では国内最大手のUCCは、インスタントコーヒーでもネッスル日本に次いで2番手。20年前には外国にはない缶コーヒーを発売して市場を作り上げた。名実ともにコーヒー飲料業界をリードしてきた。
そんなUCCのプライドを日本コカコーラがへし折ったのだ。UCCに送れること5年目の1975年に「ジョージア」ブランドで缶コーヒー市場に参入。同グループの持つ圧倒的な販売力でUCCをトップシェアの座から引きずり下ろした。以降、UCCはコカ・コーラグループの後塵を配することになった。
2000年代を通じてサントリーは飲料部門でのヒット商品(伊右衛門など)の開発、ビール事業の黒字化を達成したものの、全社の国内売上高は低迷した。日本国内の人口が低迷する中で市場が伸び悩み、ヒット商品を生み出しても限られた市場でのシェア争いに巻き込まれることや、絶え間ざる競合製品の出現により、サントリーは国内事業を伸ばすのが難しい事態に直面した。
ビールの中国現地生産を開始
サントリーのビール事業は1963年の参入以降、長期にわたり赤字が続いていた。国内市場では大手3社が寡占的な地位を築き、後発であるサントリーは価格、販路、ブランドの面で不利な状況に置かれていた。1990年代以降はビール市場そのものが成熟し、発泡酒や第3のビールへの需要シフトも進行していた。
2000年代後半には原材料価格の高騰を背景に競合各社が相次いで値上げを実施し、消費者は価格と価値の違いをより厳しく選別するようになった。数量拡大によるシェア獲得が難しくなる中で、利益率を確保できる商品構成への転換が求められていた。
サントリーは高価格帯ビールである「ザ・プレミアム・モルツ」に経営資源を集中し、味や製法を前面に出した訴求を強化した。従来主流であった「すっきりしたのどごし」とは異なり、「ビールの味をじっくり楽しむ」という飲用シーンを提案し、消費行動の転換を狙った。
このプレミアムモルツが基幹ブランドとして成長し、年間販売数量は1,000万ケースを超えた。加えて2008年には他社が値上げする中で価格を据え置き、需要を取り込んだ。結果として、プレミアムモルツによる高付加価値商品の収益寄与によって、2008年にビール事業は約30億円の営業黒字を計上し、参入から46年目にして初の黒字化を達成した。
フランス飲料大手メーカーのオランジーナ社の買収を決定。買収価格は約3000億円
サントリーの清涼飲料部門を「サントリー食品インターナショナル」として分離。2013年にはサントリーHD傘下の子会社「サントリー食品インターナショナル」の株式を上場。株式上場により約3900億円を資本調達
英国グラクソ・スミスクラインの飲料部門の買収を決定。買収価格は約2100億円であった。
サントリーHDは飲料事業において、欧州を中心に買収による売り上げを確保
2000年代後半、サントリーHDは清涼飲料分野を中心に海外展開を進めていた。2009年のオランジーナ・シュウェップス社買収を起点に、飲料事業では企業買収を通じて海外売上を積み上げていた。一方、主力である酒類、とりわけウイスキーに関しては、海外売上の比率が低く、国内市場依存が続いていた。
酒類の中でもビールはグローバル競争が激しく、国内同業他社が海外M&Aで先行していた。このためサントリーHDは、競合が相対的に少ない蒸留酒に焦点を絞り、ウイスキー分野での大型買収を検討した。2012年頃から米国大手のBeam Inc.に着目し、数年にわたり買収可能性を探っていた。
2014年1月、サントリーHDはBeam Inc.を160億ドルで買収すると発表した。買収プレミアムは直近株価に対して約25%であり、取得原価は約1.42兆円に達した。FY2013のBeam Inc.の純利益は3.6億ドルであり、買収時の評価倍率はPER約44倍と算定された。
この水準は割高と受け止められたが、Beam Inc.は売上高31.4億ドル、営業利益6.1億ドルを計上する高収益企業であり、ブランド力と米国市場での競争優位を評価した判断であった。2014年5月、サントリーHDは米国子会社を通じてBeam Inc.を完全子会社化し、商号をBeam Suntory Inc.へ変更した。
Beam Inc.の買収により、サントリーHDは約3,000億円規模の売上高を新たに取り込んだ。地域別では米州売上が大きく拡大し、酒類事業の海外比率は大幅に上昇した。一方、買収関連費用として約89億円を特別損失に計上し、無形固定資産として商標権9,803億円、のれん6,574億円を認識した。
資金調達面では、三菱UFJ銀行を中心に約1兆円を借入で調達し、長期借入金は1.47兆円に増加した。平均金利は0.92%、返済期間は最長70年に設定された。この結果、自己資本比率は19.4%まで低下した。Beam買収は、酒類のグローバル化を一気に進めた一方で、財務リスクを大きく引き上げる決断でもあった。
2014年にサントリーはビール事業について100%子会社「サントリービール株式会社」として分離。だが、ビール事業の売上高は低迷が続き、利益面でもFY2016〜22にかけて5年連続の減益(営業利益ベース)となった。2021年12月期には営業赤字に転落した。
ビール事業のコスト構造は、販管費が重い点で利益の創出が難しくなっている。売上高に占める販管費の比率は、約20%〜24%で推移しており、ビール各社の競合と対抗するためのマーケティング・販売促進によって低収益体質に陥っている。
サントリーは、創業家による長期支配を維持しながら、事業価値を拡大してきた数少ない日本企業である。多くの同族企業がガバナンス不全や資本効率の低下に陥る中で、同社は例外的に「時間を味方につける経営」を成立させた。その前提となっていたのは、株主構成や統治形態よりも、安定したキャッシュを生み出し続ける事業構造であった。
ウイスキー、ビール、清涼飲料といった主力事業は、いずれも初期の設備投資負担は大きいものの、立ち上がり後は限界利益率が高く、ブランド構築によって価格決定力を持ちやすい分野である。特に酒類事業(ウイスキー)は、熟成や流通在庫を前提とするため、短期的な収益悪化を伴う局面が避けられない。しかし、国内市場で創出される安定したキャッシュがそれを吸収し、回収まで待つ余地を生んできた。この「待てる構造」が、短期収益を最優先しない意思決定を可能にした。
また、サントリーのガバナンスは、外部株主による強い監視ではなく、内部に形成された規律によって支えられてきた点に特徴がある。創業家は資産管理会社である寿不動産を通じて所有と経営を一体で保持する一方、事業転換を自ら主導してきた歴史を持つ。ワインからウイスキー、ビールから清涼飲料へと、主力事業を段階的に切り替えてきた過程で、「事業は永続しない」という前提が経営判断に学習として組み込まれていった。不採算事業を財務で覆い隠すのではなく、整理と再編を重ねてきたことが、資本の浪費を抑制する内部規律となった。
サントリーの統治の歴史が示すのは、「創業家支配が価値を生むかどうか」は統治形態そのものの問題ではなく、キャッシュ創出力と資本配分規律の問題だという点である。外部からの規律が弱くても、事業転換を経験し、変われなかった場合のコストを理解した「過去の経緯に精通した経営陣」が存在すれば、同族経営はむしろ長期投資に適した構造となり得る。サントリーは、投資規律によって創業家支配を機能させてきた好例であろう。