森家は江戸時代から虎ノ門周辺で本業として米穀店を経営しつつ、副業として貸家業を営んでいた。この時期には虎ノ門周辺に複数の土地を所有する大地主でもあったという。森家は米屋と賃貸を行いながら、住民の結婚・就職の世話から、喧嘩の仲裁など、広い面で関わっていた。
その後、1923年の関東大震災および1945年前後の空襲により、賃貸していた家屋(長屋)を焼失するものの、土地を手放すことはなかった。特に、1945年の終戦後には銀座の土地を結果として割安で取得するなど、保有する土地を充実させていった。
終戦後までに、これらの土地が森家の後継者である森泰吉郎氏に相続された。なお、当時、森泰吉郎氏は横浜市立大学(経済学)の教授であり、不動産業は副業としての位置づけであった。
私は、この南佐久間町で生まれた米屋の倅だもので、米屋というのは勤勉にやっていればお金があまる。それを投資するんですが、あまり拡張もできないから、このへんの不動産を親父がぼつぼつ買ったのです。
1955年に森泰吉郎氏(横浜市立大学教授・当時)は、家業の不動産業を本格展開するために株式会社法人として「森不動産」を設立した。森不動産は、自社が保有する東京西新橋の土地に近代的なオフィスビル(雑居ビル)を新設して、企業に賃貸することで東京のオフィス需要の増大に備えた。
1955年の会社設立時点において、森泰吉郎氏は大学教授と不動産会社の社長を兼任した。ところが、その後、横浜市立大学の学長選挙において落選。同業の教授から「不動産屋を兼業している」と陰口を叩かれていたこともあり、1959年に大学教授を廃業した。以後、森泰吉郎氏が森不動産においてデベロッパー業の経営に専念した。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1904 | 東京・生まれ | |
| 1928 | 東京商大・卒業 | 現在の一橋大 |
| 1932 | 京都蚕糸学校・教授 | 養蚕業の経済史に関する研究 |
| 1946 | 横浜市立大・教授 | |
| n/a | 横浜市立大・商学部長 | |
| 1955 | 森不動産を設立(社長) | 現在の森ビル |
| 1959 | 横浜市立大・退任 | 森ビルの経営に専念 |
| 1993 | 逝去(88歳) | 森ビル社長の在籍中に逝去 |
僕は教師の時から、不動産が本業でね、素人だったわけじゃないですよ。僕は「門前の小僧、習わぬ経を読む」のうちでして、大震災後の貸家の再建でも、親父を手伝いました。終戦後も、横浜の学校に教えに行ってましたが、それも週のうち2〜3日だけで、あとは焼け跡の整理やビル建設に相当力を入れてきたんです。ビルへの転換は、震災後から親父に主張してきたことで、昔からの考えです。
終戦後、日本国内では東京への人口集中が始まった。戦前の日本国内は大阪の繊維業、神戸の貿易・造船業など、西日本を中心に経済が発展したが、戦後には首都圏にメーカー本社や、金融サービスなど、様々な職種が集積するようになった。
このため、戦後の日本では、首都圏における人口増加が顕著な傾向になった。西新橋・虎ノ門地区においても、従来は長屋(木造建)などの住宅地であったが、官公庁(霞ヶ関)への利便性が高い地域ということで、オフィスビルのニーズが高まった。
森ビルはオフィスビルの土地取得にあたって、虎ノ門・西新橋地区に限定して展開することを決めた。これは、森泰吉郎氏が「地元の経済発展を願った」ことや、オフィスニーズの高い地域であったことが理由である。
僕が、虎ノ門を中心にここばかり買っているのは、ちょっと意味があってね。この土地にビルを建て続けるということは、結局、まちづくりにつながるんですよ。場所ごとに最適利用を考えて、どういうビルを建てれば良いのか、土地柄を良くするために工夫を重ねてきたわけです。
そういう具合に、土地に手をかければ、町のためになり、お国のためにもなる。ひいては、その土地に対する需要が増え、自分のためにもなる。この辺の土地は、中央官庁にも近く、もともと値上がりする傾向にあったんですが、自然にそうなったわけじゃない。多少うぬぼれになりますけど、我々が土地柄をよくしようと努力してきたからこそ、地価も上がったんだと思います。
1957年から1971年にかけて、森ビルは20棟を超えるビルを「西新橋」「虎ノ門」に集中して建設し、オフィス向けの賃貸物件として運用した。
