1890年(明治23年)に明治政府は、陸軍における財政難の問題を解決するため、陸軍用地として活用していた「東京・丸ノ内」の処分を決定。東京市に委託して「丸ノ内」の売却可能性を模索した。
もともと丸ノ内は江戸城(皇居)に隣接する土地であり、江戸時代は有力な大名の屋敷が連なる地域であった。ところが、明治維新後は大名屋敷としての存在意義を失って、それぞれの屋敷は放置の状態に陥ってしまう。そこで、明治政府は空き家となった大名屋敷を皇居向けの兵舎として活用することに決め、陸軍が活用する形となった。
ところが、明治5年に丸ノ内地区が大規模な火災に見舞われ、大半の元大名屋敷(兵舎)が焼失。この結果、丸ノ内の一帯は「焼け野原」として放置され、売却に至った。このため、売却時点の丸ノ内は、雑草が生える荒地であり、オフィス街とは無縁の土地であった。
明治政府は丸ノ内の売却にあたって、広大な敷地の一括売却を決めた。これは、丸の内が皇居に隣接する土地であり、土地を細分化して売却した場合に、意図しない人物や法人の手に渡ってしまうことを避けるためであった。
このため、丸ノ内の売却希望価格は150万円(最低落札価格)に設定され、この金額は東京市の年間予算3年分以上に相当した。巨額な費用が必要であり、必然的に売却先の候補は膨大なキャッシュを確保できる相手先に限られ、明治政府は三井や三菱を含めた5〜6社の有力財閥に売却を打診した。
そして、明治政府から委託を受けた東京市によって、明治22年に入札が実施されたが、あまりにも高すぎる売却希望価格(最低落札価格)により落札は0件に終わった。
丸ノ内売却にあたっての問題は立地条件の悪さであった。
明治時代において、丸ノ内の周辺には鉄道(省線)が開業しておらず、アクセスが致命的に悪い場所であった。すでに1888年に東京市区改正条例によって、丸ノ内への「中央停車場(東京駅)の設置」が計画立案されたが、開業時期は不確実な状況であった。よって、交通の利便性の悪い土地について割高な売却額が設定されたため、採算が取れないことがわかり切っていたため、各財閥ともに落札を躊躇した。実際に東京駅が開業するのは1914年であり、東京市による入札実施の「25年後」であり、この間は「不毛地帯」であること受け入れざるを得ないことを意味した。
落札がないことを問題視した明治政府は、蔵相の松方正義氏を通じて三菱財閥に相談。三菱総支配人であった壮田平五郎氏はビジネス街としてポテンシャルを評価して買収を社内に提案するに至った。壮田氏はロンドンに赴任していたため、電報を通じて国内の三菱財閥に買収を打診した。
壮田平五郎氏による丸ノ内買収の建議を受けて、三菱財閥の創業家である岩崎家(岩崎弥之助氏)で買収を検討。三菱の主力事業は、貿易・鉱山・金融・重工業であり、軍需を中心として顧客に日本政府を抱えていたことから、政府筋との関係強化という目的のため、採算度外視で丸ノ内の買収を決定した。このため、将来構想としてのオフィス街としての活用は念頭にあったものの、「東京駅開業前」という特殊性により実現時期は不明であり、その間の赤字は必須の状況であった。
したがって、三菱財閥にとって丸ノ内の買収は、短期的には「政府とのコネクション維持」を目的とし、長期的には「ビジネス街」として開発するための意思決定となった。
なお、三菱財閥の社内では反対論が噴出。「一体何の目的で、このような土地を買ったのか」「不用な土地である」という批判が起こったが、これに対して、三菱創業家の岩崎弥之助氏は「竹を植えて虎でも飼う」と言い放ったという。
正式な買収日時は、1890年3月6日であり、三菱財閥は128万円(東京市の3年分の予算である)を投じて、東京丸ノ内の広大な敷地を一括で買収した。巨額な投資となったため、三菱財閥は一括払いが困難であり、13ヶ月の間に8回払いすることで資金を工面した。
なお、買収から4年の間は開発の進展は無く、三菱財閥は丸ノ内を放置した。このため、丸ノ内の一帯は「三菱ヶ原」と呼ばれ、雑草が生茂る地域であったという。初のオフィス建築は1904年の「三菱1号館」の新設、近代ビルの新設は1923年の丸ノ内ビルヂングの新設であり、この頃にオフィス賃貸の経営が本格化した。
よって、丸ノ内を買収した1890年から「約30年」の間は、巨額費用を投じて買収した土地が、完全に有効活用されない状況となった。
明治22年10月、政府は東京市に託して、丸ノ内の土地を入札に付することにした。(略)当時有力な5、6の財閥を説いて入札させたが、何分丸ノ内の土地の利用価値が少ないので、150万円で落札するものがいない。ついに最後の手段として、蔵相松方正義を通じて、三菱社長岩崎弥之助に購入方の慫慂(注:勧誘すること)があった。
