都市銀行であった三和銀行は、欧米で普及しつつあったクレジットカードの将来性に着目し、日本国内における参入を決定した。ただし、大蔵省は銀行が貸倒リスクの高いクレジットカードを事業化することに反対し、関連会社としてクレジットカード事業を開始。1961年にJCBを設立(出資比率は三和銀行50%:日本信販50%)した。社長には三和銀行出身の河村氏が就任。日本信販は加盟店開拓の役割を担う
当時、三和銀行から、アメリカに行ってカード業務をつぶさに学んで来た人が帰国し、その報告によって三和内部ではクレジットカードの将来性に、大いに着目はしていた。しかし、カードだけでなく、これからは銀行も企業以外にも、個人との取引の拡大を、様々な方法で実施に移していく時期だと考えてもいた。消費者信用というものが、将来の銀行業務にとって大いに重要性があるとすれば、新会社はカード以外のニーズにも応えられるものでなければならぬと考えて、クレジットビューローという商号を採用した
JCBは会社設立と同時にクレジットカードの発行を開始した。8桁の数字を記載したプラスチックカードを発行し、JCBの加盟店で利用できるものであった。毎月15日締めの翌月10日一括払い方式。入金方式は銀行の口座振替による自動引き落としであり、任意の銀行口座から実施。JCBは貸倒リスク(踏み倒し)を最小化するために「一流企業の管理職かつ勤続10年以上」のサラリーマンに対してのみ会員を募集しており、クレジットカードは国内で急速に普及したわけではなかった
1960年代において、クレジットカードの普及は厳しい状況にあった。加盟店としては会員数がなければ契約すたるメリットがなく、会員としても加盟店で使えなければ意味がないため、加盟店・会員の両面における確保に苦戦。この結果、JCBの社内でもクレジットカードの将来性に悲観する声が高まり「会社の解散」(1980/12金融財政事情)も検討された
創業当時は、カードというものを知ってもらう努力で大変だった。ダイナースとJCBとは協力しあい、たずねあい、お互いに行き来して「一体いつになったら、世間の人たちにカードというものをわかってもらえるだろうか」と話し合っていた。(略)
カード事業の成算については、日本にもアメリカ的なカードの普及の時代が、きっと来ると考えていた。だから、スタート後一時、利益が出ず、社内では悲観的になったこともあったが、私は楽観視していた。何事も「急がば回れ」で、基本的な普及活動を積み上げていけば、将来必ずうまくいくと思っていた
三和銀行はJCBの利益を確保したい思惑があり、合弁相手であった日本信販に対して株式の買取を請求。日本信販は不承不承ながらも株式の売却を容認した。この時、日本信販はJCBに対して「分割払いには参入しない」ことを要求することで、銀行系であるJCBが、信販系クレジットカードの強みである「月々分割払い」に参入しないよう、約束を締結した。
結局、私は25%の株を譲ることで承認した。当時、信販事業に多くの資金を必要としていたという事情もあった。譲る条件として、JCBはチャージアカウントのみで、マンスリーペイメント(月賦)はやらないという約束であった。この株式も、三和銀行の強い要請で徐々に減り、今では5.6%になってしまい、私としては残念に思っている。私は今でもJCBの代表取締役であり、日本信販からは監査役も出ているが、事実上は経営に参画していない
住友クレジットの発足をはじめ、クレジットカードへを巡る競争が激化。競争を通じて世の中にクレジットカードの認知が広まり、日本国内でもカードの普及期に突入
JCBは北海道での加盟店募集のために、北海道拓殖銀行と提携。HCBを設立し、JCBとの加盟店の相互乗り入れの業務提携を締結した。この経緯から、北海道地区に限って、JCBは別会社を通じて加盟店を管理する形となった。
JCBは設立時に加盟店募集のために、東京地区にJCB・関西地区にOCBを設立した。両社の資本関係は微妙に異なっており、OCB(出資比率:三和銀行70%・大信販30%)は日本信販の競合である大信販が担う形であった。このため、営業におけるねじれを解消するために、JCBとOCBの合併を決定した
1970年代を通じて日本国内ではクレジットカードが普及。JCBは加盟店数・会員数で国内トップ企業となり、銀行系クレジットカードで国内取扱高No.1を持続
設立後最初の10年間は正直に言って苦難の連続だった。当時はカードの利便性がまだ理解されじ、会員や加盟店も思うように獲得できなかった。このため就役もなかなか好転せず、一時は会社を整理する話もあったほどだ。先発会社として孤軍奮闘を強いられたわけだが、しかし、それが後の10年間の繁栄の時代へのステップともなった。
先発の苦しみはその後実を結び、他社に比べて、加盟店数やカードの利便性、知名度の上で有利な展開を図ることができた。特に加盟店網・営業店網の面ではいち早く全国展開をしており、この先行投資が功奏したとみている。
1980年代を通じた海外旅行の普及とともに、クレジットカードにも「日本人が海外でも使うことができる」という機能が求められるようになった。この時、国際ブランドであるVISAとMasterは、それぞれJCBに接触して、海外展開で提携する打診があった。
