大阪市西区にて鳥井信治郎氏(当時21歳)が「鳥井商店」を個人創業して「ぶどう酒」の販売を開始した。鳥井信治郎氏は16歳の頃から「小西儀助商店(薬種問屋)」にて丁稚奉公をしており、洋酒・染料などを取り扱う経験を積んでおり、酒類の取り扱いには経験があった。
スペインから輸入したポートワインに日本人好みの「甘味」を添加。サントリー創業期のヒット商品に育つ
わたしは若い頃から洋酒をつくってきた。いくら良い品をつくっても、ただつくるばかりでは売れない。そこで新聞に広告することを始めたが、これは大いに効果があった。消費が減退したからといっては広告し、製品ができたからといっては広告した。まああれだけ広告してきたものだとおもおう。洋酒がここまで飲まれるようになった裏には、広告というものの果たした役割の大きさを見逃すことができない
大阪港区八条通の埋立地にて、赤玉ポートワインの樽詰専用工場(大阪工場)を新設
大阪府東区住吉町にて「寿屋(現・サントリー)」を設立し、個人事業から株式会社に転換。資本金は200万円
大正時代を通じてサントリーは「赤玉ポートワイン」により利益を確保し、この収益を原資にウイスキーの醸造に参入することを決定した。当時のウイスキーの本場はスコットランドであり、日本国内(もしくは東洋)ではウイスキーの醸造実績はなかったため、サントリーは日本国内で初となるウイスキー醸造を決定した。
参入した理由は明らかにされていないが、赤玉ポートワインが「合成酒」であったため、鳥井信治郎氏は本格的な醸造酒に憧れを抱き、ウイスキーに着眼したと推察される。
ウイスキーの国産化にあたって、醸造設備を京都府の山崎に設置することを決定した。
東海道線沿線に位置することから製品の出荷が行いやすいことに加え、気候がスコットランドに似ていることや、水質が良いことが決め手となった。山崎の周辺は「木津川・保津川・宇治川」の3つの河川が合流して「淀川」となる地点であり、濃霧が発生しやすい多湿な気候でスコットランドの気候に類似していたと言われる。
1924年に山崎蒸留所を新設稼働して、ウイスキーの製造を開始した。
製造にあたって、ポットスチルなどの蒸留装置の一部は内製しつつ、一部の装置はウイスキーの本場であるイギリス・スコットランドから輸入した。また、蒸留工程を経てからは数年間(5〜8年)は樽詰にして、山崎蒸留所の倉庫に貯蔵した。
このため、サントリーのウイスキー事業は、貯蔵期間である「5〜8年」は半製品として保持するだけであり、この間のウイスキー事業の売上高は0円の状態が続いた。
スコットランド以外の地でウイスキーをつくるなどという企ては、およそ荒唐無稽のことに属していた。他の仕事と違って、ウイスキーは造りはじめてから永い年月ねかし続けなければならない。
品質の良し悪し、出来不出来は、この永年の貯蔵を待ってはじめて分明する。製造方法が良いのか悪いのかさえ、短時日には判断できない。それに永年貯蔵に要する資金、金利、数え上げれば難しいことばかりだ。
父の一声が鶴の一声であった寿屋でも、さすがにこの時ばかりは全役員が反対だったという。それらを押し切ってやるには、余程の度胸と執念が必要だったろう。
1929年にサントリーは山崎蒸留所で醸造したウイスキーを初出荷して「白札サントリーウイスキー」として発売した。翌1935年には普及価格帯のウイスキー「赤札サントリーウイスキー」を発売して、ウイスキー市場に本格参入した。
ウイスキーへの参入に際して「サントリー」のブランド名を採用した。赤玉ポートワインの命名由来となった「太陽(サン)」と、創業者の鳥井信治郎氏の「トリイ」の文字から考案された。
戦前の日本国内においては「日本酒」が好まれており、「麦酒(ビール)」も徐々に普及しつつあった。しかし、アルコール度数が高いウイスキーは日本人の舌になじまず、サントリーは「赤札・白札」の販売拡大に苦戦した。この頃のウイスキーの評判は「焦げ臭い」というネガティブなものであった。
神奈川県鶴見でカスケードビールを醸造する企業が経営不振により倒産。サントリーがこの醸造所を買収して「オラガビール」のブランドで発売してビール製造に参入した。
だが、すでにキリンビールなどの先発企業が関東市場でシェアを確保しており、オラガビールは販売に苦戦した。
加えて、サントリーはキリンビールとの訴訟問題に直面した。サントリーはキリンビールが使用したビール瓶をリサイクルして無断使用(オラがビールのラベルを上貼り)したため、商標権をめぐる訴訟問題に直面。サントリーはキリンに敗訴した。
このため、1934年1月にサントリーはビール事業からの撤退を決定。鶴見の醸造所東京麦酒に売却した。
戦時中にウイスキーの販売を中止していたが、終戦後の1950年に販売統制が解除された。これを受けて、1950年にサントリーはウイスキーの販売(特級・1級・2級)を再開するとともに、新聞広告などへの積極的な広告宣伝を実施した。