時あたかも23年の恐慌直後のこととて、三菱社も大いに当惑したが剛副闊達な岩崎弥之助は、政府の窮状に同情して、決然その申し入れを承諾した。時に明治23年3月6日であった。しかし三菱社といえども、一時払いは到底不可能だったので、13ヶ月の間に、8回に分けて支払うという条件付きで契約を結んだのであった。
弥之助のこの英断が伝わると、世間も驚いたが、三菱社の関係筋は一層驚いて、一体何の目的で、かような不用の地を高値で買い取ったのかと、その無謀を非難した。すると弥之助は平然として「竹を植えてとらでも飼うさ」と空■いていたという。弥之助の胸中にその時、果たして今日の丸ノ内の構想が描かれていたか否かは、推察すべくもないが、その方寸に相当の成算があったであろうことは想像できる。
三菱財閥は1893年に三菱合資会社を発足。三菱合資会社では貿易を中心とした業務を本業に据えつつ、他の雑務を請け負った。この雑務の一つが丸ノ内をオフィス街として開発することであった。
なお、三菱合資会社においてオフィス賃貸事業を請け負う部署が新設されたのは、1906年の「地所用度課」の発足であった。それまでの間は、専門部署がない状態で、丸ノ内の開発を遂行した。
このため、土地買収の直後から一気に開発したわけではなく、約30年に渡って散発的(徐々に)にオフィスを新設する形をとった。これは、三菱合資会社としては「重工業」「貿易・商事」を本業据えており、オフィス賃貸は派生的な事業と位置付けられたことや、東京駅の開業前においては立地条件が悪く、賃貸へのニーズが存在しなかったためであった。
丸ノ内の買収から4年が経過した1894年に三菱財閥は丸ノ内にオフィス建築1号として「三菱1号館」を新設した。建築様式には、ロンドンのオフィス街を再現するためのイギリス式のレンガ建築を採用。立地条件としては、路面線電車を活用した交通の利便性が相対的に高い「馬場先門通り」に新設された。
ところが、東京駅が未開業という立地条件の悪さに加えて、日本国内で会社組織が未発達であったことや、サラリーマンという働き方が一般的ではなかったこともあり、オフィス賃貸の経営は苦戦した。
このため、三菱合資会社は1894年から1896年にかけて「三菱1号館〜三菱3号館」までの3つのオフィス事務所を新設したが、1896年から1904年までの9年間については、建物の竣工はストップした。このため、買収した丸ノ内の広大な敷地の大半が「三菱ヶ原」として放置され、土地の有効活用とは程遠い状態が続いた。
三菱合資会社が丸ノ内をオフィス街として開発を本格化させたのは、1904年以降であった。1904年から1918年にかけて「第4号館」から「第26号館」に至る19の建物を竣工した。このうち、1912年に竣工した「第15号館」までは地上2〜3階建の「赤レンガ建築」であり、これらの事務所の竣工により赤レンガ街を形成した。
その後、1914年に竣工した「第19号館」からは、RCないしSRCによる地上3階〜4階建の建築に移行しており、建築技術の進展に対応している。
1914年に省線(後の国鉄→JR)が丸ノ内に中央停車場として「東京駅」を開業した。開業時点では山手線の環状運転はなく、東海道のターミナル駅として機能したが、丸ノ内の立地条件が大きく改善される契機となった。
1914年の東京駅の開業によって、三菱合資会社は丸ノ内の開発を加速。従来の赤レンガ街は「馬場先門」を中心とした地区であったが、東京駅に近い区域についても開発が進展する形となった。
1914年に東京駅が開業すると丸ノ内の利便性が向上。東京駅の開業当初は、新橋方面からの終着駅として機能しており、上野方面は未開業であったが、鉄道駅が開業したことで利便性が高まった。また、大正時代には貿易商社の台頭によって、サラリーマンという働き方が普及し始め、オフィスに対するニーズが高まりつつあった。
三菱財閥では、東京駅の開業を受けて、丸ノ内を近代的なビルにより本格的なオフィス街として開発する方針を決定。それまではイギリス・ロンドンを模倣して赤煉瓦の小規模な建築を志向したが、大正時代を通じてアメリカの近代的なビル群を模倣したオフィス街を志向した。
1923年に三菱財閥は東京駅前に「丸ノ内ビルヂング」を竣工。小規模建築が一般的だった当時としては、類例を見ない本格的なオフィスビルであり、大正時代を象徴するビル建築となった。
三菱財閥(三菱合資会社)は、オフィス賃貸部門を本格展開するために、1937年5月に新会社として「三菱地所株式会社」を設立。三菱財閥が保有していた丸ノ内一帯の土地・建物を譲受した。
