住友商事は、商社を持たないという25年の方針を自ら破って生まれた会社である。母体は埋立と港湾修築のために作られた大阪北港であり、終戦の年まで不動産経営と設計監理を営んでいた。商事の素人ばかりが集まった会社が最初に売ったのは、爆撃で埋まった伸銅所のアルミニウム板と、高潮で水没した電線だった。掘り出して洗い、手直しをして売る。この出発点は、住友連系メーカーの製品を引き受けるという役割と重なって、鉄鋼と非鉄に偏った品揃えを作り、金ヘン商社という呼び名を定着させた。何を売るかは選べず、住友という商号すら1952年まで名乗れなかった。条件を選べない会社が、条件のほうを作り替えていく過程がこの章にあたる。
田路舜哉が社長を務めた11年は、選べない条件のもとで確実な取引地盤を積む時間だった。朝鮮動乱の好況では思惑取引を見送り、多くの商社が欠損を出した反動期に損害を軽微にとどめて信用を得た。だがその堅実さは、支店と課ごとに採算を締める横割りの制度に支えられており、複数の部門にまたがる商いや、当面は経費のかさむ事業を遠ざける性質も併せ持っていた。1962年の商品本部制は、責任の置き場を地域から商品へ移す改造であり、金属に寄った品揃えを広げる条件を作った。素人の集団が10年で10指に入り、さらに10年で取扱高を兆の単位へ運んだ背景には、この二度の組み替えがある。
住友財閥は1920年、総理事の鈴木馬左也氏が商社設立禁止を宣言し、以後25年にわたり商社事業への参入を自ら封じた。三井が三井物産を、三菱が三菱商事を擁して総合商社機能を確立するなかで、住友は商社を持たない財閥として事業を営んだ。のちに住友商事となる法人の母体も商社ではなく、1919年12月に大阪北港地帯の埋立と港湾修築を目的として設立された資本金3,500万円の大阪北港株式会社である。同社は1927年に住友合資の系列下へ入り、1944年11月に住友ビルディングを合併して社名を住友土地工務へ改め、翌12月には長谷部竹腰建築事務所の営業を譲り受けて、不動産経営と土木建築の設計監理を営む総合不動産会社となった。
1945年8月の終戦で軍需が消滅し、復員した社員の受け皿確保が急務となったため、古田俊之助総理事が禁令の撤回を決断した。同年11月、住友土地工務は社名を日本建設産業へ改め、住友連系各社をはじめ各業界の大手生産会社の製品を扱う商事会社として新発足した。定款の事業目的には土木建築用資材その他各種製品の販売を加えている。社長を兼務していた住友本社常務理事の北澤敬二郎氏が辞任し、後任には竹腰健造専務が就任した。商事部門を主宰する人選では、住友本社の経理部と人事部が全職員から3人の候補を挙げ、住友金属工業取締役伸銅所副所長の田路舜哉氏に決まった。田路氏は12月11日に常務取締役へ就任し、3週間後の1946年1月1日付で営業部を開設できるよう組織と人事を整えた。
本店は大阪に置いた。1945年末の在籍人員は270名だったが、1948年末までに住友本社と連系各社から復員・引揚者を含む350名が転入し、合計720名となった。転入者の内訳は住友本社159人、住友金属工業106人、住友電気工業32人が上位を占めた。営業部が最初に手がけたのは、爆撃で埋没した住友金属工業伸銅所のアルミニウム板やジュラルミン板、枕崎台風の高潮で水没した住友電気工業の電線類を掘り出し、洗浄と手直しを施して売る仕事だった。1947年1月に公職追放令が財界へ及ぶと、戦時中に常務取締役以上だった竹腰健造社長ら3名が該当し、3月27日の取締役会で田路氏が第2代社長に選ばれた。
1949年8月、日本建設産業の名のまま大阪・東京の両証券取引所へ株式を上場した。1950年7月には土木建築の設計監理部門を日建設計工務として独立させ、不動産会社としての出自を切り離している。1952年3月に米国へNikken New York Inc.を設立して海外拠点を開設し、同年6月には社名を住友商事へ改めた。住友金属工業や住友金属鉱山などグループ各社の販売機能を担う役割から取扱品目は鉄鋼と非鉄金属に傾き、業界では"金ヘン商社"と呼ばれた。田路舜哉氏は1932年から6年間、住友上海洋行の支配人を務めており、発足時の役員のなかで唯一の商事経験者だった。
