住友不動産の設立は終戦直後の1949年であり、三井や三菱といった財閥と比べて不動産事業では後発参入となった。財閥系不動産会社のうち、三菱地所は丸の内、三井不動産は日本橋という東京の一等地を確保していたが、対照的に住友不動産は大阪の住友本社を保有するのみであり明らかな劣勢であった。しかも、大阪の経済力は繊維産業の低迷とともに凋落しており、関西でビジネスを行う住友不動産は不利な状況から歴史をスタートさせている。
1960年代を通じて日本経済が高度経済成長期に突入すると、日本の新しい住宅として「マンション」という市場が誕生した。住友不動産は大阪の住友グループの本社が入居するビル賃貸が主力事業であったが、マンション市場の拡大に合わせてこの市場に参入し、1964年に神戸芦屋に「浜芦屋マンション」を分譲した。以降、1960年代を通じて住友不動産はマンションの開発を積極化する
1973年のオイルショックによって住友不動産の経営状況が悪化すると、住友不動産の社長として住友銀行出身の安藤太郎が社長に就任した。以後、安藤太郎は住友不動産の経営再建に従事し、1985年に住友不動産の会長に退くまで、同社の経営に携わった。
オイルショック後の不動産市況の低迷により、大阪を中心に貸しビル業およびマンション販売を手がけた住友不動産は過剰な在庫を抱え、1976年3月期に住友不動産は17億円の経常赤字に転落した。このため業界内で住友不動産は「ボロ会社」と形容された。なお、1976年に住友不動産は大阪ビジネスパークの開発案件から撤退するなど、関西での規模拡大を断念する。
1976年に住友不動産は大阪ビジネスパークの開発案件から撤退し、東京におけるオフィス賃貸ビル事業への集中投資を決断。1983年までに東京で貸しビルを11棟稼働することで収入を確保し、稼働ビル数で1位三菱地所、2位三井不動産、3位森ビルに次ぐ4位に躍り出ることに成功し、大手不動産会社の地位を確保する。なお、東京では日比谷や原宿などの都心部の駅前を中心にビルを建設したが、土地の確保に際しては小規模な再開発を実施している。再開発により土地を創って長期保有する手法は森ビルが実践しており、住友不動産も森ビルに倣って土地開発を推し進めた。現在も住友不動産は都心部一等地における小規模再開発の手法を踏襲している。