1945年の敗戦により、GHQは三菱財閥の解体を決定。1950年に企業再建整備法に基づき、旧三菱地所株式会社を3社「三菱地所・陽和不動産・関東不動産」に分離した。
ただし分離後に陽和不動産が株式の買い占めにあったことを受けて、再び三菱地所の関連会社の合併機運が高まった。そして、1953年に三菱地所・養和不動産・関東不動産の3社が合併し、三菱地所を改めて発足した。
1952年に三菱地所の社長に、叩き上げのプロパーである渡辺武次郎氏が就任した。
渡辺武次郎氏は1959年からスタートした「丸の内総合改造計画」を推進し、明治時代に建築された小規模な「赤レンガ事務所」が密集する地区の再開発を実施し、丸の内全体を近代的なオフィス街に変貌させた。このため、渡辺武次郎氏は、三菱地所の「中興の祖」と呼ばれることもある。
一方で。渡辺武次郎氏は、皇居を見下ろすという理由で超高層ビルの新設には消極的であり、その手法をめぐっては内外からの批判もあった。特に、東京海上が計画した高層ビルに強く反対し、建築業界や東京都を巻き込んで、「美観論争」として議論が紛糾した。これにより、三菱地所は高層建築によるオフィス開発で、三井不動産の後手に回った。
1969年に渡辺氏は三菱地所の会長に就任し、後任に社長を譲った。ただし、渡辺武次郎氏自身は103歳で逝去するまで三菱地所の経営に関与し、1974年には取締役相談役、1988年には相談役に就任。その後は1997年に逝去するまで相談役として三菱地所に関わり続けた。
なお、1997年まで、三菱地所では、丸の内における高層ビルの新設計画(丸ビルの建て替え計画)は進展が極めて遅く、渡辺氏の「高層ビルへの反対」という意向が、経営に反映されていたと推定される。
1950年代を通じて日本経済が高度成長期に突入すると、オフィスに対する需要も増大。馬場先門地区を中心とした丸の内では「明治時代に建築されたイギリス様式の小規模事務所」が密集しており、床面積が小さいことからボトルネックとなっていた。
加えて、イギリスなどの欧米は、1950年代には赤レンガ建築が「スラム街」を連想させるようになっており、欧米企業のテナントが拒絶感をあらわにするようになった。この事態に社長であった渡辺武次郎氏はショップを受け、赤レンガ建築の大規模な再開発を決定した。
1959年に三菱地所(渡辺武次郎・社長)は「丸の内総合改造計画」を策定。すべての明治時代の赤レンガ建築を対象として、近代的なオフィスビルに建て替える再開発を計画した。
1959年から1960年代後半にかけて順次、すべての赤レンガ建築を取り壊し、代わりに丸ノ内に31mの中層ビル群を建設した。
なお、新設したビル群については、三菱グループに優先的に賃貸することで、財閥解体によって薄まった三菱グループの求心力を、丸の内を軸として修復することも意図した。
中心部に赤レンガがあるから早く改造しないかという話は、だいぶ前からありました。その当時の計画は、都市計画といえば現在のようでなしに、明治何年かの日本経済に即したような区画割りになっていますから、東通りと、中通りと、西通りとの間に一本ずつ道路があります。現在となりましては、中通りは狭いですから、その間に入った1本ずつの道路を取りまして、中通りを片側に二間、両方で四間広げて、建築者を決め、都の方で了解を得て、第一番にかかりやすいところからというわけで、明治生命のわきの千代田ビルの建築にかかったわけです。何しろ、人が入っていますから新しい建物を建てるにも、なかなか時間を要しますが、そういう計画を持っています。
コンピュータを活用した構造計算の高度化により1960年代に建築基準法が改正されて高層建築が可能となった。そして、1968年4月に競合の三井不動産が日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビルディング」を竣工すると、三菱地所は高層ビルの展開で遅れる形となった。
三菱地所の新丸ビルに隣接する形で自社ビルを保有する東京海上は、大正時代に建設して老朽化した自社ビルを高層建築に建て替える計画を発表した。この土地位はもともと三菱合資会社が所有していたが、戦前に東京海上に売却されていた。
ところが、この計画に対して三菱地所は猛反対の姿勢を示し、すでに丸ノ内は総合改造計画によって31mの街並みが保たれていること、高層ビルによって皇居が見下ろされること、といった問題点を指摘し、計画を中止するように申し出た。
