1957年に佐川清氏(佐川急便の創業者)は、京都〜大阪において徒歩で荷物を運ぶ飛脚業に従事した。すでに、佐川清氏は京都で土木建設業である「佐川組」を経営しており、輸送業への参入によって事業の多角化を図った。
当初は徒歩だったものの、まずは自転車、次にオートバイを導入するなど、荷物輸送の効率化を図っていった。
なお、佐川清氏の出身地は不明だが、創業期は京都を拠点として活用しており、佐川急便の実質的な創業地と言える。また、土木建設業が祖業である経緯から、地元政財界で幅を利かせて飛脚事業を有利に展開できた可能性もある。
佐川清氏は、トラック運送会社として本格展開するために、1962年に株式会社として佐川急便を設立した。
当時のトラック輸送業界では、西濃運輸のように「大阪〜大垣〜名古屋〜東京」という定期ルートを開設して、大企業向けの大口荷物を請け負う方式が一般的であった。
一方で、佐川急便は「飛脚」のビジネスを踏襲して、小口荷物を扱い、料金は高めな設定であるものの、確実に荷物を届けることで顧客からの信頼を獲得していった。当時の小口配送は、国鉄や郵便局によるものが主流で、配送時間や確実な輸送といった面で多くの課題が山積していたため、佐川急便が台頭するチャンスがあった。
ただし、佐川急便の輸送料金は相場より高いことから、運輸省が規定する輸送料金に抵触するとして、グレーな扱いとされていた。
なお、顧客は「高くても確実に届けてくれる佐川急便」に納得しており、佐川急便の正当性を訴える顧客もいたという。当時は効率の悪い小口荷物を積極的に扱おうとする運送業者がなかったこともあり、佐川急便の取扱量が増加していった。1980年代に宅急便(こちらはCtoC向けの毛色が強い)を開発したヤマト運輸が台頭するまでは、小口配送は佐川急便の独壇場であった。
運賃が高いにもかかわらず荷主は一向に減らず、逆に増加している。荷物が増えすぎるため、抑止の意味もあって昨年7回ほど改定したが、相変わらずの活況だという。日消連のやり玉に上がりそうな料金だが、荷主は全く不満を示さない。日消連対策として、荷主から佐川急便の必要性、正当性を認める署名約6万通が、佐川急便グループの統括本社ともいうべき清和商事に集められているのを見ても、その人気の根強いのがわかるし、同時に荷主が公運賃を払っても、良質のサービスを求めているのがわかる。
佐川急便は順調に業容を拡大し、1973年に売上高100億円を突破した。2年後の1975年時点で、トラック1,000台を稼働する関西有数の地域輸送会社に発展した。
利益額は不明だが、佐川急便は小口荷物を割高の輸送量で請け負うビジネスをしており、十分確保していたと推察される。これらの利益は、創業家による美術館の開設という正の側面もあれば、反社会的勢力への資金供与にも流れた(1992年の佐川急便事件による発覚)という負の側面の疑惑もあり、将来に禍根を残している。
まずは関西を起点とした西日本において拠点を拡充した佐川急便は、トラック輸送の発展を目指して全国展開を急いだ。トラック運送業は運輸省による許認可制であり、新規参入を自由に行うことが難しかった。そこで、佐川急便は全国に点在する点在する認可済みの運送会社を買収し、子会社化する事によって全国の路線網を作り上げることを目論んだ。
佐川急便の全国展開の特色は、日本の9つの地域において子会社を設立し、それぞれが独立採算によって損益を明確にする「ブロック制」という仕組みを採用した事にある。地域子会社にとっては損益が明確になることから、業績を向上させる意識が生まれた。
1974年に佐川急便は東京地区への進出のために渡辺運輸を合併し、統括する子会社「東京佐川急便」を設立。全国展開を目指して、大市場である首都圏の攻略を目論んだ。
また、1980年代までにセールスドライバーの制度を導入し、ドライバー自身が、企業に対して荷物需要がないかを聞いて回る営業を兼務した。営業成績をドライバーの報酬に直結する仕組みを採用することで、腕に自信のある社員を確保していった。
このセールスドライバーの仕組みは、小口配送という手間がかかる営業活動をドライバーが兼任する仕組みであり、佐川急便の特色となった。1980年代の佐川急便の中途入社1年目の月収は40〜50万円程度であり、成果が出れば月収100万円も珍しくなかったと言われている。ただし、配送業務と営業活動を一人で兼任することから、長時間労働という問題が発生した。
スピード違反や駐車違反をせざるを得ないような雰囲気。とにかく馬車馬のように働きました。1日15時間労働なんていう日もありました。だから、セールスドライバーは疲れ果て次々に辞めていく。しかし、表向きの高給につられ、補填要因はすぐに見つかった。
