重田康光氏の起業と架空契約問題からの再建
取次という商売は、何を扱うかで勝負が決まるように見えて、実際は誰に何をどう当てるかで決まる。光通信が創業からの10年で作ったのは携帯電話の販売網ではなく、商材を載せ替えられる営業の設計だった。訪問先を担当者の勘で選ばせず、電話帳を名簿に変え、相手の機器と契約の期限と反応を記録して次へ回す。そこに積まれたのは商品の知識ではなく、誰がいつ買い替えるかという順番の情報である。順番の情報は商材に縛られない。だからこそ第二電電の契約が細ったとき、光通信が失ったのは取次先であって仕組みではなく、組織を携帯電話中心へ切り替えるだけで足りた。市外電話でも複写機でも携帯電話でも、同じ名簿と同じ記録の運用が働いた。
同じ設計は、売上を積むほど現場に負荷を掛ける構造でもあった。誰を訪ねるかを絞る運用は、訪ねた結果が数字で残る運用と一体であり、数字が残れば人の序列もそれで決まる。33等級の給与表と毎月の異動は、成果で人を入れ替える装置であり、同時に成果の出ない者を残さない装置でもある。平均年齢が25.9歳にとどまったのは若い会社だったからというより、入れ替えが速かったからだと見るほうが筋が通る。そして1999年に未公開株へ向かった資金は、営業で積んだものを別の資産へ移すことに、この会社に抵抗がなかったことを示す。設計の汎用性は、商材を替える力であると同時に、事業から離れる力でもあった。
1988年2月、重田康光氏は資本金100万円で光通信を設立した。事業目的はOA機器と電話機の販売とリース、重田氏は23歳だった。電気通信事業の自由化で電話機の販売が新規参入に開かれ、重田氏はその一社で働きながら規制緩和のなかに商機を見た。弁護士の父と兄を持ち、高校のころには事業家を志していたが、巣鴨高校を出た2年間はアルバイトとパチンコに費やし、日本大学経済学部へ入ってすぐ中退した。日本電信電話の民営化の報道から、通信が伸びると判断し、事業はホームテレホンの訪問販売から始め、半年後に第二電電の代理店として市外電話の回線販売に入った。1990年4月に複写機とファクシミリ、1991年11月にコンピュータと周辺機器を加え、1994年の売上高は約100億円に達した。
訪問先を担当者の勘で選ばせないため、名簿には日本電信電話の電話帳に載る約530万社を使った。営業担当は名簿に沿って電話で訪問の約束を取り、訪問先のOA機器・通信会社名・リース期限・反応を記録して次へ回した。市外電話の担当者には顧客の国際電話の利用量を記録させ、国際電話の担当者は利用の多い会社だけを回った。複写機は3年以上使い、買い換え時期に来た相手だけを訪ねた。訪問の量ではなく誰を訪ねるかを絞る設計であり、受注した相手は画面から消えて二度目の営業が生じなかった。複写機の販売は1995年1月の月間250台から、1年ほどで月間1,000台超の勢いへ伸びた。運用を支えたのは、従業員650人へ1,300台のパソコンを配った情報基盤だった。
最大の成果が出る配置へ置き替えるため、人事異動は毎月行われ、営業成績しだいで平社員から統括部長級まで上がった。学歴は事実上問わず、高校卒も大学院卒も33等級の給与表の最下位から始めた。役員から降格した者も2人おり、昨日の部下が翌日に上司となる事態も起きた。企業向けの営業担当は朝8時過ぎから夜10時か11時まで働き、休日出勤も多かった。人事を貫いたのは『目標に対して最も成果の上がる組織、仕組みとは何か』という問いで、適材適所こそ最大の成果を生むという結論に立った。降格しても力を見せれば復活でき、一度の失敗で差別しない敗者復活も置いた。毎月の入れ替えを重ねて組織は一般社員・管理職・役員・社長の4階層にとどまり、1995年11月末の平均年齢は25.9歳だった。
1993年後半、光通信は第二電電・国際デジタル通信の取次とOA機器販売が中心の組織を携帯電話中心へ切り替え、社員を集中投入した。取次の対象は順に広げ、1992年12月に国際電話、1993年6月に携帯電話の回線販売事業を本格化していた。切り替えを促したのは、日本電信電話が長距離通話料金を値下げし、第二電電の料金優位が薄れて契約が激減したことだった。携帯電話の新規加入は1995年3月までの1年間で220万台に達し、1979年のサービス開始から1994年3月までの累積加入台数に匹敵した。それでも切り替えを決めた時点で、爆発的な普及を予想する声はほとんどなかった。主力の交代は売り方の交代も伴い、訪問販売から店頭販売へ軸足が移った。
