孫正義氏(当時23歳)は、1981年9月に株式会社日本ソフトバンクを設立。本社は日本警備保障(セコム)に間借りする形で設置した。
創業時から事業目的として「ソフトウェアの流通革命」を掲げており、事業内容としては「ソフトウェアの商品化支援、各種ショーへの出展、PR活動、専門誌・情報誌の発行」を掲げた。
創業期のソフトバンクがパソコン向けのソフトウェアの卸売業を先手した理由は、ソフトウェアが急増する中で、消費者がこれらのソフトを認知しきれない問題があったためである。1980年前後には国内でもパソコンが急速に普及し、それと同時に様々なソフトウェア会社が誕生。ゲームから表計算まで、様々なPC向けソフトが誕生する中で、これらを消費者に届ける手段に欠けた状態であった。
そこで、孫正義氏は「専門雑誌」に着画。日本ソフトバンクは卸売業ながらも、専門雑誌を通じてソフトウェアの存在を消費者に訴求した。ただし、パソコン向け雑誌の参入では後発に相当しており、1980年代を通じて先駆者のアスキーとの競争状態となった。
会社設立時点で経営体制を強化するために、若い孫正義氏が会長、50代のベテランである大森氏(日本警備保障・元副社長)が参画して管理体制を強化した。孫正義氏が大森氏をスカウトできた理由は、シャープの佐々木副社長が孫氏の発明を高く評価し、日本の財界を中心に孫正義氏を応援する人物が多かったためである。
1983年5月27日には東京商工会議所8階において「大森君と孫君を歓迎する会」が催された。発起人は野村証券の当時社長(田淵氏)であり、パーティーには50代を中心に1000名近くの経済人が参加。日本電気社長(関本氏)、三沢ホーム創業者(三澤氏)、CSK創業者(大川氏)、日本IBM社長(椎名氏)など、当時の大物が参加した。
1983年からは孫正義氏の病気療養につき、大森氏が社長、孫正義氏が会長の経営体制をとった。ただし、両者の経営方針の違いから1986年に大森氏は社長を解任されている。
1980年代を通じて日本国内ではパソコンが徐々に普及し、ソフトバンクもソフトウェアの取扱いを拡大。会社設立2年目の時点で月商4億円・正社員数150名・臨時雇用者数60名の陣容となった。取引先の開拓も進み、取り扱うソフトウェアは8000種(200社)、販売先のソフトバンク加盟店は2600店に及んだ。
パソコンについていうと、現在、約95種類のハードが発売されていて、百数十万人のユーザーがいるのに、業界には、私が2年前にこの会社を作るまで、ユーザーたちの多様なニーズに応えるソフトを供給する流通機構がなかった。小売店は直接メーカーから買い入れているため、どうしても1点で取り扱う種類が少なく、特定の機種にしか通用しないとか、1つのメーカーに偏ってしまうという問題もあって、ユーザーたちはマイコンショップなどを何軒も探し回らなくてはならなかったり、ソフトハウスなどに特注しなければ欲しいソフトが手に入らない状態だったわけです。
そのためにかかる費用や時間もさることながら、こんなことをやっていたんでは、とても実戦には向かない。ついには活用し切ることなく、ほんの一部のソフトしか利用できなかったり、果ては、投げ出されて、オフィスの片隅でホコリを被ってしまうことになる。商品化されているソフトの種類はたくさんあるのに、流通機構がないことと、利用法の普及が極端に遅れていたために「宝の持ち腐れ」的な状態が続いていたんですね。
そこで、ソフトハウスとマイコンショップなど小売店を結びつけて、ちょうど書店で本を買うような具合に、良質のパッケージソフトを提供しようと考えついたんです。こうすれば、ソフトハウスも競い合い、これまで以上にいろいろなソフトを開発するし、その結果として、ユーザーも手軽に、しかも安価で自分のニーズに合うソフトを手に入れることができる。
1994年7月にソフトバンクは店頭登録により株式を公開
ソフトバンクは1994年の株式公開を契機に「企業買収」および「ベンチャー企業への株式投資」を通じた積極投資を本格化。1995年から1996年にかけて社債調達によって2100億円の現金を確保すると、これらの資金を投じた買収を積極化した。
