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歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ

創業地愛知県名古屋市
創業年1974
上場年1987
創業者関口房朗
現代表上村正人
従業員数13,190

知恵・設計を売る軽量モデル独立系・個人創業ニッチ・大手の手薄を突く1974年、配電盤メーカー大同機工を技術開発の失敗で倒産させた関口房朗氏が、名古屋で株式会社名古屋技術センターを資本金100万円で創業した。当初は産業機械の設計受託業だったが、1977年に三菱重工業の航空機開発で転機が訪れる。機密性が高く外注では情報が漏れる案件に対し、関口氏は技術者を客先に常駐させる派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む取引を成立させた。この常駐派遣という新事業を皮切りに、製造業大手を固定顧客とする正社員型エンジニア派遣が育っていった。

雇用維持・社会的配慮を優先専業集中・一点突破バブル崩壊後の1993年、メイテックは顧客の研究開発費削減で契約を打ち切られ、最終赤字に転落して正社員約半数の3000名を削減した。人を商品とする派遣業の脆さが数字で表れた事態で、これが1997年の取締役会クーデターによる関口氏解任の伏線にもなった。専門経営者へ移った新体制は「不況期にもリストラをしない」を方針に掲げ、リーマンショック期の2010年に非稼動社員2300名と最終赤字9億円を抱えながらも雇用を維持して貫いた。

メイテックグループホールディングス:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY03
FY05
FY07
FY09
FY11
FY13
FY15
FY17
FY19
FY21
FY23
FY25
FY27
FY29
西本甲介
代表取締役社長
國分秀世
代表取締役社長
上村正人
代表取締..
歴代社長
FY99
FY00
FY01
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FY03
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FY05
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FY19
FY20
FY21
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FY23
FY24
西本甲介
代表取締役社長
國分秀世
代表取締役社長
上村正人
代表取締役社長
メイテックグループホールディングス:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
有価証券上場規程第15条該当のため名古屋証券取引所市場第一部の上場廃止2009
第三者割当増資の引受によりアポロ技研株式会社を子会社化2005

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1977年に、設計受託業だった名古屋技術センターは客先常駐の技術者派遣へ転じたのか
A 機密性の高い開発案件は、外注に図面を出せば情報が漏れる恐れがあり、発注側は外部の技術者を社内へ引き入れにくい構造を抱えていた。そこで関口房朗氏は、図面ではなく人を社外秘の枠内に送り込む常駐派遣を提案し、機密の壁を越える取引を成立させた。1977年12月の三菱重工業の航空機開発でこの形が実現し、名古屋技術センターは設計を請け負って外注で返す地場受託業から、製造業大手を固定顧客とする客先常駐型の技術者派遣業へ業態を切り替えた
Q なぜ1997年に創業者・関口房朗氏を取締役会で解任した新体制は、「不況期にもリストラをしない」を方針に掲げたのか
A 人を商品とする派遣業は、顧客の研究開発投資が落ちれば契約が切れ、固定費がそのまま赤字へ化ける。バブル崩壊後の1993年に正社員約半数の約3000名を削減した経験が、創業者一人の判断で社員数を半減・倍増させる経営への取締役会の不信となり、競走馬育成事業をメイテックで手がけようとした関口氏に役員が反発して、1997年7月の解任へ至った。専門経営者へ移った新体制の西本甲介氏は、雇用を景気で振り回す経営との決別として「不況期にもリストラをしない会社」を掲げ、人員調整の脆さを経営トラウマとして社内で共有し直した
Q なぜ2024年から2025年にかけて、財務出身の専門経営者と創業家の長男が持株会社と事業会社で経営を分ける体制になったのか
A 客先常駐の技術者派遣に経営資源を集中して実質無借金・営業利益率14%台の高収益へ達したメイテックは、稼ぎ続ける本業の運営と、積み上がる利益剰余金の配分という性質の異なる二つの課題を同時に抱えた。本業は技術者のキャリア育成を経営観に持つ人を、配分は資本市場と向き合う財務の規律を要する。そこで2024年4月に埼玉銀行出身の上村正人氏が持株会社のグループCEOとして総還元性向100%とPBR3倍未満での自己株式取得を握り、2025年1月には解任された創業者・関口房朗氏の長男、関口晃介氏が事業会社メイテックの社長に就いて、創業家が28年ぶりに技術者派遣本体の経営トップへ戻った

