| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1970/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 295億円 | 2億円 | 0.7% |
| 1976/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 350億円 | 3億円 | 1.1% |
| 1977/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 396億円 | 1億円 | 0.2% |
| 1978/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 431億円 | 4億円 | 1.0% |
| 1979/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 471億円 | 3億円 | 0.7% |
| 1980/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 531億円 | 4億円 | 0.9% |
| 1981/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 632億円 | 7億円 | 1.1% |
| 1982/5 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 720億円 | 7億円 | 1.0% |
| 1983/6 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 836億円 | 9億円 | 1.1% |
| 1984/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 923億円 | 15億円 | 1.6% |
| 1985/7 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,311億円 | 21億円 | 1.6% |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,542億円 | 25億円 | 1.6% |
| 1994/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,526億円 | 15億円 | 0.9% |
| 1995/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,528億円 | 8億円 | 0.5% |
| 1996/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,615億円 | 6億円 | 0.3% |
| 1997/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,568億円 | -359億円 | -22.9% |
注目すべきは、正札販売が単なる値付けの変更ではなく、掛売廃止による現金回収の徹底を伴っていた点にある。熱海は旅館向け卸が主力であり、掛売が常態化していた商圏で現金決済への切り替えは取引先の離反リスクを伴う。和田良平氏がこの判断に踏み切った背景には、商業界・倉本長治氏の指導があり、仕入資金の回転速度を高めることで廉価販売を持続可能にする収益構造への転換が意図されていた。結果として1960年代の伊豆半島でのチェーン展開を支える資金基盤が形成された。
1950年代半ばの日本の小売市場では、物資不足の記憶がなお残り、価格は交渉によって決まるのが一般的であった。食品や日用品の価格は店ごとに異なり、消費者は相場を十分に把握できないまま購買を行う状況に置かれていた。とくに地方都市においては、価格の不透明さが日常的な不満として蓄積していた。
当時の小売業は、対面販売を前提とした商習慣の中で成り立っており、価格設定は店主の裁量に委ねられていた。値引きや掛売は常態化し、現金決済よりも信用取引が優先される場面も多かった。この構造は、消費者にとって利便性がある一方で、支払い総額や価格妥当性を判断しにくい側面を持っていた。
戦後復興が進み、生活必需品の供給が安定し始める中で、消費者の関心は「買えるか」から「いくらで買えるか」へと移行していた。しかし、小売現場の慣行は必ずしもその変化に対応しておらず、価格の透明性と信頼性をいかに確保するかが、次第に課題として意識されるようになっていた。
こうした環境の下、ヤオハンは1956年に現金正札廉価販売の導入を決断した。すべての商品に価格を明示し、値引き交渉を行わず、現金決済を原則とする販売方式への転換であった。この判断は、当時の小売業の慣行から見れば異例の取り組みであった。
現金正札廉価販売は、販売側にとっても大きな転換を伴っていた。掛売を廃し、現金回収を徹底することで、仕入資金の回転を早める必要があった。また、価格を下げるためには、仕入条件や在庫管理の見直しが不可欠であり、従来以上に効率的な運営が求められていた。
それでもこの方式が採用された背景には、価格の透明性を通じて消費者の信頼を獲得する狙いがあった。正札によって誰に対しても同じ価格を提示し、廉価を継続することで、日常的に利用できる店としての位置づけを明確にする意図があった。1956年の決断は、短期的な売上よりも、長期的な顧客との関係構築を重視した販売方式への転換であった。
注目すべきは、正札販売が単なる値付けの変更ではなく、掛売廃止による現金回収の徹底を伴っていた点にある。熱海は旅館向け卸が主力であり、掛売が常態化していた商圏で現金決済への切り替えは取引先の離反リスクを伴う。和田良平氏がこの判断に踏み切った背景には、商業界・倉本長治氏の指導があり、仕入資金の回転速度を高めることで廉価販売を持続可能にする収益構造への転換が意図されていた。結果として1960年代の伊豆半島でのチェーン展開を支える資金基盤が形成された。
