1896年〜 住宅ローンの原型を作った明治期不動産金融会社
- 1896年 東京建物創業——安田善次郎が1社に束ねた月賦建築請負・担保貸付・売買仲介の不動産金融 住宅金融制度のない明治の都市膨張に、銀行家・安田善次郎氏はなぜ月賦建築請負・担保貸付・売買仲介を1社に束ねた不動産金融会社を構想したか
- 1896年 住宅ローンの原型となった割賦販売方式での不動産売買を開始
- 1903年 天津租界地の払い下げを受けた支店開設と、漢口・京城・満州への外地展開 創業から5年で業績が落ちた国内の不動産金融会社は、なぜ清国の租界地に打開の手を求めたか
- 1907年 東京株式取引所に株式を上場
- 1923年 関東大震災で甚大な被害
- 1928年 関口台町分譲地で宅地分譲事業に参入
- 1929年 東京建物本社ビルディング(東京建物ビルヂング)竣工
100年前に住宅ローンの原型を作った安田善次郎の事業設計
東京建物は1896年10月、初代安田善次郎らの発起により資本金100万円をもって設立された。営業目的は月賦建築請負、土地建物担保貸付、土地建物販売および仲介の3つである。日清戦争直後の都市膨張と工場建設で個人住宅需要は伸びていた。だが住宅金融公庫や銀行住宅ローンは制度として存在せず、市民の住宅資金は個人金融業者に依存していた。取引上の不便と弊害を見た安田が、法人組織による不動産金融事業の必要性から旧安田系の人脈と資本を集め、設立を主導した。本店は東京市日本橋区呉服町18番地、翌11月に横浜支店を開設し、首都圏の主要港湾都市を初期から押さえた。 [1][2][3][4][5]
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [1]1896年10月 東京建物を設立(初代安田善次郎らの発起・資本金100万円)
- [2]発起人は初代安田善次郎ら
- [4]営業目的は月賦建築請負・土地建物担保貸付・土地建物販売仲介の3つ
- [5]本店は東京市日本橋区呉服町18番地、翌11月に横浜支店を開設
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]設立時資本金は100万円
月賦で住宅を建て、土地建物を担保に資金を貸し、不動産を売買仲介するという組み合わせは、住宅ローン・不動産担保融資・不動産流通を1社の定款に同居させた設計にあたる。会社史総覧はこれを「およそ100年前に、今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型を創り、それを基盤とした不動産業務を生んだ先見性は、注目に値する」(日本会社史総覧 1995/11)と評している。1907年9月には東京株式取引所に株式を上場し、旧安田系の中核不動産会社として早期に公開市場で資本を調達する体制を整えた。1928年8月には関口台町分譲地で宅地分譲事業を開始し、不動産金融から土地分譲への業容拡大を始めた。設立から約30年で月賦金融・担保貸付・仲介・分譲の4事業の原型がそろった。 [6][7][8]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [6]会社史総覧が「およそ100年前に、今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型を創り…注目に値する」と評している
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [7]1907年9月 東京株式取引所に株式を上場
- [8]1928年8月 関口台町分譲地で宅地分譲事業を開始
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [1]1896年10月 東京建物を設立(初代安田善次郎らの発起・資本金100万円)
- [2]発起人は初代安田善次郎ら
- [4]営業目的は月賦建築請負・土地建物担保貸付・土地建物販売仲介の3つ
- [5]本店は東京市日本橋区呉服町18番地、翌11月に横浜支店を開設
- [7]1907年9月 東京株式取引所に株式を上場
- [8]1928年8月 関口台町分譲地で宅地分譲事業を開始
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [3]設立時資本金は100万円
- [6]会社史総覧が「およそ100年前に、今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型を創り…注目に値する」と評している
天津・京城進出と震災復興期の貸付金需要
明治30年代後半から東京建物は海外に進出した。1903年3月の天津支店開設では政府の要請で日本専管居留地の払い下げを受け、居留民住宅の建設や電力供給など居留地インフラを担っている。1907年1月には天津企業組合を吸収合併し、現地拠点を法人として束ねた。1912年5月には京城支店を開設し、朝鮮半島でも都市不動産業務に着手した。明治期の不動産会社としては異例の海外展開だが、国家の海外経済政策に組み込まれた業務拡大でもあった。天津支店は1945年8月の終戦まで維持されたが、在外資産はほぼ失った。これら海外拠点の喪失は、米国東京建物を設立する1990年6月まで、半世紀近い空白を生む要因となった。明治期に作った海外居留地インフラの蓄積は、戦後はほぼ持ち越せなかった。 [9][10][11][12][13]
