東京建物は1896年10月、初代安田善次郎の発起で設立された日本最古級の総合不動産会社である。明治期の住宅資金が個人金融業者頼みだった時代に、月賦建築請負と土地建物担保貸付を組み合わせた仕組みを法人事業として立ち上げたのが出発点で、今日の住宅ローンの原型はこの会社の定款から生まれている。資本金100万円の不動産金融会社が、関東大震災・財閥解体・バブル崩壊を経て総合デベロッパーへと姿を変えた歴史は、ほぼそのまま日本の不動産業の歴史と重なる。
2011年12月期、東京建物は経常損失▲108億円・純損失▲717億円という創業以来最大級の赤字を計上した。そこから10年あまりでマンションブランド「Brillia」・大手町タワー・八重洲再開発・池袋Harezaを積み上げ、2024年12月期には営業収益4,637億円・純利益658億円の過去最高に到達している。1896年の不動産担保金融から2024年の大阪・堂島複合開発まで、東京建物の130年はいつも「資金と土地をつなぐ仕組みを誰が設計するか」という問いで貫かれている。
歴史概略
住宅ローンの原型を作った明治期不動産金融会社(1896〜1940年代)
初代安田善次郎が設計した「月賦建築請負」
東京建物は1896年10月、初代安田善次郎らの発起により資本金100万円で設立された。営業目的は月賦建築請負、土地建物担保貸付、土地建物販売および仲介の3つ。当時は日清戦争直後で都市膨張と工場建設が活発化し、個人住宅需要も増えていたが、住宅金融公庫や銀行住宅ローンは制度として存在せず、市民の住宅資金は個人金融業者に依存していた。取引上の不便と弊害を憂慮した安田善次郎が、法人組織による不動産金融事業の必要性を痛感して設立を主導したのが本社の起点である。
月賦で住宅を建て、土地建物を担保に資金を貸し、不動産を売買・仲介するという事業の組み合わせは、今日の住宅ローン・不動産担保融資・不動産流通の原型にあたる。『1995_日本会社史総覧』は「およそ100年前に、今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型を創り、それを基盤とした不動産業務を生んだ先見性は注目に値する」と評している。1907年9月には東京株式取引所に株式を上場し、旧安田系の中核不動産会社として公開市場で資本を調達する体制が早期に整った。
天津・京城への進出と関東大震災
明治30年代後半から東京建物は海外進出に乗り出した。1903年3月に天津支店を開設し、政府要請で日本専管居留地の払い下げを受けて、居留民住宅の建設や電力供給事業など居留地インフラ整備を担った。1912年5月には京城支店を開設している。明治期の不動産会社としては異例の海外展開で、国家の海外経済政策に組み込まれる形での業務拡大でもあった。
1923年9月の関東大震災は東京建物にも甚大な被害をもたらした。所有建物5棟のほか多数の担保建物を焼失し、家賃収入の減少と貸付金利息の支払い延滞が重なって減益を余儀なくされている。ただし震災復興のための貸付金需要は急増し、建物建設の月賦償却契約も増加したため、収益は次第に改善していった。1929年11月、東京駅東側の八重洲口に「東京建物本社ビルディング」が竣工している。震災復興期に建てられた当時最新のインテリジェントビルは、後の八重洲エリア開発の象徴として長く同社の顔となった。
戦時統合とGHQ財閥解体
昭和10年代、東京建物は旧安田系の不動産機能を束ねる役割を強めた。1937年3月に満州興業、1939年10月に臨港倉庫、1943年10月に安田ビルディング、1944年3月に横浜機橋倉庫を相次いで吸収合併している。戦時下の経済統制のなかで、旧安田系の不動産・倉庫機能を一つの会社に集約する統合が進められた形である。
終戦後、東京建物はGHQの財閥解体指令のもとで制限会社に指定され、業務全般について厳しい統制を受けた。不動産事業そのものも低迷していたが、同社は建設事業への進出で難局を支え、企業体制を徐々に整備していった。1949年5月には東京証券取引所に株式再上場し、1952年9月の宅地建物取引業者免許取得、1956年3月の一級建築士事務所登録と、戦後制度の枠組みにあわせて事業の再整備が進んだ。旧安田系の不動産金融会社から総合不動産会社への再出発は、この統制解除と制度整備の過程で準備された。