1950年6月に始まった朝鮮動乱は商社の取引を一変させたが、日本建設産業は思惑取引と先物売買を差し控え、実需取引を主体とする従来の方針を守った。輸入新三品と繊維品の下落で巨額の欠損を出し、無配当へ転じる商社が少なくないなかで、取扱商品の値下がりによる損害は軽微にとどまり、堅実な経営が認められて信用を増す結果となった。1950年上期から1951年下期までの総取扱高は441億9,000万円で、鉄鋼がおよそ40%、非鉄金属が18%、電線・電気機器が12%と続き、金属・機械・電線を合わせて78%を占めた。住友連系メーカーとの売買を中軸に置きながら、肥料・食糧・繊維へ取引を広げた結果である。繊維は住友に連系会社がなかったため、1949年11月に船場の又一から川口市右衛門専務を迎えて繊維部を新設した。
海外の拠点は入札の受注から作られた。1949年、インド政府による発電所用の電線類と碍子の国際入札に住友電気工業と組んで参加して落札し、その納入と受注促進のため1950年7月にボンベイへ初の駐在員を送った。翌1951年にカルカッタとサンフランシスコ、1952年にカラチとハンブルグへ駐在員事務所を置き、1955年3月までに海外店舗は15店を数えた。1951年11月の定時株主総会では定款の事業目的を改め、鉄鋼・非鉄金属から肥料・主要食糧・繊維原料・鉱産物まで10分類の輸出入と販売を掲げた。翌1952年に財閥の商号商標使用禁止の政令が廃止されると、6月1日から住友商事を名乗った。井桁の商標を取り戻したことで各業界の一流会社との取引が新しく開け、職員の採用や資金調達にも及んだ。
1956年11月の株主総会後の取締役会で社長の交替が決まり、田路舜哉氏が会長へ、津田久氏が社長に就任した。田路氏が率いた11年で、月間の取扱高はゼロから約70億円へ、資本金は4,150万円から24倍の10億円へ広がり、10指に入る商社としての基礎ができていた。だが同年5月の店所長会議で示された自己評価は厳しく、業界内の地位は11位、とりわけ貿易の取扱いが少ないことが課題に挙げられている。掲げた方針は三つで、合併は主体性を失わず大きな損害を抱え込まないことを条件に、当面は自力で取扱高を増やす。貿易は重点を東京へ置き、東京支社長へ決裁権限を委譲する。そして採算制と与信管理制度は根本的に変えないが、取扱高を増やすうえで必要なら損失を覚悟して与信上のリスクを冒すとした。
海外では1958年のドイツ住友商事に始まり、1960年に住友商事タイランド、1961年にオーストラリア・カナダ・テキサスの3社を設けた。1962年3月にはベルギーのブルフィナと提携し、ブリュッセルにエクイトラを置いた。規模を広げる支えとなったのは増資と人の投入である。資本金は1960年7月1日の倍額増資で20億円から40億円となり、1961年10月1日に30億円を加えて70億円に、1967年6月には105億円まで膨らんだ。人員は1960年3月の2,001人が1966年9月に4,155人となり、新規の採用に加え、経験者を途中から迎える採用にも注力した。商社が欧州経済共同体の域内に現地資本との合弁で設立した最初の商事会社だった。1958年まで赤字が続いた貿易部門は、1959年以降の取引増で収益が伸び、1961年から安定した。
商いの採算の単位は支店と課であり、店別・部課別の責任制度を社内では横割りと呼んだ。1件ごとの取引で利益を上げるため支店長と課長の採算意識は厳しくなり、取引の規模が小さい時代には堅実な経営に効いたが、複数の支店・部課の協力が要る商いや、当面は多額の経費を要する事業では、その採算意識が実行を阻んだ。1962年12月、大阪・東京の営業部門を一体として商品本部制を導入し、鉄鋼・非鉄金属・電機・機械・農水産・化成品・繊維・物資燃料・不動産の9本部を置いた。1967年度の事業構成は金属52%、機械17%、物資燃料12%、化学品9%、食品8%、不動産その他2%となり、取扱高は約7,900億円に達した。1970年8月には相互貿易を合併している。責任の置き場を地域から商品へ移したことが、金属に寄った品揃えを広げる条件になった。