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1974年〜1996年 客先常駐モデルの確立と創業者解任までの23年

売上高と利益率の推移
売上高(億円

倒産経験者が「技術開発しない開発はあり得ない」と立てた受託業

1974年7月、関口房朗氏は資本金100万円で名古屋市に株式会社名古屋技術センターを個人創業した[1][2]。創業者の関口氏は前経営の配電盤メーカー大同機工で技術開発に失敗して倒産させた経歴を持ち、再起の場として技術者派遣ではなく一般産業機械の設計受託業を選んだ。創業時点の事業構想は「企業から設計案件を請け負い、外注ベースで返す」という名古屋圏の地場受託業の体裁を取っており、客先に技術者を常駐させるという後年の主力モデルはまだ表に出ていなかった。倒産で学んだ「技術開発しない開発はあり得ない」という認識が、技術者集団に経営資源を集中する出発点となった。

転機は1977年12月に三菱重工業が航空機プロジェクトを発足したタイミングで訪れた[3]。航空機開発は機密性が高く、外注では情報漏洩のリスクが残るため、発注側は社内に外部技術者を引き入れにくい構造を抱えていた。関口氏は技術者を客先に常駐させる派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む形を実現した[4]。三菱重工との取引が成立した1977年は、名古屋技術センターが受託業から技術者派遣業へ業態を切り替えた転機であり、ここから日本の製造業大手が同社の固定顧客として連なっていく構造の原型が組み上がった。

1979年12月には子会社の日本機械設計(後のジエクス)を設立し、技術的に難度の低い設計を切り出した[5]。1980年4月に関西管理本部、1982年3月に関東管理本部を相次いで設置し、名古屋発祥の企業として珍しく全国3拠点体制を5年で組んだ[6][7]。1982年11月に社員数1000名を突破し、1984年12月に社名を株式会社メイテックへ変更、1987年3月には名古屋証券取引所市場第2部に上場した[8][9][10]。創業から13年で全国展開・上場・1000名超の体制まで成長した背景には、家電と自動車の新製品開発で技術者不足に陥った日本製造業の構造的需要があった。

バブル崩壊で正社員1/2を削減した派遣業の構造的脆弱性

1991年2月、メイテックは東京証券取引所市場第2部に上場し、同年3月には社員数5000名を突破した[11][12]。1992年4月に神戸テクノセンター、1993年3月に厚木テクノセンターを開設し、関西・関東圏の研修拠点を整えた[13][14]。社員用ディスコを名古屋市栄に開設するなど、若手技術者の採用広報と定着策に資金を投じた時期で、社員離職率は5%前後の低水準で推移したと当時の経営陣は説明している[15]。バブル景気下で大手製造業の研究開発投資が拡大し、設計・解析・実験の現場で外部技術者の需要が急増した結果、メイテックの客先常駐サービスは派遣単価と稼動率の両面で上昇局面に入った。

しかしバブル崩壊後の1993年、状況は一変した。顧客の製造業は研究開発費を含めた費用削減に舵を切り、メイテックの技術者は契約を打ち切られた。同年、同社は最終赤字に転落し、正社員の約半数にあたる約3000名の削減に踏み切った[16]。社員数5000名超の体制から数千人を切り離す規模の人員調整は、設備産業ではなく人を商品とする派遣業にとって事業の脆さを露呈する事態であり、顧客企業の研究開発投資が落ちれば固定費がそのまま赤字に化ける構造が浮かんだ。よって派遣業の損益構造は、製造業の景気サイクルに対して非対称な感応度を持つことが数字で確認された。