1981年の会社設立時から1994年頃までのソフトバンクは、ソフトウェアの流通・出版が主力事業であったが、1994年以降は有望な企業の株式取得(買収・種子)を積極化し、IT領域における投資事業が実質的な本業となった。
1994年12月にソフトバンクは、米Ziff-Davisの展示場子会社を約200億円で買収。さらに、1996年2月にZiff-Davis Publishingを約1800億円で買収を完了した。Ziff社は「PC Magazine」などのコンピュータ雑誌を出版する大手企業で、1995年12月時点の業績は「売上高820億円・EBITDA155億円」を計上。高収益を確保する企業であった。
また、1995年4月には同じく米国で展示場サービスを展開するコムデックス社を買収した。コムデックスはラスベガスにおいてITにおける見本市を運営する企業であり、業界内では著名な企業であった。
買収の狙いは、インターネットベンチャー企業の発掘にあった。Ziff-Davisは米国のコンピュータ関連雑誌の出版大手であり、同社は展示場や出版事業を通じて、ベンチャー企業に関する情報が集積していた。加えて、1995年前後には米国でインターネットが急速に普及し、Yahooなどの設立が相次いだタイミングであった。
このため、ソフトバンクとしては米Ziff-Davisを買収することで、米国のベンチャー企業の情報収集し、いち早くベンチャー企業を発掘して投資することを目論んだ。
すなわち、これらの企業買収は、Ziff-Davis社からの営業利益を確保するよりも、ベンチャー投資のための情報収集という側面があり、買収のリターンはベンチャー企業の成長(IPO)に成功するかという点にあった。
ソフトバンクにとって、Ziff-Davis社の買収額は合計21億ドルと巨額であった。このため、ソフトバンク(SBH)と有限会社エムエムシー(通称:MAC)の共同買収という形式をとった。これは、MACが3億ドルでZiffの不採算事業を買収し、その他の優良事業をSBHが18億ドルで買収する方式であった。
MACの大株主は孫興産(孫正義氏の資産管理会社)であり、孫正義氏が実質的に100%の株式を保有していた。このため、孫正義氏個人とソフトバンクが共同で資金を捻り出すスキームにより、これらの大型買収を実現した。ただし、個人会社を通じたスキームについて、利益相反などの観点から、批判が生じたと言われている。
これから進むべき方向の、幹を太くしていかなければいけないところを本業と呼ぶべきであって、過去のところがイコール本業だというのは、正しい見方ではありません。
ソフトバンクの本業は、デジタル情報革命です。人々の知恵と知識を少しでも早く、少しでも多くの人に、少しでも安価に、少しでも的確に届け、分かち合う。われわれはその全体をつかさどるインフラを提供したいと思っているわけです。
インターネットとJSkyBと、それから中国、これがソフトバンクの「3大成長シナリオ」なんです。安定的に収益を得るのはジフ・デービスとか、コムデックスとか、国内のソフト流通業とか、いろいろあるわけですけれども、それらは利益を今現在稼いで、安定的に伸びていく。さらにオンして、ニュービジネスの部分で成長するわけです。
1995年からソフトバンクは無担保普通社債を通じた資金調達を本格化し、企業買収のための現金を確保した。1995年から1996年にかけて合計2200億円の社債調達を完了した。
なお、FY1995におけるソフトバンクの売上高は1711億円(当期純利益58億円)であり、売上を超過する有利子負債を抱えることを意味した。1997年3月期末時点のソフトバンクの総資産5958億円(うち長期債務3766億円)に対して株主資本1196億円であり、総資産に対する株主資本比率は20%であった。
ソフトバンクは社債の発行にあたって、1995年10月の「第2回無担保社債」について、社債管理会社を無設置によるFA債として発行した。社債管理者を介さずに、財務代理により発行可能な仕組みであり、社債の管理コストを減らすことを目的とした。