1970年代の住友商事を評した言葉は、石橋をたたいても渡らない商社だった。この慎重さは気質ではなく、後発であることの条件から出ている。先進国の市場では先発商社がすでに商権を固めており、住商が入っていけたのは中東や共産圏のように危険の大きい市場ばかりだった。グループ内での地位も低く、住友系メーカーに頭を下げて仕事をもらう時期が長く続いた。失敗すれば、商社など作ったのが間違いだったと言われる。だから案件の可否は、損失が自己資本の範囲に収まるかどうかで測られた。慎重と冒険は、この会社では対立していない。危険な市場しか残っていなかったからこそ、損失の上限を先に決める必要があった。
植村光雄は審査制度を自ら作った人物であり、その人が社長になった1977年以降、住商はむしろ審査部を解いた。1979年に商品本部を4つの営業部門へ再編し、それぞれに審査の機能を持たせている。可否を判じる権限を営業の側へ移せば案件は増え、利幅は薄くなる。実際に粗利益率は1981年3月期に1.59%まで落ち、上位5社で最低となった。それでも経常利益率は業界の首位に立ち、有利子負債は5社中で最も小さい。利益の源は鉄鋼と輸送機に集まり、残る3分の2の部門は儲かっていなかった。売上の順位を押し上げたのは、三国間の貿易ではなく国内の取引だった。
住友商事が案件を選ぶ最後の物差しは、失敗しても損失が自己資本で吸収できるかどうかで、これほど厳しい基準の根は同社の生い立ちにあった。商社を禁じてきた財閥から戦後に生まれた同社は、住友系メーカーに実力を疑われ、仕事を得るには自ら頭を下げて回る必要があったと津田久氏は語っている。体力を超えた取引に出ない会社として社外にも知られ、たたいた石橋でも渡らない商社と呼ばれた。グループで浮利を追わずという住友の家訓を日頃口にしていたのは住友商事だけで、無理を重ねて失敗すればやはり商社など不要だったと言われかねないことを、同社は戒めとし続けたという。
先進国の市場は先発商社がすでに商権を押さえており、後発が割り込む余地はあまりなかった。そこで住友商事が足場を築いたのは、中東や共産圏のようにリスクの高い地域であり、戦時下のイラクへはグループ外のトヨタ自動車の車だけで年6万台を送り出した。円切り上げに先立ち、業界で最初に円建ての商社契約方式を取り入れた船舶の取引は、当時こそ思い切ったものと見られたが、のちに業界上位の売上を稼ぐ輸送機部門の起点となった。住友金属工業のように、戦前は三井物産に輸出を任せていたメーカーが住友商事へ乗り換える例もあり、グループの支えを受けながら自立も進んだ。グループ各社向けの取引が売上高に占める割合は1976年3月期に19%あったが、その後は下がり続け、1981年3月期の16%で三菱商事・三井物産の14%弱とほとんど変わらない水準になった。
住友グループの事業は別子銅山の開発から始まったが、その別子銅山が閉山に追い込まれ、グループとして資源開発との縁が切れた。鉱山課長として別子の経営に加わった津田久氏は、形は違っても資源開発に触れていたいという考えから、社長時代に訪米して耳にした海洋開発へ社内の資源を割いた。社長室に世界の実情を調べさせて潜水作業技術と海洋作業台の二つを事業の対象に選び、1968年には十大商社で唯一の独立組織となる海洋開発部を置いた。1973年には丸紅・日商岩井とともに資本金300億円の日本深海鉱産を設立し、深海底のマンガン団塊の採取を米国・カナダ・西独の企業グループとの国際コンソーシアムで事業化する計画を立てる。だが深海底の資源を人類共有の財産とみる開発途上国の主張から国連海洋法会議での調整が続き、開発作業は棚上げとなった。大型の資源案件をめぐっては、三菱商事のブルネイ開発を引く反省と、三井物産の失敗を引く現実肯定とに役員が割れる状態が社内に残った。