熱海では現金販売は成り立たないであろうといわれていた昭和三十一年、ヤオハンは、商業界倉本先生の御指導を受け、父と母の偉大な決断によって、現金正札価販売を断行し、総合食品店として新たなる出発をしたのである。現金販売を断行するためには、膨大な売掛金が回収出来るだろうか、大口消費者である旅館から、今までどおり買ってもらえるか、リベート廃止問題、その他諸問題が山積していたが、最終的に、店がお客のためにあるものならば、特に生鮮食品において、日本一物価が高いといわれた熱海において、何とか近隣他都市と同じような価格で販売することは出来ないものだろうかー現金正札廉価販売システム断行への道を真剣に求めたのであった。最終的に、創業者和田良平社長は勇気をもって、それまでの旅館掛売販売を取り止め、全面的に現金正札販売を断行したのである。
1969年に和田一夫氏がブラジルを訪問し、同年8月に出店を正式決定、1971年9月にピニエーロス店を開店するまでの意思決定は比較的短期間である。注目すべきは1号店が開店翌年に年間売上目標20億円を達成した点で、この初動の成功が1973年以降の2号店・3号店への連続出店を後押しした。しかし1975年のブラジル政府の金融引き締めで環境が一変し、1977年には社員750名の半数削減に至る。初動の成功体験が撤退判断を遅らせた可能性がある。
当時社長であった和田一夫氏は、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、日本の小売市場における競争環境が大きく変化していると捉えていた。スーパーマーケットの普及により、価格と品揃えを軸とした競争が各地で激化し、同一商圏内での競合は明らかに増えていた。店舗数を増やすだけで成長できた時代は終わりつつあり、国内市場は次第に消耗戦の様相を帯びていた。
一方で、当時の日本企業にとって海外進出は製造業が中心であり、小売業が国外に店舗を構える例はほとんど見られなかった。とりわけ地理的にも文化的にも距離のある南米市場は、日本企業にとって選択肢として認識されにくい地域であった。和田氏は、国内市場の競争が激しくなる中で、成長の場を国内に限定し続けること自体が、経営判断を狭める要因になり得ると考えていた。
こうした認識の下、和田一夫氏は1971年9月、ブラジルに店舗を開店する決断を下した。当時、日本の小売企業が南米に出店することは極めて異例であり、成功事例もほとんど存在していなかった。それでも和田氏は、国内競争の延長線上では得られない経験を積む必要があると判断していた。
進出先としてブラジルが選ばれたのは、日系人社会の存在に加え、人口規模と消費市場としての将来性が意識されたためであった。和田氏は、日本で確立していた現金正札廉価販売の方式をそのまま適用できるとは考えておらず、商慣習や価格感覚の違いを前提として、現地ニーズに即した経営を志向し、「流通のソニーになる」目標を掲げた。
1969年に和田一夫氏がブラジルを訪問し、同年8月に出店を正式決定、1971年9月にピニエーロス店を開店するまでの意思決定は比較的短期間である。注目すべきは1号店が開店翌年に年間売上目標20億円を達成した点で、この初動の成功が1973年以降の2号店・3号店への連続出店を後押しした。しかし1975年のブラジル政府の金融引き締めで環境が一変し、1977年には社員750名の半数削減に至る。初動の成功体験が撤退判断を遅らせた可能性がある。
香港本社設置の意思決定そのものより、それを支えた資金調達の規模に注目すべきである。総額約600億円の社債発行は当時の年間経常利益を大きく上回り、中国消費市場の将来成長を前提とした調達であった。1994年時点で有利子負債は1200億円に膨張しており、社債の償還原資を中国事業の収益で賄う計画は実現しなかった。同時期に国内では1993年から経営指導料の架空計上(粉飾)が始まっており、海外拡大と国内収益悪化が並行して進行していた構造が読み取れる。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、中国は改革開放政策の進展により経済構造を大きく変えつつあった。沿岸部を中心に外資の導入が進み、香港は中国と国際市場をつなぐ金融・物流の拠点として存在感を高めていた。一方で、小売・流通分野は未整備な部分が多く、近代的な流通システムは十分に浸透していなかった。
和田一夫氏は、日本が高度経済成長期に経験した「所得増加→消費拡大→流通革新」の流れが、時間差をもって中国でも起こると見ていた。製造業主導で発展してきた中国経済は、やがて内需と消費を軸とする段階に移行し、その際に流通業が果たす役割は大きくなると考えていた。
当時、日本企業の中国進出は製造業が中心であり、小売業が中国市場を本格的に視野に入れる例は限られていた。和田氏は、この空白こそが機会であると捉え、将来の消費市場を見据えた布石として、中国への拠点設置を検討していた。
こうした認識の下、和田一夫氏は1990年、ヤオハングループの拠点を香港に設置する決断を下した。香港を中国進出の前線基地と位置づけ、情報、人材、資金を集約することで、中国市場への本格展開を見据えた体制を整える狙いがあった。この判断は、日本の流通企業としては先行的なものであった。
和田氏は、中国進出を段階的に進めるためには、相応の資金力が不可欠であると認識していた。そのため1990年代前半にかけて、総額約600億円に及ぶ社債を発行し、成長投資に充てる構想を描いていた。この規模は当時の年間経常利益を大きく上回るものであり、将来成長を前提とした積極的な資金調達であった。
香港本社の設置と大規模な資金調達は、和田氏が「流通業のソニーになる」と掲げた構想の一環であった。製造業が技術で世界に打って出たように、流通業も仕組みと展開力で国境を越えられるという発想が、中国出店への意思決定を支えていた。
香港本社設置の意思決定そのものより、それを支えた資金調達の規模に注目すべきである。総額約600億円の社債発行は当時の年間経常利益を大きく上回り、中国消費市場の将来成長を前提とした調達であった。1994年時点で有利子負債は1200億円に膨張しており、社債の償還原資を中国事業の収益で賄う計画は実現しなかった。同時期に国内では1993年から経営指導料の架空計上(粉飾)が始まっており、海外拡大と国内収益悪化が並行して進行していた構造が読み取れる。