三井不動産の歴史は、三井財閥に不動産課が設置されたことに始まるが、背景には三菱財閥の不動産事業の台頭があった。三菱財閥は明治時代に東京丸の内の広大な土地を購入し、東京駅前の再開発を通じて業容を拡大しつつあった一方、日本橋に拠点を置く三井は不動産事業で出遅れていた。そこで、三井財閥は不動産事業の本格参入を決め、不動産課を設置した。
三井不動産は東京証券取引所に株式を上場した。なお、終戦によって三井家が解体されたことから、三井不動産と三井財閥の資本関係が実質的に解消され、三井不動産の大株主は証券会社や三井銀行に入れ替わる。
終戦直後の三井不動産の所有する主な土地は日本橋だけであり、丸の内を掌握する三菱地所のようなオフィス賃貸経営を主体にすることが困難であった。そこで、1957年に三井不動産は千葉県沖合の埋立事業に参入し、土地造成を主力事業に据えた。この投資はリスクが高く銀行筋は反対したが、当社の江戸英雄社長は参入を決断する。
三菱地所に対抗するために、1968年に三井不動産は日本初の超高層ビル「霞が関ビル」を竣工し、土地の高度利用の先鞭をつけた。なお、当時のメディアも霞が関ビルの竣工をもって「超高層時代の到来」と高く評価した。以降、三井不動産は新宿などの都内の要所に超高層ビルを建設することで、オフィス収入を安定化させ、1970年代以降はオフィス賃貸の利益を「住宅建設/販売・ショッピングセンター・海外事業」などの多角事業に投資し、三井不動産は総合ディベロッパーへと変貌した。
1996年に三井不動産の子会社・三井不動産販売は130億円の特別損失を計上した。主力事業は「三井のリハウス」ブランドによる中古住宅の仲介業務であったが、バブル崩壊の煽りを受けて国内4、海外(ハワイ)1社の子会社を清算して特別損失を計上した。これらの子会社は三井不動産販売65%に対し、各地域の不動産会社35%の出資比率で運営されることが多く、バブル期に過剰な開発を行っていた。結果としてバブル崩壊以降は思うように土地が売れない事例が多発して清算に至る。
バブル崩壊に伴い、2000年に三井不動産は特別損失1667億円を計上した。このうち、約1300億円は「販売用不動産の評価損」であり、バブル景気の高騰による土地価格上昇時に購入した不動産を一斉に処理したものと推察される。