函館出身の伊部政治郎氏・山根要氏・渡辺達也氏の3名は、東京における日本信販のクーポン分割払いの成功に触発され、地元の函館でも同じように信販事業での起業を決意。地元財界で力のあった函館ドックの元常務を役員として迎えることで企業としての信用を確保。地元百貨店の棒二森屋を加盟店にすることに成功し、クーポンによる分割払いに参入した。
1951年に日本信販が百貨店と提携して月賦販売を始めています。その新聞記事に刺激され、仲間2人(注:伊部政治郎氏・渡辺達也氏)と函館市で旗揚げしたのがデパート信用販売(ジャックスの前身)でした。百貨店と提携するには30代の若い人間では相手にしてくれません。そこで地元最大の企業だった函館ドックの元常務を口説き、初代社長に迎えました。社名に地名を入れなかったのは、いずれ函館から外に出て勝負したいという野心があったからです。地元の老舗百貨店と提携してスタートしました。
東北地区への進出を開始。ただし進出に当たっては、百貨店の売上向上が見込まれたため、地元商店街から反発も大きかったという。なお、先発の日本信販と積み分けるため、東京進出は行わず。
モータリゼーションの到来を受けて自動車ローンに本格参入。トヨタや日産などの国内メーカーは自社でローン事業を営んだため、ジャックスは外国輸入車・中古車に照準を絞って自動車ローンの提携店を拡大。大手自動車メーカーとの棲み分けを図った
ジャックスは日本信販の牙城であった東京への進出を決定。1972年に東京支店を開設し、1975年には本部機能を函館から東京に移転した。この時、ジャックスの経営陣は、大口取引先であったソニーとパイオニアに相談したところ東京進出に協力する返答があったため支店開設を決定した。ジャックスは家電メーカーとの連携に強みがあり、後発の東京市場でも戦えると判断したと思われる。
業績拡大による株式を上場。上場後の筆頭株主はソニー商事(9.3%)であることが公表された。ソニーと資本政策で利害関係を一致させることで、ソニーの主要製品(テレビ)の分割払いにおいて、ジャックスが独自のポジションを確保していたと推察される
1970年代を通じてオリコが急成長。これに対してジャックスは売上高競争を否定し、あくまでも自社の財務体質を優先に堅実経営を持続
これは質の充実を追求したため、おもてにあらわれる取引量で抜かれたということなのです。現在は質の充実を心がけながら成長し、財務内容をしっかりとさせることが大切です
オーディオ機器を製造するパイオニアの金融子会社「パイオニアクレジット」を吸収合併。同社は優秀な財務体質だったといい、ジャックスの堅実路線を象徴する合併だった。ジャックスとしては高額なオーディオ機器の立て替え払いを拡大する目論見だったと思われる。
現在信販業界ではある程度スケールメリットを追求しないことには経営が難しくなっている。従って中小のクレジット会社の買収の話は多い。パイオニアクレジットの合併は、同社が経営内容が良いのにもかかわらず、我が社との合併の道を選んだことは、専門会社としての当社の内容が優れているとパイオニアさんが判断されたからだと思います。これも堅実経営の賜物です
日本信販が不動産投資に手を出す中で、ジャックスは
大きくなるにつれて金融機関は「借りてくれ」と言ってくるようになりました。列島改造ブームの時も先のバブルの時もそうです。ゴルフ場建設、土地購入など次々に銀行から話が持ち込まれました。そうした話に同調するう役員もいましたし、若い人からは「不動産を手掛けないから売り上げで他社に遅れを取る」と突き上げられました。
しかし、我々の土俵は消費者信用産業であり、不動産金融や住宅金融は銀行の守備範囲です。我々が立てた計画を100%実行できるなら、今は焦る必要はない、と説きました。消費者信用をやっているから我々は一流なのです。列島改造ブーム時に5億円以上の土地購入はやらないと役員会で決めていました。バブル崩壊の被害も受けていません。
長年のキャリアがそうした判断に生きたと言えますが、結局は自分の在任期間だけを考えて判断を下すか、もっと先まで考えるかの違いです。次世代に失敗の責任を背負わせてはいけません。一流企業になる条件は、人事の公平さと経営者の先見性だと思います。
山根要氏は、伊部政治郎氏とともにジャックスの実質創業者
MasterCardおよびVISAによる国際ブランドのクレジットカードの発行を開始
ジャックスは不動産投資を行わなかったものの、例外的に東京の恵比寿駅前の一等地を取得して本社ビルを竣工。バブル崩壊後の土地取得であり、それなりの含み益を確保していると推察される
1997年以降、ジャックスはクレジットカードのリボ払い(キャッシング)の金利引き下げを実施。業界がグレーゾーン金利(出資法の上限40.004%〜利息制限法の上限18.00%)と言われた30%台の利息を徴収する中で、ジャックスは1997年2月に24.36%→18%への引き下げを実施。さらに、1998年2月には18.0%から16.8%に引き下げた。
この引き下げによって、利息制限法の18.00%の上限よりも低い水準となり、キャッシングにおいてジャックスは国内で最低水準となる利息を提示することになった。衝撃的な引き下げということもあり、業界内では「利息制限法の壁を破った」と言われて注目された。
信販業界では、ジャックスが利息を引き下げる一方で、業界トップの日本信販やオリコでは、利息の引き下げを行わなかった。両社はバブル期に不動産投資を行っており、1990年代後半には不良債権を抱えていたことから、キャッシングによる高利貸しが財務体質の改善のための原資になっていた。
このため、日本信販やオリコは、ジャックスの利息引き下げに追随できずに、グレーゾーン金利を継続する道を選択した。このため、日本信販とオリコの2社は2006年の改正貸金業法によってグレーゾーン金利が撤廃されると、莫大な利息返還請求に直面。企業としての存続が困難となり、メガバンクに経営支援を仰ぐ結果に終わった。
1998年の時点で銀行系カード会社に分割払いは認められておらず、信販系のクレジットカードは「銀行系カードとは違って分割できる」強みがあった。ところが、1990年代を通じた規制緩和の流れで、1998年に日本政府は銀行系のクレジットカードにも分割払いを認める方針を示しており、信販系カードと銀行系カードの棲み分けが崩れることが予想された。
そこで、ジャックスとしてはいち早くキャッシング(リボ払い)の利息を引き下げることによって、銀行系カードの分割参入に備えるという狙いがあった。
金利の引き下げによって、FY1997におけるジャックスは35億円の減収が見込まれたという。そこで、ジャックスの有利子負債(1997年3月時点で約8600億円)の一部を、より金利の低いCPの発行によって削減。リボ払いの金利引き下げ分の減収を、自社の資金調達コストを引き下げることによってカバーした。
2006年の貸金業法の改正を受けて、ジャックスでは融資部門の縮小を決定。すでに金利を引き下げていたため、利息返還請求の金額はわずかであったが、事業縮小へ
改正貸金業法によって、信販会社や消費者金融企業が莫大な利息返還請求によって倒産の危機に陥る中で、既に利息を引き下げていたジャックスへの影響は軽微に抑えられた。2008年に三菱UFJ銀行が20%を出資してジャックスは持分法適用会社になったものの独立経営を持続
ベトナムに進出。東南アジアにおける二輪車ローン事業の展開を開始。2006年に中止していた海外事業を再開した
インドネシアで二輪車販売のローン事業に従事する現地企業に出資。持分法適用会社へ
フィリピンに進出。持分法適用会社へ