熱海の旅館向けに野菜を販売していた「八百半」から暖簾分けする形で、1930年に和田良平が「八百半熱海支店」(現在のヤオハン)を創業した。創業当初は熱海に点在する温泉旅館向けの「野菜卸」の事業を主軸としたが、収益性は低かったという。
1950年代半ばの日本の小売市場では、物資不足の記憶がなお残り、価格は交渉によって決まるのが一般的であった。食品や日用品の価格は店ごとに異なり、消費者は相場を十分に把握できないまま購買を行う状況に置かれていた。とくに地方都市においては、価格の不透明さが日常的な不満として蓄積していた。
当時の小売業は、対面販売を前提とした商習慣の中で成り立っており、価格設定は店主の裁量に委ねられていた。値引きや掛売は常態化し、現金決済よりも信用取引が優先される場面も多かった。この構造は、消費者にとって利便性がある一方で、支払い総額や価格妥当性を判断しにくい側面を持っていた。
戦後復興が進み、生活必需品の供給が安定し始める中で、消費者の関心は「買えるか」から「いくらで買えるか」へと移行していた。しかし、小売現場の慣行は必ずしもその変化に対応しておらず、価格の透明性と信頼性をいかに確保するかが、次第に課題として意識されるようになっていた。
こうした環境の下、ヤオハンは1956年に現金正札廉価販売の導入を決断した。すべての商品に価格を明示し、値引き交渉を行わず、現金決済を原則とする販売方式への転換であった。この判断は、当時の小売業の慣行から見れば異例の取り組みであった。
現金正札廉価販売は、販売側にとっても大きな転換を伴っていた。掛売を廃し、現金回収を徹底することで、仕入資金の回転を早める必要があった。また、価格を下げるためには、仕入条件や在庫管理の見直しが不可欠であり、従来以上に効率的な運営が求められていた。
それでもこの方式が採用された背景には、価格の透明性を通じて消費者の信頼を獲得する狙いがあった。正札によって誰に対しても同じ価格を提示し、廉価を継続することで、日常的に利用できる店としての位置づけを明確にする意図があった。1956年の決断は、短期的な売上よりも、長期的な顧客との関係構築を重視した販売方式への転換であった。
熱海では現金販売は成り立たないであろうといわれていた昭和三十一年、ヤオハンは、商業界倉本先生の御指導を受け、父と母の偉大な決断によって、現金正札価販売を断行し、総合食品店として新たなる出発をしたのである。現金販売を断行するためには、膨大な売掛金が回収出来るだろうか、大口消費者である旅館から、今までどおり買ってもらえるか、リベート廃止問題、その他諸問題が山積していたが、最終的に、店がお客のためにあるものならば、特に生鮮食品において、日本一物価が高いといわれた熱海において、何とか近隣他都市と同じような価格で販売することは出来ないものだろうかー現金正札廉価販売システム断行への道を真剣に求めたのであった。最終的に、創業者和田良平社長は勇気をもって、それまでの旅館掛売販売を取り止め、全面的に現金正札販売を断行したのである。
ヤオハンの社長に創業家の和田一夫が就任。熱海の1店舗だけであったが、1960年代を通じて伊豆半島(熱海・三島・沼津)にスーパーを新設することで、地域密着型の店舗展開によって業容を拡大する。なお、和田一夫は熱心な信仰家(生長の家)でもあり、ヤオハンの経営にも信仰心が生かされたという。
当時社長であった和田一夫氏は、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、日本の小売市場における競争環境が大きく変化していると捉えていた。スーパーマーケットの普及により、価格と品揃えを軸とした競争が各地で激化し、同一商圏内での競合は明らかに増えていた。店舗数を増やすだけで成長できた時代は終わりつつあり、国内市場は次第に消耗戦の様相を帯びていた。
一方で、当時の日本企業にとって海外進出は製造業が中心であり、小売業が国外に店舗を構える例はほとんど見られなかった。とりわけ地理的にも文化的にも距離のある南米市場は、日本企業にとって選択肢として認識されにくい地域であった。和田氏は、国内市場の競争が激しくなる中で、成長の場を国内に限定し続けること自体が、経営判断を狭める要因になり得ると考えていた。
こうした認識の下、和田一夫氏は1971年9月、ブラジルに店舗を開店する決断を下した。当時、日本の小売企業が南米に出店することは極めて異例であり、成功事例もほとんど存在していなかった。それでも和田氏は、国内競争の延長線上では得られない経験を積む必要があると判断していた。
進出先としてブラジルが選ばれたのは、日系人社会の存在に加え、人口規模と消費市場としての将来性が意識されたためであった。和田氏は、日本で確立していた現金正札廉価販売の方式をそのまま適用できるとは考えておらず、商慣習や価格感覚の違いを前提として、現地ニーズに即した経営を志向し、「流通のソニーになる」目標を掲げた。
「流通業のソニーになる」という目標を達成するために、ヤオハンはシンガポールに進出した。
1973年のオイルショックによって世界経済が不況に陥ると、ブラジルヤオハンの業績が悪化。経営支援のための送金がブラジル政府によって制限されたこともあり、ヤオハンはブラジルヤオハンを倒産させることを決めた。
