| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 837億円 | 80億円 | 9.5% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 935億円 | 83億円 | 8.8% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,048億円 | 94億円 | 8.9% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,124億円 | 105億円 | 9.3% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,256億円 | 129億円 | 10.2% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,350億円 | 143億円 | 10.5% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,474億円 | 154億円 | 10.4% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,538億円 | 161億円 | 10.4% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,856億円 | 184億円 | 9.9% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,918億円 | 205億円 | 10.6% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,588億円 | 225億円 | 4.0% |
| 1995/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,634億円 | 150億円 | 2.6% |
| 1996/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,512億円 | -989億円 | -18.0% |
| 1997/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,591億円 | 383億円 | 6.8% |
| 1998/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,487億円 | 318億円 | 5.7% |
| 1999/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,652億円 | 223億円 | 3.9% |
| 2000/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 5,743億円 | 184億円 | 3.2% |
| 2001/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 6,309億円 | 198億円 | 3.1% |
| 2002/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 6,315億円 | -710億円 | -11.3% |
| 2003/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 6,817億円 | 360億円 | 5.2% |
| 2004/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 6,799億円 | 349億円 | 5.1% |
| 2005/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 7,753億円 | 362億円 | 4.6% |
| 2006/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 8,442億円 | 558億円 | 6.6% |
| 2007/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 9,476億円 | 976億円 | 10.2% |
| 2008/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 7,876億円 | 869億円 | 11.0% |
| 2009/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 9,426億円 | 454億円 | 4.8% |
| 2010/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 10,134億円 | 119億円 | 1.1% |
