江戸時代後期に「初代十合伊兵衛」が大阪本町にて「大和屋」を開業。古着を扱う商家であり、1935年までは十合家によって経営された
転換点は、1877年に大阪の繁華街である心斎橋に移転して「十合呉服店」として開業したことにある。
以後、そごうは心斎橋が繁華街として発展する歩調に合わせて業容を拡大。1919年には株式会社に組織変更。さらに業態を百貨店に転換して旧来の商家スタイルから脱却した。
1933年には神戸の三宮地区に「そごう」の出店を決断。当時の三宮地区は国鉄駅が存在しない商業の空白地帯であったが、国鉄・阪神・阪急の3社が三宮駅への乗り入れを行ったことで商業地として発展。戦後のそごうの経営を支える基幹店舗となった
1930年代を通じてそごうは百貨店の店舗新設(神戸店の開業・心斎橋店の改装)を試みるが、新設にあたって資金繰りが悪化。創業家である十合家は株式を売却する形で経営を失い、地方財閥の板谷家がそごうの経営権を握った。以後、そごうの経営は迷走へ。
終戦によりGHQが本店(大阪・心斎橋)を7ヵ年にわたり接収。戦後復興に遅れ
都心郊外や地方都市に百貨店を新設する道を選択。郊外店と地方店がグループの売上増大に寄与
そごうは横浜駅西口付近に「横浜そごう」を開業した。横浜そごうは日本一の売り場面積の百貨店として大きな話題となり、開業直後の日曜日には18万人を集客する。横浜駅前には、そごうに加えて高島屋が既に存在しており「横浜戦争」とも形容された。
バブル期の「横浜そごう」の開業をはじめとする大量出店によって、1992年時点でそごうは国内外で35店舗を展開する日本最大の百貨店へと変貌した。そごうのグループ売上高は1.4兆円(1991年度・連結ベース)を記録し、百貨店業界では日本一となった。
1990年代を通じて郊外ではショッピングセンター、都心部ではユニクロなどの専門店が台頭したため、百貨店という業態が時代にそぐわなくなった。このため、そごうの業績が悪化し、店舗新設のために借り入れた有利子負債が大きな負担となった。この結果、水島社長は経営責任をとって退任する。