オフィスビルの相次ぐ新設によって、江戸時代から続く森家は「長屋の大家」から、近代的な「デベロッパー(土地開発及びオフィス賃貸)」に業態転換した。
森ビルは土地の買収にあたって、土地の集約を図った。オフィスビルの新設には一定の面積が必要であり、保有している土地の交換などにより、一定の大きさの区画を確保した上でナンバービルを新設した。
ただし、塩梅の良い土地の取得は容易ではなく、森泰吉郎氏は時間をかけて土地の取得を積み重ねていった。例えば、1972年に竣工した「第20森ビル」では、土地の確保のための交渉を1962年から継続しており、約10年を経てナンバービルの新設に至っている。
| 竣工日時 | ビル名 | 地上階 | 所在地 |
| 1957-04 | 第2森ビル | 4 | 港区西新橋1-10-8 |
| 1957-11 | 第1森ビル | 10 | 港区西新橋1-12-1 |
| 1959-07 | 第3森ビル | 8 | 港区西新橋11-4-10 |
| 1959-08 | 虎ノ門4森ビル | 4 | 港区虎ノ門1-10-12 |
| 1961-06 | 虎ノ門5森ビル | 10 | 港区虎ノ門1-17-1 |
| 1963-01 | 虎ノ門6森ビル | 6 | 港区虎ノ門3-6-8 |
| 1963-02 | 虎ノ門7森ビル | 6 | 港区虎ノ門3-1-11 |
| 1964-01 | 第9森ビル | 10 | 港区愛宕1-2-2 |
| 1966-05 | 虎ノ門10森ビル | 11 | 港区虎ノ門1-18-1 |
| 1966-06 | 第11森ビル | 11 | 港区虎ノ門2-6-4 |
| 1966-10 | サンツー森ビル | 7 | 港区西新橋2-22-1 |
| 1969-04 | 虎ノ門15森ビル | 10 | 港区虎ノ門2-8-10 |
| 1969-10 | 虎ノ門12森ビル | 9 | 港区虎ノ門1-17-3 |
| 1969-12 | 第14森ビル | 10 | 港区虎ノ門1-26-5 |
| 1970-04 | 虎ノ門17森ビル | 17 | 港区虎ノ門1-26-5 |
| 1970-04 | 虎ノ門18森ビル | 11 | 港区虎ノ門2-3-13 |
| 1970-04 | 虎ノ門19森ビル | 10 | 港区虎ノ門1-2-20 |
| 1971-06 | 第21森ビル | 11 | 港区六本木1-4-33 |
| 1971-06 | 虎ノ門22森ビル | 7 | 港区虎ノ門4-3-20 |
| 1971-11 | 虎ノ門23森ビル | 11 | 港区虎ノ門1-23-7 |
| 1972-03 | 第20森ビル | 13 | 港区西新橋2-7-4 |
| 1972-08 | 第24森ビル | 13 | 港区西新橋3-23-5 |
不動産は、他の商品と違って、場所に対する独占で、親代々の執着もあるから、値段で押そうとすると失敗する。相手の利害関係をよく考えて、ビルの建設によって生まれる付加価値を、公平に分け合うことだ。(略)決して急がないこと。それが土地買収のコツだ
銀行から土地を担保に資金を借りることで、その資金で新しい土地を取得するスタイルを踏襲した。これにより、森ビルは自己資金ではなく、土地を担保にした借入金(有利子負債)によって不動産業を拡大する形をとっており、土地価格が下落した際に破産するという「借入リスク」を背負った。
ただし、森ビルは東京の虎ノ門・西新橋という一等地(オフィス需要が根強い)を確保していた関係から、一時的な土地バブルの崩壊(1973年前後)による値下がりの影響を被らず、長期的に土地の値上がりを享受し続けた。このため、森ビルは破産することなく、事業継続に成功した。
1971年時点の森ビルの資本金は10億円であったのに対して総資産は250億円であり、自己資本比率は4%という低い水準であった。ただし、土地の含み益によって借入金を返済できる状況であったため、銀行は森ビルに対する融資を積極的に行った。
1956年、一介の素人不動産屋だった森氏は勝負に出た。買い叩いた土地が予想通り値上がりした。普通ならそれだけで満足して時価で手放すところだが、彼は斡旋業者に相場の5割増で仲介してくれ、と話を持ちかけたのである。