| 2011/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 9,884億円 | 642億円 | 6.4% |
| 2012/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 10,130億円 | 565億円 | 5.5% |
| 2013/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 9,271億円 | 455億円 | 4.9% |
| 2014/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 10,752億円 | 642億円 | 5.9% |
| 2015/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 11,102億円 | 733億円 | 6.6% |
| 2016/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 10,094億円 | 834億円 | 8.2% |
| 2017/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 11,254億円 | 1,026億円 | 9.1% |
| 2018/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 11,940億円 | 1,204億円 | 10.0% |
| 2019/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 12,632億円 | 1,346億円 | 10.6% |
| 2020/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 13,021億円 | 1,484億円 | 11.3% |
| 2021/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 12,075億円 | 1,356億円 | 11.2% |
| 2022/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 13,494億円 | 1,551億円 | 11.4% |
| 2023/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 13,778億円 | 1,653億円 | 11.9% |
| 2024/3 | 連結 営業収益 / 当期純利益 | 15,046億円 | 1,684億円 | 11.1% |
丸ノ内買収の構造的特質は、市場が採算不可と判断した荒地を政府関係の維持を名目に取得し、30年の歳月をかけてオフィス街へ転換した点にある。東京駅の開業前は入札で落札者ゼロという市場評価が合理的であった。三菱財閥が本業の重工業・貿易の収益で赤字を吸収し続けられたことが超長期投資を可能にした唯一の条件であり、不動産開発における時間軸の設計という観点で極端な先行投資の事例といえる。
丸ノ内は江戸城(皇居)に隣接する土地であり、江戸時代には有力大名の屋敷が連なる一等地であった。明治維新後に大名屋敷は存在意義を失い、明治政府は空き家となった屋敷群を陸軍の兵舎に転用した。ところが1872年(明治5年)に丸ノ内で大規模な火災が発生し、兵舎として利用されていた元大名屋敷の大半が焼失した。以降、丸ノ内一帯は雑草が生い茂る荒地として放置され、売却が検討される時点ではオフィス街とは無縁の焼け野原であった。
1889年に明治政府は陸軍の財政難を解消するため、丸ノ内の売却を決定した。皇居に隣接する土地が細分化されて意図しない人物の手に渡ることを避けるため、広大な敷地の一括売却が条件とされた。最低落札価格は150万円に設定され、これは東京市の年間予算3年分以上に相当する巨額であった。明治政府は三井や三菱を含む5〜6社の有力財閥に購入を打診した上で入札を実施したが、落札者は1社も現れなかった。
落札ゼロの最大の要因は立地条件の悪さにあった。当時、丸ノ内の周辺には鉄道が開業しておらず、交通アクセスが極めて不便な場所であった。1888年の東京市区改正条例により丸ノ内への中央停車場(東京駅)の設置が計画されていたが、開業時期は不透明であった。実際に東京駅が開業するのは1914年であり、入札から25年後のことである。交通利便性の低い荒地に東京市予算3年分の価格が設定されたため、各財閥は採算が取れないと判断した。
落札者不在を問題視した明治政府は蔵相の松方正義を通じて三菱財閥に買収を打診した。当時ロンドンに赴任していた三菱総支配人の壮田平五郎は丸ノ内のビジネス街としてのポテンシャルを評価し、電報で三菱本社に買収を提案した。三菱の主力事業は貿易・鉱山・金融・重工業であり、日本政府を主要顧客として抱えていた。創業家の岩崎弥之助は政府との関係維持を優先し、オフィス街としての実現時期が不透明なまま採算度外視で買収を決定した。
