1967年に似鳥昭雄が札幌市内で似鳥家具店を創業し、1972年の渡米視察で米国との価格差に衝撃を受けて「日本の住まいを豊かにする」を経営理念に据えた。1978年にチェーン化構想を発表してドミナント展開で北海道の基盤を固め、1987年にはプラザ合意後の円高を追い風にインドネシア・ベトナムでの海外生産と独自物流網を構築し、製造から小売までを一貫して手がけるSPA型モデルを確立した。2002年に東証一部上場、2020年に時価総額2兆円を突破し36期連続増収増益を達成したが、円安の進行が「円高前提のSPA」を直撃し、2024年3月期に記録が途絶えた。
歴史概略
第1期: 創業とチェーン化構想(1967〜1993)
似鳥家具店の創業と渡米の衝撃
1967年12月、似鳥昭雄は札幌市内に「似鳥家具店」を開業した。出店予定地の周辺に競合が少ないという消去法で家具業を選んだ創業であったが、同業者の懐疑を押し切り990平方メートルの大型店舗を構えたものの、開業直後に融資が凍結される危機に直面した。1972年3月に株式会社似鳥家具卸センターを設立して法人化を果たしたが、転機となったのは同年の渡米視察であった。
米国の家具店で日本の3分の1の価格で販売されている現実を目の当たりにした似鳥は、帰国後「日本の住まいを豊かにする」を経営理念に定めた。米国並みの低価格を実現するには製造から小売までの一貫体制が不可欠であるとの認識が、のちのSPA(製造小売業)モデルの原点となった。また厳格な人事規律と若手の抜擢を組織運営の基本とし、急拡大を支える体制を早期に構築した。
チェーン化構想と北海道ドミナントの確立
1978年1月、似鳥はチェーン化構想を発表し、札幌市内でのドミナント展開を開始した。特定地域に集中して出店し物流効率を高める戦略であり、物流センターの新設と合わせて北海道内の基盤を固めた。メーカーに対して独自の製品規格を要求し、零細メーカーとの交渉力を確保することで、価格と品質の両面でコントロールを効かせる仕入れ体制を整えた。
1982年の函館進出では既存業者との摩擦が生じたが、ドミナント展開による物流効率と価格競争力を武器に北海道全域への展開を推進した。1989年9月に札幌証券取引所に株式上場を果たし、1993年には本州(東日本)での店舗展開を開始した。北海道での成功モデルを全国に横展開する段階に入ったが、全国チェーンとしての競争力を確保するには、海外生産による原価低減と独自の物流網の構築が次の課題であった。
第2期: 海外生産とSPA型モデルの確立(1987〜2020)
インドネシア・ベトナムでの海外生産体制の構築
1985年のプラザ合意後の円高を追い風と捉えた似鳥は、東南アジアでの生産体制構築に着手した。1987年にマルミツ木工と業務提携して家具部品の輸入を開始し、シンガポールに検品拠点を設置して含水率問題など品質管理の課題に対処した。1994年10月にはインドネシアに現地法人を設立し、部品輸入から完成品の現地生産へと移行した。
当初は合弁形態であったが、労務管理の苦戦を経て完全子会社化による直接管理体制に転換した。この教訓を踏まえ、2004年9月にベトナムで開始した生産は最初から完全子会社方式を採用し、低コストかつ安定した生産体制を実現した。中国の平湖物流センター(2004年)や恵州物流センター(2007年)の新設と合わせて、海外生産・海外物流・国内販売を一気通貫で管理するSPA型のサプライチェーンが確立された。
全国展開と36期連続増収増益の達成
2000年に埼玉県白岡町に関東物流センターを新設し、本州での店舗展開を加速した。2002年10月に東京証券取引所第一部に上場し、2006年には東京都北区に赤羽店(本部併設)を開業して首都圏での存在感を高めた。2008年のリーマンショック時には、ベトナム生産による低コスト体制を原資として「値下げ宣言」を打ち出し、消費者の節約志向と合致して売上を伸ばした。
2010年に持株会社体制へ移行して商号をニトリホールディングスに変更し、2016年には創業者の似鳥昭雄が会長に退いて白井俊之が代表取締役社長に就任した。海外生産と独自物流によるコスト競争力を武器に、ニトリは36期にわたる連続増収増益を達成し、2020年には時価総額2兆円を突破した。「お、ねだん以上。」のキャッチコピーに象徴される価格競争力は、円高とアジアの低賃金を前提としたSPAモデルの成果であった。
第3期: 島忠買収と連続増益の終焉(2021〜現在)
島忠買収とホームセンターへの進出
2021年1月、ニトリはホームセンターの島忠へのTOBを実施し、DCMとの経営統合交渉を覆す形で買収を成立させた。首都圏を中心に展開する島忠の店舗網を取り込むことで、家具・インテリアにとどまらないホームセンター事業への進出を図った。買収後はニトリの商品を島忠店舗に導入するブランド転換を進めたが、ホームセンターと家具専門店では顧客層や来店動機が異なり、商品導入は想定通りには機能しなかった。
島忠の既存顧客にとってニトリの商品は必ずしも求められていたものではなく、ブランド転換による来店客の変化は島忠固有の強みを毀損する側面もあった。結果として減損94億円を計上する事態に至り、異業態の統合における難しさが露呈した。ニトリ本体の出店余地が縮小するなかでの成長手段として島忠買収は合理的に見えたが、買収後の統合プロセスは課題を残した。
36期連続増収増益の終焉と円安の構造問題
2024年3月期、ニトリホールディングスは減収減益を計上し、36期連続増収増益の記録に終止符が打たれた。直接の要因は円安の進行であった。ニトリのSPA型モデルはインドネシア・ベトナム・中国での海外生産を前提としており、円高局面ではコスト優位が拡大する構造であったが、為替が逆方向に動けば海外生産のコストメリットが縮小し、むしろ円建てでの仕入れコストが増大する。
決算月の変更(2月期から3月期へ)を経てもなお減収減益を回避できなかった事実は、為替変動が一時的な影響にとどまらず、ニトリの収益構造に対する構造的な課題であることを示している。「円高前提のSPA」が長年の競争力の源泉であったがゆえに、円安への耐性が相対的に弱い。渡米の衝撃から半世紀を経て確立されたSPAモデルの前提条件が、為替環境の変化により問い直される局面を迎えている。
似鳥昭雄の創業動機は、出店予定地に競合が少ないという消去法的な理由であった。99㎡の小規模店舗から始まり、1971年の北栄店(990㎡)で大型化に踏み出すが、競合出店で融資が止まり夜逃げを検討するほどの危機に陥った。創業期から一貫して「大量仕入れ・大量販売」を志向した点は、後のSPAモデルへの伏線となるが、この段階では仕入れ信用の欠如という零細小売業の壁に阻まれていた。