1717年(江戸時代・享保2年)に下村彦右衛門氏が京都伏見において呉服店(現大丸)を開業。享保年間を通じて「京都・大阪心斎橋・名古屋・江戸大伝馬町」の4店舗を展開し、下村氏は呉服商における豪商として知られる存在となった。
1914年4月に大阪店で手形不渡が発生。大丸の債権者は「整理委員会」を発足し、京都店を「合資会社大丸呉服店」、大阪・神戸店を「株式合資会社大丸呉服店」として分割し、経営再建することが決定された。なお、両社は1928年に合併し、株式会社大丸に集約されている。
1920年に梅田店が火災により焼失。資金繰りが悪化し下村家による同族経営が困難となり、株式会社大丸呉服店を設立して資本関係を整理。
大丸の経営再建のために、三越出身の里見純吉氏が大丸の社長代行に就任。従業員の待遇改善や、大阪店および神戸店の増床により、大丸を関西の有力な百貨店として発展させることを志向した。
1920年に大阪店が焼失したことを受けて再建を開始。焼失した周辺の土地を取得することによって店舗の増設を施行した。
1922年に大阪店の新館を開業し、第1期工事を完了。以後、1933年に第4期工事を完了するまで店舗の増設を実施した。増設の結果、本店がメインストリートである御堂筋に接続し、合計1.2万坪の敷地面積を確保。大阪における商業の一等地であった心斎橋で大規模な敷地面積を確保したことから、大丸の店舗一帯は「大丸ブロック」と呼ばれた。
終戦直後から大丸は地方への合弁進出を本格化。進出先の地元企業と合弁会社を設立し、大丸ブランドにより百貨店業を展開した。
進出先は、高知・鳥取・下関・愛媛(新居浜および今治)・博多・長崎であり、西日本が中心であった。このうち、博多大丸は人口の多い商圏に立地する百貨店として、1966年度の時点で地方合弁会社の中で売上高のトップを確保した。
1947年1月に合弁会社「高知大丸」を設立し、同年4月に高知大丸を開業。提携相手は入交太蔵氏などの地元の有力者であった。
店舗は高知市内の帯屋町15にて設置。1956年までに隣接地の土地を取得することで敷地面積を拡大した。1966年度における高知大丸の売上高は24.9億円を計上。
1949年に合弁会社「鳥取大丸」を設立。提携相手は鳥取の有力者である日の丸自動車の社長(米原章三氏)であった。店舗は国鉄鳥取駅前のターミナルビルに設置。1966年度における売上高は約30億円。
終戦直後、住友金属鉱山が新居浜市内で展開する小売業の経営が悪化したことを受けて、大丸による救済を実施。当時の大丸の社長であった北澤慶二郎氏が住友出身であったことから、大丸による救済に至った。1951年9月に大丸が増資を引き受ける形で出資して、株式会社別紙大丸を設立した。
1952年11月に株式会社博多大丸を合弁で設立。提携相手は東邦生命(太田清蔵社長)であり、地元商業の発展と、不動産賃貸収入のために大丸を誘致した。
博多大丸は福岡市呉服町に店舗を新設。新築された東邦生命ビルに入居した。1966年度における売上高は46億円であり、大丸の地方合弁会社の中で最大規模であった。
1950年9月に合弁会社として下関大丸を設立。下関商工会議所が地元商業の発展のために誘致を計画し、地元の有力企業であった大洋漁業が合弁会社に出資した。1950年11月に下関大丸を開業し、1959年に店舗を国鉄下関駅前に新設移転した。1966年度の売上高は30億円。
会社名 | 提携先 | 設立年 | 売上高(FY1966) |
高知大丸 | 入交氏(地元有力者) | 1947年 | 24.9億円 |
鳥取大丸 | 日の丸自動車 | 1949年 | 30.0億円 |
別子大丸 | 住友財閥 | 1951年 | 非開示 |
博多大丸 | 東邦生命 | 1952年 | 46.0億円 |
下関大丸 | 大洋漁業 | 1950年 | 30.0億円 |
1950年4月に北澤敬二郎氏が大丸の社長に就任。北澤氏は住友本社の役員を歴任した人物であったが、戦後の財閥解体で解職されていた。そこで、当時の大丸の社長であった里見氏が北澤氏の手腕を高く評価し、大丸の社長として抜擢した。このため、北澤社長は大丸出身の社長ではなく、住友出身の社長として異例の就任となった。