1890年3月6日に三菱財閥は128万円を投じて丸ノ内一帯を一括買収した。巨額投資のため一括払いは困難であり、13ヶ月間に8回分割で支払う条件が付された。社内では「一体何の目的で、このような不用の地を買い取ったのか」と批判が噴出したが、岩崎弥之助は「竹を植えて虎でも飼うさ」と応じたとされる。短期的には政府とのコネクション維持、長期的にはビジネス街としての開発を見据えた二段構えの意思決定であった。
しかし買収後4年間にわたり開発は進まなかった。三菱財閥にとって本業は重工業と貿易であり、不動産開発は派生的な事業に位置づけられていた。東京駅の開業前はオフィス需要そのものが存在せず、128万円を投じた土地は「三菱ヶ原」と呼ばれる荒地のまま放置される状態が続いた。不動産事業を専門に担う部署(地所用度課)が三菱合資会社に設置されるのは1906年であり、買収から16年後のことであった。
1894年に初のオフィス建築として三菱1号館が竣工した。ロンドンのオフィス街を模したイギリス式レンガ建築が採用されたが、東京駅未開業の立地下で賃貸経営は苦戦を強いられた。1894年から1896年にかけて3号館まで竣工したものの、その後9年間は新規建築が停止し、広大な敷地の大半は荒地のまま残された。本格的な開発が始まるのは1904年以降であり、1918年までに第26号館に至る19棟のオフィスが竣工して赤レンガ街が形成された。
1914年に東京駅が開業すると丸ノ内の立地条件は大きく改善された。三菱財閥は東京駅に近い区域の開発を加速し、1923年には東京駅前に近代的な丸ノ内ビルヂングを竣工する。買収から丸ビル竣工まで約30年を要しており、超長期の回収を前提とした不動産投資であった。2024年3月期時点で三菱地所の丸の内事業は年間営業収益3800億円を計上しており、買収時に採算度外視と批判された投資は日本最大のオフィス事業へと結実した。
丸ノ内の買収は三菱財閥史における最大の不動産投資であり、日本の都市開発における先駆的な事例となった。政府との関係維持を名目に取得した荒地が、東京駅の開業と会社組織の普及という外部環境の変化によって日本を代表するビジネス街に変貌した。三菱財閥の資本力によって30年間の赤字を許容し得たことが、この投資を成立させた最大の条件であった。結果的に丸ノ内は三菱地所の経営基盤の中核となり、130年以上にわたって収益を生み続けている。
丸ノ内買収の構造的特質は、市場が採算不可と判断した荒地を政府関係の維持を名目に取得し、30年の歳月をかけてオフィス街へ転換した点にある。東京駅の開業前は入札で落札者ゼロという市場評価が合理的であった。三菱財閥が本業の重工業・貿易の収益で赤字を吸収し続けられたことが超長期投資を可能にした唯一の条件であり、不動産開発における時間軸の設計という観点で極端な先行投資の事例といえる。
明治22年10月、政府は東京市に託して、丸ノ内の土地を入札に付することにした。(略)当時有力な5、6の財閥を説いて入札させたが、何分丸ノ内の土地の利用価値が少ないので、150万円で落札するものがいない。ついに最後の手段として、蔵相松方正義を通じて、三菱社長岩崎弥之助に購入方の慫慂(注:勧誘すること)があった。
時あたかも23年の恐慌直後のこととて、三菱社も大いに当惑したが剛副闊達な岩崎弥之助は、政府の窮状に同情して、決然その申し入れを承諾した。時に明治23年3月6日であった。しかし三菱社といえども、一時払いは到底不可能だったので、13ヶ月の間に、8回に分けて支払うという条件付きで契約を結んだのであった。
弥之助のこの英断が伝わると、世間も驚いたが、三菱社の関係筋は一層驚いて、一体何の目的で、かような不用の地を高値で買い取ったのかと、その無謀を非難した。すると弥之助は平然として「竹を植えてとらでも飼うさ」と空■いていたという。弥之助の胸中にその時、果たして今日の丸ノ内の構想が描かれていたか否かは、推察すべくもないが、その方寸に相当の成算があったであろうことは想像できる。
三菱合資会社が丸ノ内の開発を「雑務」として位置づけ、専門部署を16年間設置しなかった事実は、不動産事業が三菱財閥の経営において副次的であったことを端的に示す。9年間の建築停止を挟みながら30年かけて段階的にオフィス街を形成した手法は、需要の不確実性を受容しつつ本業の収益で赤字を吸収する三菱ならではの開発モデルであった。東京駅開業という外部要因が立地改善の決定打となり、赤レンガからRC建築への転換を促した。
三菱財閥は1893年に三菱合資会社を発足させ、貿易を中心とした業務を本業に据えた。丸ノ内のオフィス街開発は三菱合資会社が手がける「雑務」の一つに位置づけられ、専門部署がない状態で散発的に建築が進められた。不動産事業を担当する「地所用度課」が新設されたのは1906年であり、丸ノ内の買収から16年後、三菱1号館の竣工から12年後のことであった。不動産開発は三菱財閥の経営において副次的な事業として位置づけられ続けた。