びっくりする斡旋業者に、「東京には、これから必ず人口が集中する。そうすれば地価も幾何学数的に上昇するはずだ。5割増でも書いては決して損しない」と熱弁を振るった。理論整然とたたみかける学者先生の強気ぶりに業者もシャッポを脱ぎ、しぶしぶその話をある保険会社に取り次いだ。ところが、吹っかけたと思った値段を保険会社はすんなり飲んだ。彼の言い値で買い取り、森氏は3000万円ほどの資金を手に入れた。同時に、第一信託銀行(のちに第一銀行と合併)から同額の3000万円を借り入れ、ビル建設に取り掛かった。
森ビルは虎ノ門および西新橋の周辺に大量のナンバービルを新設することで貸しビル業者として業容を拡大した。1970年前後には東京のオフィス市場において「三菱地所」「三井不動産」に次ぐオフィス床面積を賃貸するようになり、森ビルは実質的にシェア3位となった。
1971年度に年商33億円(従業員数256名)を記録したが、依然として自己資本比率は4%台(推定)として低く、借入金のリスクを伴った成長であった。
1960年代を通じて森ビルは、会社法人として「森ビル」の1つで事業運営を行なってきたと推察されるが、1970年に機能別に会社を分離させてグループを形成した。
ビルの保有は2社森ビルに加えて、1970年に森ビル開発を設立して2社体制で実施。1983年には森ビル産業と森ビル興産を設立し、合計4社の体制となった。複数の会社に分けた理由は不明であるが、森泰吉郎氏は4名の子息がおり、相続(税)を意識した施策と推定される。
また、土地購入、テナント運営、ビル管理といった業務をそれぞれ別会社行う体制を構築した。いずれも森家の資本で運営されたと推察されるが、会社間の資本関係は不明である。
1970年代を通じて、森泰吉郎氏の子息(3人兄弟)が森ビルに入社し、デベロッパー業務に従事したと推定される。このうち、長男の森敬氏は1990年に逝去したため、森ビルの後継候補は森稔氏(次男)ないし森章氏(三男)に絞られる形となった。
| 設立年 | 会社名 | 事業内容 |
| 1959 | 森ビル | ビル保有・森稔氏が相続 |
| 1970 | 森ビル開発(森トラスト) | ビル保有・森章氏が相続 |
| 1970 | 森ビル企画 | 土地購入代行 |
| 1970 | 森ビル商事 | |
| 1970 | 森ビル設計研究所 | ビルの設計 |
| 1970 | 森ビル管理 | ビルの運営管理 |
| 1973 | 森ビル観光 | - |
| 1983 | 森ビル産業 | ビル保有 |
| 1983 | 森ビル興産 | ビル保有 |
| 1984 | 森ビルセンター | 人事・広報・教育 |
1969年に日本政府は都市開発法を施行した。この法律は、再開発において地権者の同意を得る際に「2/3の合意」を得れば良いと定めるもので、一部の反対者がいても再開発を遂行できることを意味した。実質的に再開発における規制緩和であった。
法律制定の背景には、都心部における木造住宅の密集という防災上の問題があった。特に東京では、空襲を逃れた地域を中心に戦前からの木造家屋が集積しており、区画整理も遅れていたことで十分な消化活動が行えない状況であった。
このため、日本政府は再開発を推進するために法整備を進める形となり、1969年の都市開発基本法の施工に至った。
森ビルでは都市開発法の制定から2年前の1978年に、赤坂1丁目の銭湯跡地を取得してこの地域の再開発を目論んでいた。そこへ、都市開発法が制定されたことを受けて、東京都が再開発地区の調査を開始。赤坂1丁目の木造家屋が集積する地区の再開発が候補地に上がり、森ビルがこの地域の再開発を主導する形となった。
森ビルが再開発にあたって直面したのが、再開発地区の450世帯に及ぶ住民との対話であった。地権者および居住する住民との合意を得ることに奔走したが、当初は深刻な反対運動に直面した。
それでも森ビルは10年以上の時間をかけて地域住民との対話を継続した。森ビルの社員が、立ち退きとなった空き家に居住し、地域住民との親交を深めるために日常生活や催し物において協力するなど、地域への融和を図った。
この結果、1978年頃までに最後に反対していた有力地権者との合意に成功。1982年に再開発事業の認可を得て、赤坂一丁目地区の建物の取り壊しを本格化し、再開発を着工した。
