大阪市西区にて鳥井信治郎氏(当時21歳)が「鳥井商店」を個人創業して「ぶどう酒」の販売を開始した。鳥井信治郎氏は16歳の頃から「小西儀助商店(薬種問屋)」にて丁稚奉公をしており、洋酒・染料などを取り扱う経験を積んでおり、酒類の取り扱いには経験があった。
スペインから輸入したポートワインに日本人好みの「甘味」を添加。サントリー創業期のヒット商品に育つ
わたしは若い頃から洋酒をつくってきた。いくら良い品をつくっても、ただつくるばかりでは売れない。そこで新聞に広告することを始めたが、これは大いに効果があった。消費が減退したからといっては広告し、製品ができたからといっては広告した。まああれだけ広告してきたものだとおもおう。洋酒がここまで飲まれるようになった裏には、広告というものの果たした役割の大きさを見逃すことができない
神奈川県鶴見でカスケードビールを醸造する企業が経営不振により倒産。サントリーがこの醸造所を買収して「オラガビール」のブランドで発売してビール製造に参入した。
だが、すでにキリンビールなどの先発企業が関東市場でシェアを確保しており、オラガビールは販売に苦戦した。
加えて、サントリーはキリンビールとの訴訟問題に直面した。サントリーはキリンビールが使用したビール瓶をリサイクルして無断使用(オラがビールのラベルを上貼り)したため、商標権をめぐる訴訟問題に直面。サントリーはキリンに敗訴した。
このため、1934年1月にサントリーはビール事業からの撤退を決定。鶴見の醸造所東京麦酒に売却した。
戦時中にウイスキーの販売を中止していたが、終戦後の1950年に販売統制が解除された。これを受けて、1950年にサントリーはウイスキーの販売(特級・1級・2級)を再開するとともに、新聞広告などへの積極的な広告宣伝を実施した。
終戦によって欧米の文化(バー)が日本に定着したことで、ウイスキーは嗜好品として日本でも受け入れられるようになった。また、サントリーは戦時中にウイスキーの在庫を確保したため、熟成された製品在庫が十分に存在している点が追い風となった。
商品政策の面では、1950年代を通じて、サントリーは高価格帯のウイスキーでは「オールド」、普及価格帯では「トリス」の販売による売上を拡大した。この結果、祖業である「ぶどう酒(赤玉ポートワイン)」の出荷量をウイスキーが凌駕する形となり、合成酒メーカーからウイスキー醸造に転換した。
ウイスキー販売のために支店を全国に新設。1950年代を通じて「福岡・札幌・名古屋・広島・仙台」に営業所または支店を設置した。
1950年代において、日本国内では「ウイスキー」は馴染みのない洋酒であったため、その普及を目的にPR誌「洋酒天国」を発刊。各地のバーに配布することでサントリーの知名度向上を図った。
特級ウイスキー「オールド」の好調により、ウイスキーの国内シェア(生産量ベースと推定)で70%を突破した。競合のニッカウイスキーがシェアを落とす形となり、サントリーの独走が続いた。
1977年度時点で、サントリーの全社利益の大半をウイスキー事業が稼いでおり、その大半が「オールド」の販売によるものであった。このため、オールドの利益がサントリーの多角事業の展開(清涼飲料・ビール)の原資となった。
「あまりにウイスキー依存体質、とくにオールド依存体質になっているのではないか」こういう不安が、首脳陣ばかりか、中堅社員の間からも漏れてくる。これは不安というより、むしろ強すぎる反省から来ていると言えるかもしれない。(略)
サントリーはわが国の特級ウイスキーの分野では90%近いシェアを持つが、実にその70%はオールドが占めている。サントリーの全体の売り上げで見てもオールドは44%に達し、利益の大半はオールドが稼ぎ出す。まさにサントリーはウイスキーでもち、ウイスキーはオールドで持つと言って良い。
サントリーは非企業であったが、1976年3月期より決算を公開。佐治敬三社長が、競争の厳しい酒類業界においては「開かれた経営」を遂行する必要があると考えたためであった。
1980年代に日本国内では「焼酎」が社会現象を巻き起こすブームとなり、ウイスキーの需要が低迷。洋酒部門が主力であったサントリーは影響を受け、1985年12月期に22年ぶりの減益決算となった。
特に、サントリーのウイスキーの主力であった「オールド」の販売が低迷。全盛期には売上高2000億円を確保していたが、1985年頃には約半減(1000億円以下)に落ち込んだという(1986/5 Decide)。
