1967年12月に似鳥昭雄氏(ニトリ創業者)は、札幌市内に「似鳥家具店」を個人創業。創業店舗は北海道札幌市北26条西5丁目に開設し、通称「西店」と呼ばれた。創業時点での店舗面積は99平方メートルであり、小規模な店舗を開設して家具の販売業に参入した。
似鳥氏(北海学園大学・1966年卒業)は、脱サラして企業を検討する際、家具店に着眼。その理由は、出店予定地に競合店が少ないという理由であった。
開業2年目の1969年には、創業店舗である西店を198㎡へと拡張して業容を拡大した。ただし、創業時は信頼がなく、仕入れ面で苦労をしたため、大型店舗の開設による「大量仕入れ・大量販売」を志向するようになった。
ニトリは創業期から一貫して店舗の大型化を志向。1971年には初の大型店舗となる「北栄店」を開業し、店舗面積は990平方メートルに及んだ。これは創業店舗である西店の約5倍に相当した。このため、同業者はニトリの投資を懐疑的に受け止めたという。
加えて、開業直後に、同業他社が近隣に大型店舗の出店を決めたため、銀行が似鳥への融資をストップ。結果としてニトリの資金繰りが悪化し、似鳥昭雄氏は「夜逃げ」(2017/10/10週刊女性)考えたとされ、店舗の大型化には紆余曲折を伴った。
今でこそ家具大型店の郊外進出は常識になっているが、私が初めの大型店である東店を手がけた当初は、周囲からあきれ顔で見られていた。若僧が何を馬鹿なことをやらかすのか、というのが家具業界および関係者の大方の感想だったろう
個人事業から株式会社に組織変更。金融機関からの資金調達を積極化して事業の本格展開を開始した。
創業期におけるニトリにおける転機は、1972年に創業者である似鳥昭雄が小売業者の視察のためにアメリカを訪問した際、現地の生活環境が日本と比べて非常に豊かであったことに驚いたことであった。そこで、似鳥昭雄は日本でもアメリカと同じような豊かな生活が可能になるような家具や雑貨を販売することを決意し、リスクをとった事業の本格展開を開始した。
1977年11月時点で、ニトリは従業員に対しては信賞必罰の人事を遂行。当時の雑誌記事によれば「遅刻3回、無断欠勤1回、私用も含めて交通事故2回で解雇」「競輪、競馬等のバクチは一切ご法度で、やった事がわかれば即刻クビとなる」(近代中小企業12(13)(156))運用をしていたという。
これは、ニトリの従業員が20代の若者中心であった一方、店舗の急拡大のために管理職を早急に育成する必要があり、結果として厳しいルールの運用を敷いたためと推察される。1981年時点のニトリの従業員数142名(うち社員108名・臨時社員34名)であり、平均年齢は26歳と若かった。また、当時のニトリは採用にあたって「2〜3年で店長になれる」という説明もしており、1978年の時点で「23歳の店長」「入社5年で部長」などの実績が存在していた。
安い家具を確保するために、仕入れ部門を別会社として設立。倒産メーカーの家具を原価割れで仕入れる体制を構築した。また、別の仕入れルートとして、家具の有力メーカー3社に似鳥氏が社外役員として参画し、ニトリのオリジナル家具の製造を委託する方式も1977年までに整備した。ニトリは小売業でありながら、製造メーカーに口を出して自社商品を開発する体制を整えていった
私は37年前にアメリカに渡りました。その時に見たアメリカの小売業に私は驚愕し、日樹に感動したことを今でも覚えています。まず価格面では、アメリカは日本のものの3分の1という安さでした。また、日本の製品は作る側や売る側からの品質機能を持っているのですが、アメリカの製品では使う側や買う側に立っての機能が充実していました。そして、日本の製品は見た目がバラバラで統一感がないのですが、アメリカのものは見事にコーディネートされています。さらに、日本にはない便利な品種がアメリカには多数ありました。アメリカと日本との違いには体現驚きました。私は60年かけてアメリカに追いつき、そして追い越すために仕事を一生懸命取り組んでいくことを誓ったのです。
私は、日本人の暮らしを豊かにすることを最大の目標にして業務に取り組んできました。1972年に株式会社ニトリを設立してこれまで前半の30年を終えましたが、目標に向かって順調にきていると私は感じています。
