1957
4月

大栄薬品工業(ダイエー)を設立

人物
ダイエー創業者・中内功氏について
ダイエーの創業者は中内功(なかうち・いさお)氏である。1922年に大阪で生まれ、神戸で育った。終戦後の1945年に戦地のフィリピンから復...
創業
千林駅前商店街に安売り店を開業
サカエ薬品の経営を通じて、中内氏は薬業界における「値段の駆け引き」に疑問を抱いた。そこで薬の原価に利潤をプラスして、駆け引きなしで商売を...
仕入
問屋およびメーカーと対立
安売りを試行するダイエーに対して、問屋およびメーカーは問題視した。この頃にはダイエーが売る医薬品に対する風評も盛んとなり、「倒産会社の品...
紛糾
零細小売店と対立
ダイエーは「あらゆる商品を取り揃えて安価で提供する」ことを試行したため、出店先の地元商店街と深刻な対立に陥った。 1962年ごろにおいて...
出店
神戸・大阪で多店舗展開
1958年12月にダイエーは神戸市三宮に店舗を開業。薬品・化粧品・食品に加えて、日用品・衣料品を販売することで、スーパーマーケットの経営...
財務
東海銀行三宮支店が融資。土地担保で積極出店
ベンチャー企業だったダイエーに融資を行ったのが、東海銀行の三宮支店であった。他の銀行は、すでにダイエーの競合となる小売店と取引しており、...
結果
売上高100億円を突破
1963年度にダイエーは売上高116億円を計上し、1957年の創業からわずか6年で100億円企業に成長した。ダイエーの急成長は業界内でも...
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1957年
4月
大栄薬品工業を設立
1957年
9月
大阪市旭区千林にドラッグストアを開店
1958年
12月
神戸市に三宮店を開業
1959年
3月
商号を「株式会社主婦の店」に変更
1962年
7月
商号を「株式会社主婦の店ダイエー」に変更
1962年7月
ダイエー本部を新設

仕入れ業務などの集約を狙い、兵庫県西宮市にダイエー本部を新設。配送センターも兼ねてダイエーの拠点となった

決算
ダイエーの業績
1963年3月期(単体)
売上高
116
億円
当期純利益
2.15
億円
1964年1月
株式会社一徳を買収。全国展開を本格化

ダイエーは神戸・大阪を中心にスーパーマーケットを展開することで業容を拡大したが、首都圏への進出に課題があった。そこで、ダイエーは首都圏を中心に展開する同業の株式会社一徳を買収して「トウキョウダイエー」を設立し、首都圏市場に参入した。なお、首都圏にはイトーヨーカ堂、長崎屋、西友などの手強いライバルが存在した。

1963年
2月
株式会社フクオカダイエーを設立(九州進出)
1964年
1月
株式会社一徳を買収(東京進出)
1964年
2月
株式会社四国ダイエーを設立
1970年
2月
株式会社サンコーと業務提携
証言
中内功(ダイエー創業者)

スーパーの経営者としての私は、ダイエーの第1号店となった千林店を設けた時から、ナショナルチェーンを目指していた。当初からチェーンのビジョンがあったのは、実は理屈ではない。わたしの脳裏には、米国映画で見たドラッグストアのチェーンが強く焼き付いていた。学生時代に見た映画に、ジェームス・キャグニー扮する、不死身のギャングが登場する。ドラッグストアの主人を誘き出しておいて、マシンガンで襲撃する。そんなシーンに登場するドラッグストアを自分も作るのだという気になっていた。いつしか、巨大なチェーン網をつ売ることこそ、男のする仕事と腹に決めていた。

決算
ダイエーの業績
1964年3月期(単体)
売上高
149
億円
当期純利益
1.52
億円
1965年
大手メーカーがダイエーへの出荷を停止

値引き販売するダイエーに対して、花王や松下電器など、大手メーカーが出荷停止を通告。ダイエーは価格決定権は小売にあると主張して対立が深刻化

1965年
花王がダイエーと取引停止
1966年
松下電器がダイエーと取引停止
1975年
花王と和解
証言
中内功(ダイエー創業者)

ダイエーも松下から出荷を停止されている。ダイエーは1964年から松下製品を扱っている。定価の15%引きまでは松下も認めているが、ダイエーは20%引きで売りに出した。直ちに松下はぬ品を拒否してきた。やむなく松下に仕入れルートがわからないような手段でナショナル製品を調達したが、問屋がすぐわかり、出荷停止になる。(略)

メーカーは、良質の商品を生産し、ブランドで保証するのが役割である。しかし、いったん販売店の所有に帰した商品の販売価格、販売方法は商品の所有者である販売業者が決定すべきである。商法に明記されているように、販売業者は事故の計算で取引しているのだから。

決算
ダイエーの業績
1966年3月期(単体)
売上高
233
億円
当期純利益
3.96
億円
1971年3月
大阪証券取引所第2部に株式上場

ダイエーは株式上場を決定。店舗出店のための借入金が膨れ上がったため、財務体質を改善するため資本市場から調達するために上場を決定

決算
ダイエーの業績
1972年2月期(単体)
売上高
2070
億円
当期純利益
22
億円
1973年2月
小売業売上高日本一を達成(三越を凌駕)

1973年2月期にダイエーは売上高3052億円を記録し、それまで小売業界で日本一の売上高を誇った百貨店・三越を凌駕して日本一の小売業へと躍り出た。創業からわずか10年数年という快挙であり「ダイエー神話」として賞賛を浴びた

決算
ダイエーの業績
1973年2月期(単体)
売上高
3052
億円
当期純利益
33
億円
1979年7月
土地の含み益が数千億円に膨張
1984年2月
2期連続で赤字転落(連結)

競合のイトーヨーカドーなどとの競争が激化。ダイエー

決算
ダイエーの業績
1984年2月期(単体)
売上高
12519
億円
当期純利益
65
億円
1990年
バブル崩壊により土地価格が下落

1990年代を通じて日本経済はブル崩壊によって株価と土地価格が下落した。この結果、バブル絶頂期に土地を取得(担保)した企業は、土地価格の下落によって膨大な含み損を抱えることとなり、ダイエーも店舗の土地取得で含み損を抱えた。

決算
ダイエーの業績
1991年2月期(単体)
売上高
18420
億円
当期純利益
89
億円
1997年
赤字転落

バブル崩壊によって、店舗の土地価格が下落するとダイエーは巨額の含み損を抱え、返済の見込みが薄い膨大な有利子負債を抱えた。このため、1997年にダイエーは258億円の経常赤字に転落する。

決算
ダイエーの業績
1998年2月期(連結)
売上高
31632
億円
当期純利益
12
億円
2001年
ダイエー創業者・中内功が経営から退く

中内功はダイエーの経営から退く形で、経営不振に対する責任をとる。この過程で、中内功は全財産を失って不遇の晩年を迎えつつ、2005年に83歳にて逝去した。

決算
ダイエーの業績
2002年2月期(連結)
売上高
22374
億円
当期純利益
-3325
億円
2004年
産業再生機構により経営再建へ

経営危機に陥ったダイエーを再建するため、産業再生機構によるダイエーの経営支援が本格化した。ダイエーは莫大な有利子負債を抱えていたことから、借金返済に追われ、事業の拡大を封じられる。

決算
ダイエーの業績
2005年2月期(連結)
売上高
15926
億円
当期純利益
-5111
億円
2014年
イオンがダイエーをTOB。上場廃止へ

イオンはダイエーのTOBを決め、ダイエーは上場廃止。イオン傘下の子会社として経営再建を行っている

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