終戦によって欧米の文化(バー)が日本に定着したことで、ウイスキーは嗜好品として日本でも受け入れられるようになった。また、サントリーは戦時中にウイスキーの在庫を確保したため、熟成された製品在庫が十分に存在している点が追い風となった。
商品政策の面では、1950年代を通じて、サントリーは高価格帯のウイスキーでは「オールド」、普及価格帯では「トリス」の販売による売上を拡大した。この結果、祖業である「ぶどう酒(赤玉ポートワイン)」の出荷量をウイスキーが凌駕する形となり、合成酒メーカーからウイスキー醸造に転換した。
ウイスキー販売のために支店を全国に新設。1950年代を通じて「福岡・札幌・名古屋・広島・仙台」に営業所または支店を設置した。
1950年代において、日本国内では「ウイスキー」は馴染みのない洋酒であったため、その普及を目的にPR誌「洋酒天国」を発刊。各地のバーに配布することでサントリーの知名度向上を図った。
関東市場向けの瓶詰め工場として新設。トリス・赤玉のボトリングを開始
国内における酒類の消費について、戦後は「ビールの急成長」という変化が生じた。
戦前までは「清酒(日本酒)」の市場が中心であり、ビールメーカーは日本国内に点在していたが市場規模は限定的であった。ところが、1945年の終戦後はビールの市場規模が急速に拡大。特に、1950年代から1960年代にかけての「高度経済成長期」においてビール市場の伸びは著しかった。
ビールは日本酒に比べてアルコール度数が低く、戦後に日本で普及した「洋食」にも適合することから、食生活の変化に伴って市場が拡大。ビール各社は設備投資を積極的に行い、ビールの価格を抑えることで「手軽に飲めるアルコール飲料」として日本国内で定着した。
1949年に国内最大のビール会社であった「大日本麦酒」が財閥解体によって「サッポロビール」と「アサヒビール」の2社に会社分割された。これに戦前からの大手メーカー「キリンビール」を加えた3社が戦後の国内ビール市場を牛耳った。
国内のビール市場におけるシェアは先発3社である「サッポロビール、アサヒビール、キリンビール」より寡占が形成された。ビール業界では大量生産のための設備投資、大量販売のための販路構築(営業支援)、ブランド認知向上のための広告宣伝投資など、巨額な投資が必要なビジネスであり、中小企業が参入できない構造であった。
法律規制の観点では、日本酒(清酒)が大企業の台頭を許さないないように、政治の面から生産量を法律で制限していた。これは全国に点在する酒造メーカーは、地域の富豪であるために政治的発言力が強かったり、政治家を輩出していたことが背景にある。
一方、ビールには日本酒を取り巻くような生産規制がなかったため、基本的に自由競争によって大企業による寡占が形成されるに至った。戦前に数多く点在したビールメーカーは、大手3社を除き全て消滅した。
戦後のビール業界における新規参入では、1950年代に宝酒造(タカラビール)が名乗りをあげた。
しかし、参入後も2%前後のシェアを確保するにとどまった。これは、ビール各社の間で「味」に大きな差別要素がなく、顧客はすでに飲み慣れているブランドのビールを指名するため、新規参入企業が容易にシェアを確保できない構造が障壁となっていた。
このため、1967年に宝酒造はビール事業からの完全撤退を決定。1962年に新設したばかりの「京都麦酒工場」をキリンビールに売却した。このため、1960年前後においてビール業界を取り巻く競争環境は厳しい状態が続いており、新規参入できる余地は皆無と考えられていた。
1963年にサントリー(佐治敬三・社長)はビールへの新規参入を公表した。1930年代に「オラガビール」の製造販売で参入したが数年で撤退しため、サントリーとしては2度目のビール事業への挑戦を意味した。
サントリーによるビールへの参入は、国内のビール業界に「第4の勢力」が現れることを意味しており、競合の大手ビール各社は強い警戒感を示した。このため、サントリーのビール参入計画は極秘のうちに勧められ、ビールの本場であるデンマークに技術者を派遣した。そして、1963年の記者発表においてビールへの参入が公表されるに至り、国内ウイスキーのトップメーカーが競争が熾烈なビール事業に参入する形となり、注目を集めた。
サントリーのビール事業への参入は、ウイスキーで国内市場を掌握したことによって緩んだ社風を、もう一度叩き直す狙いがあった。そのため、佐治社長はあえて競争の厳しいビール業界への参入を表明した。
サントリーのビール参入にあたって最大の問題になったのが、特約店を通じた販路にあった。国内では大手3社が特約店を経由した販路を確保しており、サントリーは特約店と契約できなければビールが売れない状況にあった。
