1948年に松田産業有限会社(現・おやつカンパニー)を三重県一志郡にて設立。創業者は松田由雄氏であり同族経営を志向した。
戦時中の1943年から「竹ぼうき」の製造を行っていたが、その後「精麦・製粉・きな粉」など食品の加工に従事した。戦後は麺類の製造にシフトし、学校給食用の綿を供給することで事業を安定化した。
終戦後の食糧難で物不足の時代ですから、素麺とか冷麦、うどんの乾麺や、ようかん、せんべい、パンと、あるとあらゆるものを作って売り歩きました。その後、即席麺の開発、製造自動化に成功した学校給食にも進出しました。販売も当初は三重県内だけでしたが全国へ拡大していきました。
1960年前後に国内でインスタントラーメンのブームが勃発したことを受けて、松田産業も参入。ただし、インスタントラーメンの領域においては、日清食品が急成長しており、中小企業である松田産業は「販促投資」の面で追随できなかった。このため、インスタントラーメンでは海外輸出を志向した。
一方で、創業者である松田氏が、麺類の製造過程で発生する「短い切れ端」を油で揚げたところ美味しかったため、商品化を決定。1959年に「ベビーラーメーン(現ベビースターラーメン)」を発売した。問屋からの評判も良かったことから、全国での販売に至った。
1959年、日清食品さんからチキンラーメンが発売された年なんですが、当社も時を同じくして、インスタントラーメンの製造販売を開始しました。初めの10年くらいはテレビやラジオで宣伝をしましたが、やはり違うのは資本の差だったのです。日清さんの大きな資本力と違って、当社は田舎の会社ですから、国内市場ではかないませんでした。(略)乾燥麺を包装するときにくずというか、かけらができてしまうんですが、父は「もったいない精神」からこのかけらを廃棄せずに、油で揚げて調理してみたらすごくおいしかったのです。それが「ベビーラーメン」の誕生のきっかけなんです。(略)味付けなど、インスタントラーメン製造のノウハウを利用し商品化したのです。商品を名古屋の問屋さんへ持っていったところ、これは行けるぞということで全国展開したのです。
1977年に発売した「ミニカップラーメン」がヒットし。売上が急拡大。ところが、日清食品が「ミニカップラーメン」参入し、松田産業の売り上げは急減した。
労働組合と経営陣(松田家)による対立を解消するため、経営と資本の分離を決定。事業経営を「松田食品」にて行い、不動産賃貸業などは「松田産業」として運営する体制をとった。
1988年に「ベビースターラーメン」におけるマーケティング改革を実施。パッケージを白基調に変更して、長年愛されてきたキャラクターを変更。同時に、認知度を確保するために、テレビCMへの広告を出稿して全国展開を志向した。
つねに改良しています。私の考え方は簡単なんです。もしこのままやらなかったら、売り上げが下がったときに改良しようとしても、もうその時は遅いということです。絶えずわれわれは100%努力して変えていますから、売れなくても安心というか、もう満足だと。これだけやって売れなかったら、それはそれで本望じゃないか。われわれには後悔はないという気持ちがあります。
おやつカンパニーは「社内大改革」を公表し、3つのイノベーション(マインド・システム・テクニカル)を重視する方針を打ち出した。特に、テクニカルの面では、工場における製造品質の向上に注力し、全工場および営業所にて「SIO9001」の一括同時取得を目標に掲げた。
マーケティングを強化するために組織改革を実施。2017年には髙口裕之氏がマーケティングの責任者として参画するなど、社員の80〜90%が中途採用者によって占められた。2018年にはマーケティング機能を本社のある三重県から東京に移転し、採用面のボトルネックを解消