商材の入れ替えは1970年代半ばに始まった。1975年12月には住商エレクトロニクスを東京に設け、情報・電子機器の取扱いに足場を築いた。同じ1975年には、北米でマツダ向けの自動車販売にも着手している。1976年5月には住友金属工業と共同で、サウジアラビア向けのシームレスパイプに投資した。大手鉄鋼メーカーの営業担当者の証言によれば、住友商事は同じ鉄鋼部門の中でも、住友金属工業の看板商品にあたる鋼管を担う部署に、とりわけ優れた人材を集めていたという。1978年7月には英文社名をSUMITOMO CORPORATIONに改めた。国内で流通する鋼材はメーカー側が価格を握る商材だが、油井向けの継目無鋼管と北米の自動車は、価格形成に関与できる数少ない事業だった。
1977年6月、植村光雄氏が社長に就任した。植村氏は1936年に京都帝国大学法学部を卒業して住友合資に入り、1946年に日本建設産業へ移った後、1953年に業務部長となった人物である。終戦直後の主計課では予算制度を作り、審査制度も自らの手で整えた。就任前から、業界上位3社入りを意味するビッグ・スリーが目標に掲げられていたが、植村氏はここにベスト・ワンという目標を加えた。企業を測るうえで最も重視すべきは体力と利益であるという考えによる。決裁の基準は四つ置かれた。調査が十分であるか、筋の通った話であるか、採算がとれるか、そして採算に乗らなくても手がけるべき事業であれば、結果が裏目に出た場合でも体力の範囲で償却しきれるか、である。ここから、完了まで10年を超える案件には手を広げないという原則が導かれた。下から上がってくる案件には否と答える場合のほうが多く、社内で植村氏は融通が利かないと評されていた。
積極路線への転換は、組織の改造という形でも現れた。1979年6月には商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門に再編した。それまで堅実主義を体現してきた強大な審査部はここで解体され、四つの統括部門それぞれに審査の機能を分散して持たせることになった。社内には営業を担う者が管理も兼ねるべきではないという考え方があったため、この改革は大きな転換だと受け止められた。結果は数字にも表れている。1981年3月期の売上高は9兆6,551億円で、前期の7兆6,006億円から27.0%増え、業界4位の丸紅に急速に迫った。一方、口銭にあたる粗利益率は1.59%と前期より0.24ポイント下がり、過去10年間で最低の水準となったばかりか、上位5社の中でも最も低かった。この間、利幅の薄い三国間貿易が71.4%も増えている。立ち遅れた海外の取引で商いの機会をつかもうとする意欲の表れでもあった。
売上の順位では業界4位を追う位置にありながら、利益率では首位に立った。1981年3月期の経常利益は294億円、経常利益率は0.38%で商社の1位を占めている。上位5社の中で、住友商事の有利子負債は売上高に対して最も軽かった。長短の借入金、割引手形、社債を合計すると9,100億円で、売上高比は0.94%と、三菱商事1.39%、丸紅1.48%、三井物産1.89%をいずれも下回った。資産に抱える含み損が他社よりはるかに少なかったのは、焦げつきの出た債権を毎期ためらわず処理してきたからである。1980年6月に続いて1981年9月にも、4,000万株を公募で増資した。ただし投資の規模は小さく、1981年3月末の投資残高は約1,264億円と三井物産の3分の1、1980年度のプラント成約高も2,000億円で三菱商事の3分の1にとどまった。
収益の源は狭かった。収益基盤は鉄鋼と輸送機の部門にあり、残る3分の2の部門はまったく儲からないと伊藤正副社長は認めている。その鉄鋼と輸送機の主力商材も住友金属工業のシームレスパイプと東洋工業を中心とする自動車の輸出であり、原油市場と貿易摩擦の動向に左右される不安定さを抱えていた。部門別の利益構成は1977年3月期の金属39%・機械26%・化学品16%から、1981年3月期には金属37%・機械24%・化学品21%へ移り、売上構成比では同じ期に機械・電機が鉄鋼を抜いた。輸送機では1981年2月に住商オートリースを設立し、自動車リースへ踏み出している。男子社員は4,350人・平均年齢38.6歳で、三菱商事の5,973人・39.0歳、三井物産の6,769人・39.7歳に比べれば規模も経験の蓄積もなお小さかった。