サントリーを助けたのが、ビール業界で競合するアサヒビールであった。アサヒビールは、サントリーに対して特約店を一部開放。これにより、サントリーはビールの販売経路を確保してビールの事業化に目処をつけた。
ただし、アサヒビールからすれば競合企業に販路を受け渡すことを意味しており、この決定についてはアサヒビールの社内で批判も沸き起こったという。ライバル企業の提携が成立した背景には、アサヒビールとサントリーがともに大阪を拠点におく企業であることや、アサヒビールが業界の寡占構造に課題意識を持った理由であった。
ビール事業への参入にあたって、サントリーは首都圏(東京都・府中市)に武蔵野工場を新設した。参入とともにビールの量産体制を整えることで、シェアの確保を目論んだ。
1960年代を通じて先発の大手3社はビール増産の設備投資を実施してシェア争いを繰り広げていた。このため、後発のサントリーがシェアを奪還できず、1968年度時点のシェアは3%前後で推移した。
この結果、サントリーのビール事業の参入から約45年にわたって事業赤字が続いた。
サントリーのビール事業が黒字化したのは2009年度であり、参入から46年目に相当した。
これは、2000年代を通じて「ザ・プレミアム・モルツ」と「金麦」の販売が好調であったことや、サッポロビールの経営不振によりシェア低下により、サントリーがビール市場でシェア3位を確保できたことによる。
1962年にサントリーは米国3位のコーラ飲料メーカー「ロイヤルクラウン社」と提携して、国内で清涼飲料(ロイヤルクラウンコーラ)の販売(ボトリング)に参入した。サントリーはロイヤルクラウン社から「ロイヤルクラウンコーラ」の原液を輸入し、国内でボトリングおよび販売業務に従事した。
ところが、1960年代を通じて日本国内ではコカ・コーラ社が全国各地のボトラーを取りまとめて清涼飲料で成長を遂げた。このため、ロイヤルクラウン社は日本における清涼飲料の展開で苦戦し、サントリーの清涼飲料事業は低迷した。1972年時点で日本国内の清涼飲料の出荷数は、コカ・コーラが2.9億ケースに対して、ロイヤル社は500万ケースと厳しい状況にあった(1972/3缶詰時報)。
この結果、1972年にサントリーは米ロイヤルクラウン社との提携を解消した。
昭和37年、ロイヤルクラウンコーラと資本提携して清涼飲料界に参入を図ったわけです。その後、1972年にロイヤルクラウンコーラ販売株式会社を解散し、従業員を全面的に譲り受け、サントリー100%出資のサントリーフーズを設立しました。(略)
1972年ごろの飲料市場は、なんといってもコーラ飲料全盛の時代であり、いまさらコカ・コーラさんやペプシさんと同じ土俵の上で勝負をしても、とても勝てる状況ではありませんでした。
1972年にサントリーは独自で子会社「サントリーフーズ株式会社」を設立し、清涼飲料に単独参入することを決めた。設立当初の子会社社長は不明だが、1975年に陣場侃爾氏(サントリー関連事業部・元部長)がサントリーフーズの社長に就任し、同社の経営を担った。
設立時の子会社の資本金は2億円。サントリーの出資比率は100%であった。このため、全く新しい新規事業というよりは、提携時代の失策を挽回するための経営再建と言えた。
サントリーとしては「ウイスキー」「ビール」に次ぐ主力事業として、清涼飲料(食品)を売上成長させることを狙った。
1972年4月には「サントリーフルーツソーダ」と「サントリーコーラ」の2商品の販売を開始し、独自ブランドによる清涼飲料を展開した。
ただし先発企業のコカコーラがシェアを掌握していたため、サントリーとしては「コーラ飲料」以外の製品を手がけることで差別化することを念頭においた。また展開地域の面では、サントリーの本社があり酒販店などの販路が確保しやすい関西地区(京阪神)から販路確保に投資した。
サントリーフーズの設立に際して、親会社のサントリーは洋酒および清涼飲料の新工場の新設を決定。1972年3月に栃木県栃木市に「洋酒・清涼飲料」の2製品を生産する工場の新設を決定した。1期工事への投資額は18億円であり、1974年からの稼働を目指した。このため、サントリーは清涼飲料の生産に責任を負い、サントリーフーズは販売に特化した。
サントリーフーズとしては新工場の竣工を期に清涼飲料の国内における拡販を計画。稼働初年度の目標売上高として「160億円」(1972/4経済展望)を設定した。
当社が飲料業界に参入できたのも、もともとサントリーは飲料を手掛けていましたし、永年ウイスキーの製造で蓄積したノウハウがあったからこそ進出できたわけです。(略)
食品分野への進出はそうやたすいものではありません。しかし、サントリーフーズ設立の目的は、ウイスキー、ビールに次ぐ第三の柱として食品部門を確立するためであり、まず飲料市場に参入を図ったわけですから、今後は清涼飲料だけでなく食品分野への進出も計画しております。