1970年代を通じて佐川急便はスピードを重視する方針を打ち出し、午前中の集荷を行う体制を構築した。トラック輸送業界において「午前集荷」では、前日までに荷物の集荷ルートを決定する必要があり、荷物情報の高度な管理が必要であっため、簡単に実現可能なサービスではなかった。
佐川急便では1979年までに午前集荷を軌道に乗せる事によって、小口配送におけるサービス向上を実現した。この背景には1979年から稼働したコールセンターシステムの存在があると推察される。
小口荷物の速配を中心に成長してきた「佐川急便グループ」は、午前中集荷を軌道に乗せた。荷主の出荷構造から見ると、午前中集荷を行うためには生産方式や商取引を抜本的に変えねばならないので、どこまで伸びるかは疑問があるが、トラック業界の長年の懸案であるだけに、同グループの強力な武器となろう。
佐川急便は1日数十万個の荷物を集荷・配送する必要があり、手動によるオペレーションでは限界を迎えつつあった。そこで、1979年から佐川急便はオペレーションの自動化に本格投資を開始した。
コールセンターにNEC製の大型コンピュータ(ACOS)を導入して集荷業務を効率化したり、トラックに対して無線を配備する事によって、集荷・着荷情報を確認できるようにした。また、送り状のデータを自動で読み取ることで、運賃計算を自動化して請求書を作成するシステムを稼働するなど、オペレーション負荷を下げる仕組みの構築に邁進した。コンピュータは本社と各支店に配置することで情報取得を効率化。これらのシステムは佐川急便における「総合物流システム」とされた。
路線会社に見られるような、幹線道路を主体としたロット単位の路線運送システムではなく、小口単位の区域配送システムが営業活動の中心であるため、人件費や輸送コストが余計にかかる。そのため、省力化や情報システム化によ理、コスト削減を徹底的に進めることが必須である。
1983年に佐川急便は売上高2000億円を突破し、トラック約7000台、従業員約9000名、218支店を擁する日本を代表する運送会社に成長した。従業員数も10,000名となる。
1984年の時点で佐川急便における急成長をした地域が東京を受け持つ「東京佐川急便」であった。大口顧客の45%がアパレル企業であり、バブルの好景気とともに荷物量も増加。東京佐川急便は1983年の時点で年率30%の急成長を達成した。
東京佐川急便ではアパレル向けの配送業務に特化した物流センター(品川区勝島1丁目)の新設に76億円を投資する計画を1983年に発表し、引き続きアパレル向けで強みを発揮する方向性を持続した。アパレルは流行り廃りが激しく、小口に主も多いことから、東京佐川急便のような後発企業が参入しやすい構造があった。1980年代のバブル景気によるアパレル企業の活況により、東京佐川急便は急成長を遂げた。
ただし、これらの急成長は、セールスドライバーの過酷な労働環境や、駐車違反などの違反行為が常態化する中で達成されたものであった。
1980年代までに佐川急便は、日本有数のBtoB向けの小口配送企業に発展したものの、株式上場を行う考えはなかった。佐川急便の経営陣は、資金調達はメインバンクである三和銀行からの借入調達で行うことで間に合っていると考え、株式上場によって資金調達するメリットがないと判断した。
1980年代後半になると非上場企業ながらも佐川急便の悪行が目立つようになり行政指導を受けるようになった。
1987年に運輸省は、佐川急便のグループ各社について、道路交通法違反が横行しているとして一斉査察を実施した。
また、労働省が労働基準法違反で佐川急便の各社に対して是正勧告を行うなど、セールスドライバーを主体とする労働環境にもメスが入った。ただし、佐川急便のセールスドライバーは、長時間労働によって月収100万円の報酬も期待できたことから、現場社員の間でも長時間労働の是正には賛否の声が上がったという。
1992年に佐川急便グループの「東京佐川急便」に対して、東京地検特捜部と警視庁による合同の強制捜査がおこわれた。東京佐川急便の渡辺広康元社長と、早乙女常務が主導して、政治家や反社会勢力に数千億円を献金した疑惑があり、両氏は商法違反による特別背任で起訴された。
渡辺氏が献金に走った理由について、真偽は不明だが、佐川急便の近代化を図ろうとした説が存在する。佐川急便は創業者である佐川清氏が経営を牛耳っており、本社から地域子会社への上納金の増額や、グループ内における過酷な労働環境の問題が顕在化していた。渡辺氏は佐川氏を改心させることはできず、政治や反社会的勢力を使って佐川急便の経営を乗っ取る計画を立てていたとも言われている。