再開発は一種の都市経営なんです。公のする仕事と同じ。そういう意義のある仕事を天から与えられている。そう思っている。だから、最初にどれだけ儲けるかなんていうことを考えるのではなくて、まず一生懸命にいい仕事をする。そうすると自然に世間の人々が信頼してくれるようになる。結果的に社員の生活も潤う。儲けるのではなくて、儲かるわけです。
確かに再開発は簡単な仕事ではない。たいていの場合、少なからず反対者がいて、いつ先の見通しが立つかもわからない。赤坂の場合もそうでした。途中で迷いがなかったかと言えば嘘になる。しかし、そこで信念を変えることは潰れるということなんです。だからやり抜くしかなかった。
地元の人たちの信頼を得ること、それがまず第一の仕事でした。地域の中に事務所を作って、事務所の前の道を掃除したり、近所の身寄りのないお婆さんの世話をしたり、お葬式の手伝いをしたりと、民生委員のような仕事をしました。そのうちに反対者もこちらの誠意を察してくれるようになったわけです。
1986年に森ビルは「アークヒルズ」を竣工し、赤坂1丁目地区における再開発を完了した。1967年にこの地区の土地買収を開始してから、約19年が経過しており、およそ20年をかけた大規模な再開発PJとなった。
なお、アークヒルズはオフィスに加えて、ホテル、住宅を併設した複合的な再開発となり、地権者は住宅に入居(権利返還)した。また、オフィスには外資系金融機関が入居(ソロモンやゴールドマンサックスなど)し、外資企業の日本進出の困りごとであった「東京におけるオフィス難」を解消するための一助となった。
| 建物 | 階数 | 備考 |
| 事務所棟 | 地下4階・地上37階 | 主に外資系金融機関が入居 |
| ホテル棟 | 地下3階・地上36階 | 東京全日空ホテルとして活用 |
| 住宅棟 | A棟25階・B棟22階・C棟6階 | - |
| コンサートホール棟 | 地下4階・地上2階 | サントリーホールとして活用 |
| スタジオ棟 | 地下6階 | テレビ朝日放送センターとして活用 |
1985年に森ビルは大規模再開発の第一弾としてアークヒルズを竣工。オフィス、マンション、ホテルが併設した街を作り上げ、かつての不良住宅地区の付加価値向上に大きく寄与した。
森ビルは大規模再開発を継続するために、麻布台地区(最初は我善坊地区)における再開発交渉を開始。以後、2019年頃までの約30年間にわたって地権者との交渉を通じて、住宅密集地域の再開発を目論む。
森ビルの創業者である森泰吉郎は高齢のために88歳で社長職のまま逝去した。以後、森ビルの経営は森泰吉郎の兄弟に引き継がれる。
1993年に森ビルの創業者である森泰吉郎氏が88歳で逝去した。これを受けて、同年に森稔氏が森ビルの経営を継承し、弟の森章氏と共に森グループの経営に従事した。
ただし、兄弟間における分担は不明である。
森稔氏が「時間をかけて短期採算を度外視した都市開発」「赤坂・六本木・虎ノ門周辺に特化」を志向したのに対して、森章氏は「DCF法などを用いて確実に(短期)収益を得る」「収益が見込める土地に手広く参入する」という経営方針の違いが露呈し、兄弟が同じ森グループを経営するのが難しい状況に陥った。
そこで、森ビルグループから「森トラストグループ(旧森ビル開発・旧森ビル観光・旧森ビル産業など)」が離脱することが決まり、1999年ごろに両社の資本関係を解消する形で決着した。このため、大規模再開発が進行していた六本木地区の再開発(六本木ヒルズ)は引き続き森ビル(森稔氏)の森ビルが担う形となった。
1999年3月期の森トラストの営業収益は770億円(当期純利益65億円)であり、オフィス賃貸(虎ノ門・に加えて、ホテル事業(ラフォーレ)を全国に展開していた。森トラストは6社のグループ会社から形成され、オフィス賃貸の「森ビル開発(営業収益462億円)」、ホテル事業の「森ビル観光(同204億円)」が主力であった。
記者の問:立ち入った質問をもう一つ。端から見ていると、理想の街を作るために積極的な投資を続ける稔社長と、どちらかというと慎重な森社長というように、兄弟お2人の考え方は非常に対照的に見えます。
森章氏の答:私も投資は好きだし、似ているところは多いですよ。ただ、投資の仕方は違います。私は親から継いだ不動産業を中心に事業を各区台したい。そのためには、必ずしも自分1人でやる必要はないと思っています。大手百貨店のパルコやマンション業者のアーバンライフへの資本参加などはそのためです。一方、兄は個性的だから、なんでも自分中心でやりたいんですね。だから、(六本木ヒルズのような)あれだけの大事業を成し遂げられるのでしょう。兄の方がまめで、私は無精。それだけの違いだと思いますが。