順位を押し上げたのは海外ではなく国内の取引だった。1987年3月期の売上高は12兆923億円で前年度比13.8%増となり、円高と一次産品価格の下落で三菱商事と三井物産が減少するなか、業界2位へ進んだ。取引業態別では国内6兆2,222億円と輸入2兆3,591億円を合わせた内国比率が66.5%に達して商社のなかで最も高く、三国間は1兆2,822億円で9商社中6位にとどまる。国内の川下では、提携先の米セーフウェイから打ち切りを通告されたあと生鮮食料品の科学的な管理方式を独自に編み出した全額出資のサミットストアが、店舗数50・売上高約650億円へ育っていた。分身会社の住商リースは1983年11月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した。1986年3月期からの米国証券取引法方式では連結売上高13兆604億円で4位となり、実質上の外国間売上高は296億円と9商社中で最も低い。単体2位と連結4位の差が、国内で積んだ順位の内訳を示していた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/8053/company.json https://the-shashi.com/api/8053/history.json https://the-shashi.com/api/8053/ceo.json https://the-shashi.com/api/8053/financials.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/8053/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/8053/financials.csv https://the-shashi.com/api/8053/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 大阪北港を設立 | ★ | |||
| 住友財閥が商社設立禁止を宣言 | ★★ | |||
| 住友合資の系列下に移行 | ★ | |||
| 住友ビルディングを合併 | ★ | |||
| 住友土地工務に商号変更 | ★ | |||
| 長谷部竹腰建築事務所の営業を譲受 | ★ | |||
| 1945〜1972年商社を持たない財閥が不動産会社から商社を興すまで | 竹腰健造 | 25年続いた不動産会社を母体とした商事部門の開設 1945年、住友本社の古田俊之助総理事が、1920年以来25年にわたり自ら封じてきた商社設立の禁令を撤回し、不動産会社の住友土地工務に商事部門を置いた経営判断。同社は同年11月に日本建設産業へ改称し、商事会社として新発足した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 竹腰健造 | 日本建設産業に商号変更 | ★ | ||
| 竹腰健造 | 営業部を開設 | ★ | ||
| 田路舜哉 | 田路舜哉氏が社長に就任 | ★ | ||
| 田路舜哉 | 在籍人員が720名に増加 | ★ | ||
| 田路舜哉 | 大阪・東京の両証券取引所に上場 | ★ | ||
| 田路舜哉 | 設計監理部門を日建設計工務として分離 | ★ | ||
| 田路舜哉 | Nikken New York Inc.を設立 | ★ | ||
| 田路舜哉 | 住友商事に商号変更 | ★★ | ||
| 津田久 | 津田久氏が社長に就任 | ★ | ||
| 津田久 | 資本金を10億円に増資 | ★ | ||
| 津田久 | 商品本部制を導入 | ★★ | ||
| 津田久 | 東西興業を設立 | ★ | ||
| 津田久 | 資本金を105億円に増資 | ★ | ||
| 津田久 | 住商コンピューターサービスを設立 | ★★ | ||
| 柴山幸雄 | 相互貿易を合併 | ★ | ||
| 柴山幸雄 | 大阪本社・東京本社の二本社制に移行 | ★ | ||
| 1973〜1987年与信基準による選択的拡大 | 柴山幸雄 | マツダ向けの自動車販売を開始 | ★ | |