ただし、日本の金融機関は貴重な収入源を失うことを意味しており反発した。このため、ソフトバンクによるFA債の発行は、日本企業による社債発行の歴史において一つの転換点となった。
1995年6月に北尾吉孝氏(当時44歳)がソフトバンクに入社。北尾氏は野村証券の在籍時にソフトバンクによるジフデービスの買収を検討した経緯があり、孫正義氏にスカウトされる形で入社したという。
北尾氏は2000年代前半までソフトバンクの財務責任者を歴任し、ソフトバンクの資金調達を支えた。
1996年にソフトバンクは、豪州のニュース企業(News Corporation Limited)と共同でメディア事業に進出する狙いで、旺文社の100%子会社「旺文社メディア」を合計417億円で買収した。ソフトバンクの負担は208.75億円であった。
旺文社メディアは「テレビ朝日」の株式を21.4%保有しており、表向きは旺文社メディアの買収であるが、実態としては417億円でテレビ朝日の株式21.4%を取得した。
ソフトバンクの狙いは衛星放送への投資であった。1996年2月には豪州のNSL社と合弁(折半出資)で「ジェイ・スカイ・ビー」を設立し、日本国内における衛星放送への参入準備を進めた。同社の資本金は200億円であり、ソフトバンクは100億円を出資した。
ところが、テレビ朝日はソフトバンクによる支配を警戒。このため、1997年に朝日新聞がソフトバンクが保有するテレビ朝日の株式を取得し、ソフトバンクのテレビ朝日への出資は立ち消えとなった。1998年にはジェイスカイビーと日本デジタル放送サービス(パーフェクトTVの運営会社)が合併し、ソフトバンクは放送事業を縮小した。
ソフトバンクのキャッシュアウトは約1160億円で、1998年を期限とする4回分割払い。残りはソフトバンクが第三者割当増資で、キングストン創業者が約460億円のソフトバンクの株式を取得して捻出。つまりソフトバンクの高値の株価を活用して買収
メモリーはパソコンを中心としたデジタル機器には不可欠な部品。キングストンは企業向け分野でトップシェアを誇り、しかもパソコンの普及などで安定成長が見込める。インフラ的要素は強く、デジタル情報産業のインフラ事業というソフトバンクの事業領域から踏み外していない。
ソフトバンクはZiff-Davisの買収によって、シリコンバレーにおける有望企業の情報を獲得。この中で、1994年1月創業したばかりのYahooの存在を知り、1995年11月に米Yahooの株式5%を2億円で取得した(推定評価額40億円)。
投資を即座に決定した理由は、創業者の一人であるジェリー・ヤン氏が台湾から米国への移民であり、孫氏と気が合ったためであったという。また、1995年の時点でYahooは世界で最も多いアクセス数を集めるサイトとして認知されており、将来の成長性が期待できたことも要因であった。
1996年4月にソフトバンクは、米Yahooに対する大規模な追加出資を決定。35%の株式を100億円で取得し、追加出資後の株式保有比率は37.02%であり、創業者を抑えてソフトバンクがYahooの筆頭株主となった。なお、当時のYahooの社員数は5〜6名であり、月商数千万円というベンチャー企業であった。このため、社員数名のベンチャー企業に100億円を出資しており、相応のリスクをとった。
その後、1996年5月にYahooはナスダックに株式上場を果たした。
ソフトバンクはYahooへの出資とともに、Yahooの日本法人の展開も決定。1996年1月11日にソフトバンクはYahooの日本法人を合弁方式で設立。出資比率はソフトバンクが60%(出資額1.2億円)に対して米Yahooが40%(出資額0.8億円)を握った。Yahooのブランドを冠しているが、実態としてはソフトバンクの子会社であった。
事業面では、検索エンジン・ニュース・天気など、インターネットによるサービス提供を開始した。当時の日本国内では検索エンジンは珍しく、ヤフーは日本国内における検索エンジンで最先発となった。