1999年以降、森トラストは東京都心部を中心としつつも、全国の都心部での開発に従事することで業容を拡大した。なお、2007年5月には城山MTビル(2001年竣工・虎ノ門)」を売却して不動産売却益を確保するなど、創業地である「虎ノ門」にこだらない事業展開を行った。
なお、事業展開においては、2001年にパルコと業務資本提携を締結して19.98%の株式を取得。小売業におけるテナント運営(商業テナント開発)のノウハウ習得するなど、不動産を軸に事業の幅を広げることを画策した。(ただし、2012年にパルコの経営権をめぐる問題に巻き込まれている)
アークヒルズの竣工と前後して、東京都は六本木六丁目について「再開発誘導地区」に指定した。この区域(のちの六本木ヒルズ)は、地下鉄日比谷線六本木駅に隣接しており利便性が高かった一方で、中心部に存在した「テレビ朝日」のスタジオの周辺に、木造家屋が密集している地域であった。
東京都が六本木六丁目を再開発誘導地区に指定したことを受けて、アークヒルズでの実績があった森ビルがこの地区の再開発を主導する形となった。
六本木六丁目の地権者数は約300名であり、居住者も多かったことから、誘導地区の指定(1986年)から権利返還の認可(1998年)に至るまで、約12年の歳月を要した。
「六本木六丁目地区再開発事業」は、当社所有地を含む、テレビ朝日六本木スタジオとその周辺約11haを対象とした、21世紀に向けたまちづくりである。1986年、当該地区は東京都より「再開発誘導地区」の指定を受け、再開発が期待される地区として位置付けられ、1987年には港区より「再開発基本計画」が策定された。
そして行政から基盤整備、住宅整備、自然環境保全等を望む声と、地元地権者の方々の意向にこたえて、総合的な再開発事業に取り組む決意をした次第である。
1998年の権利返還の認可を受けて、1999年4月に森ビルは「六本木六丁目再開発計画事業推進本部」を90名体制で発足した。森ビルは再開発組合の事業費に加えて、組合外の事業費を合わせて、約5100億円を再開発に投資する方針を発表した。
なお、莫大な投資額であったため、森ビルは金融機関からの借入等(主に長期借入金)によって投資額を捻出した。折しも、2000年前後はバブル崩壊により金利が低下したことから、借り手である森ビルにとって有利な資金情勢となった。
同計画の組合としての事業費は約2700億円、土地評価額を含めて約4700億円あります。森ビルとしての投資総額はこれまでの金利、今後の金利(3%想定)を含め4600億円。また再開発組合の事業の範囲外での隣接地区への投資なども含めますと約5100億円となる(略)
私はかねてより「東京の再生なくして日本の再生はない」と申してまいりました。ますます本格化する国際都市間競争においては、優れた人材や物・情報・資金などが、国境や時間を超えて、より安全、快適で高度な機能を備えた都市に集まる
2003年4月に森ビルは「六本木ヒルズ」を竣工し、1986年から計画された六本木六丁目の再開発計画を「約17年」を経て完了した。
六本木ヒルズの竣工による森ビルへの業績寄与は、主にオフィスビルの賃貸収入によるものである。六本木ヒルズには、外資系投資銀行の「ゴールドマンサック」や、ベンチャー企業「ライブドア」などが入居した。特に、2005年前後の「ライブドア事件」の舞台になったこともあり、六本木ヒルズは東京でも注目を集まる場所となった。
紆余曲折を経つつも、2005年には六本木が「ライブドア事件」の舞台となり、六本木ヒルズの住居棟の住む経営者が「ヒルズ族」として注目を集めた。この結果、六本木は最先端のオフィス街という認知が定着し、六本木ヒルズは時代を象徴する場所となった。
終戦直後から虎ノ門で計画されていた大規模道路「東京都市計画道路幹線街路環状第2号線」の開発の見通しが立ったことを受けて、行政で道路の上に高層ビルを建設する計画が持ち上がった。この案件を森ビルが獲得し、虎ノ門ヒルズとして開業した。
2019年に麻布台地区の権利変換計画が認可され、当該地区が着工できる見通しが立った。2023年に森ビルは麻布台地区の再開発を完了する見込みで、超高層ビルが立ち並ぶ予定である。総事業費5800億円。