総合不動産会社への再出発とマンション分譲・超高層ビル(1958〜1990年代)
1958年からの再出発と4事業体制
戦後の混乱と統制を経た東京建物は、1958年から1959年にかけて不動産の売買・宅地造成・不動産賃貸・仲介鑑定の4事業を柱に総合不動産会社として再出発した。1958年3月の旧東京建物本社ビル新館増築工事の竣工は、戦後のビル事業本格化の起点として位置づけられる。以降、都心部を中心にビル賃貸事業が拡大し、1962年の新宿ビル(現小田急ハルク)竣工、1964年の区分所有ビル第1号となる横浜ビル竣工と続いていった。
宅地造成事業の最初は別荘地分譲だった。戦前からの所有地を活用した湯河原で1959年に売り出しを開始し、那須でも1960年から計画を進めて1963年に売り出している。都市の住宅事業と並行して別荘地開発を早期に手がけた点は、後のリゾート事業や1988年のホテル・レジーナ河口湖開業まで続く長い系譜の出発点となった。1963年8月には府中市中河原で住宅地開発を本格化し、住宅事業の戦後リスタートが切られている。
「藤沢マンション」から「Brillia」へ ── 住宅分譲の系譜
東京建物のマンション分譲は1968年9月、藤沢市での分譲開始が起点である。大衆マンションブームのただなかで、同社の供給するマンションは即日完売物件が相次いだ。1972年には川越市等で約700区画の「東建富士見ハイツ」、1977年には1,046戸の座間ハイツと、大規模分譲地を続けて手がけている。1980年5月には東建住宅サービス(現東京建物不動産販売)が営業を開始し、販売機能が別会社として独立した。
マンション事業はその後、2003年4月にブランドを「Brillia(ブリリア)」に統一することで、プロダクトとしての輪郭を明確にした。2013年10月の「Brillia多摩ニュータウン」、2015年3月には日本初の区本庁舎一体型高層マンションとなる「Brillia Tower 池袋」が竣工している。区本庁舎と民間分譲マンションの一体開発は、PPP(官民連携)型の再開発手法として注目され、再開発と公共施設整備を同時に担う仕組みを確立した。
新宿センタービルから海外再進出まで
1973年の石油危機を乗り越えた後、昭和50年代は東京建物が総合不動産会社として体制を確立する時期になった。1977年の座間ハイツ分譲、1979年11月の新宿センタービル竣工と大型案件が続き、超高層ビル建設による都市開発の大きな足跡となった。1980年5月に東建住宅サービスを設立、1984年11月に共同ビル管理(現東京建物不動産投資顧問)を設立し、住宅販売・ビル管理・投資顧問と機能別の子会社群を育てている。
昭和60年代に入ると、リゾートホテル・海外の動きも加速した。1988年7月のホテル・レジーナ河口湖オープンでホテル運営に進出し、1990年6月には米国東京建物を設立してロサンゼルスに事務所を置き、海外不動産事業のノウハウ蓄積を再開した。1998年11月にはSPC法(現資産流動化法)の国内第1号登録を取得しており、資産流動化スキームの業界先行としての位置を取っている。1896年の「月賦で家を建てる」から約100年を経て、資産流動化を組み込んだ現代的な不動産金融会社の姿が徐々に整っていった。
2003年〜2024年▲717億円の赤字から過去最高益へ
Brillia統一と大型再開発のパイプライン
2003年4月、マンションブランドを「Brillia」に統一した東京建物は、2000年代後半から都心大型再開発の一翼を担い始める。2007年9月の霞が関コモンゲート竣工を皮切りに、2012年5月の中野セントラルパーク、2013年3月の東京スクエアガーデン、2014年4月の大手町タワー、2015年3月のBrillia Tower 池袋と、ほぼ毎年のペースで都心の大型複合物件を竣工させた。ビル賃貸・マンション分譲・街区開発を一体で手がける総合デベロッパーとしての体制が、物件の連続竣工によって可視化された時期である。
同時期には1998年のSPC法第1号登録を起点に、2000年4月の東京リアルティ・インベストメント・マネジメント設立、2001年2月のイー・ステート・オンライン設立など、金融機能・デジタル機能も子会社として立ち上げている。1896年に月賦建築請負で始まった会社は、100年を経て「物件開発+不動産ファンド+情報プラットフォーム」という複合構成へと再設計された。