しかし、これらの資金供与は違法なものであり、結果として東京佐川急便の評判が低下する事につながった。また、債務保証していた5000億円が回収不能となるなど、財務基盤も危ぶまれた。
東京佐川急便事件を受けて、1992年に創業者の佐川清氏は会長を辞任し、表舞台から姿を消した。
渡辺元社長らの身柄は、近く警視庁に移される見通しである。東京佐川から広域暴力団稲川会の石井進前会長関連の企業グループに流れた約1000億円の資金について、警視庁捜査四課は、旧経営陣らによる債務補償などが特別背任容疑にあたるとみて、爪の操作を急いでいる。
1992年に栗和田栄一氏が佐川急便の本社の社長に就任し、佐川急便のグループ再建に着手した。栗和田氏は佐川清氏の実子であり、実質的な創業2代目であった。ただし、栗和田氏の親である佐川氏とその母は離婚しており、栗和田氏自信は佐川清氏に対して複雑な心境を抱いていたという。栗和田氏が実父に「労働環境の改善」を訴えても、聞き入れられなかった過去があるなど、両者の関係は温和ではなかった。
また、佐川急便は8000億円の有利子負債を抱えたまま社会的信用を失っため、これらの借金を自力で返済する必要に迫られた。以降、1990年代を通じて佐川急便は巨額有利子負債の返済に追われた。
巨額債務を背負った佐川急便ではあったものの、本業の飛脚宅配便のビジネスは収益性が高く、借金の返済の見込みがあったこともあり、メインバンクの三和銀行をはじめ、各銀行は佐川急便の再建計画を認可したものと推察される。
佐川急便グループでは、依然として栗和田社長を中心とする「東京佐川急便」と、創業者である佐川清氏を中心とするの2つの派閥が敵対していた。
2000年に創業者派閥は栗和田社長の解任を提起。栗和田社長は、一旦解任を受け入れるものの、寝返り工作を仕掛けて、直後に社長選任を果たして社長に復帰した。この一連のクーデターを経て創業者サイドの派閥は一掃され、栗和田社長の派閥が佐川急便の経営を牛耳る構造が明確となった。
2002年の佐川急便の売上高は7000億円台であり、成長は低迷しつつも着実に収益を上げたと推察され、有利子負債の返済を継続したと思われる。
2002年には創業家である栗和田氏が会長に就任。2022年の現在に至るまで佐川急便(SGホールディングス)の経営責任者を歴任している。
2006年に佐川急便は大規模なグループ再編を実行し、佐川急便などの各子会社を統括する持ち株会社「SGホールディングス」を発足した。派閥などの負の側面を生んできたグループ企業を整理する事によって、栗和田社長は「普通の会社」になることを目標に据えた。
佐川急便は国内における物流の増加を見据えて、国内に20拠点の大型物流施設を新設する計画を策定した。計画投資額は720億円であり、国内において3PL(顧客企業から荷物管理・検品・梱包などを一括で請け負う)事業を本格化させる布石となった。
2010年時点で佐川急便は国内で55箇所の物流センターを稼働していたが、20箇所を新設するという大型計画であり、通販による荷物の取り扱いの増加を見据えた。加えて、リーマンショックによる不況を受けて、製造業の大企業が物流事業を業務委託することが潮流になることを見据え、3PLへの本格投資を決定した。
2010年代を通じて佐川急便は配送単価が下落気味の国内に大型投資するのではなく、アジアなどの海外展開(国際物流事業)を進めることで増収を目論んだ。佐川急便はインドなどの一部の地域に進出していたが、国際物流ネットワークを形成しておらず、全社対比の海外売上比率も数%であった。
そこで、2013年には「2015年までの2年間に2600億円で企業買収」を行う計画を策定し、主に海外企業の買収計画を策定した。
2013年にはアジア拠点として経済の中心地であるシンガポールに拠点会社を設置し、東南アジアにおける物流企業の買収計画を具現化する動きを始めた。
なお、2013年時点の経営計画では「2016年3月期の営業収益(売上高)1.1兆円」を目標に掲げたが、この目標は未達に終わっている。
2013年にSGホールディングスは荷物の採算管理を徹底するためにシステムを更新し、荷物の配送単価を維持する事に注力した。取り扱い個数に制限を設ける事によって、利益の少ない配送業務を請け負わない方針を全社で徹底した。
この一環として、佐川急便は大口顧客であるアマゾンジャパンの配送業務を抑制する方向に動いた。取扱量が増大する見込みはあったが、アマゾンからの配送料金の価格圧力が凄まじく、佐川急便ではAmazonとの取引を深追いしない方針に舵を切った。この結果、2013年以前の配送単価が460円に対して、アマゾンとの契約打ち切りによって、配送単価は511円まで回復したという。