丸ノ内の買収から4年後の1894年に三菱合資会社は最初のオフィス建築として三菱1号館を竣工した。建築様式にはロンドンのオフィス街を模したイギリス式レンガ建築が採用された。立地としては路面電車を活用した交通利便性が比較的高い「馬場先門通り」に面する区画が選ばれた。しかし東京駅が未開業という根本的な立地条件の悪さに加え、日本国内で会社組織が未発達でサラリーマンという働き方が一般的ではなかったため、テナント誘致は難航した。
三菱合資会社は1894年から1896年にかけて三菱1号館から3号館までの3棟を竣工した。しかし需要の低迷を受けて1896年から1904年までの9年間は新規建築を停止している。この間、買収済みの丸ノ内の広大な敷地の大半が「三菱ヶ原」として放置され、荒地のままオフィス街とは程遠い状態が続いた。三菱財閥にとって不動産は本業ではなく、重工業と貿易で収益を確保しつつ丸ノ内は長期的な開発対象として温存する方針がとられた。
三菱合資会社が丸ノ内の開発を本格化させたのは1904年以降であった。1904年から1918年にかけて第4号館から第26号館に至る19棟のオフィス建築を集中的に竣工した。このうち1912年に竣工した第15号館までは地上2〜3階建のイギリス式赤レンガ建築であり、これらが馬場先門通りを中心に赤レンガ街を形成した。ロンドンのオフィス街を模した街並みが丸ノ内に出現し、三菱合資会社が志向した「一ロンドン」の構想が具体化した。
建築技術の進展に伴い、1914年竣工の第19号館からはRC(鉄筋コンクリート)ないしSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)による地上3〜4階建の建築に移行した。赤レンガ建築からRC/SRC建築への転換は耐震性と床面積の拡大を両立させる革新であった。丸ノ内においては赤レンガ街とRC建築が混在する街並みが形成され、明治末期から大正初期にかけての建築技術の過渡期を反映した景観が生まれた。
三菱合資会社による丸ノ内の開発は約30年にわたった。専門部署の不在と本業優先の経営判断により開発のペースは緩やかであり、需要の動向を見極めつつ散発的に投資するという手法がとられた。一気呵成ではなく30年の歳月をかけて段階的にオフィス街を形成する展開は、三菱財閥の資本力と長期的な視野が前提となるものであった。
1914年に省線(後の国鉄・JR)が丸ノ内に中央停車場として東京駅を開業した。開業時点では山手線の環状運転はなく東海道本線のターミナル駅としての機能に限られたが、丸ノ内の立地条件を一変させる契機となった。買収から24年を経て丸ノ内は鉄道駅に直結するオフィス立地としての条件を獲得し、三菱合資会社は東京駅に近い区域の開発を加速させた。
東京駅の開業に伴い、従来の赤レンガ街が立地する馬場先門地区に加えて、東京駅前の区域でも近代的なオフィスビルの建設が進んだ。大正時代を通じてサラリーマンという働き方が普及し始め、オフィスに対する需要は着実に拡大していった。三菱合資会社はロンドン模倣の赤レンガ建築から、アメリカの近代ビル群を模範とした大規模オフィスの建設に方針を転換した。
1923年には東京駅前に丸ノ内ビルヂングが竣工し、丸ノ内は近代的なオフィス街としての地位を確立した。丸ビルは当時の日本では類例のない大規模オフィスビルであり、大正時代の建築を象徴する存在となった。三菱1号館の竣工(1894年)から丸ビルの竣工(1923年)まで約30年をかけて、赤レンガの小規模事務所が散在する荒地から近代ビルが林立するオフィス街へ、丸ノ内は段階的に変貌を遂げた。
三菱合資会社が丸ノ内の開発を「雑務」として位置づけ、専門部署を16年間設置しなかった事実は、不動産事業が三菱財閥の経営において副次的であったことを端的に示す。9年間の建築停止を挟みながら30年かけて段階的にオフィス街を形成した手法は、需要の不確実性を受容しつつ本業の収益で赤字を吸収する三菱ならではの開発モデルであった。東京駅開業という外部要因が立地改善の決定打となり、赤レンガからRC建築への転換を促した。

丸ビル竣工の意義は、三菱がロンドン模倣の赤レンガ建築からアメリカ型の大規模オフィスビルへと建築思想を転換した点にある。東京駅の開業で立地条件が改善され、サラリーマン文化の普及でオフィス需要が顕在化したことが転換の契機となった。丸ノ内買収から33年を経た竣工は、需要が存在しない段階では投資を抑制し、条件が整った時点で大規模投資に転じるという三菱の開発思想を体現している。
1914年に東京駅が開業すると丸ノ内の交通利便性は大幅に向上した。開業当初は東海道本線の終着駅として機能し上野方面の路線は未開通であったが、鉄道駅の設置によって丸ノ内は都市交通の要衝としての条件を初めて獲得した。大正時代に入ると貿易商社の台頭によりサラリーマンという働き方が普及し始め、企業が本社機能を集約するためのオフィスに対する需要が増大しつつあった。