1974年4月にサントリーは果実系の清涼飲料「サントリーオレンジ50」を発売した。オレンジ果汁50%が入った缶ジュースとして「1本90円」(1974/8中部財界)で発売した。同時にテレビCMを中心として広告宣伝を積極化した。
当時の果汁飲料は10%前後が一般的であり、競合のバリヤース(1951年発売)が商品シェアを確保していた。これに対してサントリーは果汁50%を訴求することで差別化した。当時は果汁50%の飲料は競合商品に存在せず、合成着色料などの問題が世の中に広まりつつあった。このため、サントリーの「オレンジ50」は発売とともにヒット商品に育った。
ただし、1978年時点の国内施療飲料業界の出荷量シェアにおいて、サントリーの「オレンジ50」は1%(国内7位)に位置した。これは、依然としてコカコーラがシェア「20%」、ファンタが同「12〜13%」(1978/5総合食品)を確保しており、シェア10%未満の飲料ブランドが群雄割拠していたことが理由であった。このためサントリーの「オレンジ50」はヒット商品になった一方で、そのインパクトは限定的とも言えた。
新発売したサントリーオレンジ50は大ヒット商品となりまして、清涼飲料市場で確固たる地位を築くことができました。それまでの果汁飲料市場は、天然果汁と果汁入り清涼飲料が大きな市場であったわけですが、消費者の嗜好が大きく変化することを先取りして、このジャンルの新製品導入を図ったわけですが、まさにその読みが的中しました。
果汁飲料市場を構築したのは当社である、といっても過言ではないと思います。
サントリーフーズでは自社商品の販売にあたって、東京・大阪の都心地区においては、問屋ではなく、自社の営業部隊によるルートセールスによって小売店と直接取引した。これは、差別化が難しい飲料業界でシェアを確保するためには、自社製品の販売に特化したルートセールスがシェア確保に寄与するためであった。
主な営業先はサントリー商品の取り扱いに馴染みがある酒販店であり、1981年時点でルートセールスの60%が酒販店で占められた。
東京・大阪以外の地区に関しては、市場規模が小さい一方で人員投入のコストが嵩むことから、基本的に問屋に委託した販路を採用した。ただし、中核都市(名古屋・仙台など)では、特定地域でルートセールスを採用し、自社営業は「菓子店・米屋」、そのほかチャネルは問屋が担当することで棲み分けた。
ルートセールスの構築にあたっては、営業人員を大量に確保することが課題となった。そこで、新卒の大量採用によってルートセールスの構築を目論んだ。1978年時点のサントリーフーズの従業員数は720名であったのに対して、翌年の新卒採用として300名の採用を計画。1981年時点で全社員のうち70%が営業に従事した。
1981年時点までにサントリーは全国規模の支店網(札幌・仙台・関東・東京・横浜・名古屋・関西・大阪・広島・四国・福岡)を構築した。これによって、サントリーの清涼飲料を全国で販売できる体制が整った。
市場参入して9年で、やっと強力な競合メーカーさんと正面切って競争できる体力がついてきましたので、この目標(注:店頭陳列でコカコーラ3に対し、サントリーで1を棚確保)はなんとしても達成したいですね。その意味からも、今年はきめ細かいマーケティング展開を行っています。宣伝、広告にしても、めったやたらに打つのではなく、効率よく主力商品に絞り込んでます。店頭シェアを高めるためには、まず、小売店さんの扱い意識を高めていただくことを念頭に入れなければなりませんし、さらに必要なことは、消費者の皆さんの選択買いを促して小売店さんの売り上げ増をバックアップさせていただくことも大切です。(略)
ルートセールスの場合は、人海戦術ですから人をたくさん投入する必要があります。ですから人件費、輸送費などの経費がかなりかかります。しかし、その反面、セールスが自社の商品だけを小売店さんに販売するわけですから、それだけ小売店に対してキメの細かい商売ができます。数多くの競合商品が店頭シェア獲得のためシノギを削っている状況ですから、セールスの営業活動いかんによっては、店頭シェアを高めることが大いに可能となってくるわけです。
1978年3月期において、サントリーの食品事業およびサントリーフーズを合算した売上高は341億円に達した。また、1981年3月期にはサントリーフーズの単体売上高として390億円を計上した。
サントリーフーズは1972年2月に設立されたが、1975年3月および1977年1月に実質的に解散している。これは、サントリーフーズが積極投資によって累積赤字を抱えたため、損失を親会社のサントリーが肩代わりし、その都度新会社として発足したためであった。
一説には、1975年時点の累積赤字は「3億円」、1976年時点は同「5億円」(1978/5総合食品)と言われており、合計8億円の累積赤字を抱える状況にあったと推定される。赤字が累積した理由は、清涼飲料業界ではコカコーラやキリンといった強力な競合の存在や、ルートセールスのための人員投資にコストがかかるためであった。