1996年、景気回復を見据えて理工系大卒の大量採用を再開し、年間2000人規模の新卒採用に踏み切った[17]。1993年の3000名削減と1996年からの2000人規模の連続採用は、3年間で社員数を急減・急増させる極端な人員調整で、契約打ち切りと再採用を3年サイクルで繰り返す派遣業の現実を映した。日本企業の終身雇用慣行が崩れ始める時期、メイテックは正社員雇用と派遣業を組み合わせた中間的な雇用形態として社内外へ説明し直す必要に直面した。だが景気変動に合わせて社員数を半減・倍増させる人員調整が、創業者の判断する範囲で繰り返された事実は、その後のクーデターの伏線でもあった。

取締役会クーデターで終わった創業者・関口房朗氏の23年体制

1997年7月31日、メイテック取締役会で関口社長解任の緊急動議が提出され、当事者として議決権を持たない関口氏を除く取締役全員が賛成した[18]。後任の代表取締役社長には元専務の大槻三男氏が就任し、創業から23年続いた関口社長体制は終わった。創業者がオーナー支配を残したまま代表取締役の地位を失う事例は当時の日本企業では珍しく、1993年の約3000名の人員削減を契機として、経営判断への取締役会の異議が組織化されていた可能性を示唆する。取締役会内で何が議論されたかの公式記録は限定的だが、緊急動議という形式そのものが、合議による段階的な解任ではなく一回の決議で決着させる必要があったことを物語った。

関口氏は社長解任は無効として名古屋地裁に提訴したが、1999年に裁判所は取締役会決議を有効と認め、請求を棄却した[19]。1999年、後任社長には関口社長時代に社長室出身だった西本甲介氏が就任した[20]。1996年から1999年までの3年間、社長解任の動議、訴訟、後任就任を経て、メイテックの経営体制は創業者中心から取締役会中心へ移行した。新体制で西本社長は「不況期にもリストラをしない会社」を経営方針として掲げ、1993年の3000名削減の経験を経営トラウマとして社内で共有し直す姿勢を採った。

経営権が創業者から専門経営者へ移ったメイテックは、2000年に新Vision21と銘打った3カ年の中期経営計画を策定し、製造業向け派遣事業のフルラインナップ化を目指した。客先常駐に加えて、設計受託・技術研修・人材紹介を組み合わせた多面的なサービス体系を整えるという構想で、創業以来の客先常駐単独モデルから抜け出す方向だった。1974年の創業から1996年のクーデターまでの23年間で、メイテックは客先常駐型技術者派遣という日本独自のビジネスモデルを完成させた一方で、景気サイクルと連動する人員調整の脆さも併せて社内に積み残した[21]

1997年〜2022年 「リストラしない会社」の挑戦とリーマン・コロナの波

売上高と利益率の推移
売上高(億円

西本甲介社長の事業多角化と日本DBM買収の誤算

1999年に就任した西本甲介社長は、1993年の3000名削減を再演しない会社作りを経営方針として掲げ、リストラを伴わない事業構造の構築を急いだ[22]。2001年12月にはアイエムエス株式会社を株式取得で完全子会社化し、技術者派遣の上流側を補強した[23]。2003年3月に株式会社メイテックグローバルソリューションズを設立、同年9月には明達科(上海)諮詢有限公司(後の明達科(上海)科技有限公司)を設立し、中国の日系製造業向けの技術者供給に進出した[24][25]。中国進出は単独事業として組み立てるよりも、日本の顧客企業の中国拠点に同じ技術者基盤を供給する付随事業として動かし、日本での顧客関係を中国に延長する形で活かした。

2004年1月、メイテックは日本ドレーク・ビーム・モリン株式会社(日本DBM)を株式取得で関連会社化し、同年10月に株式交換で完全子会社化した[26][27]。日本DBMは再就職支援とキャリア研修を主力とする外資系コンサル会社で、メイテックの狙いは派遣事業が縮小する不況期にも収益を上げられる対不況事業を取り込むことにあった。だが2005年から日本経済は製造業を中心に景気拡大局面に入り、再就職支援の需要は逆に縮小した。2005年には日本DBM関連で約25億円の特別損失を計上、不況期の収益源として期待した事業が好況期に赤字化する誤算が表面化した[28]