ブラジル事業では失敗を被ったものの、ヤオハンはシンガポール事業と、国内事業によって堅調に業容を拡大。1982年に株式上場を果たす。
1980年代を通じてヤオハンはシンガポールやマレーシアなどの東南アジアを中心に店舗網を拡大し、日本小売業界では異例とも言える海外店舗を22店(1989年時点)を運営した。このため、ヤオハンは経済メディアから「流通界の国際派No.1」(1989/2/13日経ビジネス)として賞賛され、和田一夫の経営に注目が集まる。
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、中国は改革開放政策の進展により経済構造を大きく変えつつあった。沿岸部を中心に外資の導入が進み、香港は中国と国際市場をつなぐ金融・物流の拠点として存在感を高めていた。一方で、小売・流通分野は未整備な部分が多く、近代的な流通システムは十分に浸透していなかった。
和田一夫氏は、日本が高度経済成長期に経験した「所得増加→消費拡大→流通革新」の流れが、時間差をもって中国でも起こると見ていた。製造業主導で発展してきた中国経済は、やがて内需と消費を軸とする段階に移行し、その際に流通業が果たす役割は大きくなると考えていた。
当時、日本企業の中国進出は製造業が中心であり、小売業が中国市場を本格的に視野に入れる例は限られていた。和田氏は、この空白こそが機会であると捉え、将来の消費市場を見据えた布石として、中国への拠点設置を検討していた。
こうした認識の下、和田一夫氏は1990年、ヤオハングループの拠点を香港に設置する決断を下した。香港を中国進出の前線基地と位置づけ、情報、人材、資金を集約することで、中国市場への本格展開を見据えた体制を整える狙いがあった。この判断は、日本の流通企業としては先行的なものであった。
和田氏は、中国進出を段階的に進めるためには、相応の資金力が不可欠であると認識していた。そのため1990年代前半にかけて、総額約600億円に及ぶ社債を発行し、成長投資に充てる構想を描いていた。この規模は当時の年間経常利益を大きく上回るものであり、将来成長を前提とした積極的な資金調達であった。
香港本社の設置と大規模な資金調達は、和田氏が「流通業のソニーになる」と掲げた構想の一環であった。製造業が技術で世界に打って出たように、流通業も仕組みと展開力で国境を越えられるという発想が、中国出店への意思決定を支えていた。
ヤオハングループは、現金正札廉価販売を起点として成長し、国内外で店舗網を拡大していった。1960年代以降のチェーン展開に加え、1970年代以降は海外進出を本格化させ、アジア、南米、中国へと事業領域を広げていった。小売業としては異例の速度と規模での拡大であった。
とくに1980年代後半から1990年代にかけては、海外展開と国内事業の並行拡大が進み、グループ全体の規模は急速に膨らんでいった。ピーク時には世界16ヵ国に約450店舗を展開し、年商は約5,000億円、従業員数は約1万8,000人に達していた。ヤオハンは名実ともに国際流通グループとして認知される存在となっていた。
一方で、急拡大の裏側では、国内事業の競争環境が厳しさを増していた。スーパーマーケット業界では価格競争が激化し、収益構造は徐々に圧迫されていた。海外事業の成長が注目される中で、国内事業の収益力低下は相対的に見えにくくなっていた。
1997年9月18日、ヤオハングループは経営破綻に至った。負債総額は約1,600億円に上り、当時の流通業としては過去最大規模の倒産であった。グループ各社は整理・売却され、展開していた世界各地の店舗網も解体されることとなった。
倒産の直接的な引き金は資金繰りの行き詰まりであったが、背景には複合的な要因が存在していた。海外事業そのものが失敗したというよりも、拡大路線が続く中で、国内事業の不振に十分な手当てができなくなっていた点が大きかった。収益基盤である国内事業の弱体化が、全体の財務バランスを崩していた。
また、グループ全体を統括する財務管理やリスク管理の機能が十分に機能していなかったことも影響した。資金調達の複雑化、同族経営による牽制機能の弱さ、危機の兆候に対する対応の遅れが重なり、経営判断の修正が後手に回っていた。結果として、巨大化した組織を支える統制力が追いつかなくなっていた。
倒産後、グループ会長であった和田一夫氏は、すべての役職を辞任し、経営の第一線から退いた。銀行融資に対する個人保証もあり、和田氏は私財を失い、事実上無一文の状態となった。68歳での再出発であった。
しかし、和田氏は経営者としての活動を終えたわけではなかった。翌年には経営コンサルティング業務を開始し、自身の成功と失敗の経験をもとに企業支援に関わるようになった。その後、中国企業の経営戦略顧問に就任するなど、活動の場を再び海外へと広げていった。
晩年に至るまで、和田氏は国際経営コンサルタントとして日中両国で活動を続けていた。ヤオハンの倒産は経営人生における大きな挫折であったが、その経験は、経営の危機管理や成長の限界を語る実例として、次世代の経営者に共有されるものとなっていった。x