1978年1月にニトリは「チェーン化構想」を発表。1981年までに家具店舗を札幌市内において集中出店し、合計9店舗を社員約140名(うち臨時雇用30名)で運営する体制を整えた。いずれも店舗面積は約1500〜約3000㎡であり、手稲・白石・厚別などのロードサイド(国道230号・国道5号・国道36号・国道12号など)に立地させ、いずれも家具店としては大型店舗を志向した。
この間、札幌市内以外の出店は行わず、ドミナントによるチェーン展開を志向した。これにより、地域ないシェアを確保することを優先した。
また、店舗への配送効率を高めるために、1980年に札幌物流センター(札幌市西区発寒1152)を新設。物流センターから、札幌市内の9店舗をカバーする体制により、札幌市内における地域シェアの確保を目指した。
1981年の時点でニトリは家具の仕入れにあたってメーカーに対して製品規格を定めるように働きかけた。これは、チェーン展開によって販売量が増加し、メーカーへの交渉力が高まったためと推察される。このため、ニトリは小売業ではあったものの、メーカーに対して商品企画を依頼する立場となった。
1981年時点のニトリの主な仕入先は、フランスベッド、大塚家具、三友工芸、大恵ファニチュア、丸愛ファニチュア、恵田ファニチュアなどであった。フランスベッドや大塚家具を除けば、いずれも零細な家具メーカーないし卸売と推察され、ニトリはメーカーとの交渉のうえで、有意な立場を確保できた可能性がある。
ニトリは急速なチェーン展開にあたって、新卒採用を積極化。1980年頃には年間10名ほどを新卒採用し、早ければ2〜3年で店長に抜擢する実力主義の人事を遂行した。店長の主な学歴は、北海学園大学などであった。
このため、ニトリのチェーンの急速なチェーン展開は、若い新卒2〜3年目の人物が現場を担う組織形態をとった。この結果、新卒採用の積極化により、1978年2月時点で社員数は108名(臨時雇用を除く)に及んだ。
1982年にニトリは北海道の函館への大型店舗の新設(売り場面積4900m2・想定年商8〜10億円)を発表するが、地元の函館の小売業者は「ニトリのような巨大店の進出は死活問題である」として反発。政治家を動員してニトリの排除を試みるなど、一筋縄で店舗の拡大は進まなかった。その後、1985年にニトリは函館進出に成功し、函館では良好な成績を収めた
1986年にニトリは家具メーカーの「マルミツ木工株式会社」と業務提携(出資比率は不明)を締結。取引先のメーカーに出資することによって、小売業でありながら製造領域に参入した。マルミツ木工との提携の狙いは、円高ドル安の進行を見据え、家具を東南アジアで生産することであった。
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行しつつあり、ニトリとしては国内生産のコスト高を予見し、東南アジアから輸入ないし生産体制の樹立を急いだ。
マルミツは国内生産(旭川)が中心であったため、段階的に東南アジア(中国・タイ・インドネシア)での生産にシフトする形をとった。1986年から家具パーツを「台湾・米国・マレーシア・韓国」などから輸入して国内で組み立てる体制を構築。続いて、1987年までに台湾および韓国において、現地企業と提携して部材の共同開発を開始。1992年からは中国とタイにおいて現地企業と提携し、家具パーツの現地生産を開始した。
すなわち、1986年から1994年にかけては、完成品の家具生産をいきなり開始するのではなく、家具パーツの輸入を通じてグローバルな体制構築を狙った。
ニトリとしては、マルミツの海外生産に合わせて家具を輸入する体制を構築。1989年2月にシンガポールに現地法人を新設し、東南アジアにおける取引先に対する管理拠点(検品・検査などを請負い)として活用した。
東南アジアからの家具部品の輸入における最大の問題は、品質が悪い点であった。高温多湿な東南アジアでは、木材における含水率が日本の2倍(20%)と高く、乾燥が不十分だと日本国内に到着した時点で、部材が破損する問題があった。このため、出荷前に乾燥室の利用を徹底するなど、現地メーカーに対する指導を実施した。
1993年に茨城県勝田市にニトリの店舗新設を計画。北海道のドミナント展開から、東日本におけるドミナンと展開を本格化