2006年から2007年にかけてはパナソニック・三菱重工・セイコーエプソン・デンソー・キヤノンといった製造業大手からの引き合いが続き、メイテックは11期連続増収を達成した。日本DBMの誤算と並行して、本業の技術者派遣は好況期の需要を捉えて伸びる構造が引き続き収益拡大の役割を果たした。2006年4月の株式会社メイテックCAE設立、同年7月の株式会社メイテックネクスト設立など、CADと人材紹介の専門子会社を分社化する子会社群の整備が進み、客先常駐単独の事業構造から、設計受託・人材紹介・研修を含む派遣事業のフルラインナップ化が中盤に差し掛かった[29][30]。2009年5月には日本DBMの大半をテンプスタッフへ譲渡し、不況期事業の取り込みは5年で撤回された[31]

リーマンショックの非稼動2300名と「売上1000億円目標」の撤回

2008年9月のリーマンショックは、メイテックの主要顧客である自動車・電機の研究開発投資を直撃した。2010年3月期、契約縮小により非稼動社員(顧客先に派遣されていない社員)は2300名規模に達し、固定費が売上を上回る赤字構造へ転じた[32]。同年度の最終赤字は9億円となり、それまで経営目標として掲げてきた「売上高1000億円」を撤回した。派遣業は契約打ち切りが起きても正社員の雇用は続くため、非稼動社員の人件費がそのまま赤字に化ける。1993年のリストラ経験を踏まえてリストラしない方針を堅持した結果、固定費負担を全額飲み込む選択を経営陣は迫られた。

2011年からは景気回復で非稼動社員が最悪期の2300名から800名へ3分の1規模まで縮減し、増収増益基調に復帰した[33]。2011年3月にはメイテックグローバルソリューションズを本体に吸収合併し、海外事業の運営機能を本体へ集約した[34]。リーマンショックからの2年間で、メイテックは派遣業のキャッシュフロー耐性と顧客分散の重要性を再認識した。FY11の連結売上高は670億円、経常利益55億円となり、リーマンショック前の水準には届かないものの黒字基調を回復した。2014年4月、西本社長から國分秀世社長へバトンが渡り、同年6月の有価証券報告書では國分社長体制で売上高1000億円目標の再設定が中期経営計画として示された[35]

2016年3月期には連結売上高879億円・営業利益109億円で過去最高益を更新し、リーマンショックの最悪期から黒字基調へ復帰した。2016年11月には自己株式の取得を実施し、株主還元方針として総還元性向80%程度を新たに掲げた[36]。FY15(2016/3期)時点で経営陣はマザーズ・JASDAQ等の新興市場で派遣業の競合が増えるなか、配当と自己株式取得を組み合わせた高い株主還元方針で機関投資家への訴求力を高める方針へ転換した。1993年の大量リストラ・1997年のクーデター・2010年のリーマン赤字という3度の経営危機を経て、メイテックは派遣業のキャッシュフロー特性を活かす株主還元型企業として再定位された。

売上1000億円達成とコロナ禍を貫いた採用・株主還元の二正面

2020年3月期、メイテックは連結売上高1010億円を計上し、2010年に撤回した売上1000億円目標を10年越しで達成した。営業利益129億円・経常利益130億円・親会社株主帰属純利益91億円となり、1974年の創業から46年、技術者派遣単独事業で四桁売上に到達した点で同社の事業モデルの上限の一つを画した。連結社員数は11010名で、稼動人員の生産性向上と研修体制の充実が、リーマン期に「売上1000億円目標撤回」を強いた稼動率問題を反転させた構造的勝因だった。FY19の経常利益率12.9%は派遣業として高水準で、客先常駐モデルの値付け力の高さが業績の安定に寄与した。

しかし2020年から始まったコロナ禍は、再び稼動率問題を呼び起こした。2021年3月期は売上高966億円・営業利益102億円へ減収減益となり、1000億円達成翌期に約44億円の売上後退を喫した。製造業の研究開発費削減は2008年リーマン期ほどの規模ではなかったが、客先のオンサイト常駐モデルそのものがコロナ禍の出社制限と相性が悪く、稼動率と顧客先での生産性の両面で逆風となった。2021年10月には自己株式の取得を実施し、コロナ禍でも株主還元方針を維持する姿勢を示した。リーマンショック期の最終赤字9億円と異なり、コロナ禍では黒字を維持した点で派遣業の景気耐性の進展が確認された。