出店の速さを支えたのは、テナントを決める権限を現場へ置いた設計である。保証金3,000万円の物件でも中途入社1年目の社員が決め、統轄部長が現地を見て5分で決裁することもあったという。1994年4月に携帯電話機器へ売切り制が入り、光通信も端末の販売を始めていた。ツーカーセルラーとデジタルホンの2グループが参入し、販売価格は急落して加入料と通話料の値下げも相次いだ。在庫リスクと利幅の縮小が販売業者を襲い、東京デジタルホンは1次代理店を約300店から200店程度へ絞った。苦情処理の煩雑さを嫌って代理店をやめる例も多かった。撤退が続く局面で光通信は逆に踏み込み、1994年5月に新宿区で第1号店を開いて毎週1店舗の速さで出店を重ねた。
1994年10月、光通信は組織を変えて卸部門を新設した。売切り制の開始から半年、価格は当初の半値の5万円前後まで下がり、さらに安く売る量販店が現れていた。同年9月初め、首都圏の営業担当が『今日、ある家電量販店が携帯電話を安売りしているのを見た』との情報を電子メールで全社員へ流した。2日後にはプロジェクトチームを組み、量販店の攻略を決めた。卸業の経験はなく、ノウハウ集めも市場調査もしなかった。販売奨励金は量が多いほど有利で、通話利用料に比例する継続手数料も積み上がり、量の確保が低価格と両立した。契約する量販店は3カ月で約70社に達し、1995年には携帯電話販売の約3分の2が量販店経由となった。1995年8月期の売上高は261億1,900万円に伸びた。
端末価格が下がっても収益が続く形を、キャリアからの手数料の受け取り方で作った。契約を獲得した段階の受付コミッションと、継続して受け取る変動コミッションである。変動ぶんは通話料金への比率などで算出され、費用を伴わずに長期にわたって入るため収益を安定させた。受付ぶんは仕入単価と対にして価格を決め、単価が下がっても収益がそのぶん落ちる形にはしなかった。この手数料は業界の1次代理店すべてに共通したが、当初から重要な収益モデルととらえた点が他社と違った。商材も広げ、1995年5月にビジネスホン、同年7月にPHSの取次と端末販売を始めた。携帯電話とPHSの月間販売台数は1994年9月の約4,000台から、1996年2月に6万台へ積み上がった。
1996年2月、光通信は株式を日本証券業協会へ登録し、店頭公開に踏み切った。売切り制の導入から2年半で販売店は全国に約300店を数え、1998年8月には540店へ広げる計画だった。売上高の約8割は携帯電話とPHSの販売で、残りは企業向けの加入取次とOA機器が支えた。公開時の社長として31歳の重田氏は最年少記録を更新し、翌期に1,000億円企業となった32歳も史上最年少だった。約300店から1,500店へ出店を積み増す速さを支えたのは、公開で得た信用だった。売上高は1995年8月期の261億円から1996年8月期に560億円、1997年8月期は1,022億8,000万円の見込みへ伸び、1999年5月には携帯電話の販売店舗が全国で1,500店に達して、株式は東京証券取引所市場第一部へ上場した。
1999年8月期の有価証券報告書には、クレイフィッシュへの8億2,865万円のほか24社の国内ネットベンチャーへの出資が並んだ。1998年9月にレンタルサーバー事業を本格化しており、通信の取次以外へ収益源を広げる動きは前年から始まっていた。1999年8月期の売上高は2,592億円、当期純利益は98億8,000万円だった。株式を公開した1996年8月期の560億円から3年で4倍を超えた。同じ年に株価は大幅に値上がりし、その背景にはインターネットと携帯電話への投資家の期待の高さがあった。回線の取次で積んだ資金を未公開株へ向ける構えが、次の10年の損益を大きく揺らす起点となった。
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| 1988〜1999年通信自由化に乗った販売代理と、携帯電話が開いた急拡大 | 重田康光 | 通信自由化を機とした創業と、後の主力となる販売手法の設計 1988年2月、重田康光氏が資本金100万円で光通信を設立した経営判断。設立の目的はOA機器・電話機等の販売及びリースで、半年後の7月には市外電話サービスの回線販売事業を始めている。NTT民営化に始まる通信自由化が生んだ回線取次という商機に、猛烈な訪問営業と徹底した実力主義人事を組み合わせた営業モデルを、創業時から設計思想として組み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | |
