北二郎ら3人兄弟で阪和商会を設立。創業時は様々な商品を取り扱っており、特にユニークな点はなかった。
阪和興業は鉄鋼商品の取り扱いを拡大するために鋼材クラブに加入したが、八幡製鉄や富士製鐵といった鉄鋼メーカーの指定問屋ではなかった。それでも、北茂が中心となって学生時代の人脈をたどって営林局などの納入先を開拓。阪和興業はダム建設現場向けの鉄道用の軽レールを納入するなど、鉄鋼商社として頭角を現す。
鉄鋼製品の即納体制を確立するために、大阪梅田に倉庫を新設。以後、全国各地に倉庫を建設することで、阪和興業は「即納体制の整った商社」として業界内でユニークなポジションを確保する。
即納体制を充実させるために、大阪に倉庫を新設
即納体制を充実させるために、東京江東区に倉庫を新設
即納体制を充実させるために、千葉に倉庫を新設
大阪証券取引所第2部に上場
阪和興業の倉庫は大阪と東京に集中していたが、自動車産業の成長が著しい名古屋(愛知県)に進出
北家の兄弟の末弟の北茂が社長に就任。本業の鉄鋼ではなく、財テクを本格化させる。
積極的な資金運用によって阪和興業は財テクにより莫大な利益を確保。1985年には153億円だった資本金は、わずか5年後の1990年には1414億円へと増大し、財テクの成功企業としてもてはやされた。
バブル崩壊により、阪和興業は財テクの損切りを決断。上場企業としては異例となる1200億円の特別損失を計上し、本業への回帰に方針転換する。
財テクによる損失の責任をとり、北茂が社長を退任。後任として北修爾が社長に就任した。
1994年以後、阪和興業は財テク損失の清算ために8期連続の無配に転落していたが、2002年に配当を復活した。
リーマンショック直前の2008年3月期に阪和興業は212億円の経常利益を計上。中国における旺盛な鉄鋼需要による鉄鋼市況の高騰が、阪和興業の利益の下支えとなった。
阪和興業はクロム鉱石採掘およびフェロクロム生産のために投資した南アフリカの「SAMANCOR」に関する減損を273億円計上。全社で125億円の経常赤字に転落した。