世界はいま大変なデジタル情報革命の波が来ている。時速100キロでどんどん世界が走っているのに、日本の経営者は全員で泊まれば怖くないと言っている。要するにデジタル情報革命を頭で知っていても、企業経営者、政治家、教育者などは、腹の底からそういう現実を理解していないのだ。
1996年12月にセキュリティーソフトを展開するトレンドマイクロ社(東京・西五反田本社)に対する出資を決定。株式35%を合計35億円で取得した。
1996年時点でトレンドマイクロ社はグループ全体で180名の社員を抱えており、1000万台のコンピューターに対してアンチウイルスソフトを導入していた。このため業績は黒字を確保しており、1995年12月期時点でトレンドマイクロ社はグループ全体で、売上高19.3億円・税引き前利益5.6億円を確保する高収益企業であった。
ネットバブルによるヤフーの株価高騰による。米Yahooの株式で2兆円、日本法人のヤフーで1.2兆円の含み益であり、含み益の大半をヤフーが占めた
米Yahoo!incの株式を一部売却(売却益363億円)、シスコシステムの株式売却(売却益308億円)、スカイパーフェクトコミュニケーションズの株式売却(売却益114億円)
2000年前後のインターネットバブルによって、インターネットは産業として注目を集めるようになったが、その一方でユーザーのインターネットへの接続環境には課題が山積していた。当時のネット接続はISDNが主流であり、電話線を利用する技術であった。この手法は、電話インフラを転用できるメリットがあったが、その一方で電話回線の利用料金が高い問題や、通信速度が遅いという問題があった。このため。インターネットにおいて画像を表示するのに相応の時間がかかり、快適な体験ではなかった。
その一方で2000年頃から新しいネット接続方法の技術として「ADSL」が台頭した。アナログ回線を通じてインターネットに接続する技術であり、最大の特色はアナログの高周波帯域を割り当てることによって、通信速度を早くできた点にあった。このため、インターネット接続が光ファイバーに遷移するまで、ADSLが接続方法として注目を集めるに至った。
2000年にソフトバンクはADSLへの参入を決議し、2001年6月にADSLのサービス開始を公表した。2001年9月にグループ内のYahooのブランドを活用して「Yahoo!BB」のサービス提供を開始し、ADSLによるブロードバント事業に参入した。当時のソフトバンクは知名度が低く、すでに検索ポータルサイトとして知られたYahooのブランドで展開することで、顧客の確保を目論んだ。
ソフトバンクはADSLへの新規参入にあたって、販売促進に莫大な投資を実施した。2002年度には売上高399億円に対して営業赤字962億円を計上するなど、積極投資により赤字を許容しつつ、シェアを確保することを優先した。販促方法は街頭におけるモデムの無料配布(通称パラソル部隊)、テレビCMの放映、ソフトバンクによるプロ野球球団の買収(ダイエーホークスの取得)、加入者に対する500円相当の金券配布などであった。
これらの莫大な先行投資を通じて、ソフトバンクはADSL事業において認知度を高め、国内におけるシェアを確保した。
2006年3月期にソフトバンクは、ブロードバンド・インフラ事業において206億円の営業利益を計上し、黒字転換を果たした。以後、2011年3月期までは年間260億円〜480億円の営業利益を確保し、先行投資の回収フェーズに突入した。
ソフトバンクとしては消費者事業向けの展開において、先行投資によって販促費を投下してシェアを確保し、参入から数年を経た時点で黒字する経営手法を確立した。この事業展開は、のちに2010年代前半の携帯電話のキャリア事業、2010年代後半の決済事業(PayPay)に継承され、ソフトバンクグループにおける消費者向け事業展開の一つの特色となった。
ブロードバンド事業から生み出される営業キャッシュフローは、かなり大きな比率を占めるようになるでしょう。月次ベースで言えば、2002年度のどこかで黒字転換しはじめる。プロモーション費用をどれだけかけるかによりますが、百数十万ユーザーを獲得すれば、損益分岐点を突破できるはずです。