なおサントリーフーズ社の業績は非開示であり、黒字転換した時期は不明である。
特級ウイスキー「オールド」の好調により、ウイスキーの国内シェア(生産量ベースと推定)で70%を突破した。競合のニッカウイスキーがシェアを落とす形となり、サントリーの独走が続いた。
1977年度時点で、サントリーの全社利益の大半をウイスキー事業が稼いでおり、その大半が「オールド」の販売によるものであった。このため、オールドの利益がサントリーの多角事業の展開(清涼飲料・ビール)の原資となった。
「あまりにウイスキー依存体質、とくにオールド依存体質になっているのではないか」こういう不安が、首脳陣ばかりか、中堅社員の間からも漏れてくる。これは不安というより、むしろ強すぎる反省から来ていると言えるかもしれない。(略)
サントリーはわが国の特級ウイスキーの分野では90%近いシェアを持つが、実にその70%はオールドが占めている。サントリーの全体の売り上げで見てもオールドは44%に達し、利益の大半はオールドが稼ぎ出す。まさにサントリーはウイスキーでもち、ウイスキーはオールドで持つと言って良い。
サントリーは非企業であったが、1976年3月期より決算を公開。佐治敬三社長が、競争の厳しい酒類業界においては「開かれた経営」を遂行する必要があると考えたためであった。
1980年代に日本国内では「焼酎」が社会現象を巻き起こすブームとなり、ウイスキーの需要が低迷。洋酒部門が主力であったサントリーは影響を受け、1985年12月期に22年ぶりの減益決算となった。
特に、サントリーのウイスキーの主力であった「オールド」の販売が低迷。全盛期には売上高2000億円を確保していたが、1985年頃には約半減(1000億円以下)に落ち込んだという(1986/5 Decide)。
焼酎ブームについて、サントリーの佐治敬三社長は「ダサい文化」にやられたとして、自らの失策を嘆いた。
世はまさに、焼酎時代。オールドは1割5分も落ちるなど、ウイスキーの売り上げがめっきり減って、さすがのサントリー王国も揺れている。街に宣伝広告削減のウワサもあるが、無駄な広告は止めようということで、額は減らしていないとか。ウイスキー離れの背景について佐治敬三社長は「東京のダサい文化にしてやられた」と面白い指摘をしている。(略)「東京はダサいとこだと思うんです。ダサい文化が焼酎を支えている。とこどがダサい文化には、ダサい文化としての非常なエネルギーがあるわけです。ぼくは東京の文化とエネルギーの源はダ埼玉にあるとさえ思っている。我々のウイスキーが、ダ埼玉のダサいところへアピールしえていなかった」
日経新聞(1986/5/24)の報道によれば、1986年3月期決算でサントリーはビール部門の黒字化を公表。ただし、サントリーHDはビール事業の黒字化は2008年度と主張しており、真祖は不明
清涼飲料の販売拡大のために自販機販路への投資を積極化。1987年時点で6万台の自販機を、3年後までに10万台(+4万台)に増加させる計画を公表した。
サントリーによる自販機の設置は1995年までに全国22万台体制となり、清涼飲料の販路拡大を後押しした。
佐治社長がTBSの討論番組において遷都を議論する中で「仙台遷都などアホなこと」「東北は熊襲の産地」の旨を発言。東北を中心に視聴者の怒りを買い、サントリー製品の取り扱いを停止する飲食店も出た。このため、サントリーは謝罪文を掲載したうえで広告宣伝を一時的に自粛するなど、社長の失言によって業務上の損失を被った。(出所:1988/5とうほく財界)。
1989年4月1日より日本政府は改正酒税法を施行し、1963年以来の酒税の改正となった。
従来の酒税法では高級酒とされた「ウイスキー」「ビール」に対して高額な税金を課してきたが、これらのアルコール飲料の普及により当初の目的に適合しなくなっていた。
酒税法改正前は、ウイスキーは品質によって「特級・1級・2級」に区分され、異なる税率が貸されていた。だが、1989年の時点でウイスキーでは「特級」の消費量が52%を占めており、区分の意味が薄れつつあった。また、これらの「級別」の仕組みが、輸入ウイスキーの国内販売における障壁になっていた。
そこで、日本政府は「級別」の仕組みを廃止。税負担に関しては、特級・1級ウイスキーにおいては実質的に減税、2級ウイスキーにおいては実質的に増税となった。
また、税制を簡素化することで、輸入ウイスキーにとって有利な状況となった。これは、1980年代の日本においては欧米との貿易摩擦(自動車・半導体など)が深刻化しつつあり、日本政府は欧米からの輸入品に優遇を与えることで、貿易摩擦の緩和を狙っていたという背景があった。