三菱財閥は東京駅の開業を受けて丸ノ内のオフィス開発方針を転換した。それまではイギリス・ロンドンを模倣した地上2〜3階建の赤レンガ建築を志向していたが、大正時代を通じてアメリカの近代的なビル群を模範とした大規模オフィスの建設を指向するようになった。赤レンガ建築では床面積の拡大に限界があり、増大するオフィス需要に対応するためには建築の大規模化が不可欠であった。
1923年に三菱財閥は東京駅前に「丸ノ内ビルヂング」(初代丸ビル)を竣工した。小規模な赤レンガ建築が主流であった当時としては類例のない本格的な大規模オフィスビルであり、大正時代を象徴するビル建築となった。東京駅前という立地の優位性を活かした丸ビルの竣工により、丸ノ内は日本を代表するオフィス街としての地位を確立し始めた。
丸ビルの竣工は丸ノ内の買収(1890年)から33年を経て実現した近代オフィス開発の到達点であった。三菱1号館(1894年竣工)に始まる赤レンガ街の形成期を経て、東京駅開業後の需要拡大に対応した近代ビルの建設に至った。丸ビルはその後も丸ノ内のランドマークとして機能し、三菱のオフィス賃貸事業の象徴的な存在となった。
丸ビル竣工の意義は、三菱がロンドン模倣の赤レンガ建築からアメリカ型の大規模オフィスビルへと建築思想を転換した点にある。東京駅の開業で立地条件が改善され、サラリーマン文化の普及でオフィス需要が顕在化したことが転換の契機となった。丸ノ内買収から33年を経た竣工は、需要が存在しない段階では投資を抑制し、条件が整った時点で大規模投資に転じるという三菱の開発思想を体現している。
三菱地所の設立と再発足は、財閥の組織構造と戦後の制度変化が不動産事業に与えた影響を示す。三菱合資会社の一部門から独立した三菱地所は財閥解体で3社に分割されたが、陽和不動産への株式買い占めという外部脅威が再統合の契機となった。分割から3年での再合併は、丸ノ内という資産の一体的管理が事業運営上の不可欠な前提であることを裏付ける。財閥解体の政策意図に反する早期再統合は、不動産の資産集約がもつ経済合理性が制度的制約を上回った結果である。
三菱財閥(三菱合資会社)は丸ノ内のオフィス開発と賃貸事業を本格展開するために、1937年5月に新会社として三菱地所株式会社を設立した。それまで三菱合資会社の地所用度課として運営されていたオフィス賃貸事業を切り出し、丸ノ内一帯の土地・建物を新会社に譲渡する形で独立させた。三菱財閥にとって不動産事業は長らく副次的な存在であったが、丸ノ内の開発が進展して事業規模が拡大するにつれ、独立した会社組織による運営が求められるようになった。
三菱地所は丸ノ内の土地と建物を一括して管理・運営する体制を構築し、三菱財閥のオフィス賃貸事業を専業で担う会社として発足した。1923年の丸ビル竣工以降、丸ノ内のオフィスビル群は拡充を続けており、赤レンガ時代の建築から近代ビルまで多数の建物が管理対象となっていた。これらの資産を一元的に管理することで賃貸経営の効率化を図り、オフィス賃貸の専門企業としての事業基盤を確立した。
1945年の終戦後、GHQによる財閥解体の方針に基づき三菱地所は1950年に企業再建整備法の適用を受けて3社に分割された。旧三菱地所から三菱地所・陽和不動産・関東不動産の3社が発足し、丸ノ内の資産は分割して各社に引き継がれた。戦後の混乱期において三菱財閥の結束は弱体化し、不動産事業も分散した体制での運営を余儀なくされた。
分割後に陽和不動産が外部からの株式買い占めにさらされたことを契機として、三菱グループ内で再統合の機運が高まった。1953年に三菱地所・陽和不動産・関東不動産の3社が合併し、三菱地所が改めて発足した。財閥解体による分割から3年後の再統合であり、丸ノ内の資産を一元的に管理する体制が回復した。三菱地所はこの再発足を経て、丸ノ内を基盤とするオフィス賃貸事業の運営体制を再確立した。
三菱地所の設立と再発足は、財閥の組織構造と戦後の制度変化が不動産事業に与えた影響を示す。三菱合資会社の一部門から独立した三菱地所は財閥解体で3社に分割されたが、陽和不動産への株式買い占めという外部脅威が再統合の契機となった。分割から3年での再合併は、丸ノ内という資産の一体的管理が事業運営上の不可欠な前提であることを裏付ける。財閥解体の政策意図に反する早期再統合は、不動産の資産集約がもつ経済合理性が制度的制約を上回った結果である。
渡辺武次郎氏の功績は赤レンガ街を近代オフィス街に一新した点にあるが、超高層への反対が丸ノ内の高層化を長期にわたり制約した。社長退任後も103歳で逝去するまで45年間影響力を行使し続け、丸ビルの建て替えは逝去2年前まで進展しなかった。赤レンガ街の刷新と超高層への抵抗という二面性は、長期政権における「成功体験の固定化」が次世代の経営判断を制約する典型的な構造を示している。
1952年に三菱地所の社長に渡辺武次郎氏が就任した。渡辺氏は三菱地所の叩き上げのプロパー社員であり、丸ノ内のオフィス開発に長年携わった経験を持つ実務家であった。社長就任後、渡辺氏は1959年にスタートする「丸の内総合改造計画」を主導し、明治時代に建築された小規模な赤レンガ事務所が密集する丸ノ内を近代的なオフィス街に一新する再開発を推進した。この功績から渡辺氏は三菱地所の「中興の祖」と呼ばれるようになった。