法人向け固定通信事業(BtoB)。法人向けにADSLの営業を強化するための顧客獲得を主眼とした買収。顧客基盤600万ユーザーを確保し、将来の携帯キャリアへの参入の布石とした
マジョリティではない投資の場合、相手に任せたり、相手に創業者が残っていてそれを支援したり、という立場でやるのは結構成功しているんです。ところが、われわれがマジョリティを持って経営権を取っているにもかかわらず、相手に任せる経営はダメ。たとえば、買収した日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)の最初の頃にやって失敗したんです。途中からこれはまずいということになって自分で乗り出した。
2006年3月にソフトバンクはボーダフォン株式会社の買収計画を公表。翌月の2006年4月にソフトバンクはボーダフォンの株式99.54%を1.69兆円で取得した。
買収に伴い、2007年3月末時点におけるソフトバンクの「のれん」は9873億円に及んだ。ボーダフォンの買収価格は、ソフトバンクの売上高に相当し、ボーダフォンの買収は社運を賭けた買収となった。ただし、買収直前の2006年3月期の時点で、ボーダフォンは年間営業キャッシュフロー3016億円・営業利益763億円を稼ぎ出しており、安定収益が期待できる企業であった。
ボーダフォン株式会社は、英国のVodafoneが株主であったが、日本における携帯電話(ボーダフォン)の売上成長の業績低迷により日本事業の売却に踏み切った。それでも、ボーダフォンは国内1500万ユーザーを抱えており、国内3位の携帯キャリア(1位NTTドコモ、2位KDDI)を確保していた。
ソフトバンクはボーダフォンの買収にあたって、1.7兆円を確保する必要があった。そこで、ボーダフォンの資産を担保としたLBOにより1.2兆円を調達し、金融機関からの融資を「ノンリコースローン」を採用。これにより、ボーダフォンが背負う借入金について、ソフトバンクが返済義務を負う必要がなくなり、買収失敗時のソフトバンクへの財務影響を最小限にした。
ボーダフォン買収の狙いは、携帯電話事業に参入しつつ、当時Appleで開発が進んでいたiPhoneを取り扱うことにより、モバイルインターネットの普及を見込んだことが理由であった。ただし、2006年の時点でソフトバンクはAppleと正式契約を締結したかどうかは不明であり、iPhoneの国内における独占販売を明らかにしたのは2008年であった。
買収後、ソフトバンクの社長であった孫正義氏は、買収後のPMIにおいて陣頭指揮に立った。料金プランの策定など、細かい意思決定も孫正義氏の主導で行われ、買収企業に経営を任せるのではなくトップダウンによるPMIを志向した。
ブランド面では、ボーダフォンの名称は廃止し、ソフトバンクのブランドでの展開を決定。買収後にボーダフォンの商号を「ソフトバンクモバイル」に変更した。
あのときは、任すか、自分でやるかという選択肢はなかった。約2兆円出して買収して、これが引っ繰り返ったら、ソフトバンクの屋台骨が全部ひっくり返るというぐらいの背水の陣、決死の覚悟でやりましたから。最初の1週間から、直接すべてに深くかかわるということを意思決定して、端末から、料金プランから、ネットワークから、マーケティングから、すべて自分でまず理解をし、すべてに遠慮せずに口を出した。
2011年3月の東日本大震災を受けて、再生可能エネルギー事業に参入
携帯キャリア事業で海外展開へ
重要なのは、冒していいリスクの範囲を見極めることですよ。トカゲのしっぽは3割ぐらい切れてもまた生えてくる。僕は、つねに3割以上は自分たちの価値を毀損しないように、というのを一つの目安にしています。企業も3割ぐらいまでならば、切っても生えてくる。けれども、それ以上切ると、生えてこないリスクがあり、そこが致命傷に膨らんでいくリスクがある。だから失敗したとき、うちは卑怯とか臆病とかいわれるぐらい、撤退が早い。
孫正義氏の後継者候補として副社長に就任
半導体の需要増大を見据えて、半導体の設計企業を買収。スマホ向けに強み。巨額買収の資金は、アリババを中心とした保有株式の売却で充当
