1909年7月1日(明治37年)に、当時31歳だった安宅弥吉氏は貿易ビジネスに参入するために「安宅商会」を個人創業した。従業員数は約10名であり、安宅弥吉がそれまで勤務していた貿易組織「日森洋行」の社員で構成された。
本店を大阪市船越に構えて、海外拠点として香港支店を設置した。創業当初の貿易ビジネスは、輸入では中国香港から日本への米産品、輸出では日本から中国天津への綿製品を取り扱っていた。
その後、取り扱い商品は、地金(鉛・亜鉛・錫・銅・アンチモン)の輸入が中心となり、大正時代には「地金の安宅」と呼ばれた。地金取引が盛んな香港という立地条件を生かして、安宅商会は地金を輸入して、日本国内のメーカーに納入することで業容を拡大した。
日本国内の販売先は下記の通りであり、いずれも日本を代表するメーカーとして発展する会社であった。
鉛:住友電線、藤倉電線、日本ペイント
亜鉛:日本ペイント、堺化学、住友伸銅所
錫:川崎造船所、八幡製鐵所
銅:住友電線、藤倉電線
よって、創業期から安宅商会は国内メーカーを顧客として取引をしており、これらの関係性が安宅商会の特色になった。
1914年に勃発した第一次世界大戦によって世界的に物資不足になると、戦禍を逃れた日本の商社がグローバルで取引を拡大。安宅商会も第一次世界大戦による好景気の恩恵を受けて業容を拡大した。
1919年に安宅商会は、それまでの個人経営を改めて、株式会社として「安宅商会」を設立して近代的な会社組織に体制を変更。1943年には社名を「安宅産業」に変更している。
戦前を通じて安宅産業は「海外貿易」ではなく、国内のトップメーカー取引をすることで、内地取引を拡大する方針を遂行した。
鉄鋼では日本製鐵(=八幡製鐵所)からの仕入れ、産業機械では津田駒工業(織機)と日立製作所からの仕入れ、化学肥料では日本窒素とイビデンからの仕入れ、パルプでは王子製紙からの仕入れ、毛織物では日本毛織からの仕入れなど、各業界のトップメーカーと取引をすることで、国内取引に強みがある商社として業容を拡大した。
1930年代には米国の有力工作機メーカーであったグリーソン(Gleason)の代理店になり、機械の国内販売を請け負うようになった。こちらも、販売先は日本国内のメーカーであり、国内の顧客基盤が強い点で一貫していた。
なかでも特に、鉄鋼の取引が重要であった。1926年に安宅産業は八幡製鐵(日本製鐵)から指定商として認定され、鉄鋼販売を担う1社として任された。このため、指定商は三井・三菱などの大手財閥に限られた特権であり、安宅産業も鉄鋼の販売権を確保した。主な販売先は造船メーカーであり、川崎重工業(旧川崎製鉄・川崎造船所)などであった。
なお、メーカー以外では、安宅産業は木材の輸入による取り扱いを拡大し、戦前を通じて満州・樺太・南太平洋から木材を輸入する体制を確立している。
このように、戦前までに安宅産業は取り扱い品目を拡大させており、戦後の総合商社を目指すうえでの布石となった。
1942年に安宅産業の創業者である安宅弥吉が逝去した。
後任に安宅家出身の安宅重雄氏が社長が就任したものの、1945年の敗戦によって財閥の経営者(公職追放・財閥解体)として責任に問われたため辞任した。財閥解体によって安宅家が保有する安宅産業の株式の大部分が放出されたため、安宅家は会社法における安宅産業の支配権を失った。
1956年に安宅産業は大阪証券取引所に株式を上場し、翌1957年には東京証券取引所にも上場した。
安宅産業の特色は、金属と木材の取り扱いにあった。1955年時点の安宅産業の売上高構成は31.1%が金属でトップを占め、続いてパルプ・木材が26.4%、繊維が13.2%であった。金属に関しては日本製鐵(当時の八幡製鉄)との取引、木材パルプに関しては王子製紙と取引することで、取扱高を増大させた。