| 重田康光 | 市外電話サービスの回線販売事業に参入 | ★ | ||
| 重田康光 | 複写機・FAXの販売開始 | ★ | ||
| 重田康光 | コンピュータ機器の販売開始 | ★ | ||
| 重田康光 | 国際電話サービス回線販売事業を本格化 | ★ | ||
| 重田康光 | 携帯電話サービス回線販売事業に参入 | ★ | ||
| 重田康光 | 携帯電話の売切り制移行を機とした販売代理店事業への本格参入とコミッション収益モデルの確立 携帯電話がレンタルから売切り制へ移った1994年4月、光通信は携帯電話機器の販売を開始し、翌5月に東京都新宿区へ携帯電話販売ショップHITSHOPの第1号店を開店した。直営店とチェーン加盟店の二本立てで店舗網を拡大し、1995年7月時点で直営22店・加盟28店、同年12月末には加盟店を含め全国79店舗となった。 1997年4月には全国約300店、1998年8月に500店、1999年5月には1,500店へ達する。端末の利ざやではなく、契約者の通話料金に連動して継続的に入るコミッションを収益源に据えた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 重田康光 | ビジネスホンの販売を本格化 | ★ | ||
| 重田康光 | 簡易型携帯電話(PHS)サービスの取次・端末販売を開始 | ★ | ||
| 重田康光 | 株式を日本証券業協会に登録(店頭公開) | ★ | ||
| 重田康光 | レンタルサーバービジネスを本格化 | ★ | ||
| 重田康光 | ネットバブル期に膨らんだベンチャー投資と、その後始末に追われた経営の混乱 携帯電話小売の急成長で潤沢な資金と高い株価を得た光通信は、1999年3月にクレイフィッシュを子会社化し、翌2000年3月に東京証券取引所マザーズへ上場させた。ネットバブルが崩れると出資先の価値は急速に痩せ、2000年8月期には投資損失引当金103億円を計上している。 本業のHITSHOP架空契約問題と同じ時期に投資も行き詰まり、2001年3月、重田康光社長は私財100億円を拠出して収拾を図った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 重田康光 | 東京証券取引所市場第一部に株式上場 | ★ | ||
| 2000〜2004年HIT SHOPの架空契約問題と負債圧縮、複写機営業の強化と黒字転換 | 重田康光 | 契約実態のない売上計上の露見を受けた携帯電話小売からの撤退 2000年3月、携帯電話専門店HIT SHOPのフランチャイズ店で架空契約「寝かせ」が発覚した。前年9月に東京証券取引所市場第一部へ上場したばかりの光通信の株価は20日連続のストップ安を記録し、国内のネットバブル崩壊の引き金となった。1999年5月に全国1,500店まで膨らんだ店舗網は不採算店のリストラで削られ、2003年3月には470店へ縮小する。売上高は2000年8月期の3,166億円を頂点に、7か月間の変則決算となった2002年3月期には710億円まで減少した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 重田康光 | 有利子負債の圧縮開始 | ★★ | ||
| 重田康光 | 決算期を8月から3月に変更 | ★ | ||
| 重田康光 | 保険取次販売事業を本格化 | ★★ | ||
| 玉村剛史 | 社債償還危機下の有利子負債圧縮と収益源の入れ替え ITバブル崩壊で携帯電話販売が失速した光通信は、2002年から2003年にかけて不採算店舗を整理し、収益源を携帯電話の受付コミッションからOA機器などの自社商材へ組み替えた。2003年3月、携帯電話販売ショップは不採算店舗のリストラで全国470店舗まで縮み、代わって複写機を売る法人事業の営業所が全国22ヶ所に立った。この期の連結売上高は124,105百万円、経常利益は3,403百万円、当期純損益は7,922百万円の赤字である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 玉村剛史 | 代表取締役2名体制を採用 | ★ | ||
| 玉村剛史 | 重田康光氏が会長に就任 | ★ | ||
