株式会社名古屋技術センターを設立
創業者の関口氏は大同機工(配電盤の製造メーカー)を経営していたが、技術開発に失敗して会社を倒産させてしまった。そこで起業家として再起を図るために、1974年に名古屋技術センターを設立。関口氏は「技術開発をしない開発はあり得ない」という信念のもと、技術開発だけに特化したビジネスを志向。企業から開発案件を請け負う受託業をスタートした。
客先常駐に参入。三菱重工と取引開始
1977年12月に三菱重工が「航空機プロジェクト」を発足したのに合わせて、メイテックは技術者の客先常駐による派遣ビジネスを開始した。機密性が重要な企業に対して、メイテックの社員を常駐させることで漏洩の問題をクリア。さらに三菱重工との取引が実績となり、大手企業を中心に顧客企業の開拓を進めていった。
その時の戦略は、まず大手の企業に利用してもらう。そうすると名古屋の企業はウチもやろうかということになるんです。特に目をつけたのは防衛産業です。防衛産業というのは、機密の問題を含めて非常に高い技術なんだという感覚が強い。そこにターゲットを絞ったということが、戦略的に的に成功した点ですね。それで社員には客先で設計してもらうことにした。例えば、一番大手が三菱重工の航空機製作所。あとは川崎重工とかの飛行機関連。それからトヨタ関連の一部上々の企業ですね。日本電装であるとかトヨタ車体とか。
子会社日本機械設計を設立
技術的に簡単な設計を扱うための子会社(のちのジエクス)を設立
関西管理本部を新設
全国展開を開始
関東管理本部を新設
社員数1000名を突破
商号を株式会社メイテックに変更
名古屋証券取引所第2部に株式上場
大手企業の家電・自動車の新製品開発(多品種)が活発化したことでメイテックへの受注が増加。業績向上により1987年に株式を上場
社員用のディスコを名古屋市栄に開設
社内研修施設の一環として設置。若者向けの採用広報と人員定着の目的を兼ねた。この頃のメイテックの社員離職率は5%で低い水準
社員数5000名を突破
神戸テクノセンターを新設
教育施設として開業
最終赤字に転落。正社員1/2(約3000名)を削減
バブル崩壊により顧客の製造業は費用削減に舵を切った。メイテックの技術者も契約を打ち切られて大幅な減収へ。固定費削減のために正社員の約半分におよぶ約3000名を削減
1991年バブル経済が崩壊した当時も、6000名程のエンジニアをかかえていたのですが、バブルが崩壊した瞬間に稼動数がガーンと下がってしまい、しかも膨大な借金を抱えていたため、半分の3000人をリストラしなければならないという経験をしました。そういうことをすると、一時的にコストが良くなっても社員のモチベーションが下がり、良い人がいなくなってしまいます。全く経営ボルテージが上がらないわけです。
新卒大量採用を再開。年間2000人規模
景気後転を受けて、理工系の大卒者の採用を強化。数千人規模の大量採用を再開へ
関口社長の社長解任の緊急動議(クーデター)
7月31日の取締役会において、ある取締役が関口氏の代表取締役社長の解任を動議。関口氏(当事者なので決議権なし)以外の全員が賛成。後任の代表取締役社長に元専務の大槻三男氏が就任した。以後、関口氏と経営陣で訴訟問題に至った。
社員の証言によると、社長を解任した直後、関口前社長の部屋をバリケードで封鎖。役員に不利な書類は焼却された、と言われている。また、会社に置いてあった私物は、段ボール箱の中に投げ込まれ、自宅に何十箱も送り付けられてきたという。そればかりではない。社長から非常勤取締役に降格した関口氏は、メイテックの東京本社、名古屋本社の立ち入りも実質的に制限され、1日24時間、常時4人の監視が着いたという。会社の役員に電話をかけても取次ぎが拒否され、同氏の以来で新聞をファックスした女性社員は、それを理由に懲戒解雇されたという話もある。
名古屋地裁が関口氏の請求を棄却
関口氏は社長解任は無効であるとして提訴したが、名古屋地裁は取締役会の決議は有効であるとして請求を棄却した
代表取締役社長に西本甲介氏が就任
西本氏は関口社長時代の社長室出身。2014年まで社長を歴任。不況期にもリストラをしない会社を目指した
景気変動や、何か苦しい事があってもリストラをしないで乗り越えられる強い会社になるには、エンジニアに成長してもらい、強い理念に立ってもらうしかないと考えました。そして、社員の成長と会社の成長のベクトル合わせを徹底してまいりました。そのおかげかどうかわかりませんが、直近の2008年のリーマンショックの時も稼動率がガーンと下がって厳しい状況になりましたが、おかげさまで6000人のエンジニアを一人もリストラすることもなく乗り越えられました。
3ヶ年の中期経営計画を策定
新Vision21を策定。製造業向けの派遣事業のフルナインナップを目指す
日本DBMを買収
日本ドレーク・ビーム・モリンを買収。再就職支援とキャリア研修軸に事業展開しており、不況期の収益源になることを期待した
日本DBM関連で約25億円の特別損失
製造業を中心とした日本経済の好調により、逆に再就職支援事業で苦戦。25億円の特別損失を計上
11期連続増収
2007年までは製造業の好調により売上を拡大。売掛金ベースの取引先は、パナソニック、三菱重工、セイコーエプソン、デンソー、キヤノンであり、製造業からの引き合いが強かった
最終赤字9億円。非稼動社員2300名
リーマンショックにより顧客の自動車など製造業との契約が縮小して非稼動社員が2300名に。売上の大幅減少により赤字に転落。売上1000億円目標も撤回へ
増収基調に回帰
景気回復により非稼動社員が最悪期の2300名から800名へと大幅に減少。増収増益基調に回帰
過去最高収益
自動車向けなどが堅調。リーマンショックの最悪期から立ち直る
自己株式の取得
売上高1000億円を突破
自動車向けの技術開発の活発化で人員稼動が好調。10年前の2010年の達成目標だった「売上高1000億円」について、10年越しで達成へ
減収減益へ
コロナの蔓延により非稼動人員が増加。一時的な減収減益へ
自己株式の取得
増収増益に回帰するも採用難に直面
理工系人材の採用熱によりメイテックの新卒採用計画は未達へ(計画874名・実績804名)