当時、日本国内の商社(伊藤忠や丸紅など)は繊維取引を主体としており、繊維産業の低迷とともに苦境に陥ることが予想された。したがって、鉄鋼を主体とする安宅産業は有利なポジションにあり、「金へん商社」として今後の成長が期待された会社であった。
1956年の株式上場後も、安宅家は大株主として実質的に安宅産業を支配した。1955年の上場後の株主構成は、筆頭株主は住友銀行(5.0%)および東京海上火災保険(5.0%)であり、第3位の株主として安宅英一氏(安宅弥吉の長男・2.29%)が名前を連ねた。
つまり、安宅家の保有比率は支配権の条件(50%超)を満たしていないが、安宅家は安宅産業のオーナーとして振るまった。
1955年に安宅英一氏は安宅産業の会長に就任すると、1977年の安宅産業の経営破綻に至るまで、同社の重要人事を握り続けた。安宅産業には創業家の奨学金を通じて入社した人物が数多く存在し、安宅英一氏は「安宅ファミリー」として息のかかった生え抜き社員を優遇するなどし、経営に実質的に関与し続けた。安宅家に不都合な人物は、課長以上の要職に登用されないように、監視体制を敷いていたという。
このため、安宅産業は創業家の意向によって経営が左右された。非安宅家の社長陣営と、安宅ファミリーとの間で対立構造が生まれるなど、ガバナンスにおける問題を抱えることになった。
また、金銭面において、安宅家による安宅産業の私物化も横行したという。
当時の週刊誌(「月刊経済」1976年3月号および同7月号)の報道によれば、真相は不明なものの、安宅家による社費の私物化は相当なものだったらしい。
安宅英一氏の息子(安宅産業の当時専務・A氏)は、1ヶ月の交際費が1000〜1500万円であり、銀座や六本木の高級クラブで飲み歩いていたという。また、海外のクラシックカーを十数台を社費によって購入し、コレクションしていたらしい。安宅英一氏も「安宅コレクション」として骨董品を収集しており、陶磁器約1000点(うち国宝2件、重要文化財12件)を社費で購入するなど、創業家は会社の金で事業とは無関係な浪費を重ねていた。
一説によれば、安宅産業の使途不明金は、1977年時点で100億円以上に及んだという。
安宅ファミリーの存在に苦労したことは否定しませんが、この話は言いたくありません。もう勘弁してくださいよ
1960年代を通じて、安宅産業は取引品目の拡大によって総合商社に発展することを目論んだ。
1963年に8本部20部制組織を導入し、取扱品目の増大に備えた組織体制を導入した。
翌1964年には東京支店を東京本社に昇格することによって、東京・大阪における本社体制を確立した。
1965年に日本経済が不況に陥り、安宅産業も不況の波に呑まれて減益決算を計上した。他の総合商社も苦しい決算を計上し、日本商業と岩井産業が合併して日商岩井が発足するなど業界再編が進行した。
安宅産業も業界再編とは無縁ではなく、住友商事との合併が議題に上がった。これは、メインバンクでった住友銀行の意向であり、総合商社を志向する住友商事と安宅産業を1社にまとめて融資を効率化したい意図があった。住友商事としても「木材・パルプ」といった商権を持つ安宅産業は魅力的な買収候補であった。
安宅産業の経営陣は合併に前向きであったが、創業家の安宅英一氏が住友商事との合併に反対し、合併は破談になった。創業家が反対した理由は不明であるが、それまで創業家が事業とは関係なく自由に使えた社費(陶磁器の購入など)が使えなくなることを憂慮した可能性が考えられる。
その時の安宅との合併話は、住友商事にとって大きな魅力だった。とにかく住友という看板は背負っているものの、当時はまだまだ売上の規模が小さく、どうやったら総合商社として一人前になれるかばかりを考えていた。商社の経営にはなんといっても人が財産だが、当時の安宅産業の社員には優秀な人材が揃っていたし、そのうえ住友商事がまだほとんど手をつけていない木材、紙、パルプなど安宅の商権も魅力的だった
創業家である安宅英一氏(安宅産業・社賓)の意向によって、1966年から安宅産業の社長を歴任していた越田左多男氏が1969年に解任された。