酒税法の改正によって、実質的に輸入ウイスキーの日本参入にあたっての障壁が低下したことで、1989年以降はスコッチなどの輸入ウイスキーの台頭が予想された。加えて、1985年のプラザ合意を発端として円高ドル安が進行しつつあり、日本の消費者にとっては従来よりも安くスコッチウイスキーを飲める状況となった。
サントリーは改正酒税法の施行に合わせて、旧2級のウイスキーについて値上げを実施した。
「トリス」については670円から1230円(+560円値上げ)、「レッド」については900円から1450円(+550円値上げ)となり、旧2級ウイスキーの販売価格を改定した。
酒税法改正前において、国産ウイスキーにおける「2級」の販売量は1/3を占めており、サントリーとしても「トリス」「レッド」の値上げはウイスキー部門に影響が出た。
酒税法の改正による競争激化について、サントリーの佐治敬三氏(当時社長)は「むしろ自社にとって有利な状況」と判断していた。佐治社長は高級ウイスキー(特級・1級)にとっては実質的な減税であり、実質的な値下げによって市場が拡大すると考えたためであった。
高級ウイスキーは、他の種類より税の負担が軽くなり、市場全体は非常に大きくなる可能性があります。たから競争は激しくなるけど利益が少なくなるということはありません。我々としては4月からが飛躍の時だ、という具合に考えておるわけです。それにスコッチ側も、安売りは結局その商品のイメージを損なうことになる、長い目で見て決して得ではないという気になっとるんですな。
酒税法の改正の結果、国内におけるウイスキー市場は低迷した。1990年代を通じてウイスキーの出荷量は低迷し、2005年前後に底打ちするまでに全盛期から1/3以下に縮小した。
サントリーとしては旧2級ウイスキーの「トリス」「レッド」については値上げによって販売に苦戦。旧特級の「オールド」「リザーブ」については、輸入ウイスキーとの競争に晒された結果、2級の販売減少をカバーするに至らなかった。
この結果、1991年12月期の単体決算において、サントリーは経常利益109億円(前年比24.1%の減益)を計上。減益決算の責任を受けて、役員賞与の削減を決定した。
また、1990年代を通じてサントリーのウイスキー部門の売り上げが低迷。2010年代に国産ウイスキーブームにより販売量が回復するまで、厳しい状況が続いた。
国産ウイスキーの91年の市場規模(メーカー出荷量)は15万072キロリットル。前年比7.6%ダウンと3年連続の現象である。酒税法改正で旧2級酒の市場を失い、その穴埋めに期待されていた旧特級の「リザーブ」「オールド」クラスも輸入ウイスキーに押され、いまだに補いきれない。コニャックやプレミアムウイスキーなど高級輸入品の売上高は30%近く減少すると見られている。洋酒全体でも5%減という見込みだ。
創業家から鳥井信一郎氏(当時52歳)がサントリーの社長に就任。
1960年代までの日本ではコーヒー飲料は「瓶入りのコーヒー牛乳」が主流であり、缶コーヒーは普及していなかった。
従来の瓶詰めコーヒー牛乳の市場に一石を投じたのが、日本で缶コーヒーを開発したUCC上島珈琲であった。UCCは珈琲を本業とするメーカーであり、1970年の大阪万博で缶コーヒーを紹介して注目を集めた。
そして、1970年代を通じて缶コーヒーの市場が拡大。この原動力となったのが「自動動販売機」と「モータリゼーション」であった。供給面において、1973年に自動販売機メーカーである三共電気が季節によって「冷却・加熱」を切り替え可能な新型機(ホット・アンド・コールド機)を投入し、コーヒーは1年中好まれる飲料となった。
また需要面において、1960年代を通じて日本国内で自動車が普及する「モータリゼーション」が進展。ドライブにおける眠気覚ましとして缶コーヒーの需要が増加した。
この結果、1970年代を通じて缶コーヒーの販売が拡大し、新しい清涼飲料として日本人に定着した。
UCC上島珈琲に加えて、ポッカコーポレーション、ダイドードリンコ、コカ・コーラ、サントリー、キリン、サッポロ、アサヒの各社が缶コーヒーに参入し、市場シェアを争った。ピーク時の1980年には、日本国内で「105社」(1985/2ジャパンフードサイエンス)の缶コーヒーメーカーが参入し、激しくシェアを争った。
このうち、自動販売機のルートを開拓した企業が缶コーヒーでシェアを確保し、1990年前後までにコカ・コーラの「ジョージア」、ダイドードリンコの「ダイドーブレンド」がシェアを掌握した。この結果、先発企業であったUCC上島珈琲は自動販売機のルート開拓に遅れたためにシェアを低下させ、缶コーヒーのパイオニアであるにも関わらず販路問題で苦境に陥った。
サントリー(サントリーフーズ)は缶コーヒーの市場おいて苦戦した。