渡辺氏が再開発を急いだ背景には、赤レンガ建築に対する欧米テナントの拒否反応があった。1950年代に欧米ではレンガ建築がスラム街を連想させるイメージが定着しつつあり、丸ノ内に入居する欧米企業のテナントが赤レンガのオフィスに拒絶感を示すようになった。この事態を受けて渡辺氏は丸ノ内の赤レンガ建築の全面的な建て替えを決断し、すべての明治時代の建築を近代オフィスに置き換える計画を策定するに至った。
渡辺氏は丸ノ内の再開発において超高層ビルの建設に一貫して消極的な姿勢をとった。皇居を見下ろすことになるという美観上の理由が反対の根拠であり、丸ノ内の街並みを31mの中層ビルで統一する方針を堅持した。1968年に競合の三井不動産が日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビルディング」を竣工すると、三菱地所は高層ビルの展開で三井に後れをとる形となった。
三菱地所の新丸ビルに隣接する東京海上が自社ビルの高層化を計画すると、渡辺氏は計画の中止を強く申し入れた。しかし東京海上は自社保有ビルの建て替えであるとして三菱地所の要求を退け、1974年に東京海上ビルディングを竣工した。この「美観論争」は建築業界や東京都を巻き込む議論に発展し、丸ノ内における高層建築の是非をめぐる社会的な論点となった。
1969年に渡辺氏は社長を退いて会長に就任したが、その後も三菱地所の経営に関与し続けた。1974年に取締役相談役、1988年に相談役に就任し、1997年に103歳で逝去するまで約45年にわたって三菱地所の意思決定に影響力を及ぼした。この間、丸ノ内における丸ビルの建て替え計画(高層化)は進展が極めて遅く、渡辺氏の超高層反対の意向が経営判断に反映されていたと推定される。
渡辺氏の在任期間は、赤レンガ街の近代化という点では丸ノ内の価値を大きく向上させた。しかし超高層ビルの建設を回避し続けた結果、三菱地所は三井不動産に対して高層ビル開発で後手に回り、床面積の拡大とテナント収益の最大化という観点では機会損失が生じた。丸ビルの建て替えが正式に発表されるのは渡辺氏逝去の2年前にあたる1995年であり、長期政権の功罪が問われる経緯となった。
渡辺武次郎氏の功績は赤レンガ街を近代オフィス街に一新した点にあるが、超高層への反対が丸ノ内の高層化を長期にわたり制約した。社長退任後も103歳で逝去するまで45年間影響力を行使し続け、丸ビルの建て替えは逝去2年前まで進展しなかった。赤レンガ街の刷新と超高層への抵抗という二面性は、長期政権における「成功体験の固定化」が次世代の経営判断を制約する典型的な構造を示している。
丸の内総合改造計画の構造的特質は、老朽化した赤レンガ街の近代化と、財閥解体で弱体化した三菱グループの求心力回復を同時に達成した点にある。新設ビルをグループ各社に優先賃貸することで丸ノ内はグループの結束を物理的に担保する装置として機能した。ただし31mの高さ制限は渡辺社長の美観論に基づくものであり、超高層時代への対応を先送りにした側面も持つ。
1950年代に日本経済が高度成長期に突入するとオフィス需要は急速に拡大した。丸ノ内の馬場先門地区を中心に明治時代に建築されたイギリス式の赤レンガ事務所が密集していたが、地上2〜3階建の小規模建築は床面積が限られ、増大するテナント需要に対応できないボトルネックとなっていた。赤レンガ建築は築60年以上が経過して老朽化が進行し、設備面でも近代的なオフィスとしての要件を満たしていなかった。
加えて1950年代には欧米諸国で赤レンガ建築が「スラム街」を連想させるイメージが定着しつつあり、丸ノ内に入居する欧米企業のテナントが赤レンガのオフィスに拒絶感を示すようになった。三菱地所の渡辺武次郎社長はこの状況に衝撃を受け、赤レンガ街の大規模な再開発を決断した。丸ノ内を国際水準のオフィス街として再生するためには、明治時代の建築をすべて近代ビルに建て替える抜本的な対応が不可避であった。
1959年に三菱地所は「丸の内総合改造計画」を策定した。丸ノ内に残るすべての明治時代の赤レンガ建築を取り壊し、31mの中層ビル群に建て替える再開発計画であった。1959年から1960年代後半にかけて赤レンガ建築は順次取り壊され、丸ノ内の街並みは統一された高さの近代的なオフィスビル群に一新された。ビルの高さを31mに統一した背景には、皇居を見下ろす超高層建築を回避するという渡辺社長の方針があった。
新設されたビル群については三菱グループの企業に優先的に賃貸された。財閥解体によって弱体化した三菱グループの結束力を、丸ノ内のオフィス街を核として修復する意図があった。三菱銀行・三菱商事・三菱重工業をはじめとする三菱グループ各社が丸ノ内にオフィスを構えることで、グループ間の連携が物理的に強化された。丸ノ内は三菱グループの求心力を担保する「場」として機能するようになった。