これに対して、JCBは国際ブランドの申し出を断り、自前で海外の加盟店を開拓する道を選択。JCBとしてクレジットカードの2枚持ちが当たり前になるという読みもあった。この決定をもってJCBは、VISA・Masterに宣戦布告する形となる。
1981年から海外加盟店の募集を開始したが、当初はJCBの社員が現地に赴いて1件1件開拓して行ったという。まずは日本人が集まりそうな地域の店舗から開拓し、場合によって社員がラクダに乗って僻地に訪れることもあった。このように足で稼ぐスタイルをとったものの、流石に効率が悪かった。
1989年からJCBは代理店経由の加盟店開拓も志向したが、すでに先発のVISAとMasterが市場を席巻しており効果に乏しかった。加盟店としても発行枚数の多いVISAやMasterといった先発ブランドとの契約を図ったため、後発のJCBが参入できる余地がなかった。
この結果、1998年ごろの取扱高において、JCBのグローバルシェアは2.0%という厳しい結果に直面した。この結果、業界関係者の間では「JCBは国際ブランドとしてやっていけない」(1998/1/19日経ビジネス)という共通認識が形成されたという。
問題は海外における加盟店開拓の効率の悪さにあった。VISAやMasterは現地の銀行など、有力企業と提携することで加盟店開拓を「外注」することでスケールしたが、JCBは自前での加盟店開拓を志向したためスケーラビリティーを確保できなかった。
VISAやMasterは、1970年代には日本に参入していたように、クレジットカードが普及途上にあった段階でグローバル展開を志向していた。この段階でクレジットカードの運営ノウハウに加えて、アクワイアラによる加盟店確保の仕組みを作り上げており、後発のJCBが参入する隙を与えなかったという事情もある。
1988年の時点でJCBは「1994年3月期までに海外会員数100万名を確保する」という目標を掲げていた。これに対して、JCBが実際に海外会員数が100万名を突破したのは1999年であり、計画に比べて5年遅れる形となった。
1981年から開始したJCBによる海外展開は、1998年にグローバルシェア2.0%という結果に終わった。このため、JCBは「海外で使いにくい国際カード」「日本人のための国際カード」(1998/1/19日経ビジネス)と呼ばれ、グローバル展開は頓挫した。
日本のカードで唯一我がJCBだけが世界で通用するブランドだ。会員数、加盟店数ではビザ、マスターカード、アメリカンエキスプレスに次いで世界で4番目の地位にあり、すでにダイナースクラブを抜いている。従って、海外展開はあくまで独自にやる。ビザやマスターと提携して彼らの傘下でやっていくつもりは全くない
住友クレジットなどがキャッシングを収益源としたのに対して、JCBではキャッシングのサービスを提供するものの限度額を10万円に設定。多重債務者の発生を防止する観点から、JCBはキャッシングに慎重な姿勢を示した
顧客があればどんどん貸せばいい、という姿勢はうなづけない。借りる、ということを積極的にセールスして、お金を押しつけ販売するというのはどうも...。私は古い人間かもしれませんが(笑)。
強調したいのは、クレジットカードとは何たるかということ。ローンではなくて、キャッシュレス・ショッピングの利便性を提供しようというのが原点だった。キャッシングは否定しない。それなりの利便性がある。しかしそれに依存することが、カード会社の目指すべき方向ではない。(略)金融というのは、本来銀行の仕事だというのが私の自説。われわれはクレジットカードのあり方を追求するのが本筋だと思う。
JCBは従来の自前で加盟店を開拓するスタイルから、代理店による海外加盟店の募集に舵を切った。代理店に支払う手数料として約100億円の投資を容認し、海外展開の加速を目論む
JCBはクレジットカードにおける購買履歴をもとに、ユーザーにダイレクトメール(手紙)を郵送するマーケティング事業に参入。某百貨店向けのDMによって来店率が10〜20%向上するなど、新しいマーケティングとして注目を浴びた。JCBはデータベースにおける相関関係を見出すことに、事業の付加価値を求めた。だが、1998年ごろにはクレジットカードの乱発により、各社が似たようなマーケティングを展開し、顧客管理に基づくDMの効果が薄れる結果になっている。
2004年からTISが主導して、IBMとともに基幹システムを新規に構築した。オンプレ構成で、主な言語はJavaとCOBOL(主にバッチ処理を担当)。ただし、当初の見積もりよりも200億円の開発費がオーバして稼働も遅延。TISは訴訟を視野に入れたが、当時の報道によれば最終的にJCBは80〜90億円の追加負担で和解したとされる。なお、TISも三和銀行系列の企業であり、JCBがTISに対して数%出資する関係
JCBのシステムは、TIS様を抜きにして語ることはできません。1989年に稼働を開始した「JET」、1008年に更改した「JENIUS」という2代の基幹システムは、TIS様との長年にわたる大型プロジェクトによって生まれたものです。このほか、オーソリゼーションや、最近ではモバイルペイメントのためのシステムなど、JCBの成長の歴史は、TIS様とともに取り組んだ様々なシステム開発の歴史であるとも言えるでしょう