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [9]1903年3月 天津支店開設(政府要請で日本専管居留地の払い下げ・居留民住宅建設や電力供給)
- [10]1907年1月 天津企業組合を吸収合併
- [11]1912年5月 京城支店を開設
- [12]天津支店は1945年8月の終戦まで維持され、在外資産はほぼ失った
- [13]米国東京建物の設立は1990年6月(本文の海外空白の終点)
1923年9月1日の関東大震災では所有建物5棟と多数の担保建物を焼失し、家賃減収と貸付金利息の延滞が重なって減益となった。ただし震災復興のための貸付金需要が急増し、建物建設の月賦償却契約も増加したため、収益は改善した。1929年11月には東京駅東側の八重洲口に「東京建物本社ビルディング」が竣工する。震災復興期に建てられた当時最新のインテリジェントビルは、長く同社の顔となった。約90年後の2020年5月、本社再移転先である「東京建物八重洲ビル」へと土地の系譜がつながる。災害で家賃が減るのと同時に、復興資金の貸付需要が伸びる構造は、不動産金融会社という業態の二重性を示している。 [14][15][16]
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [14]1923年9月1日の関東大震災で所有建物5棟と多数の担保建物を焼失、減益となった
- [15]1929年11月 東京駅東側八重洲口に東京建物本社ビルディングが竣工
- [16]2020年5月 本社再移転先「東京建物八重洲ビル」へ土地の系譜がつながる
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [9]1903年3月 天津支店開設(政府要請で日本専管居留地の払い下げ・居留民住宅建設や電力供給)
- [10]1907年1月 天津企業組合を吸収合併
- [11]1912年5月 京城支店を開設
- [12]天津支店は1945年8月の終戦まで維持され、在外資産はほぼ失った
- [13]米国東京建物の設立は1990年6月(本文の海外空白の終点)
- [14]1923年9月1日の関東大震災で所有建物5棟と多数の担保建物を焼失、減益となった
- [15]1929年11月 東京駅東側八重洲口に東京建物本社ビルディングが竣工
- [16]2020年5月 本社再移転先「東京建物八重洲ビル」へ土地の系譜がつながる
戦時統合とGHQ財閥解体下での再出発
昭和10年代、東京建物は旧安田系の不動産機能を束ねる役割を強めた。1937年3月に満州興業、1939年10月に臨港倉庫、1943年10月に安田ビルディング、1944年3月に横浜機橋倉庫を相次いで吸収合併している。戦時下の経済統制のなかで、旧安田系の不動産・倉庫機能が一つの会社に集約され、戦後の不動産事業再開の基盤となる物件ポートフォリオが一体化された。同時に天津支店や京城支店など海外資産の喪失リスクもそのまま引き受けた。終戦を境に資産構成は歪み、残された国内ポートフォリオが戦後再建の元手となる。旧安田系の不動産会社としての性格は、戦時経済統制下で一段と強まった。 [17][18]
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [17]1937年3月 満州興業を吸収合併
- [18]1943年10月 安田ビルディングを吸収合併
終戦後、東京建物はGHQの財閥解体指令のもとで制限会社に指定され、業務全般について厳しい統制を受けた。不動産事業そのものも低迷したが、同社は建設事業への進出で難局を支え、企業体制を整備した。1947年6月に大阪営業所を開設して戦前の関西拠点を再建し、1949年5月に東京証券取引所に株式を再上場した。1952年9月には宅地建物取引業者免許、1956年3月には一級建築士事務所登録と、戦後制度の枠組みに合わせて事業を整え直した。旧安田系の不動産金融会社から総合不動産会社への再出発は、この統制解除と制度整備の過程で準備された。月賦建築請負を出発点とする創業期の事業モデルは、戦後再建期に一度解体され、設計し直された。 [19][20][21][22]
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [19]1947年6月 大阪営業所を開設
- [20]1949年5月 東京証券取引所に株式を再上場
- [21]1952年9月 宅地建物取引業者免許を取得
- [22]1956年3月 一級建築士事務所登録
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [17]1937年3月 満州興業を吸収合併
- [18]1943年10月 安田ビルディングを吸収合併
- [19]1947年6月 大阪営業所を開設
- [20]1949年5月 東京証券取引所に株式を再上場
- [21]1952年9月 宅地建物取引業者免許を取得
- [22]1956年3月 一級建築士事務所登録