丸の内総合改造計画の遂行により、丸ノ内は明治時代の赤レンガ街から近代的なオフィス街へと全面的に刷新された。31mの統一された街並みは整然とした景観を形成し、日本を代表するビジネス街としての地位を確固たるものにした。三菱グループへの優先賃貸によってテナント基盤が安定し、三菱地所のオフィス賃貸収益は着実に成長した。
一方で31mの高さ制限は丸ノ内における床面積の拡大を制約した。1968年に三井不動産が超高層の霞ヶ関ビルディングを竣工すると、三菱地所は高層ビル開発で競合に後れをとる形となった。丸の内総合改造計画は赤レンガ街の近代化には応えたが、超高層時代への対応という次の課題を先送りにする結果ともなった。
丸の内総合改造計画の構造的特質は、老朽化した赤レンガ街の近代化と、財閥解体で弱体化した三菱グループの求心力回復を同時に達成した点にある。新設ビルをグループ各社に優先賃貸することで丸ノ内はグループの結束を物理的に担保する装置として機能した。ただし31mの高さ制限は渡辺社長の美観論に基づくものであり、超高層時代への対応を先送りにした側面も持つ。
中心部に赤レンガがあるから早く改造しないかという話は、だいぶ前からありました。その当時の計画は、都市計画といえば現在のようでなしに、明治何年かの日本経済に即したような区画割りになっていますから、東通りと、中通りと、西通りとの間に一本ずつ道路があります。現在となりましては、中通りは狭いですから、その間に入った1本ずつの道路を取りまして、中通りを片側に二間、両方で四間広げて、建築者を決め、都の方で了解を得て、第一番にかかりやすいところからというわけで、明治生命のわきの千代田ビルの建築にかかったわけです。何しろ、人が入っていますから新しい建物を建てるにも、なかなか時間を要しますが、そういう計画を持っています。
美観論争の本質は、三菱地所が丸ノ内の景観を統制する権限の範囲をめぐる問題であった。自社が所有しない土地の建て替えについて異議を唱えたが、所有権に基づく開発の自由を覆すことはできなかった。31mの街並みを堅持する方針は三菱地所の美観論に依拠していたが、超高層時代の到来と他社の開発権を前にしてその限界が露呈した。戦前に三菱合資が東京海上に売却した土地が論争の舞台となった点にも皮肉がある。
1960年代にコンピュータを活用した構造計算の高度化により建築基準法が改正され、日本国内でも超高層建築が可能となった。1968年4月に三井不動産が日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビルディング」を竣工すると、三菱地所は高層ビル開発で大きく後れをとる形となった。三菱地所は丸の内総合改造計画により31mの中層ビル群で丸ノ内を統一していたが、超高層時代の到来によってこの方針の妥当性が問われることになった。
三菱地所の新丸ビルに隣接する土地を保有する東京海上は、大正時代に建設して老朽化した自社ビルを超高層に建て替える計画を発表した。この土地はもともと三菱合資会社が所有していたが、戦前に東京海上に売却された経緯があった。東京海上の高層化計画は三菱地所が堅持してきた31mの統一された街並みを崩す可能性があり、丸ノ内の景観をめぐる対立の引き金となった。
三菱地所は東京海上の計画に対して猛反対の姿勢を示した。31mの街並みが保たれている丸ノ内に超高層ビルが出現すれば皇居を見下ろすことになるとの問題を指摘し、計画の中止を申し入れた。この論争は「美観論争」として建築業界や東京都を巻き込む議論に発展し、丸ノ内における建築の高さをめぐる社会的な論点となった。
しかし東京海上にとっては自社が保有するビルの建て替えであり、三菱地所の意向に従う義務は存在しなかった。東京海上は高層ビルの建設を決定し、1974年に東京海上ビルディングを竣工した。ただし三菱地所への配慮から計画当初よりも階数を減らす措置がとられた。三菱地所が丸ノ内の景観を統制する力には限界があることが示され、超高層時代への対応を回避し続けることの困難さが明らかになった。
美観論争の本質は、三菱地所が丸ノ内の景観を統制する権限の範囲をめぐる問題であった。自社が所有しない土地の建て替えについて異議を唱えたが、所有権に基づく開発の自由を覆すことはできなかった。31mの街並みを堅持する方針は三菱地所の美観論に依拠していたが、超高層時代の到来と他社の開発権を前にしてその限界が露呈した。戦前に三菱合資が東京海上に売却した土地が論争の舞台となった点にも皮肉がある。
初代丸ビルの建て替えが長年頓挫した要因は、350の個人テナントの立ち退き交渉の困難さにあった。渡辺武次郎氏の超高層反対の意向が経営判断を制約していた可能性も否定できない。1995年の阪神大震災が防災面での建て替え論拠を提供し、ようやく正式発表に至った。2代目丸ビルでは商業施設を併設して複合都市化を図る新コンセプトが導入され、オフィス一辺倒だった丸ノ内の再定義が行われた点が注目に値する。
1923年に竣工した東京駅前の初代丸ビルは、1980年代になると築60年を超えて老朽化が目立つようになった。三菱地所は丸ビルの建て替え計画を繰り返し立案したが、法律事務所をはじめとする個人テナントが350も入居しており、立ち退き交渉が極めて困難であった。東京駅前という日本一の一等地でありながら老朽化した大正時代のビルが放置される事態となり、丸ノ内の再開発における最大の懸案事項となっていた。
