ミスミの創業者は一般的に開示されていない。創業の経緯は、高校時代の同級生3人が独立起業のために会社を設立したことに始まる。3名のなかに、田口弘氏が専務として参画しているが、設立当時は社長ではなかった(田口氏は1969年12月に社長就任)。
事業面においても金型用品や流通革命とは無縁であった。祖業は、伊藤忠商事が取り扱う「高周波自動水洗機」を販売するビジネスであった。だが、独自性はなく、商品の品質が安定しなかったことから頓挫している。
1963年2月に三住商事株式会社を東京都千代田区にて設立した。社名の由来は「三井・三菱・住友」を凌駕する企業を作るために、総合商社の名前に由来した社名とした。
祖業の自動水洗機は品質が安定しなかったため、事業は軌道に乗らなかった。このため、三住商事は、共同創業者のうち一人が金型部品の業界に詳しかった(起業前に勤務経験あり・企業名不明)という経緯から、金型部品の商社に着目した。
顧客からベアリング部品の「ニードルローラ」だけ欲しいというニーズ(金型の位置決定にノックピンとして使用)を聞き出し、需要があると判断した。金型用品は、1965年に参入して田口弘氏が担当し、三住商事は業態転換をスタートさせた。
この会社は友人3人で始めたものです。3人でやったから、あるいは、三井、三菱、住友の頭文字をとったという具合で、それほど大きな意味は持っていません。まあ、適当なことが許されたんですよね。あの頃は・・・。
最初に手掛けたのが、伊藤忠商事が発売した高周波利用の自動水洗機ですが、水が出っ放しだったりして、故障が多く、ギブアップしました。
世代交代のため、実質創業者の田口弘がミスミの社長を退任し、経営改革で定評のあった三枝匡氏が社長に就任した。三枝氏は、ボストンコンサルティンググループを経て、コマツなどの改革に従事しており、V字回復のプロ経営者とも知られていた。
中国メーカーの台頭を受けて、ミスミは自ら中国進出を決断。社内で「突撃計画」を策定し、1年で物流拠点、コールセンター、情報システム、カタログ発刊準備、現地中国人の採用などを目標とし、短期間で中国事業の立ち上げを試みた。
海外展開に備えて、上場企業だった駿河精機を経営統合(実質的にミスミによる買収)して製造機能を内製化した。2004年3月期の駿河精機は売上高139億円・純利益3.7億円。株式交換のため経営統合のため、キャッシュアウトはほぼなし。ミスミとしては持たざる経営からの大きな転換で、メーカー機能を内製化することを意味した。
目的は(1)海外展開の積極化と、(2)製造現場の生産性を改善するモデルを作り込むことであった。ミスミは、従来通りに国内協力工場に対して製造を発注しつつも、製造現場の改善案を提案することで、サプライチェーン全体の効率化を目論む。駿河精機の買収により、ミスミは商社から「メーカー機能を持つ商社」に転身する。
買収PJの責任者は高家正行氏が担当した。ところが、経営統合から1年で駿河精機の某責任者がやめるなどPMIに苦戦。高家氏が駿河精機の金型事業部長に就任し、PMIを成し遂げるべく奔走した。
駿河精機と経営統合、有り体に言っちゃえば買収なんですけど、したきっかけは海外展開なんです。ミスミはメーカーさんを何百社と組織化しているんですけど、ほとんどが中小企業なんですよ。海外展開をしようと思っても、一緒に付いていく体力のないところばっかりです。海外で「創って、作って、売る」をきちんとやるために、手始めに駿河さん、当時、ミスミの中では最大の協力メーカーだったんですけど、そこと一緒になったということですね。
三枝氏と高家氏がCo-CEOとして代表業務を担当
自社ブラント及び他社ブランドを取り扱うEC事業を開始し、流通事業に参入した。従来のミスミは自社製品(協力会社から仕入れ)のみの取り扱いであったが、他社製品も取り扱うことで業容の拡大を目論む
米国の金型部品メーカーの買収を決定し、同社の株主(投資ファンド)から株式100%を164億円で取得。北米自動車メーカー(ビッグ3)との取引がある企業であり、米国の製造業向けの顧客開拓を目論む。
PMIにはミスミの高家社長も関与。買収先企業の経営陣に経営プランを提出させ、6ヶ月で統合作業の完了を目指した。