2016年10月にソフトバンクは、サウジアラビア政府系のファンドPIFとファンドの設立で合意。翌2017年5月に「ソフトバンク・ビジョン・ファンド(SVF1)」は運用総額986億円にて、ベンチャー企業に対する投資を開始した。
このうちソフトバンクの出資額は331億ドルであり、PIFを中心とした外部投資家が655億ドルを出資しており、石油価格の高騰によって潤った「中東のオイルマネー」がSVF1の原資となった。すなわち、ソフトバンクの孫正義氏としては、中東に集まったキャッシュに着眼し、グローバル(欧・米・アジア)なIT企業に投資をするというビジネスを遂行した。
SVF1における投資対象は、Uber、WeWorkなど、株式公開が確実視されるベンチャー企業であった。そして従来のVCの運用額が数千億円なのに対して、SVF1は10兆円を運用することによって、ベンチャー企業に対して巨額の出資を行うことで、既存VCとの差別化を図った。
SVFの運用開始から2年が経過した2019年に、ソフトバンクはSVF2の組成を発表。「AI」に関連するベンチャー企業への投資をテーマとし、運用額10兆円を目指してLPを募集したが、資金調達に苦戦。この結果、SVF2の運用額は598億ドルとなり、このうち572億ドルをソフトバンクが出資するファンドとなった。
すなわち、ファンドの運用額だけ見れば、SVF1が約10兆円に対して、SVF2は約半減したが、ソフトバンクによる出資額ベースでは、SVF1への331億ドルから、SVF2への572億ドルへと拡大している。よって、ソフトバンクグループとしては、SVF2の運用開始にあたって、ファンド業に注力する方向性をより鮮明化した。
ソフトバンクグループは、SVF1・SVF2の運用を通じて、株式投資がビジネスの根幹をなす企業となった。このため、年間の業績は、投資先企業の株価(企業価値)によって左右され、投資ファンドとしての年間成績が、ソフトバンクグループの業績に影響される状態となった。
SVF1の運用終了は2029年、SVF2の運用終了は2032年がそれぞれ設定されており、それまでは最終的なROIが決定されない状態が続く。部分的にはWeWorkへの損失は確定しているが、ファンド全体としての成績は満期までは確定されない。
したがって、ファンドの運用開始にあたる2017年から、運用期限にあたる2029年〜2032年までの間、ソフトバンクグループの業績は投資先企業の企業価値に左右される状況が続くため、SVFの最終的な成果を判定することは難しい。
産業革命は『人力』を『機械』に置き換えるという大きな流れだった。情報革命は『機械』を『AI』に置き換える革命であると認識している。産業革命の資本家としての中心人物がロスチャイルドだとするならば、われわれソフトバンクグループは情報革命の資本家としてのキープレイヤーになりたいと思っている
ソフトバンクグループの保有株式(ソフトバンク・アリババ・ARMなど)の時価に対して、ソフトバンクグループの株式は安価で推移した。このため、孫正義氏は割安と判断し、過去最大規模の2.5兆円の自社株買いを公表。資金を捻出するために保有資産(アリババの株式など)の売却に舵を切った
このプログラムは当社史上最大の自己株式取得であり、さらに過去最大の現預金等の増加につながるもので、当社の事業に対する揺るぎない自信に基づくものです。くわえて、このプログラムによって当社は、負債の削減を通じてバランスシートを強化します。なお、今回の資金化の対象となる資産は、当社の保有資産価値の20%に満たないものです
経営不振だったスプリントの再建で苦戦。業界3位を争ったTモバイルと合併し、スプリントの株式は売却へ
米連邦取引委員会(FTC)がNvidiaへのARMの売却が市場独占につながるとして提訴。売却は破談へ
「通常、同じ業界の2社が合併する場合は独占禁止法の問題で止められるが、NVIDIAとArmはエンジンとタイヤぐらい違う物を作っている。そんな2社の合併を独占禁止法で阻止するのは、同法が始まって以来初めてのケース」「なぜそれほどまでに止めなければならなかったのか。非常に驚いた」