| 柴山幸雄 | 住商エレクトロニクスを設立 | ★ | ||
| 柴山幸雄 | 住友金属工業と共同でシームレスパイプに投資 | ★ | ||
| 植村光雄 | 英文社名を SUMITOMO CORPORATION に変更 | ★ | ||
| 植村光雄 | 営業部門制を導入 | ★ | ||
| 植村光雄 | 10年以上の長期プロジェクトを手がけない原則の明示と、体力に見合った経営の徹底 三菱商事や三井物産が海外の大型開発案件を抱えていた時期に、住友商事はそうした案件への参画を見送り続けた。その土台にあったのは、1981年に社長となった植村光雄氏が掲げた、完了まで10年を超えそうな案件には関与しないという方針である。投融資の是非も、自社の体力で償却しきれるかどうかで決めるとした経営判断だ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 植村光雄 | 住商オートリースを設立 | ★ | ||
| 植村光雄 | 経常利益率0.38%で業界1位 | ★★ | ||
| 伊藤正 | 伊藤正氏が社長に就任 | ★ | ||
| 伊藤正 | 住商リースが大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1988〜1997年総合事業会社構想とジュピターテレコム設立、銅地金の簿外取引事件 | 伊藤正 | 「総合事業会社構想」——トレーディング依存から 1988年、住友商事は"総合事業会社構想"を打ち出し、手数料収入を収益源とするトレーディングから、事業会社へ資本を入れて価値を高める事業投資へと主力を移す転換を宣言した経営判断。1990年に就任した秋山富一社長が構想の実行に着手し、1991年に中期事業計画"戦略95"を策定した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 伊藤正 | 情報サービス子会社が東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 秋山富一 | 秋山富一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 秋山富一 | 中期事業計画「戦略95」を策定 | ★★ | ||
| 宮原賢次 | ジュピターテレコムを設立 | ★★ | ||
| 宮原賢次 | 銅地金の不正取引の発覚に際し、当局への全面協力を最優先した危機対応 1996年、住友商事が前非鉄金属部長・浜中泰男氏による銅地金の簿外取引と巨額損失を公表した一件。当初1,900億円と推定された損失は、その後の調査で約2,850億円へ拡大したが、同社は事業を続け、以後は法令遵守の徹底を経営の最優先に据えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 宮原賢次 | 欧州住友商事会社を設立 | ★ | ||
| 宮原賢次 | 銅地金取引関連損2852億円を特別損失に計上 | ★★ | ||
| 1998〜2014年9部門28本部への再編とアンバトビー参画、J:COM買収とSCSK発足 | 宮原賢次 | 住友商事北海道を設立 | ★ | |
| 宮原賢次 | 9事業部門28本部の体制に再編 | ★ | ||
| 岡素之 | 本店を移転 | ★ | ||
| 岡素之 | 住友商事東北を設立 | ★ | ||
| 岡素之 | 住商オートリースを株式交換で完全子会社化 | ★ | ||
| 岡素之 | アンバトビーニッケル事業への参画を決定 | ★★ | ||
| 岡素之 | 住友商事九州を設立 | ★ | ||
| 加藤進 | 公開買付けで議決権を40.1%へ高め筆頭株主を守った判断 住友商事は2010年4月、1995年1月に設立したケーブルテレビ最大手ジュピターテレコム(J:COM)の株式を対象に公開買付けを実施し、4月21日に議決権の約40.1%を保有する筆頭株主となった。従来の保有は約27.5%である。 直前の1月にはKDDIがLiberty Global(LGI)グループから中間持株会社の持分を取得し、議決権30.9%の株主として現れていた。メディア分野の中核事業会社に対し引き続き大株主として主導的に経営支援していく、というのが買い増しの理由である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 加藤進 | ウジミナス鉱山の権益30%を取得 | ★ | ||
