川本製作所の創業者である川本𨨞三(せいぞう)氏は、手押しポンプの第一人者である小沢半助からポンプ製造の技術を学び、1919年に名古屋市中区大須にて手押しポンプの製造販売店(現・川本製作所)を創業した。
川本𨨞三氏は生産を工夫することによって、ポンプの販売価格の値下げに成功。「川本ポンプ」は安いポンプとして全国各地から引き合いがあり、同業者が驚くほどであったという。
この結果、大正時代を通じて川本製作所は全国に2000店の販売店と契約をし、全国への販売網を構築した。大正時代には手押しポンプといえば「川本ポンプ」という連想を獲得し、国内シェアが100%近い状態だったとも言われている。
1930年代前半に昭和恐慌が発生し、日本の景気が悪化した。このため、川本製作所の業績も悪化し、1932年ごろにはで100円(当時換算)の現金しかない状況まで追い詰められたという。
多くの競合会社がポンプから撤退する中で、川本製作所は「一人一業種」という考えを徹底し、ポンプ以外への多角化を拒んだという。その後、戦時体制による景気回復によって、川本製作所への受注が増えて、経営危機を脱したと推察される。
1952年に川本製作所の創業者である川本𨨞三氏(当時57歳)が胃の病で急逝したことを受けて、同氏の長男である川本修三氏が川本製作所の社長に就任した。
当時、川本修三氏は30歳の若さであった。以後、1990年代に至るまでに、川本修三氏が川本製作所「川本ポンプ」の業容拡大を支えた。
1954年に川本製作所はモータ駆動による「ベビースイートポンプ」を開発した。それまでのポンプ業界では「手押し」が一般的だったのに対して、ベビースイートポンプは動力にモーターを使用することによって、汲み上げを自動化した。家庭でも手軽に使用できる電動ポンプであり、主婦を水汲み作業から解放するポンプとして開発を志したという。
電動ポンプの領域では、大手電機メーカーが先発していたものの、家庭用では使えない大型ポンプであり、価格の高さがボトルネックであった。一方で、川本ポンプは小型軽量化に成功し、価格を抑えることでコスト競争力を発揮した。
この結果、1954年に発売した電動ポンプが爆発的なヒットを遂げ、川本製作所の主力製品育った。発売から2〜3年の間は、生産が受注に追いつかない活況を呈した。
それまで手押しだったのが、(筆者注:ベビースイートポンプは)家庭の100ボルト用としては初めての電動ポンプです。昭和29年に開発、その頃、民間のテレビ放送が始まり、電化ブームの幕開けにタイミングがぴったりだった。大手家電メーカーはまだどこも手掛けておらず、しかも家庭用の電動ポンプといえば、大型ポンプメーカーの200W、4分の1馬力、小売価格5〜6万円だったが、わが社のものは価格は3分の1と安くてコンパクト、100W、8分の1馬力で性能も安定していたものだから、非常に好評で生産が注文に追いつかないといった状態が2〜3年続いたくらいです。
川本修三氏はポンプのアフターサービスが重要であると判断し、1950年代を通じて日本全国に営業拠点を新設した。すでに、1958年に川本製作所の特約販売店が全国7000店に及んでいたが、直販を重視することで営業所や駐在所を充実させていった。
なお、主力製品である業務用ポンプの納入先は建設会社などであり、営業拠点から迅速に製品を納入・メンテナンスする体制を整えた。
(筆者注:1976年時点で)日本全国の主な官公庁をはじめ、各有力建設会社の御用命をいただいています。そこで受注をして迅速な納入と、的確なアフターサービスができるように、国内の各地に営業所12、出張所65、駐在所16のほかに、事業所を含めると、全部で105箇所に及んでいます。(略)当社はポンプ1本の専門企業ですので、この面の技術開発は絶対怠りません。
1966年に川本製作所はポンプの多品種生産を実現するために、岡崎工場を新設した。業務用ポンプは建物設備によって必要となるポンプの種類が異なることから、数百機種に対応できる多品種少量生産を実現するための工場として竣工した。
岡崎工場の稼働した時期は、日本国内で建築ブームが起こるタイミングであり、業務用ポンプの販売拡大に大きな役割を果たすことになった。
1973年に川本製作所は、名古屋市上前津の交差点角地(一頭地)にて、地上9階建ての川本ビルを竣工して本社を同ビル内に移転した。なお、ビルの1〜2階は百五銀行上前津支店に貸し出すことによって、川本製作所は不動産による賃貸収入を確保した。
ビルの竣工パーティーは盛大に開催され、政財界や取引先から500名が参加し、加えて名古屋市内の一流ホステス50名が駆けつけたと言われている。
1970年代前半を通じて、日本国内における建築ブームが到来し、ビル向けの業務用ポンプの需要が増加。旺盛な建築需要に支えられて、1974年度に川本製作所は売上高111億円を達成し、100億円を突破した。
1976年度にオイルショックによる不況によって、川本製作所は減収決算を計上した。だが、1976年に川本修三氏は、引き続きポンプに集中する方針を掲げ、事業の多角化は行わない考えを示した。
景気が悪いと、どうしても周りを見回して気が散る。そして他の仕事に手を出し、挙げ句の果てに傷口を広げることになる。二兎追う者は一兎も・・・という言葉があるが、自分に与えられた仕事の中で努力すれば、自ずから道が開けるもので、決してワキ見をしては駄目。一生懸命やって、それでもいけなければ、持って明すべし。自分には、これだけの力しかないのだと、あきらめるべきだと思いますね。
だから私は、この道一筋、これまでもずいぶん条件の良い儲かりそうな話があったが、一切乗りませんでしたね。
1988年8月期に川本製作所は売上高200億円を突破し、国内のポンプでシェア18%を確保した。売上構成比は、業務用(ビル・マンション向け)のポンプが65%、家庭用ポンプが15%、その他部品が25%を占めた。なお、業務用ポンプの国内シェアは10%であった。家庭用ポンプに関しては18%の国内シェアを確保しており、東芝などの大手電機メーカーとの競争にさらされつつも、シェアを確保した。
2002年に川本修三氏の娘婿である高津悟氏が川本製作所の代表取締役社長に就任した。また、2003年に川本修三氏は81歳にて逝去した。
1990年代以降は日本国内の人口減少によって、住居やビルなどの設備の需要が頭打ちしており、川本製作所の売上高は300〜400億円で横ばいを続けているものと推察される。会社としては「川本ポンプ」の名前を全面に押し出しているが、正式な商号は株式会社川本製作所である。
一方、利益の面では、2021年8月期に川本製作所は、売上高推定437億円に対して税引後利益50億円を計上し、非上場ながらも高収益なポンプメーカーとして経営を続けている。
なお、国内シェアに関しては少し古いデータだが、2008年時点で家庭用給水ポンプで40%、設備用給水ポンプで30%を確保した。