建て替えの決定打となったのは1995年1月に発生した阪神淡路大震災であった。都市の直下型地震によって甚大な被害が発生したことで、築70年を超える初代丸ビルの耐震性に対する懸念が高まり、防災の観点から建て替え議論が急速に進展した。1995年11月に三菱地所は初代丸ビルの建て替えを正式に発表し、1997年から取り壊しが開始された。
2002年に三菱地所は2代目丸ビルを竣工した。初代丸ビルが純粋なオフィスビルであったのに対して、2代目は商業施設を併設した複合ビルとして設計された。あわせてメインストリートである仲通りに商業施設の誘致を進め、丸ノ内を平日のオフィス街としてだけでなく休日も楽しめる複合都市として再開発する方針を打ち出した。
丸ビルの建て替えは三菱地所にとって丸ノ内の土地利用を高度化する転機となった。超高層ビルへの建て替えにより床面積を大幅に拡大し、商業施設との複合化によって平日・休日を通じた集客力を確保した。渡辺武次郎氏が堅持した31mの中層ビル群からの転換であり、三菱地所が丸ノ内の超高層化に本格的に踏み切る出発点となった。
初代丸ビルの建て替えが長年頓挫した要因は、350の個人テナントの立ち退き交渉の困難さにあった。渡辺武次郎氏の超高層反対の意向が経営判断を制約していた可能性も否定できない。1995年の阪神大震災が防災面での建て替え論拠を提供し、ようやく正式発表に至った。2代目丸ビルでは商業施設を併設して複合都市化を図る新コンセプトが導入され、オフィス一辺倒だった丸ノ内の再定義が行われた点が注目に値する。

三菱地所レジデンス設立の経緯で注目すべきは、藤和不動産への資本参加(2005年)から完全子会社化(2009年)への移行がリーマンショックで加速された点にある。当初は少数株主としての経営支援であったが、金融危機による業績悪化が増資引受・連結子会社化・完全子会社化というステップを急速に進展させた。外部環境の急変を事業再編の契機として活用し、ブランド統一まで一気に推進した判断に三菱地所の戦略的意図が読み取れる。
三菱地所は住宅分譲事業の強化を目的に、2005年3月にマンション分譲の藤和不動産に資本参加した。藤和不動産は1972年に東京証券取引所に上場した企業であったが、2005年頃に業績が悪化し自己資本比率が5%台に低迷していた。三菱地所による出資は経営支援としての側面を持つとともに、住宅分譲事業の規模拡大という戦略的意図も含まれていた。
2008年のリーマンショックにより藤和不動産の業績と財務状況がさらに悪化した。2008年1月に藤和不動産が増資を実施し、三菱地所が引受先となることで同社を連結子会社化した。翌2009年4月には株式の100%を取得して完全子会社化し、藤和不動産は上場廃止となった。リーマンショックという外部環境の急変が、資本参加から完全子会社化への移行を加速させた。
2011年1月に三菱地所は完全子会社として三菱地所レジデンスを設立した。藤和不動産・三菱地所の住宅事業・三菱地所リアルエステートサービスの住宅事業の3部門を新会社に集約し、住宅分譲事業の一元的な運営体制を構築した。分譲マンションのブランドとして「ザ・パークハウス」の展開を決定し、従来の「パークハウス」ブランドを継承・発展させる形でブランド価値の向上を図った。
ザ・パークハウスの1号物件として2011年7月に「ザ・パークハウス芝公園」(地上7階建)の販売が予定された。最寄駅は地下鉄日比谷線神谷町駅徒歩5分であり、予定販売価格は8000万円台中心に設定された。都心部を中心に展開することで職住近接のニーズに対応する方針が示され、三菱地所レジデンスは東京を中心とした都市部での分譲マンション事業を本格化させた。
2010年代を通じて三菱地所レジデンスはザ・パークハウスブランドによるマンション分譲事業を拡大した。都心部の立地を重視する戦略はマンション市場の価格上昇局面と合致し、ブランドの認知度と資産価値の両面で実績を積み上げた。三菱地所グループにおいてオフィス賃貸に次ぐ収益基盤として住宅分譲事業の存在感が高まった。
藤和不動産の買収から三菱地所レジデンスの設立に至る一連のプロセスは、業績不振企業への資本参加がリーマンショックを経て完全子会社化に発展し、最終的にブランド統一による事業再編に帰結した事例であった。三菱地所はオフィス賃貸の丸ノ内事業を中核としつつ、住宅分譲のザ・パークハウスを第二の事業基盤として確立する展開となった。
三菱地所レジデンス設立の経緯で注目すべきは、藤和不動産への資本参加(2005年)から完全子会社化(2009年)への移行がリーマンショックで加速された点にある。当初は少数株主としての経営支援であったが、金融危機による業績悪化が増資引受・連結子会社化・完全子会社化というステップを急速に進展させた。外部環境の急変を事業再編の契機として活用し、ブランド統一まで一気に推進した判断に三菱地所の戦略的意図が読み取れる。