| 玉村剛史 | 最終黒字に転換 | ★ | ||
| 2005〜2017年保険取次と自社商材への転換、エフティグループ・ウォーターダイレクトの買収と電力参入 | 玉村剛史 | 自社商材の販売を本格化 | ★ | |
| 玉村剛史 | 本社を池袋に移転 | ★ | ||
| 玉村剛史 | エフティグループを子会社化 | ★★ | ||
| 玉村剛史 | ウェブクルー社を買収 | ★ | ||
| 玉村剛史 | 中小企業向け営業チャネルに水・保険・電力を載せ替える多品目化 2014年12月から2015年2月にかけて、光通信は保険比較サイトのウェブクルーと宅配水のウォーターダイレクトを相次いで子会社化した。ウェブクルーは公開買付けで議決権90.87%を得て、取得原価13,920百万円に対し10,353百万円ののれんが生じた。ウォーターダイレクトは2015年2月に子会社化し、宅配水事業に配分されたのれんはIFRS移行日で1,960百万円だった。連結子会社は前期末の134社から174社へ増え、総資産はのれんの計上等により前期末比54,536百万円増の393,352百万円となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 玉村剛史 | 販売品目の構成変更 | ★ | ||
| 玉村剛史 | 電力事業に新規参入 | ★ | ||
| 玉村剛史 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 2018〜2026年時価総額1兆円とシック・HDの完全子会社化、HTBエナジー買収と過去最高益 | 玉村剛史 | 本業で積み上げたストック利益の、上場株の長期保有への振り向け 2019年3月期、光通信が持つ株式は、純投資目的が452銘柄・1,771億円、純投資目的以外が225銘柄・17億円となった。純投資はすべて上場株で、前期の372銘柄・1,088億円から一年で積み増している。純投資目的以外はすべて非上場株で、上場株は1銘柄も残っていない。 同じ期に、フルキャストホールディングス485万株(114億円)、パシフィックネット26万株(2億円)、日本テレホン31万株(1億円)の3銘柄を、保有目的を純投資目的以外から純投資目的へ変えている。上場株を持つ理由は利益を得ることだ、という整理が数字の上で完結した期にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |
| 玉村剛史 | アクトコールを子会社化 | ★ | ||
| 和田英明 | 和田英明氏が代表取締役社長に就任、玉村剛史氏は取締役副会長へ | ★★ | ||
| 和田英明 | さくら損害保険が損害保険免許を取得 | ★ | ||
| 和田英明 | 上場子会社を完全子会社化してグループに取り込む資本政策 2022年1月18日、光通信は完全子会社のHCMAアルファを通じて、議決権の51.85%を持つ東証マザーズ上場のシック・ホールディングスへ公開買付けを行うと決めた。1株730円で買い付け、応募は10,760,299株に達して株券等所有割合は95.42%となり、同社は2022年4月12日に上場廃止となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田英明 | 東京証券取引所一部からプライム市場へ移行 | ★ | ||
| 和田英明 | 電力取引価格が高騰し新電力が退くなかで電力小売を買い増した判断 2022年、光通信の子会社HBDが、電力事業を営むHTBエナジーを取得した。電力取引価格の高騰で採算が崩れ、事業から退く会社が相次ぐなか、光通信は電力を買い増す側に回った。支払った対価は引き受けた純資産を下回り、2023年3月期に割安購入益3,327百万円がその他の収益に立っている。同じ期、電力小売の中核である子会社ハルエネは売上高114,988百万円に対して当期純損失5,151百万円を出し、純資産は5,819百万円のマイナスだった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 和田英明 | 報酬委員会・投資監査委員会を新設 | ★ | ||
| 和田英明 | 過去最高益 | ★ |
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事実根拠:出所(光通信)