1994年10月にニトリはインドネシアに生産現地法人として「P.T. MARUMITSU INDONESIA」を設立してマイノリティーとなる9.0%を出資した。ニトリの取引先かつ出資先であった家具メーカー「マルミツ(北海道・旭川市本社)」がインドネシアでの現地生産に乗り出す座組みとした。
1995年から工場を稼働してインドネシアにおける現地生産を開始。従来の東南アジアからの輸入は「部品パーツ」であったが、インドネシア工場では「完成品」を製造することによって、ニトリとしては完成品家具の現地生産を確立する狙いがあった。
インドネシアの現地法人では、会社運営に苦戦。社員の無断欠勤率が10%であることや、ストライキが頻発したことで生産が計画通りに進まない状況であったという。
ニトリはインドネシア工場を再建するために、現地法人に対する出資比率を100%に引き上げた(時期不明)。
円高は構造的で、日本の人件費や原材料費は東南アジアに比べ決定的に高くなっている。輸入木材を買うとしても商社などが間に入るから入手するときは相当に高くなる。これじゃ、日本人は欧米よりも2倍も3倍も高い家具を買うことになる。なんとしても安い家具をウチが提供しなければ。そんな使命感に燃えていたんですよ。
2005年にニトリは完全子会社である「マルミツ(2011年にニトリファニチャーへ商号変更)」を通じて、ベトナムでの現地生産を開始した。ニトリとしてはインドネシアに次ぐ家具の生産拠点として人員の大量採用を実施。2020年度末時点で従業員数約9000名を抱えるニトリの主力生産拠点となった。
ベトナム工場の拡大に伴い、ニトリはインドネシアの現地生産については2017年に停止。東南アジアにおける家具の主な生産拠点について、ベトナムに集中投資する体制を整えた。
2005年からのベトナム生産によって、ニトリは東南アジアで製造された安価な商品を拡充。ニトリとしては、価格設定を弾力的に行うことが可能となり、2009年のリーマンショック時における値下げを実現する原動力となった。
当社はモノを作るのが主流で、その次に物流が占めており、小売業はメインではありません。割合で見ると、製造業が5割、物流が2割、そして小売業が3割というところでしょうか。製造と物流に力を入れていることが当社の最大の特徴です。自社で物流施設を作り、全て自社リスクを背負って行っています。製造業を充実させたことにより、仕入れなどにかかるコストがかからず、価格設定などを当社主導で自由に設定できることが大きな強みになっています。
2020年12月にニトリはホームセンターを運営する島忠(国内61店舗)に対してTOBを発表。2021年1月に島忠の買収を完了した。取得原価は1650億円であり、ニトリは買収にあたって「のれん」を316億円計上した。
もともと島忠は、DCMとの経営統合の交渉を行なっていたが、ニトリからのTOBを受け入れる形となった。このため、DCMとしては梯子を外された形となった。
ニトリとしては、島忠について「ニトリホームズ」のブランドに変更し、ニトリの商品を取り扱いつつホームセンターの品揃えを維持する方針であったが集客に苦戦。FY2023における島忠事業は、売上高1105億円・セグメント利益21億円に低迷した。
2023年10月の取締役会において「島忠事業における経営課題に関する件」について審議するなど、再建が必要な状況に陥った。2024年3月期にニトリは島忠事業における店舗の減損損失の94億円の計上を決定した。
2023年ごろからの円安ドル高の進行により、ニトリは「円高ドル安」を前提とした海外生産のメリットを享受しきれない状況となった。特に、小売業の展開地域は日本国内に偏重しており、FY2023期末時点で国内822店舗、海外179店舗(うち台湾61店舗・中国大陸95店舗)を展開した。
この結果、円安ドル高への影響を被りやすい状況となっていた。その上で、ニトリでは会社計画の前提としていた為替相場「1ドル=130円」の目論見が外れ、想定以上に円安が進んだことで商品開発や仕入れの前提が崩れた。
ニトリは2023年度の決算で、決算月を2月から3月に変更。翌年の2024年3月期の決算において、前年度の12か月分決算と比較して減収減益となった。これにより、ニトリは36期連続増収増益の記録に終止符をうった。