意見対立があったものと推察されるが、株式保有比率が数%の株主によって社長が解任される事態に陥っており、杜撰なガバナンスであったことが推察される。
1969年に安宅産業の代表取締役社長に市川政夫氏が就任した。市川社長は安宅産業の生え抜きの人物であり、1950年代から1960年代にかかて、安宅産業の木材部で輸入材の取扱高を伸ばしたことで、社内評価された人物であった。
市川社長は、安宅産業の経営目標として、5年後の1974年において半期売上高1兆円(1969年比3.3倍)を掲げて、取扱高の拡大を最重要目標に据えた。
売上高の拡大を実現するために、従来から強みのある鉄鋼・パルプ・木材に加えて、海外鉱山における資源開発を最重要戦略として位置づけて、大規模プロジェクトに投資する方針を明確にした。投資資金はメインバンクである住友銀行および協和銀行からの借入金によって確保する狙いがあった。
大型プロジェクトを4つ、5つ現在検討中であるが、地下資源開発の場合プロジェクトに3000万ドル〜4000万ドル(100億円〜)もかかる。安宅の資本金に相当する計算だ。住宅産業、海洋開発、宇宙産業またしかりで、今後の商社の発展力は資金調達力いかんということになる。テクニックでは解決できない。信用を高めなければならない。信用を高め、金融機関からフルにバックアップしてもらえる条件は本体の内容充実ということだろう
1973年に安宅産業は石油精製の大型プロジェクトの投資を決定した。北米沖のニューファウンドランド島に拠点を置くカナダの石油精製会社(NRC・代表者はJohn Michael Shaheen氏)と提携した。
ビジネスの内容は、安宅産業が中東原油をBP(ブリティッシュ・ペトロリアム社)から買い付けてタンカーで輸送し、NRC社が運営するカナダ沖の精製所で精製し、ニューヨークの「ジョン・エフ・ケネディー空港」に航空機燃料を販売する計画を立てた。日本を介さない三国間貿易であり、安宅産業はNRCへの中東原油の販売によって、石油の取扱高を伸ばす狙いがあった。
ただし、この契約で問題になったのが、安宅産業がBPから石油を「10年にわたって買い取る」契約を締結していた点であった。通常の商社であれば、石油売買の仲介として手数料を徴収するのが一般的だが、安宅産業はBP社から一定量の石油を買い切る契約をしてしまい、リスクを背負う形となった。
また、シャヒーン氏(レバノン出身)は評判が悪い人物で、グレーな節税などを図るといった問題人物であったものの、安宅産業はシャヒーン氏が率いるNRCとの提携を決めてしまった。
1973年10月にオイルショックが発生し、中東の原油価格が暴騰する異常事態に陥った。このため、世界的に原油高となり中東原油に依存するNRC社で精製する航空機燃料の価格競争力が喪失し、精油所の稼働率が70%という非常事態に陥ったため経営破綻した。NECの負債総額は5.7億ドルという巨額なものであった。
安宅産業は子会社の安宅アメリカを介して、NRCに対して巨額融資をしていたことに加え、NRCに対する販売済みの原油5.0億ドルに対してわずか1.3億ドルしか回収できず、大半の受取手形が不良債権となった。このため、NRCの破綻は、安宅アメリカおよび安宅産業のに財務を毀損することを意味した。
そして、安宅産業の破綻を決定的にしたのが、BP社との間における「石油の買取契約」であった。NRCの破綻後も、BPは契約の履行を求めたため、安宅アメリカは高騰した石油を購入し続けなければならなかった。このため、安宅産業は「BP社との石油の買取契約」の存在が仇となり、全社的な経営危機に陥った。
まずは、NRCとの契約を締結していた安宅アメリカ(安宅産業の100%子会社)の業績が悪化した。1974年度における安宅アメリカの財務状況は、資本金83億円に対して、売上高3867億円、経常利益4.8億円、純利益1.9億円、借入金1700億円という厳しい状況であった。純利益に対する借入金の比率は約100倍であり、再起不能な状況に陥った。