| 加藤進 | 住商情報システムとCSKが統合しSCSKが発足 | ★★ | ||
| 中村邦晴 | タイトオイル開発事業に参画 | ★ | ||
| 中村邦晴 | 国内ブロック制を廃止 | ★ | ||
| 2015〜2026年3103億円の減損と5大商社唯一の赤字、エリオット・バークシャーの株式取得とSCSK完全子会社化 | 中村邦晴 | リスク回避路線からの転換と資源投資の膨張が招いた3,103億円の損失計上 2005年、住友商事は"浮利を追わず"のリスク回避路線を転換し、マダガスカルのニッケル一貫事業アンバトビーに参画した。以後ブラジルの鉄鉱石、米国のタイトオイルへと資源投資を膨らませたが、2015年3月期に3,103億円の減損を計上し、16年ぶりの最終赤字に転落した投資判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 中村邦晴 | コーポレート部門のグループ制を廃止 | ★ | ||
| 兵頭誠之 | 本店を移転 | ★ | ||
| 兵頭誠之 | バークシャー・ハサウェイが5%超の株式取得を公表 | ★★ | ||
| 兵頭誠之 | 5大商社で唯一の最終赤字に転落 | ★★ | ||
| 兵頭誠之 | エネルギーイノベーション・イニシアチブを新設 | ★ | ||
| 兵頭誠之 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 兵頭誠之 | アンバトビー事業の減損が累計2660億円に到達 | ★ | ||
| 上野真吾 | 中期経営計画2026での株主還元強化 2024年4月、米アクティビストのエリオット・マネジメントによる住友商事株の取得が表面化した。同じ4月に社長へ就任した上野真吾氏は5月2日、中期経営計画2026を公表し、ROE12%以上の維持と2026年度の当期利益6,500億円を掲げたうえで、株主還元方針をDOEレンジ方式から総還元性向40%以上と累進配当へ改め、3年間の株主還元額を0.7兆円以上と置いた。同日の取締役会は500億円を上限とする自己株式の取得と、取得した全株式の消却も決議している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上野真吾 | 営業部門を戦略ビジネスユニットに再編 | ★ | ||
| 上野真吾 | 中期経営計画2024-2026を公表 | ★ | ||
| 上野真吾 | 中期経営計画2026の実行加速へ、取締役会から経営執行へ権限を委ねる機関設計の変更 2025年1月28日、取締役会が機関設計の変更を決議し、同日対外開示した。6月20日の第157期定時株主総会では定款の一部変更が賛成割合99.59%で可決され、総会終結の時をもって監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移った。 定款からは監査役会と監査役に関する規定が消え、監査等委員会と監査等委員に関する規定、および取締役会から取締役への権限の委任に関する規定が加わった。移行後の取締役会は取締役15名のうち8名が独立社外取締役で、監査等委員である取締役5名のうち3名が社外取締役となる。 詳細を読む | |||
| 上野真吾 | 自己株式を取得 | ★ | ||
| 上野真吾 | エア・リース・コーポレーションの共同買収に参画 | ★★ | ||
| 上野真吾 | SCSKの完全子会社化を決定 | ★★ | ||
| 上野真吾 | バークシャー・ハサウェイが保有比率10%超に到達 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友商事)