焼酎ブームについて、サントリーの佐治敬三社長は「ダサい文化」にやられたとして、自らの失策を嘆いた。
世はまさに、焼酎時代。オールドは1割5分も落ちるなど、ウイスキーの売り上げがめっきり減って、さすがのサントリー王国も揺れている。街に宣伝広告削減のウワサもあるが、無駄な広告は止めようということで、額は減らしていないとか。ウイスキー離れの背景について佐治敬三社長は「東京のダサい文化にしてやられた」と面白い指摘をしている。(略)「東京はダサいとこだと思うんです。ダサい文化が焼酎を支えている。とこどがダサい文化には、ダサい文化としての非常なエネルギーがあるわけです。ぼくは東京の文化とエネルギーの源はダ埼玉にあるとさえ思っている。我々のウイスキーが、ダ埼玉のダサいところへアピールしえていなかった」
日経新聞(1986/5/24)の報道によれば、1986年3月期決算でサントリーはビール部門の黒字化を公表。ただし、サントリーHDはビール事業の黒字化は2008年度と主張しており、真祖は不明
清涼飲料の販売拡大のために自販機販路への投資を積極化。1987年時点で6万台の自販機を、3年後までに10万台(+4万台)に増加させる計画を公表した。
サントリーによる自販機の設置は1995年までに全国22万台体制となり、清涼飲料の販路拡大を後押しした。
佐治社長がTBSの討論番組において遷都を議論する中で「仙台遷都などアホなこと」「東北は熊襲の産地」の旨を発言。東北を中心に視聴者の怒りを買い、サントリー製品の取り扱いを停止する飲食店も出た。このため、サントリーは謝罪文を掲載したうえで広告宣伝を一時的に自粛するなど、社長の失言によって業務上の損失を被った。(出所:1988/5とうほく財界)。
創業家から鳥井信一郎氏(当時52歳)がサントリーの社長に就任。
サントリービバレッジプロダクツ株式会社の工場として新設。食品製造を開始
1963年に参入したビール事業について、サントリーHDは2008年度に黒字化を達成したと発表(営業利益30億円)。すなわち、45年にわたり赤字が続き、46年目で黒字転換した。
黒字転換の原動力は「プレミアムモルツ」「金麦」の販売好調や、競合のサッポロビールの経営不振による競争の緩和であった。これにより、2009年にサントリーHDは国内ビール市場においてシェア12.4%を確保し、それまで3位だったサッポロHDを抜き第3位に浮上した。
ただし、サントリーのビール事業の売上高は推定2000億円前後に対して営業利益30億円であり、2022年にはビール事業を運営する子会社「サントリービール」は営業赤字転落した。このため、サントリーのビール事業は黒字化を果たしたものの、依然として低収益であり、資本効率の悪い事業であり続けている。
フランス飲料大手メーカーのオランジーナ社の買収を決定。買収価格は約3000億円
2000年代を通じてサントリーは飲料部門でのヒット商品(伊右衛門など)の開発、ビール事業の黒字化を達成したものの、全社の国内売上高は低迷した。日本国内の人口が低迷する中で市場が伸び悩み、ヒット商品を生み出しても限られた市場でのシェア争いに巻き込まれることや、絶え間ざる競合製品の出現により、サントリーは国内事業を伸ばすのが難しい事態に直面した。
サントリー天然水南アルプス株式会社の工場として新設
サントリーの清涼飲料部門を「サントリー食品インターナショナル」として分離
サントリーHD傘下の子会社「サントリー食品インターナショナル」の株式を上場。株式上場により約3900億円を資本調達
英国グラクソ・スミスクラインの飲料部門の買収を決定。買収価格は約2100億円であった。
サントリーHDは飲料事業において、欧州を中心に買収による売り上げを確保
2014年にサントリーはビール事業について100%子会社「サントリービール株式会社」として分離。だが、ビール事業の売上高は低迷が続き、利益面でもFY2016〜22にかけて5年連続の減益(営業利益ベース)となった。2021年12月期には営業赤字に転落した。
ビール事業のコスト構造は、販管費が重い点で利益の創出が難しくなっている。売上高に占める販管費の比率は、約20%〜24%で推移しており、ビール各社の競合と対抗するためのマーケティング・販売促進によって低収益体質に陥っている。