2022年3月期には増収増益に回帰し、売上高1071億円・営業利益128億円を計上した。だが理工系人材の採用熱は過熱し、メイテックの新卒採用計画は計画874名・実績804名と未達となった[37]。人材を商品とする派遣業にとって新卒採用未達は将来の売上上限を直接縛る課題であり、半導体・自動車・電動化シフトに伴う製造業の人材需要の高止まりが、供給側のメイテックの調達制約を浮かび上がらせた。同年12月には自己株式の取得を実施し、増収増益期の余剰キャッシュを株主還元と人材投資に並走配分する方針を継続した。1997年のクーデターから2022年までの25年で、メイテックは創業者主導から取締役会主導の経営体制へ移行し、リストラなき技術者派遣業の持続可能性を実証する企業として日本の派遣業界に独自の位置を占めた。

2023年〜2025年 持株会社制移行と総還元性向100%への転換

売上高と利益率の推移
売上高(億円

メイテックグループHDへの移行と中期経営計画2023〜2025

2023年4月3日、メイテックは持株会社制へ移行し、商号を株式会社メイテックグループホールディングスに変更した[38]。事業会社の株式会社メイテック(技術者派遣本体)・株式会社メイテックフィルダーズ(紹介事業等)・株式会社メイテックネクスト(人材紹介)・株式会社メイテックキャスト(事務処理代行)・明達科(上海)科技有限公司(中国派遣)等を傘下に束ねるグループ持株会社が誕生し、國分秀世社長は持株会社の代表取締役社長グループCEOとメイテック事業会社のCEO兼COOを兼務した[39]。1974年の名古屋技術センター創業から49年を経て、創業以来初の持株会社体制への移行となった[40]

同時に新「中期経営計画2023〜2025」を始動し、最低配当DOE5%・総還元性向100%(配当性向60%+自己株式取得40%)への利益配分方針転換を明示した[41]。それ以前の総還元性向80%方針から100%への引き上げは、PBR3倍を下回る場合に自己株式取得で対応するという株主還元の自動執行ルールも併せて導入された[42]。2023年3月期の連結売上高は1191億円・営業利益165億円・親会社株主帰属純利益123億円と過去最高を更新し、持株会社化と高い株主還元方針への移行は、過去最高益のキャッシュフローという財務余力に支えられて進められた。FY23には売上高1270億円・営業利益177億円・純利益123億円を計上し、増収増益基調がさらに継続した。

決算説明会資料が示すとおり、株式分割後の1株指標で開示する形式へ移行し、株主の少数買い付けやすさを高めた。FY24には連結売上高1330億円・営業利益188億円・経常利益189億円・親会社株主帰属純利益127億円と、3期連続の過去最高を更新した。連結社員数は13319名で、エンジニアリングソリューション事業の社員数13262名がグループ売上高の99%超を占める単一事業集中型の構造が定着した。創業49年の事業構造は、技術者派遣の客先常駐モデル単独に経営資源を集中する形へ収斂し、多角化を試みた2000年代から純化が進んだ。

グループCEO上村正人氏と「PBR3倍未満なら自己株買い」の自動執行

2024年4月、上村正人氏が代表取締役社長グループCEOに就任し、國分前社長から経営権が引き継がれた[43]。上村社長は1990年に株式会社埼玉銀行(現 株式会社埼玉りそな銀行)に入行し、1999年7月に株式会社あさひ銀行(現 株式会社りそな銀行)企画部、2003年3月に株式会社りそなホールディングス財務部兼株式会社りそな銀行企画部を経て、2007年1月にメイテックグループに経営情報部長として入社した経歴を持つ[44]。銀行・財務畑からの転身組であり、創業者・関口社長体制や1990年代のメイテックプロパーとは異なる経営の出自を持つ。2019年4月から取締役副社長を務めた後の社長就任で、銀行出身の財務専門家がメイテックの経営トップに立つ初の事例となった[45]