しかし、東京海上としては自社が保有するビルについての建て替え計画を公表しただけであり、三菱地所の意向を汲み取る理由は存在しなかった。このため、東京海上は高層ビルの新設を決定し、1974年に「東京海上ビルディング」を竣工した。ただし三菱地所に配慮し、計画当初よりも回数を減らすといった措置をとった。
1923年に竣工した東京駅前の丸ビルは、1980年代になると60年が経過して老朽化が目立つようになった。そこで、三菱地所は丸ビルの建て替え計画を何度も立案するが、法律事務所などの個人テナントが350も入居する丸ビルの立ち退きが困難を極めた。
このため、丸ビルは、東京駅前という「日本一の一等地」でありながらも、老朽化した大正時代のビルとして使用を続ける状態に陥った。
1990年に三菱地所はニューヨークの一等地に位置する「ロックフェラーセンタービル」を買収する方針を決断し、海外進出を図った。当時は日本企業が世界を席巻すると欧米では恐れられたことから、現地のメディアは悲観的な報道をしている。
しかし、1990年代を通じてNYの不動産市況が低迷したためにロックフェラーセンターでの採算を取ることが困難となった。このため、1995年に三菱地所は1000億円近い固定資産除却損を計上した上で、ロックフェラーセンタービルから撤退した。
1923年に竣工した東京駅前の丸ビルは、1980年代になると60年が経過して老朽化が目立つようになった。そこで、三菱地所は丸ビルの建て替え計画を何度も立案するが、法律事務所などの個人テナントが350も入居する丸ビルの立ち退きが困難を極め、老朽化したまま丸ビルが放置される時代となった。
建て替えの決定打となったのが、1995年1月に発生した阪神大震災であった。都市の直下型地震により甚大な被害が発生したことで、防災の観点から建て替えの議論が進行。1995年11月に三菱地所は「初代丸ビル」の建て替えを正式に発表。1997年から初代丸ビルの取り壊しを開始した。
2002年に2代目丸ビルを開業するとともに、メインストリートである仲通りの商業施設の誘致を進め、丸ノ内を休日も楽しめる複合都市として再開発した。
この結果、三菱地所は引き続き丸ノ内の街の魅力を引き出し、平日はオフィス街として、休日は商業施設を軸とした集客により、土地利用の高度化を図った。
三菱地所はマンションの建設および販売の事業展開を強化するために、2005年3月に藤和不動産(1972年上場)に資本参加した。同社は2005年頃に業績が悪化し、自己資本比率が5%台に低迷していたことから、三菱地所による経営支援という側面があった。
ところがリーマンショックにより藤和不動産の業績と財務状況が悪化したことを受けて、2008年1月に藤和不動産が増資を決定し、三菱地所が同社を連結子会社化した。翌2009年4月には藤和不動産の株式を100%取得して完全子会社化した。これを受けて、藤和不動産は上場廃止となった。
2011年に三菱地所はマンションを中心とした住宅分譲についてブランドを統一するために、完全子会社として「三菱地所レジデンス」を100%子会社として設立した。新会社には、藤和不動産・三菱地所(住宅事業)・三菱地所リアルエステートサービス(住宅事業)の3つが集約された。
2011年に三菱地所レジデンスの発足とともに、同年2月から分譲マンションのブランドとして「ザ・パークハウス」の展開を決定。三菱地所が展開していた「パークハウス」のブランドを継承することで、ブランド価値の向上を図った。
ザ・パークハウスのブランドによる1号物件として、2011年7月に地上7階建の分譲マンション「ザ・パークハウス芝公園」の販売予定を発表した。最寄駅は地下鉄日比谷線神谷町徒歩5分であり、予定販売価格は「8000万円台中心」を設定。ザ・パークハウスでは、都心部を中心に展開することで、職住近接ニーズの確保を目論んだ。
その後、2010年代を通じて、三菱地所レジデンスは東京を中心とした都心部において、「ザ・パークハウス」を通じたマンション分譲事業を本格化した。
三菱地所の現在の繁栄は、東京駅という「日本の一等地」で土地と建物の両方を確保していることにあるが、その原点は明治時代の「丸ノ内一括買収」にある。そして、この買収は、採算度外視の巨額費用を投じたものであり、数十年の土地の塩漬けを伴う決断であった。
約130年が経過した現在も、三菱地所の強みは「丸ノ内の一括保有」にあり、年間3800億円もの営業収益を「丸の内事業」で生み出しており、1世紀以上の長期的にわたって競争優位を発揮している。やはり、明治時代に雑草が生い茂る丸ノ内を、巨額費用を投資して取得したというのは、凄まじい意思決定と言える。