仕入れ業務などの集約を狙い、兵庫県西宮市にダイエー本部を新設。配送センターも兼ねてダイエーの拠点となった
ダイエーは神戸・大阪を中心にスーパーマーケットを展開することで業容を拡大したが、首都圏への進出に課題があった。そこで、ダイエーは首都圏を中心に展開する同業の株式会社一徳を買収して「トウキョウダイエー」を設立し、首都圏市場に参入した。なお、首都圏にはイトーヨーカ堂、長崎屋、西友などの手強いライバルが存在した。
スーパーの経営者としての私は、ダイエーの第1号店となった千林店を設けた時から、ナショナルチェーンを目指していた。当初からチェーンのビジョンがあったのは、実は理屈ではない。わたしの脳裏には、米国映画で見たドラッグストアのチェーンが強く焼き付いていた。学生時代に見た映画に、ジェームス・キャグニー扮する、不死身のギャングが登場する。ドラッグストアの主人を誘き出しておいて、マシンガンで襲撃する。そんなシーンに登場するドラッグストアを自分も作るのだという気になっていた。いつしか、巨大なチェーン網をつ売ることこそ、男のする仕事と腹に決めていた。
値引き販売するダイエーに対して、花王や松下電器など、大手メーカーが出荷停止を通告。ダイエーは価格決定権は小売にあると主張して対立が深刻化
ダイエーも松下から出荷を停止されている。ダイエーは1964年から松下製品を扱っている。定価の15%引きまでは松下も認めているが、ダイエーは20%引きで売りに出した。直ちに松下はぬ品を拒否してきた。やむなく松下に仕入れルートがわからないような手段でナショナル製品を調達したが、問屋がすぐわかり、出荷停止になる。(略)
メーカーは、良質の商品を生産し、ブランドで保証するのが役割である。しかし、いったん販売店の所有に帰した商品の販売価格、販売方法は商品の所有者である販売業者が決定すべきである。商法に明記されているように、販売業者は事故の計算で取引しているのだから。
ダイエーは株式上場を決定。店舗出店のための借入金が膨れ上がったため、財務体質を改善するため資本市場から調達するために上場を決定
1973年2月期にダイエーは売上高3052億円を記録し、それまで小売業界で日本一の売上高を誇った百貨店・三越を凌駕して日本一の小売業へと躍り出た。創業からわずか10年数年という快挙であり「ダイエー神話」として賞賛を浴びた
1990年代を通じて日本経済はブル崩壊によって株価と土地価格が下落した。この結果、バブル絶頂期に土地を取得(担保)した企業は、土地価格の下落によって膨大な含み損を抱えることとなり、ダイエーも店舗の土地取得で含み損を抱えた。
バブル崩壊によって、店舗の土地価格が下落するとダイエーは巨額の含み損を抱え、返済の見込みが薄い膨大な有利子負債を抱えた。このため、1997年にダイエーは258億円の経常赤字に転落する。
中内功はダイエーの経営から退く形で、経営不振に対する責任をとる。この過程で、中内功は全財産を失って不遇の晩年を迎えつつ、2005年に83歳にて逝去した。