1965年に須藤氏は「勧業電気機器」を設立し、計測機である「ホール素子」を製品化して起業家に転身した。技術ベンチャー企業としてスタートしたが、技術は懇意にしていた大学教授と共同で開発したものであり、須藤社長の主な仕事は金策や営業活動であったと推察される。
創業期の勧業電気は注目されないベンチャー企業であったが、1967年にホール阻止の技術を応用した「ガウスメーター(高感度磁力計)」を製品化するなど、計測機器の開発を行なっていた。1970年代前半には自動車向けの衝突センサーを研究開発していたと思われる。
1973年のオイルショックによって、経済不況に陥ると、勧業電気も影響を受けた。勧業電気は自動車メーカー向けの衝突センサーを手掛けていたが、オイルショックによって需要が激減して業績が悪化した。
このため、勧業電気の須藤社長を含めた3名を残して12名が会社から社員が辞職し、実質的に再スタートを切る必要に迫られたという。この頃の勧業電気は無名会社であり、須藤社長は資金繰りに苦労していた。
1979年に勧業電気は「精密シートコイル」を開発したと発表し、モータの小型化に寄与する技術として注目を集めた。ホンダの創業者である本田宗一郎氏が「50年に1度の画期的発明」とコメントしたことを勧業電気が宣伝したことで、技術そのものよりも、技術のインパクトが喧伝された。
精密シートコイルの特色は、従来のモーターが銅線を巻き付けて製造したのに対して、薄い板状の素材で覆うことにあった。これによって、銅線を巻き付けるのが当たり前だったモーター製造の常識を覆すことが期待された。
なお、精密シートコイルは、日立製作所向けのレコードプレーヤを勧業電気が開発する中で、ホール素子の技術を応用する中で育てた技術である。このため、勧業電気にとって、日立製作所は重要な顧客であり、新技術開発の恩人でもあった。
勧業電気は精密シートコイルについて、日立製作所のラジカセ向けに供給し、群馬県の館林工場にて月産1万個の生産体制を構築した。この頃には売上高の50%以上を日立製作所向けで占めていたという。
それでも引き合いに応じきれず、将来の市場規模は数千億とも予測されるようになった。このため、勧業電気は精密シートコイルの開発をきっかけに、世の中に注目されるようになった。
この平面コイルはね、正式には精密シートコイルと言うんだけれど、銅箔の上にICと同じフォトエッチング技術を使って渦巻き上のパターンを掘り、それを幾層にも重ねると言う方法で作ったものなんだ。大きさは従来品の3分の1、性能は3倍になる。これからのモーターの小型化、軽量化はますます進。今までのぐるぐる巻きのコイルではその小型化にも限度があるが、この平面コイルを使えば超精密のコイルが簡単にできる。それに、小型化ばかりではなく、シートコイルはコイルのパターンを自由に設計でき、さらにパターンを複雑にしても生産性は低下しないんです。つまり、モーターの高性能下にも直結する。
それで価格は在来品とほぼ同じなんだから、超精密モーターを必要とする製品はこの技術を避けて通れない。間違いなくこれからのモーターの本流になるという自信を私は持っている。
1984年に須藤社長は自伝「須藤充夫の生きざま経営」を執筆した。当時、勧業電気は売上高100億円未満の非上場会社であったが、メディアに注目されたこともあり、自著を発刊するに至ったと推察される。1985年には須藤氏は「ニュー創業時代の事業化ノウハウ―ここが勝負!」という別の著書も出している。
1983年から1985年にかけて、須藤社長はメディア露出が増え、経済雑誌をはじめ、テレビなどにも出演するようになった。勧業電気も技術をコアとするベンチャー企業として「第二のソニー」として注目を集めた。
ただし、須藤社長は銀行から融資を受けれなかった過去にコンプレックスを抱いており、1984年には銀行批判をメディアで行うようになった。これらの行為は、のちに勧業電気が経営危機に陥った際、銀行が追加融資を避ける要因になったものと推察される。
また、勧業電気に投資していたジャフコは、須藤社長に「投資家を騙すような虚像を作るな」(1988/8/18日経ビジネス)と怒ったこともあり、投資家との関係性も良好とは言えなかった。
極め付けは顧客であり恩人でもある日立製作所と勧業電気の信頼関係の瓦解であった。勧業電気が「日立のVTR向けに精密シートコイルが採用された」と一方的に発表したため、信義に反しているとして日立製作所からの怒りを買った。この事件により、日立製作所は勧業電気への発注を縮小したと言われている。
