既製靴が珍しい時代だったため、靴のマルトミは高収益を確保。夫婦2人の経営によって、仕入れ先を開拓して600円で仕入れた靴を、1000円で売る商売によって現在換算3億円の利益を確保したという。
冨永光行は靴の販売事業に参入するために「丸富靴店」を名古屋市内に開業。当時は下駄が主流の時代で、靴はオーダーメイドの高級品で、サラリーマンの月給並みの金額だった。そこで、丸富靴店では価格を安く抑えることができる「既製靴」を企画し、販売する異色の靴店としてスタートを切る。
靴屋をやろうと思い立ち、商売を始めたのです。当時はゲタから靴へようやく主役が交代したばかりで、靴といえば完全な注文品でした。靴屋が一人ひとり顧客の足を測ってつくる訳です。大卒の給料が3000円の時代に、革靴は1足3000円もしていました。完全な消耗品なのに、これではなかなか庶民が気安くはけるようにはなりません。そこで、私は靴の工場を回り、1足600円で作ってくれるように頼みました。「お前はバカか」。どこへ行ってもそう言われましたが、「あなた方のような作り方をしているから高くなるんだ。流れ作業で作るんですよ」と提案したんです。注文品ではなく、既製品にすることでコストダウンしたわけです。600円で作った靴を1000で売ったら、飛ぶように売れました。手元にはみるみるおカネがたまっていった。今のおカネに換算して3億円近くを女房と2人だけでもうけました。
靴のマルトミでは4店舗で従業員の不正が発覚。創業者の冨永光行は不正を働いた授業員を全員解雇し、穴埋めのために新規採用を実施。新規採用した社員については、創業者の冨永光行が社員と寝食を共にすることで「冨永イズム」という商売の精神を叩き込んだという。
靴のマルトミは名古屋市内の商店街や地下街を中心に100店舗を展開していたが、都心部における路面電車の廃止による繁華街の錐体や、ロードサイドの発展による郊外商圏の拡大を受けて、全100店のうち60店を閉店し、郊外店を主軸に置く方針を決めた。
ロードサイドの発展を受けて、靴のマルトミは郊外における積極的な店舗展開を開始。出店地域の地名を冠した「〜靴流通センター」の大量出店をスタートさせる。なお、当時は大店法施行後のため、郊外店舗の面積は〜平方メートルに限られた。
靴に次ぐ事業としておもちゃ事業に参入。競合のチヨダが展開する「ハローマック」を追随する
靴のマルトミは従業員のポテンシャルを最大限に活かすために、店舗運営を社員に実質的に全て任せる「オーナーシステム」を採用し、すぐに約300名の社員が応募した。全店舗のうち70〜80%でオーナーシステムが採用され、本社に対して粗利の25%を支払う代わりに、売上総利益をオーナーが自由に使用することができる独立採算制となった。この結果、一部の社員は見違えるようにやる気を出し、給料を倍増させる社員も続出したという。
1993年に靴のマルトミは1700店舗を突破し、過去最高となる経常利益57億円を達成した。
1991年に大店法が改正されたことを受けて、郊外にショッピングセンターが出現する時代に突入した。このため、郊外のロードサイドの小型店を主力とする「靴のマルトミ」を取り巻く競争環境が激化し、1994年には減収決算となった。このため、経営再建のため、靴のマルトミは創業者である冨永光行社長の報酬カットと、180店舗の閉鎖を決定した。
郊外小型店舗の苦境により1998年に靴のマルトミは5億円の最終赤字に転落。靴流通センターの出店を凍結へ