2011年12月期の▲717億円 ── 創業以来最大級の赤字
2011年12月期、東京建物は経常損失▲108億円・純損失▲717億円という大幅赤字に転落した。直前期までは数十億円〜百数十億円の純利益を計上していた同社にとって、この損失幅は創業以来最大級の水準にあたる。同時期に保有資産の減損会計処理が進んだ局面で、長期に保有してきた物件の含み損が一度に実現したかたちとなった。
この赤字は単発では終わらず、翌2012年12月期からは純利益100億円前後の水準での緩やかな回復基調に入る。2014年12月期は特殊要因で純利益829億円を計上するものの、経常利益ベースでは173億円にとどまり、経常ベースでの本格的な利益回復には数年を要した。2011年の大きな損失は、会社の保有物件ポートフォリオと資金調達構造の見直しを迫る契機となり、その後の大手町・池袋・八重洲といった大型再開発への集中投資へとつながっていく。
野村均体制 ── 「次世代デベロッパー」と八重洲
2016年に野村均が社長に就任し、以降の東京建物は都心再開発を軸とする成長路線に本格的に舵を切った。2020年5月、本社事務所を東京建物八重洲ビルに移転し、同月にはHareza Tower(ハレザタワー)が竣工している。八重洲口は1929年の東京建物本社ビルディング以来の同社の原点にあたるエリアで、約90年ぶりに本社を八重洲に戻したことは、会社の歴史のなかで象徴的な動きになった。
野村は日経ESG(2021/12/16)で「課題解決と成長で次世代デベロッパーへ」を掲げ、日本経済新聞(2023/04/28)では八重洲再開発について「歴史や風情を残す」姿勢を表明した。1896年設立の会社として、八重洲口の戦前・戦後の記憶を残しつつ大規模再開発を進めるという方向付けは、安田善次郎が作った会社の文脈と2020年代の都市再生を結びつける枠組みでもある。2022年12月期には経常利益635億円・純利益430億円、2023年12月期は経常利益694億円・純利益450億円と、利益水準は2011年赤字以前を超える段階に達した。
直近の動向と展望
2024年12月期の過去最高益と大阪進出
2024年12月期、東京建物は営業収益4,637億円・経常利益717億円・純利益658億円と過去最高を更新した。前期比で営業収益は約23%増、純利益は約46%増と大幅な伸びである。同年1月には「ONE DOJIMA PROJECT」(フォーシーズンズホテル大阪・Brillia Tower堂島を一体的に開発)が竣工しており、大阪でのラグジュアリーホテル×タワーマンション複合開発という新しい展開が始まった。Tokyo Tatemono US Ltd.(2023年10月設立)・Tokyo Tatemono (Thailand) Ltd.(2024年2月設立)と海外子会社も相次いで設立されている。
2011年12月期の▲717億円から2024年12月期の+658億円への振れ幅は、絶対額にしても1,300億円を超える改善である。会社規模で見れば営業収益の桁が10年前から1.5倍に拡大しているが、なお三井不動産(売上2兆6,254億円)・三菱地所と比べれば中堅規模であり、大手デベロッパーとの序列は1896年設立以来あまり変わっていない。東京建物の成長は「中堅総合デベロッパーとしての収益の厚み」という線で追求されている。
小澤克人体制 ── 130年目の経営バトン
2024年12月で野村均が社長を退任し、2025年1月に小澤克人が代表取締役社長執行役員に就任した。2025年12月期は営業収益4,745億円・経常利益781億円と、新体制初年度も増収増益で推移している。純利益は588億円と前期から減少したが、これは前期に特殊要因を含んでいた反動であり、経常段階では着実に増益基調が続いている。
小澤体制の課題は、八重洲・日本橋・大手町といった都心大型再開発のパイプラインを継続しながら、大阪・海外にも開発余力を広げていく設計である。2025年6月にはWonderScape株式会社を設立しており、新事業への種まきも始まっている。1896年に安田善次郎が「住宅資金の仕組みを作る会社」として立ち上げた企業は、創業から約130年を経てなお、資金・土地・街をつなぐ仕組みの設計者としての役割を問い直している。