1976年にUCC上島珈琲と共同で「サントリーUCC珈琲」を発売するもシェアを確保できず、1984年にサントリー単独で発売した「ブレンドコーヒー」でも販売に苦戦した。この間、缶コーヒー市場では、自販機の販売ルートを確保するコカ・コーラ「ジョージア」によりシェア拡大が進行した。
コーヒー焙煎業界では国内最大手のUCCは、インスタントコーヒーでもネッスル日本に次いで2番手。20年前には外国にはない缶コーヒーを発売して市場を作り上げた。名実ともにコーヒー飲料業界をリードしてきた。
そんなUCCのプライドを日本コカコーラがへし折ったのだ。UCCに送れること5年目の1975年に「ジョージア」ブランドで缶コーヒー市場に参入。同グループの持つ圧倒的な販売力でUCCをトップシェアの座から引きずり下ろした。以降、UCCはコカ・コーラグループの後塵を配することになった。
1992年にサントリーは缶コーヒーの新ブランド「BOSS」の販売開始した。開発コンセプトは「一日に三本前後飲むヘビーユーザーを捕まえろ」(1993/1/20日経産業新聞)であり、糖分摂取と相性の良い職業につく人々をターゲットに据えた。具体的には、25〜35歳の男性で「外勤営業マンとドライバー」(1992/11企業と広告)を想定した。
このため従来の缶コーヒーのイメージを刷新した「BOSS」のブランド名を採用し、男性の顔をパッケージに採用するなど、従来のコーヒー飲料のブランドイメージを覆した。
販促面において、サントリーはBOSSの販売にあたって、テレビCMへの積極出稿を開始。従来の缶コーヒー「ウエスト」の販売促進と比較して、約5倍におよぶ積極投資を決定。ロックスターである矢沢永吉氏を起用したCMを展開して、BOSSのブランドイメージを醸成した。
BOSSは発売直後から引き合いが相次ぎ、ヒット商品に成長。1992年8月下旬の発売から、同年12月末までに「約1000万ケース」(1993/1/20)を販売し、1992年度の缶コーヒーの生産量シェアでBOSSが「5.2%」を確保。1990年代を通じてBOSSはシェアを拡大し、2002年までにジョージアに次ぐ国内シェア2位を確保した。
紅茶飲料「リプトン」を国内で発売
ビールの中国現地生産を開始
ビールおよび清涼飲料の生産を開始
サントリービバレッジプロダクツ株式会社の工場として新設。食品製造を開始
1963年に参入したビール事業について、サントリーHDは2008年度に黒字化を達成したと発表(営業利益30億円)。すなわち、45年にわたり赤字が続き、46年目で黒字転換した。
黒字転換の原動力は「プレミアムモルツ」「金麦」の販売好調や、競合のサッポロビールの経営不振による競争の緩和であった。これにより、2009年にサントリーHDは国内ビール市場においてシェア12.4%を確保し、それまで3位だったサッポロHDを抜き第3位に浮上した。
ただし、サントリーのビール事業の売上高は推定2000億円前後に対して営業利益30億円であり、2022年にはビール事業を運営する子会社「サントリービール」は営業赤字転落した。このため、サントリーのビール事業は黒字化を果たしたものの、依然として低収益であり、資本効率の悪い事業であり続けている。
フランス飲料大手メーカーのオランジーナ社の買収を決定。買収価格は約3000億円
2000年代を通じてサントリーは飲料部門でのヒット商品(伊右衛門など)の開発、ビール事業の黒字化を達成したものの、全社の国内売上高は低迷した。日本国内の人口が低迷する中で市場が伸び悩み、ヒット商品を生み出しても限られた市場でのシェア争いに巻き込まれることや、絶え間ざる競合製品の出現により、サントリーは国内事業を伸ばすのが難しい事態に直面した。
サントリー天然水南アルプス株式会社の工場として新設
サントリーの清涼飲料部門を「サントリー食品インターナショナル」として分離
サントリーHD傘下の子会社「サントリー食品インターナショナル」の株式を上場。株式上場により約3900億円を資本調達
英国グラクソ・スミスクラインの飲料部門の買収を決定。買収価格は約2100億円であった。
サントリーHDは飲料事業において、欧州を中心に買収による売り上げを確保
2009年のオランジーナ・シュウェップス社買収を契機に、サントリーHDは飲料を中心に企業買収によるグローバル展開を推進していた。
一方、酒類に関してはグローバル展開が遅れており、買収を通じた事業拡大を目論んだ。
サントリーHDは主力である「ウイスキー(蒸留酒)」と「ビール」のうち、ウイスキーにおける海外企業の買収を計画した。ビールを見送った理由は、グローバルでの競争が厳しく、アサヒビールなどの国内大手メーカーが海外企業の買収について、積極的に名乗りを上げていた。このため、サントリーとしては、買収にあたって競合が少ないウイスキーに焦点を絞った。
2012年頃からサントリーHDは、米国の大手ウイスキーメーカーであるBeam Inc.(ビーム社)の買収検討を開始した。当初は英国の大手メーカーDIAGEOとの共同買収を検討したものの、買収総額を割高と判断して買収決定には至らなかった。