続いて、安宅アメリカの業績不振を受ける形で、安宅産業そのものも財務危機に陥った。安宅産業の負債額はNRC関連で500〜1500億円とも言われ、メインバンクが救済融資を拒絶したため、借入依存の安宅産業の債務超過が確定した。大型プロジェクトの遂行を自己資金ではなく、住友銀行および協和銀行の2行からの借入により賄ってきたが、これらのメインバンクは安宅産業の救済は困難と判断したため、安宅産業は債務超過が濃厚となった。
したがって、安宅産業においてたった1つのNRCというプロジェクトにおける「BPからの石油全量買取契約」という判断ミスによって、安宅産業の全社の財務状況が悪化した。安宅産業のほとんどの社員はNRCとは無関係の仕事に従事していたため「我が社の経営危機」は予想外の事態であった。
安宅産業の危機が表面化したのは、1975年12月7日に毎日新聞が朝刊で行ったスクープ記事である。この記事によって安宅産業の経営危機が公知の事実となり、安宅産業の社内は大騒ぎとなった。
1976年度の決算で安宅産業は1330億円という空前絶後の最終赤字に転落。企業の単独存続が難しい財務状況に陥った。
安宅産業の不良債権は2000億円以上に及ぶと言われ、そのうち約1000億円がNRCのプロジェクト失敗に起因し、予想外なことに残りの1000億円が国内の不動産投資に失敗に起因する不良債権となった。
安宅産業の破綻によって経済不況が深刻化することを回避する目的で、メインバンクの住友銀行と協和銀行を中心とした協調融資団が結成され、安宅産業への融資額は2646億円に及んだ。特に、メインバンクの住友銀行の負担が大きく、1977年度に住友銀行は1132億円の不良債権を一括償却して損失計上した。
そして、1977年10月1日をもって、安宅産業は伊藤忠商事に吸収合併されて実質的に経営破綻した。16行の銀行による協調融資によって、安宅産業は会社として存続しつつも、伊藤忠に吸収される形をとった。伊藤忠としても安宅産業の合併は回避したかったが、伊藤忠のメインバンクであった住友銀行および協和銀行の強い意向によって、安宅産業の吸収を決断せざるを得ない状況に陥った。
だたし、伊藤忠商事は安宅産業の競争力がある部署だけを吸収したため、多くの安宅産業のサラリーマンが職を失うことになった。安宅産業の社員数3681名に対して、伊藤忠が受け入れたのは1058名のみであった。伊藤忠に残れるかが社員にとっての焦点となり、限られた伊藤忠での正社員の座を狙って、社員同士で熾烈な抗争も勃発している。そして、伊藤忠に移籍できなかった約2000名の社員は、希望退職に応じて失職した。
安宅産業の破綻とリストラは、戦後日本における大企業の破綻として注目浴びた。総合商社として大手企業であった安宅産業の経営破綻と、エリートと目されていたサラリーマンがリストラされる現実が浮き彫りとなり、終身雇用が定着しつつあった日本のサラリーマン社会に大きな衝撃を与えた。
なお、1980年にはNHKが安宅産業の破綻をモデルにしたフィックションドラマ「ザ・商社」を放映している。→NHK「ザ・商社」の映像リンク
ことしの十大ニュースはまだ先の話だが、安宅産業の倒産が上位を占めることは間違いないだろう。戦後、企業倒産はたくさんあったのに、これほど世の関心を集めた例はなかった。
その理由を整理してみると、①「ありうべからず倒産」であった、②倒産への過程が企業小説のように波乱に富んでいた、③その結果、安宅関連の多くの本が出版された、などが考えられる。
わが国のサラリーマンは有業人口の7割を超えるといわれる。安宅の本がたくさん売れた背景には「安宅」が他人事ではない、という思いがあったに違いない。その証拠に、安宅関連の本は、これまでになく広い範囲で出版され、売れているのが大きな特徴といえる。