大塚家具の創業者は、タンス職人であった大塚勝久氏である。春日部は家具生産が盛んな土地であり、大塚勝久氏もタンス職人の家に生まれ育った。ただし、大塚勝久氏は「家具製造」ではなく「卸・小売」を主体とし、優れた家具をコーディネートする部分に価値を置いた点で、独創的なビジネスを志向した。
家具の小売業に本格参入するため、1971年に春日部駅前に店舗を新設した。春日部駅は東武鉄道の主要駅であり、十分な来客が見込める土地柄であった。
当時の家具業界では百貨店が主要な小売業として君臨しており、高級品として取り扱われていた。そこで、大塚家具は百貨店を介さずに自ら小売業を手がけることによって「百貨店よりも3割やすく家具を販売する」という方針を掲げることによって消費者の支持を獲得した。なお、大塚勝久は「三越の経営を私にやらせれば売上を倍にしてみせる」(1979/4/9日経ビジネス)と語り、百貨店業界からの顰蹙を買うなど、大塚家具と老舗百貨店の対立構造が鮮明となった。
東京進出の本格化に備えて、創業の地である埼玉県春日部から東京九段下に移転した。
発祥の地が埼玉県春日部という関係上、大塚家具は埼玉県内での出店が主軸であったが、多店舗展開を目指した。なお、大塚家具は大店法を避けるために、ボーリング場跡地やスーパー跡地を活用するなど、政治規制の範囲内で店舗の大型化を推し進めた。
1970年代を通じて首都圏の郊外に戸建て住宅が大量に建設されたことで、プレハブに適合した大型家具の需要が急伸し、大塚家具は急成長を遂げた。この結果、株式の店頭公開を果たす。
国内シェア1位(販売高1%)を確保。1999年度に家具関連企業が190社倒産する中で、大塚家具は過去最高収益を達成して注目が集まった
2000年代を通じて戸建てにはクローゼットなどの収納が事前に備え付けられる家が一般化し、大塚家具が主戦場としてきた「大型家具」という市場の縮小が決定的となった。加えて家具業界では、東南アジアにおける調達に強みのあるニトリが急成長を遂げ、大塚家具を取り巻く競争環境が悪化。この結果、2008年に大塚家具は最終赤字に転落し、売上も伸び悩みに転じる。