ただし、2013年からサントリーHDはBeams社の製品について国内販売を開始し、買収の機会を伺っていた。
2014年1月にサントリーHDは、Beam Inc.(ニューヨーク証券取引所・上場企業)を160億ドルで買収すると発表した。買収プレミアムは+約25%(直近3ヶ月株価の加重平均対比)で決定された。
実際の買収価格は1.38兆円(取得原価1.42兆円)であり、サントリーHDの100%子会社を通じて、Beams社の株式100%を完全取得した。FY2013のBeam Inc.の当期純利益(Net Income)は3.6億ドルであり、PERは推定44倍という割高な水準であった。これはBeam Inc.が高収益企業(税込売上高31.4億ドル)であり、事業競争力を加味したBeam Inc.の株価が市場(NYSE)で形成されており、ここに買収時のプレミアム25%が加算されたためであった。
サントリーとしては過去最高額の取得価格であり、その巨額さから国内の経済界からも注目を集めた。直近の日本企業の海外企業の買収案件では、ソフトバンクによるスプリント買収(216億ドル・2013年買収)に次ぐ金額水準であった。
2014年5月にサントリーHDはBeam Inc.の買収を完了。サントリーHDが米国に設立した100%子会社SUS Merger Sub LimitedがBeams Inc.に吸収合併される形をとり、吸収後の商号をBeam Suntory Inc.に変更。サントリーHDがBeam Suntory Inc.の株式を100%握った。
FY2013におけるBeam社の売上高(酒税込)は31.4億(営業利益6.1億ドル)ドルであった。Beam Inc.の買収によって、展開地域の中心である米州に加えて、その他海外(欧州など)の売上も加算された。
この結果、サントリーHDはBeam Inc.の買収により約3000億円の売上高を底上げした。
サントリーHDによるBeam Inc.の買収が巨額だったこともり、サントリーHDは特別損失として「買収関連費用」を89億円計上した。買収価格1.4兆円に対して、約0.6%を手数料として費用計上した。
買収手数料の支払先はアドバイザー企業と推定される。Beam Inc.のアドバイザーが5000万ドル(センタービューおよびクレディ・スイス)、サントリーHDのアドバイザーが4000万ドル(三菱UFJFGおよびモルガンスタンレー)の手数料収入を確保した(2014/1/14 Bloomberg)。
Beam Inc.の買収(取得原価1.42兆円)に伴い、サントリーHDは無形固定資産を約1.6兆円を計上した。内訳は「商標権」で9803億円を計上し「のれん」で6574億円計上した。
のれんの償却は20年の均等償却であり、年間約329億円の費用計上を実施。商標権については「非償却」とした。
2013年12月末の時点で、サントリーHDにおける財務状況(BS)は借入金に依存する体質であった。
具体的には純資産1.0兆円に対して負債合計1.3兆円(自己資本比率32.3%)の水準であり、負債に占める有利子負債(借入金および社債)は5789億円であった。これに対して現預金は4186億円、投資有価証券は1163億円であり、現預金は子会社「サントリー食品インターナショナル」を株式上場したことによる株式売却益で調達したものであった。
したがって、買収のための潤沢な現預金(ネットキャッシュ)があるわけではなく、1.4兆円の買収費用を捻出するためには資金調達が必須となった。
サントリーHDはBeam Inc.の買収資金について、三菱UFJ銀行から約1兆円の借入を決断した。三菱UFJFGが買収アドバイザリーを務めており、借金の実施は既定路線であったと思われる。
2014年12月末時点で、サントリーHDの長期借入金の合計額は1.47兆円となり、平均金利は0.92%に設定され、返済期間は2016年〜2074年となった。特に、すべての返済が完了するため70年という長期間が設定された点が特筆される。
借入調達によって、FY2014期末時点のサントリーHDの自己資本比率は19.4%(前年度比▲12.9%)となり、大幅に低下した。
2014年にサントリーはビール事業について100%子会社「サントリービール株式会社」として分離。だが、ビール事業の売上高は低迷が続き、利益面でもFY2016〜22にかけて5年連続の減益(営業利益ベース)となった。2021年12月期には営業赤字に転落した。
ビール事業のコスト構造は、販管費が重い点で利益の創出が難しくなっている。売上高に占める販管費の比率は、約20%〜24%で推移しており、ビール各社の競合と対抗するためのマーケティング・販売促進によって低収益体質に陥っている。