北澤氏は社長就任の3年前から、大丸の社長就任に備えた事業課題の洗い出しを実施。この過程で、戦時中に中国大陸で勤務していた人員の帰国により固定費が増大したことを問題視した。終戦直後の大丸はGHQの店舗接収によって百貨店事業の展開が制限されており、百貨店とは関係のない事業(グループ14社)で人員を吸収していたが、大丸の収益悪化の要因となっていた。
そこで、北澤氏は社長就任とともに大丸の経営改革を実施。余剰人員の問題を解消しつつ、本業の百貨店業に回帰するため、店舗の新設を計画した。
1954年に大丸(北澤敬二郎・社長)は東京への進出を決定。当時国鉄が計画していた東京駅八重洲口でのターミナルビル(地上12階)「鉄道会館」の建設を受けて、駅ビルに入居する形で「東京店」の新設を決断した。
北澤社長は、すでに1951年にビルの建設を知り、当時の国鉄総裁(長崎氏)に大丸による賃借の要望を出して交渉を開始した。当時の国鉄は資金難の状況であり、資金調達も容易ではなかったため、巨額の建設費用の捻出に苦労していた。そこで、大丸は入居保証金として9.3億円を国鉄(鉄道会館)に対して拠出することで、国鉄側はターミナルビルの建設費用として活用。実質的に大丸が建設したビルとなり、この経緯から大丸の入居が決定した。
投資額は入居保証金などを含めた合計15億円であり、当時の大丸の資本金5億円に対して2倍の規模であった。投資資金の調達は、金融機関(生命保険・長期信用銀行・住宅金融など)からの借入や社債発行が中心であり、大丸としては社運を賭けたプロジェクトとなった。
大丸による東京進出にあたって、社内や大丸の利害関係者の間では反対意見が噴出した。
当時の東京駅は皇居側の「丸の内」がメインの改札であり、反対側に位置する「八重洲口」の周辺は発展に乏しい状況であった。大丸の入居先である鉄道会館の周辺は、江戸城の外堀が埋め立てられた土地であり、丸太や瓦礫が捨てられる荒涼とした地域であったという。このため、一見すると商業地として発展する見込みが考えにくい土地であり、反対意見の噴出は合理的なものであった。
反対論に対して、大丸の北澤社長は田中常務に命じて緻密な調査を実施。年々、東京駅における「八重洲口」の利用者数が「丸の内」と比べて増えていることを示し、八重洲口が将来有望であるという説得材料とした。
なお、仮に東京店の経営に失敗した場合、北澤社長は辞任する旨を、大丸の創業家である下村家に伝えていたという。
1954年10月21日に大丸は東京店を鉄道会館にて開業。大丸としては明治時代に撤退した東京店、大正時代に撤退した東京出張所を経ており、東京店の新設は3度目の東京進出であった。この経緯から、北澤社長は東京店の開店は、東京への復帰であることを主張した。
開店時から業績は好調に推移し、大丸4店舗(大阪心斎橋・京都・神戸・東京)のうち、売上高で最大の店舗となった。それまでの旗艦店であった大阪店と比べて、東京店は売場面積あたりの売上効率も良く、集客力に長けた店舗となった。
1960年代を通じて東京駅の八重洲口が発展。1964年には八重洲口側に東海道新幹線が開業するなど、八重洲口周辺の開発が進行し、結果として東京店における集客力が向上した。東京店の業績好調を受けて、1961年に大丸は国内の百貨店において売上高トップを確保。1968年まで百貨店業界で売上トップをキープした。
また、収益性の観点では、東京店の開業にあたって、300名の社員を東京店の配属とし、大丸の懸案であった中堅層の余剰人員の解消も実現。東京店の稼働によって、利益率の改善にも寄与した。
店舗名 | 最寄駅 | 売上高 | 売場面積 | 備考 |
東京店 | 東京駅 | 54億円 | 5,762 | 鉄道会館を賃貸 |
大阪店 | 心斎橋駅 | 52億円 | 7,824坪 | 土地を自社保有 |
京都店 | 烏丸駅 | 29億円 | 5,160坪 | 土地を自社保有 |
神戸店 | 元町駅 | 33億円 | 5,656 坪 | 土地を一部保有 |
経営上のネックである中堅層の過剰は、依然解消されていない。結局これを解決するには、大きな事業場を新しく造り出して転出させるほかなかった。
大きな事業場---それは東京以外にない。私はひそかに東京進出を狙っていた。昭和26n円、あれこれ研究しているさなか、たまたま東京駅八重洲口に民衆駅を作る計画があるのを知った。(略)