上村社長体制でのFY24決算説明会では、総還元性向100%・最低配当DOE5%の見直し議論と、PBR3倍を下回る場合に自己株式取得を実行する方針が再度示された[46]。FY24には自己株式取得を実施せず100%配当を選択した方針も併せて開示され、株主還元の手段選択は配当と自己株式取得の間で機械的に切り替えるルールとして体系化された。決算説明会では新中期経営計画の名称発表に向けた言及もあり、2026年度以降の中期計画への接続が進んでいる。財務専門家の社長就任と機械的な株主還元ルールの組み合わせは、メイテックの株主構成における外国人投資家比率の上昇に対応する経営判断の系列に並ぶ。

2025年3月期末時点の上位株主は日本マスタートラスト信託銀行(17.08%)・株式会社日本カストディ銀行(7.62%)・明治安田生命保険相互会社(6.08%)・STATE STREET BANK AND TRUST COMPANY 505001(5.05%)が並び、信託銀行を通じた機関投資家保有が3割を超える構造で、株式分散と所有・経営の分離が定着した。創業者・関口家は1997年の解任以降の経営参加から長く離れていたが、その間に株式の所有・経営両面で分散と専門経営者化が制度として固まった点が、上村社長就任時点での同社の資本構造に表れている[47]

創業者の長男・関口晃介氏のメイテック社長就任という余韻

2025年1月、株式会社メイテック(事業会社)の代表取締役社長に関口晃介氏が就任した。関口氏は1997年に取締役会クーデターで解任された創業者・関口房朗氏の長男であり、創業者一族が事業会社の経営トップに復帰する28年ぶりの構図となった[48]。持株会社のメイテックグループホールディングスのトップは上村社長が継続する一方で、技術者派遣本体のメイテックの社長に創業者の長男が就く2層構造が成立し、グループ全体は専門経営者・事業会社は創業者系という独特の経営布陣が出現した。日刊工業新聞「さあ出番」(2025年2月6日)で関口晃介社長は「トレンドの変化つかむ」と所信を述べ、エンジニア派遣のキャリア軸の維持と新領域への対応の両立を経営方針として示した[49]

役員会DXガバナンスクラウドのインタビュー(2025年7月22日)で関口晃介社長は「エンジニア一人ひとりの成長がそのまま企業価値につながる『好循環』をつくること」を経営目標として掲げ、人材育成と企業価値創造を循環的に結びつける表現で事業構想を語った[50]。前任の國分前社長が「メーカーの技術職は配属部署の専門家ですが、弊社エンジニアはゼネラリスト。幅広く対応」(PORTERS HRBC Magazine)できると述べた人材論を引き継ぐ形で、客先常駐モデルにおける技術者のキャリア形成支援を経営の中核に置いた[51]。創業者の息子による事業会社経営は、エンジニア育成型派遣業という事業観の世代継承を象徴的に示す人事となった。

連結社員数13319名・連結売上高1330億円・営業利益率14.1%・実質無借金・総還元性向100%という2025年3月期の決算指標は、1974年の名古屋技術センター創業から51年を経たメイテックグループホールディングスの到達点を示している。バブル崩壊・リーマンショック・コロナ禍という3度の主要顧客の研究開発投資縮小局面を、リストラなき派遣業の存続として乗り切った経営の軌跡は、技術者派遣業という日本独自のビジネスモデルが景気サイクルに対する耐性を持ちうることを示した事例として、業界内での独自の位置を占める。今後の中期計画と関口晃介社長・上村社長の2人体制が、創業者系統と専門経営者系統の融合運営でグループの意思決定を担えるかどうかが、次の経営フェーズの主題となる。

出典

決算説明会 2022年度
決算説明会 2023年度
決算説明会 2024年度
決算説明会 2025年度
日刊工業新聞 2025年02月06日
日刊工業新聞 「さあ出番」 2025年02月06日 https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00739219
役員会DXガバナンスクラウド 2025年07月22日 https://www.governancecloud.jp/voice/meitecholdings/

API for AI Agents — 静的アセットのJSONで取得可能。API実行の認証不要

Method Path 概要 メイテックグループホールディングス(証券コード9744)のURL API仕様書
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