もし壁にぶつかったら、それを打ち破るために全力を尽くすべきである。ダメという言葉は、禁句だ。精密シートコイルが良い例で、旺盛なチャレンジ精神を発揮して、厚い壁をぶち破って商品化に成功した。プロ意識に徹し、自己に対する厳しさを持つならば少々の壁など必ず突破できるに違いない。私は、こうした「食うために」一生懸命努力する人や企業が好きだし、美しいと思っている。
須藤社長は精密シートコイルの月産100万個の量産体制を構築するために、大規模な設備投資を決定。工場の新設に先駆けて、資金調達を実施した。
時価発行増資で合計12億円、長期信用銀行など7つの金融機関による協調融資で47億円、政府系銀行(開銀)からの融資で7億円、合計66億円を主に借入によって調達した。
また、設備投資によって財務状況が悪化したことを受けて、1985年には第三者割当増資およびワラント債の発行により28億円を資金調達している。
私は工場建設が進むにつれ、金を使うことの恐ろしさを、身にしみて感じたのである。設備類はすべて当社設計のオリジナルで高価なものばかり。それらの購入に5〜10億円規模の支払いが始まると、恐ろしさは倍増した。「予定通り工場は完成するだろうか。量産体制が稼働しなければ、私は人を騙したことになる」責任を痛感し、一人重圧に耐えたものである。
1985年に勧業電気(須藤社長)はモーターの増産を決定し、70億円で設備を増強することを決定した。当時の勧業電気の売上高は35億円前後であり、売上の2倍に相当する思い切った投資であった。
群馬県の板倉工業団地において、敷地面積17,500平方メートルの新工場を新設し、精密シートコイルおよびモータの組み立て工場を併設した。設備投資額が嵩んだ理由は、自動化を進めるために、センサーやFA機器を大量導入したことにあった。
1985年に勧業電気は新工場を稼働したものの、期待したほどの大型受注を獲得することができなかった。勧業電気はサンプル出荷はしていたものの、メーカーからの正式発注がない状態で、新工場を稼働したことが仇となった。
特に、VTR向けの精密シートコイルの採用について、日立製作所からの信頼を裏切ったため(公式発表前に勧業電気が一方的に採用された旨を情報発信した)、日立からの受注が先細りになったことが影響したという。
このため、新工場は過剰設備となり、勧業電気の財務状況が悪化した。
勧業電気の最大の誤算は、円高ドル安の進行にあったと推察される。1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行すると、国内の製造業は安い人件費を求めて東南アジアでの生産を本格化した。モータなどの部品も東南アジアで生産される廉価品を活用するようになり、国内生産を主体とする勧業電気の精密シートコイルのモーターは割高な製品となった。
この結果、モータ業界においては「精密シートコイル」ではなく「東南アジアでの格安モーター」が重宝された。勧業電気が決定した「国内での量産」は、コスト競争力を削ぐ意思決定であり、結果としてグローバルなモーターの価格競争の趨勢に乗ることができなかった。
また、成長市場であったハードディスク向けに関しては、ベンチャー企業であった日本電産が顧客との共同開発体制を敷くことによってシェアを確保しており、勧業電気が付け入る隙がなかった。
1986年7月24日に東京地方裁判所は勧業電気機器に対して破産宣告を言い渡し、勧業電気は経営破綻した。1980年代前半に日本経済界においてチヤホヤされたベンチャー企業であった勧業電気は消滅し、あっけない幕切れとなった。
なお、勧業電気の設備と技術については、担保として金融機関の所有物となり、最終的には旭化成が取得して電子部品事業に参入する礎となっている。
また、会社倒産後の須藤充夫はビジネスの世界から距離を置いた一方で、久喜市議会議員に選出され政治家に転身した。
ベンチャー企業の寵児と言われた勧業電気機器が、自己破産に追い込まれた。「50年に1度の発明」と称賛された精密シートコイルモーターにかけた社長、須藤充夫の夢は破れた。無謀な設備投資、販売戦略の失敗・・・。いまになれば、決断の間違いを指摘するのはたやすい。資金調達、人材確保に意を配ってきたはずなのに、どこでどう水が漏れたのか。失敗の一つは、顧客獲得を焦るあまり「信義第一」の路線を踏み外したことだ。攻め続け、守りを忘れた企業の弱さが現れたのだ。その、須藤の轍を踏まぬという保証は、誰にもない。