こうして大丸は東京へ進出したが、社内外の反対派相当激しかった。それもそのはず、あの土地はもと外堀の一部で、これを埋め立てる以前は、がれき、コンクリートの破片、丸太などが捨ててあり、まことに荒涼タル状態だった。また木造バラック建の駅舎を見ても、こんな場所で百貨店が繁盛しようとは誰一人思わんかった。はっきりと中止を勧告してきた友人もあり、所用資金の貸し出しを渋る取引銀行もあった。また、内部では新社長の冒険に表面だったhなたいをしないまでも、不安な面持ちで批判するものがかなりいたようだ。同業者はもちろん問題にもしなかった。
しかし、私としては田中常務の調査結果が有望と出たうえ、バルフォアの言まで思い浮かべて決心したことであるから、決意は微動だにせず実行にまい進した。
高級スーパーマーケットに進出するため、1960年に大丸ピーコックを設立。1960年9月に大阪にて「香里店」を開業し、スーパー事業に参入した。1964年には東京1号店となる「青山店」を新設し、都心部における高所得者層を狙って店舗展開を志向した。
国内百貨店業界の売上高で、1969年2月期に大丸は1位から2位に転落。競合の三越が百貨店業界の売上高トップとなり、売上競争で大丸は劣勢となった。
百貨店業界で大丸の売上高首位が陥落したことを受けて、大規模な組織改革を決定。1971年2月に社員6000名の人事異動(全社員の約2/3)を実施し、既存部門における人員のスリム化と新規部門への人員の配置転換を決定した。
1978年1月に大丸(井狩弥治郎氏・社長)は大阪駅ビルに、売場面積3.8万平方メートルの大型店として「梅田店」の出店を決断。新設される大阪駅新ビル「アクティ大阪」に入居する形で、国鉄大阪駅と直結したターミナル型の百貨店を志向した。
梅田店の新設に際して、大丸は約500億円の投資を計画し、開業後の梅田店に従事する従業員数は2000名を予定した。当時の大丸の資本金は100億円であり、相応のリスクを伴った出店となった。
このため、大丸としては、東京店(東京駅八重洲口)の開業に匹敵するプロジェクトであった。このため当時の識者からは「背水の陣で大勝負に出る大丸」「社運を賭けた巨額投資」と言われた。
大丸は「ミナミ」の繁華街である心斎橋で大阪店を営業していたが、手薄であった「キタ」の商業地である大阪駅周辺の梅田地区に進出することにより、大阪地区の2大商業地を網羅する狙いがった。
ただし大阪駅の商圏(国鉄大阪駅・阪急梅田駅・阪神梅田駅の一帯)においては、阪急梅田駅に直結する阪急百貨店、阪神梅田駅に直結する阪神百貨店の2店舗がすでに存在しており、大丸による大阪駅への進出は後発に相当した。このため、大丸梅田店の開業による販売競争は「梅田流通戦争」と呼ばれた。
1983年4月27日に大丸は梅田店を開業。国鉄大阪駅前のビル「アクティ大阪」の地下2階〜地上14階において開業し、店舗面積は3.8万平方メートルに及んだ。
初年度の売上目標として650億円を掲げたが、実績値として売上高437億円に着地。梅田店の開業は想定目標を下回るスタートを切った。
大阪新駅ビルの核店舗として、多くの百貨店の中から、最終的に大丸が選ばれた理由は、260年余の伝統と信用が評価されたためである。大阪新駅ビル、全国に残された最高と言っておお大型百貨店ん立地である。しかも、今後の都市交通、あるいは都市における市民の生活行動を展望するとき、ターミナルの有利性はますます高まる。大丸のこの大阪駅ビルの出店は、将来の飛躍発展の原動力となる。
完全子会社である八王子大丸が運営する大丸八王子店の閉鎖を決定。特別損失として50億円を計上し、損失を相殺するために有価証券(取引先の銀行株式)の売却を実施した。
1997年に下村正太郎氏が社長を退任し、後任に奥田勉氏が社長に就任。創業以来、長らく大丸の社長を歴任した下村家は、12代目の下村正太郎氏の退任によって、経営トップの座を退いた。
大丸に限らず、人によっては百貨店という業態そのものが役目を終えたという声さえ聞こえてきます。創業から280年を超える歴史を刻んできた大丸にとって、創業以来最大の危機に瀕しています。米国流の経営改革に学んで、外資も巻き込んだ競争に勝ち抜くための強い体質を作ることはもちろん必要です。
しかし、長さだけを誇るわけではありませんが、米国の歴史よりも長い時間を生き続けてきた先人の知恵に学ぶべき点も多いはずです。百貨店にしかできない「義」のあり方を追求していけば、活路は必ず開けると信じています。